ルーマニアの折檻
その日、ルーマニア王国の首都・ブダペストは、激しい雷雨に見舞われていた。
ブダペストにある王宮に勤める下男の1人が、言いつけられた用事を済ますため、国王の居室近くにやってきた。当然ながら、外がどんな悪天候に見舞われていようとも、下男の仕事が減ることはない。雷鳴が轟く中、廊下を黙々と歩いていると、雨風の音でも雷の音でもない異質な音が下男の耳に届いた。外から響く嵐の音で切れ切れになりながらも聞こえるその音は、人のうめき声と叫び声のようにも思える。誰か怪我でもしているのだろうかと心配になった下男は、その声の発生源を探して歩いた。
やがて下男は、廊下に向かって少しだけ開かれたドアの前にたどり着いた。うめき声と叫び声は、この扉の向こうから聞こえてくる。下男が思い切ってドアを開けようとしたその時、
「カロルめ!この痴れ者が!」
ドアの向こうから、ただならぬ怒りがこもった叫び声が聞こえた。続いて、長い鞭が空気を切り裂く音も。ビシッ、と鞭が肉を打つ音と同時に、別の男の、苦痛にうめく声が響く。ドアのすき間から室内を恐る恐る覗いた下男の目の前には、信じられない光景が広がっていた。ルーマニアの王室顧問、ジュリアン・ベルナールが、四つん這いになった国王・カロル2世を鞭で打ち据えていたのだ。
「貴様はまた、通りすがりの女に色目を使ったな?!」
「つ、使ってなどいない……」
王室顧問の問いかけに弱々しい声で答えた国王の口から、次の瞬間、うめき声が再び漏れる。王室顧問が国王の身体に黙って鞭を振り下ろしたのだ。2度、3度と鞭が肉を打つ音が響くと、
「う、嘘です、使いました。美人だから抱きたいと思って、色目を使いました……」
鞭の痛みに耐えかねた国王は劣情を告白した。
「いつも言っているはずだ。女を近づければ、それだけでお前は破滅するのだ。そのような写真が世間に出回れば最後、お前の国王としての権威は地に落ち、ルーマニアを支配することはできなくなる」
仮面を付けている王室顧問は、両手で持った鞭を国王の首元にピタリと付ける。その気になれば自分の首に巻きついて呼吸の自由を奪いそうな鞭に国王がおののいていると、
「だからこそ、この王宮からは女という女を排除したのだ。好色なお前が、道を踏み外してしまわないようにな」
王室顧問は冷たい声で国王に言い放つ。
「せめて……せめてマグダを、私のそばに……」
痛みに耐えながら哀願する国王に、
「この期に及んで、王妃ではなく愛人の名前を真っ先に出すとは、とんだ下衆だな、貴様は」
王室顧問は呆れたように吐き捨てると鞭を振り下ろす。苦痛の叫び声を上げる国王に、
「あの女は今、ここよりもずっといい場所で、安楽に過ごしているよ。今頃、下衆な国王陛下のことなど忘れて、若い男とよろしくやっているのかもしれん」
王室顧問は少し楽しそうに告げる。
「なら、エレナは……王妃と一緒に暮らすのはダメなのか?!」
「ダメだ」
縋るように尋ねた国王に、王室顧問は即座に答える。
「ミハイ皇太子殿下に、貴様の悪い影響を受けさせるわけにはいかない」
「……と言うが、そちらの都合だろう。お前が、エレナに会いたくないから……」
「黙れ!」
鞭がうなりを上げ、反論を口にした国王に襲い掛かる。途端に苦痛のうめきを上げた国王に、
「誰のおかげで国王ができているのか、まだ分かっていないようだな。……よろしい。ならばこの鞭で、徹底的に教え込んでやろう。私に恥辱を与えた章子が作る偽りの平和を壊すまで、貴様に倒れてもらうわけにはいかないのだ」
王室顧問は微笑んで言うと、再び鞭を振り下ろす。響き渡る国王の絶叫、そして鞭の唸る音……。この世のものとはとても思えない凄惨な光景に、のぞき見をしていた下男は、顔を青ざめさせながらその場を離れた。
1930(昭和2)年5月21日水曜日午後3時、赤坂御用地内にある仙洞御所・兄の書斎。
