葉山御用邸の祝賀会
1930(昭和2)年8月24日日曜日午後0時15分、葉山御用邸。
「本日は、僕のために食事会を開催していただき、誠にありがとうございます」
葉山御用邸の食堂。私と栽仁殿下に挟まれて緊張した表情でお礼を言上したのは、長男の謙仁だ。謙仁が着ているのは、学習院中等科の制服ではなく、海兵士官学校の真新しい制服だった。
「そうかしこまるな、謙仁」
ガチガチに固まってしまっている謙仁にこう声を掛けたのは、やはり兄だった。
「お前は俺の甥なのだ。公式の場では、規則や建前に縛られて行儀よくしていなければならないが、ここは非公式の場だ。だから、自分の家と同じように振る舞ってくれていいのだぞ」
優しく話しかける兄の横から、
「そうですよ。それに謙仁さんは、うちの興仁と仲良くしてもらっているのですから、私たちにとっては、我が子と同じような存在です。ですからどうぞ、くつろいで過ごしてくださいね」
水色の通常礼装を着た節子さまが、微笑みながら謙仁に言う。
「そうだぜ、謙仁。お前の方が、おれより20日ぐらい早く生まれたんだ。おれに兄貴面してくれるぐらいの方がちょうどいいんだぜ」
兄の隣に立っている兄夫妻の末っ子、倫宮興仁さまも謙仁にこう言った。幼年学校に進んだ彼は、この9月に工兵士官学校の2年生に進級する。深緑色の工兵士官学校の制服が良く似合っていた。
すると、
「お言葉ですが倫宮殿下」
謙仁は姿勢を正し、身体を倫宮さまの方に向けた。
「殿下は直宮であらせられますが、僕は親王ですらありません。そこには、厳然とした身分の差がございます。それを無視することは、秩序の乱れにつながります」
「ちぇっ、相変わらず頭が固いなぁ、謙仁は」
謙仁の正論に倫宮さまが不満げに返すと、
「謙仁は、少し肩の力を抜くことを覚える方がいいね」
栽仁殿下が苦笑しながら謙仁の頭を撫でる。
「まぁ、とにかく、堅苦しいのはなしだ。早速、食事会を始めよう」
少しだけ気まずくなってしまった雰囲気を切り替えるかのように兄が明るい口調で言うと、節子さまと倫宮さまが頷いて自席に座る。私たち家族もそれに倣い、割り当てられた椅子に腰かけた。
私たちが、避暑中の兄夫妻に食事会に招かれるというあまり例のない待遇を受けるに至った理由について説明するためには、時間を先月の上旬まで巻き戻す必要がある。
私の長男・謙仁は、以前から海兵士官学校への進学を希望していて、学習院中等科の卒業が目前に迫った先月の上旬、海兵士官学校の入学試験を受けた。そして、見事に合格したのである。もちろん、本人の実力のみでの入試突破で、入学試験の直前には、私からも栽仁殿下からも、そして私の義父の有栖川宮威仁親王殿下からも、国軍省に対し、“謙仁の入試の成績は他の受験生と同じように採点し、合否も他の受験生と同じように判定するように”と申し入れた。
さて、謙仁の海兵士官学校合格の知らせを聞いて、私たち家族はもちろん喜んだのだけれど、兄も私たちと同じくらい喜んでくれた。そして、
――義兄上は董子どのの喪に服しているから、謙仁の祝賀会が開けないだろう。俺が義兄上の代わりに、謙仁の祝賀会をやってやろう。
兄は私にこう言い出したのだ。上皇が甥のために祝賀会を開くというのはほとんど例がないことなので、“そんなことまでしてくれなくてもいい”と私は兄に言ったのだけれど、
――ここ最近、辛いことが続いているのだ。1つくらい、祝い事をさせてくれてもいいではないか。
兄は少し寂しげな顔をして私に言い返した。確かに、昨年には奥侍従長とお母様が亡くなり、今年に入ってからも、2月に黒田さんが、そして6月19日には大腸ガンで療養中だった渋沢さんが亡くなるなど、兄の身辺には辛い出来事が続いていた。甥っ子の海兵士官学校進学という久しぶりの明るい話題を、兄が存分に味わいたいと考えるのも無理はないだろう。
――でもさ、私もだけど、お母様の喪が明けてないんじゃない?それは問題ないの?
――大喪は明けているから、よいではないか。それに、“祝賀会”ではなくて、親睦を深めるための食事会という名目なら問題なかろう。
ツッコミを入れた私に、兄は強い口調で言った。この様子だと、兄はあらゆる手段を使って、謙仁を主役にした食事会を開催するだろう。その熱量を押しとどめる労力の大きさに思いを馳せた私は、兄の申し出を謹んで受けることにした。
今日の食事会の出席者は、兄と節子さまと倫宮さま、そして私と栽仁殿下、私の3人の子供たちの計8人だ。上皇と皇太后が出席しているけれど、2人とも、多少の無礼は大目に見てくれる人だ。公式の場で行われる食事会に出席したことがほとんどない子供たちにとっては、マナー講習のちょうどよい機会になるだろう。
(まぁ、マナー講習なんて堅苦しいことを言わずに、みんなが楽しめればそれでいいわね)
席に着いた私は食堂を見渡して頷くと、料理と会話に集中することにした。
謙仁を主賓とする食事会は、和やかに、そして楽しく進行していた。
それは、兄と節子さまが、他人をもてなすことに慣れているからだろうと私は思った。皇太子時代から、兄は節子さまと一緒に、臣下や外賓たちをもてなしている。だから、食事会の出席者たちが退屈しないように話題を適切に振るし、時には料理や食卓の飾りつけ、そして余興などでお客様たちの心をつかむ。そのおもてなしのスキルは、兄が上皇となり、節子さまが皇太后になっても全く変わらないどころか、むしろ更に向上している。そんな兄と節子さまにとっては、気心の知れた人間だけの少人数の食事会を盛り上げるなど、簡単なことなのだろう。
「謙仁が海兵士官学校に行くと、今までみたいに気軽に会えなくなるなぁ」
やがて、食後のデザートと飲み物が出るころ、私の子供たちとのお喋りに興じていた倫宮さまは寂しそうに言った。
「江田島は、東京から行くと、どんなに急いでも移動に丸1日はかかりますからね。もちろん、長期休暇の際は、東京に戻って参りますが……」
謙仁が礼儀正しく倫宮さまに答えると、
「それは分かってるよ。謙仁が東京に戻ってきたら、その時はもちろん会いたいけどさ」
と倫宮さまは言い、更に、
「あのさ、謙仁。長期休暇じゃなくても手紙は送るぜ。だから、返事を書いてくれよな」
真剣な口調で謙仁に頼んだ。
「もちろんでございます」
謙仁が恭しく倫宮さまに返答すると、
「ねぇ、倫宮殿下」
謙仁の隣に座っている私の次男・禎仁が、倫宮さまに話しかけた。
「秩父宮殿下と筑波宮殿下は、今、どうしているの?」
倫宮さまに質問した禎仁の口調は、年齢や関係性を考えても、少し乱暴かもしれない。横から謙仁が、「禎仁、もっと丁寧に喋らないとダメだ」と注意したけれど、倫宮さまは禎仁を咎めることなく、
「雍兄様と尚兄様は、山登りに行ってるぜ。行き先は南アルプスって言ってたかな」
と禎仁に答えた。
「倫宮殿下は、その登山にはついていかなかったのですか?」
私の隣にいる万智子が問うと、
「うん、おれはこの夏、課題でいろんな山に行かされたから、もういいや、と思ってさ。海や川や野原にも行ったけど」
倫宮さまは少し不思議なことを言う。
「課題……ですか?」
「ああ、上原大将のさ。いろんなところに連れて行かれて、ここに軍用道路や鉄道を敷設するにはどうする、この川に軍用の橋を架けるにはどうする……散々質問責めにされてさ。測量の実習までさせられたから、本当に辛かったよ」
謙仁の問いに、倫宮さまはあけすけに答えて両肩を落とす。
「ちょっと待って?上原大将って、工兵大将の上原勇作さん?予備役に入ってなかったっけ?」
私が栽仁殿下に慌てて確認するのを聞きつけて、
「ああ……去年、興仁が工兵士官学校に入学したのに合わせて、工兵士官学校の顧問になったのだ」
兄が私にそっと教えてくれた。