「……というのが、私が聞いた内容よ」
週に1度の往診で仙洞御所を訪れていた私は、兄の診察を終えた後、兄に問われるまま、先週末に中央情報院の総裁・明石元二郎さんから聞かされたルーマニアの情報を話していた。
「そうか……」
椅子に座った兄は頷くと、
「俺がこんな身体でなかったらな。もし、身体が自由に動いたら、俺はルーマニアに渡航して、ジュリアン・ベルナールの首を刎ねたい」
物騒な言葉を口にした。
「尋常じゃないレベルの国際問題になるから、やめてよね、それ……」
血気盛ん過ぎる兄に、両肩を落としてツッコミを入れてから、
「まぁ、気持ちは分かるけどさ。仮面の人、今まで散々私を挑発してるもの」
と私は言葉を続けた。
「ただ、今回の情報で、カロル2世はジュリアン・ベルナールの傀儡だということが完全に分かったわね」
「それは間違いない。即位時のクーデターの芝居がかった言動は、自分の言葉ではなく、ジュリアン・ベルナールの書いた筋書きを演じていただけだったということだな。本来のカロル2世は、女の尻を追いかけることにしか興味がない無能な好色漢なのだろう」
兄は私に即座に答える。長年国際情勢にどっぷり漬かっていなければ出てこないであろう兄の返答に、私は兄の主治医として少し心配になった。
「兄上、まさか今でも国際情勢を追っているの?頼もしいは頼もしいけれど、国際情勢を追うので兄上の身体に負担がかからないか、私は心配よ」
私が姿勢を正して兄に尋ねると、
「安心しろ……と言っていいのか分からないが、天皇だった時に比べれば、勉強時間は格段に減っている。ただ、裕仁が、仙洞御所に来ると国内のことや海外のことも色々教えてくれるから、それで最新の情報を聞きかじって調べることが多いな」
兄と節子さまが仙洞御所に引っ越してから、お上は2か月に1度ぐらいのペースで仙洞御所を訪れている。両親の御機嫌伺いというのが表向きの訪問理由だけれど、実はお上は、兄に政治的な相談をすることがある。これは、私や内大臣の牧野さんなど、ごく少数の人間だけが知っていることだ。
「正直なところ、主治医としては、兄上には政治のことを忘れてのんびりしていてほしいんだけどね。上皇は政治的な権力を一切持たないって、皇室典範で定められている。もし、兄上がお上の政治的な相談に乗っていることが世間に知られたら、院政の再来と非難されてしまうわ」
不安を口にしてため息をついた私に、
「心配するな、梨花。俺は裕仁と世間話をしているだけだ。ただ、天皇はこの国の主権者だから、天皇が言う世間と言うのは、国内はもちろん、海外のことにも及ぶのだ。だから、天皇が世間話として国内政治のことや海外情勢のことを話しても、決しておかしくはない」
兄はこう答えるとニヤリと笑う。
「……兄上も、方便が上手くなったね」
「そりゃ、政治の中枢に10年以上いたのだからな」
兄は私の言葉に軽い調子で応じると、
「それよりも……なぜ、ジュリアン・ベルナールは、ミハイ皇太子ではなく、カロル2世を傀儡にしたのだろうな?」
今度は私に質問を投げた。
「そう言えば、そうよね。成人より、小さい子の方が操りやすいのに……」
私が両腕を胸の前で組むと、
「ひょっとすると、エレナ王妃の件が関係しているのかな」
と兄は言う。
「かもね。ミハイ皇太子はまだ10歳にもなっていないから、母親と離れ離れにすることはできない。ミハイ皇太子が傀儡であろうとなかろうと、母親のエレナ王妃の意思は、ミハイ皇太子の身の振り方に大きく影響するでしょうね」
「ジュリアン・ベルナールの実力を考えれば、エレナ王妃に自分の言うことを聞かせることは容易いと思うが、それをしていない、ということは、もしや、エレナ王妃がジュリアン・ベルナールの弱みを握っているのか……」