「工兵士官学校のだらけた雰囲気が一変したらしいぞ。恐らく、国軍軍医学校に大山大将が赴任したぐらいの衝撃だっただろうな」
「……でしょうね」
兄に相槌を打つと、私は大きなため息をついた。上原勇作さん……“史実”では陸軍大臣を務めたこともあったらしいけれど、この時の流れでは、国軍の工兵の発展に力を尽くした工兵界の大御所として知られている。予備役に入っていた彼が引っ張り出されたのは、直宮たちに厳しい試練を課そうと考える梨花会の面々の仕業だろう。私は倫宮さまが厳しい試練で心身を害していないか、少し心配になった。
と、
「そう言えば禎仁は、中等科を卒業したらどうするか決めたのか?」
その倫宮さまが、私の次男に尋ねた。
「もう中等科の最終学年になるだろ。どうするんだよ」
「……どうしよう」
少し困ったように禎仁は言う。私は、禎仁が諜報の道に進みたいことを知っているけれど、それをこの場で言うわけにはいかない。ただ、表の世界で生活するための隠れ蓑として、禎仁がどういう職業を選びたいのかという話を禎仁から聞いたことがない。“どうしよう”と禎仁が言っているのは、その隠れ蓑を決めていないことを言っているのか、それとも、実は隠れ蓑にする職業は決めているけれど、倫宮さまたちに対してそれを隠すために言っているのか……私には分からなかった。
「とにかく、海外には行ってみたいと思ってるんだよね」
そう答えた禎仁に、
「それじゃダメでしょ」
姉の万智子が手厳しく言う。
「海外で何をしたいか、それが重要なんじゃない?」
「万智子の言う通りだよな」
倫宮さまも、万智子に同調して頷いた。「それに、進学先も決めないといけないだろ。しっかりしろよ。そんなんだから、禎仁はのんびりしてるって言われちゃうんだぜ」
「そうだよね。うう、どうしよう……」
倫宮さまの厳しい指摘に、禎仁はしょんぼりとうな垂れる。禎仁がのんびりしているとは、私にはとても思えない。ただ、会話の流れを考えると、そろそろ禎仁に助け舟を出す方がいいだろう。こう私が考えた時、
「興仁、自分のやりたいことを見つけるのは、なかなか難しいことなのだぞ」
黙って子供たちの話を聞いていた兄が言った。
「お前は割と早くにやりたいことを見つけたが、自分のやりたいことをなかなか見つけられない人間はいくらでもいる。一生かかって、ようやく自分のやりたいことに巡り会えたという人間もいるのだ」
兄の言葉を聞いた倫宮さまは、バツが悪そうにうつむく。兄は禎仁に穏やかな瞳を向けると、
「だから禎仁、とにかく色々なことをやってみろ。そうしているうちに、自分がやりたいと思えることにきっと出会えるさ」
優しい声でこう言った。
「それで、経験したことを、俺に話して聞かせて欲しいのだ。俺はこんな身体になってしまったから、お前たちのように自由に動けない。箱根を越えて動くのは難しい。……だからな、お前たちが、色々な世界で自由自在に動いて、活躍する話が聞きたいのだ。禎仁も……興仁も謙仁も万智子も、頼まれてくれるか?」
上皇の頼みを断れる人間はほとんどいないだろう。倫宮さまは「分かった、お父様」と頷き、
「かしこまりましたわ、伯父上」
「はい、そのように致します」
「分かりました。伯父上のおっしゃる通りにします」
万智子も謙仁も禎仁も、元気よく伯父に答えた。
「なぁ、梨花……」
昼食会が終わり、葉山御用邸を出る私たちを見送って玄関まで出てきた兄は、私の隣に立つとそっと声を掛けた。振り向いた私に、
「お母様も……俺や梨花の話を聞いていたお母様も、今の俺と同じようなお気持ちだったのかな?」
兄は小さな声で尋ねた。
「かもね」
私は軽く頷いたけれど、
「でも、お母様なら、“あなたたちなりのやり方で、お話を聞けばよろしいのですよ”って言いそうじゃない?」
と兄に言った。
「かもな。……いや、そうに違いない」
兄は私の頭を乱暴に撫でると、ニッコリと笑った。