「調べる方がよさそうだね。ただ、ルーマニアで調べるのは至難の業だろうから、やれることは限られると思うけれど……。大体、仮面の人がカロル2世を折檻しているっていう今回入った情報だって、手に入れられたのは奇跡に近いもの」
「ああ。……まぁ、俺たちが考え付いたことは、恐らく院も考えに入れているだろう。あとは、院に任せるしかないが……」
と、兄の顔が微かに歪む。どうしたのか、と私が問おうとした瞬間、兄はドアの方に視線を向け、
「節子、そこにいるならノックして中に入ってこい」
少し不機嫌そうに言った。
「……だって、嘉仁さまと梨花お姉さまが、難しそうなお話をしていらっしゃるんですもの」
ドアを開けて兄の書斎に入ってきた節子さまはこう言うと、私に顔を向け、
「お姉さま、渋沢さまのご病状について、新しく分かったことはありますか?」
と尋ねた。
「渋沢さんねぇ……」
私はため息をつくと顔をしかめた。
渋沢さんは3月ごろから腹部の不快感を訴えるようになり、梨花会はもちろん、貴族院も欠席していた。先日、東京帝国大学医科大学の外科学教授・塩田広重先生が渋沢さんの検査をしたところ、大腸のS状結腸という肛門に近い場所が狭くなっていることが判明した。恐らくは、S状結腸にできたガンが症状を引き起こしていると推測されたのだけれど、渋沢さんは90歳と高齢であることから、ガンに対する根治術は行われないことになったのだ。
「……それでは、どうするのですか?」
私から渋沢さんの最新の経過を聞き取った節子さまは、私に詰め寄るように聞いた。
「實枝子さまは、大腸のガンでも、手術ができたではないですか。それと渋沢さまと、どこが違うのですか?」
「いや、全然違うわよ。實枝子さまは健康診断でガンが見つかったから、ガン自体が進行していなかったもの。それに、實枝子さまはまだ40歳にもなっていないから、根治術に耐えられる体力が十分にあったし」
私の義理の妹の名前を出した節子さまに、私は丁寧に説明する。實枝子さまも、今年2月に大腸ガンを患っていることが発覚したけれど、発見が早かったのと、根治術に耐えられる体力があったのもあり、3月に塩田先生の執刀で大腸ガンの根治術を受け、体調も既に回復していた。
「先週、塩田先生に会って話をしたら、今月中に、渋沢さんの人工肛門を作る手術をする予定だと聞いたわ。ただ、ガンそのものを取る手術ではないから……」
「そうですか……」
節子さまが暗い顔をしてうつむくと、「梨花」と兄が私を呼んだ。
「さやえんどうは、大腸ガンにはよくないのか?」
「うーん……繊維が多い食べ物ではあるから、食べ過ぎはよくないけれど、火を通して柔らかくして、細かく切れば、食べても問題ないんじゃないかな」
なぜ兄はこんなことを聞くのだろうか。私が訝しく思った時、
「畑のさやえんどうを、渋沢男爵のところに持って行ってやろうと思ってな」
少し寂しげな口調で兄が言った。
「兄上……」
「梨花会に入ったのは遅かったが、渋沢男爵もこの国を支えた人間の1人。お父様の崩御の時には、内閣総理大臣として俺をよく支えてくれた。きちんと礼を言わねばならないし……それに、今の俺なりに、渋沢男爵の今までの労に報いたくてな」
兄の言葉に、「そうですね……」と節子さまがしみじみと応じる。私も黙って頷いた。兄の言う通り、お父様が死病に侵されていると分かった際、渋沢さんは変化する事態に内閣総理大臣として冷静に対応し、天皇の代替わりに関する行事を滞りなく終わらせた。そして、世界大戦発生の危機を乗り越えるための国際会議も、問題なく運営した。個性の強い梨花会の面々の中では存在が埋もれがちだったけれど、彼がいなくては、改元前後の混乱は乗り越えられなかっただろう。
「兄上、私も折を見て、渋沢さんのお見舞いに行くよ」
私が言うと、兄は「そうしておくれ」と私に微笑んで言った。
※実際に渋沢さんが亡くなったのは1931年です。




