東京音楽学校
1930(昭和2)年3月19日水曜日午前9時30分、東京市下谷区上野公園地にある東京音楽学校。
『今日は我々の道楽にお付き合いいただき、ありがとうございます』
私と栽仁殿下に向かってフランス語であいさつしたのは、デンマークのフレゼリク皇太子殿下だ。今年で31歳になる皇太子殿下のそばには、彼の弟であるクヌーズ殿下、そして親類のアクセル殿下、アクセル殿下の妻のマルガレータ殿下が立っていて、私と栽仁殿下に笑顔を向けていた。
『いえいえ。我が国の音楽に興味を持っていただけること、とても嬉しく思います』
私の隣では、海兵少佐の軍装をまとった栽仁殿下が、やはりフランス語でフレゼリク皇太子殿下に答えている。その一方、
(帰りたい……!)
青い通常礼装を着た私は、営業スマイルを顔に浮かべながら心の中で叫んでいた。
以前、日本を訪問したスウェーデンのグスタフ・アドルフ皇太子殿下は、考古学に造詣が深かったけれど、このフレゼリク皇太子殿下は音楽に非常に興味を持っている。ピアノの腕前はプロ並みだし、デンマークの王立管弦楽団にも出入りしているらしい。更には、音楽家を何人も雇い、この日本旅行にも帯同していた。だからフレゼリク皇太子殿下は、“日本の伝統的な音楽を聴く機会を作ってもらいたい。また、日本の管弦楽の状況を知る機会も欲しい”と日本側に要望を出した。そんないきさつにより、日本唯一の官立音楽専門学校である東京音楽学校に外国の王族が訪れるという前代未聞のことが実現したのである。
(なんで私が、音楽会の案内をしないといけないのよ……)
けれど、フレゼリク皇太子殿下に付き添う私には、日本の音楽史上、歴史的な瞬間に立ち会っているという感慨は全く無かった。大体、私は音楽が得意ではない。今生の小さい頃にはピアノを習っていたけれど、節子さまがとても上手にピアノを弾くのに圧倒されてしまい、女医学校に入学したころにピアノの練習を止めてしまった。だから、ピアノを弾くのは私より栽仁殿下の方が上手だ。
更に、日本の伝統的な音楽に私は疎い。もちろん、雅楽や能楽は、他の人より触れる機会は多いけれど、自分から積極的に触れるようなことはしていない。長唄や義太夫節、筝曲などに至っては、聞いたことすらない。音楽好きの皇太子殿下の随伴役として、私は甚だ不適任なのだ。
それでも、私が今日、栽仁殿下と一緒に東京音楽学校にやってきたのは、私たちの従者に化けている中央情報院の職員さんたちを、東京音楽学校に潜入させるためである。彼らは、東京音楽学校の教職員の中にいるかもしれない黒鷲機関の手の者を探すことになっている。私と栽仁殿下がクヌーズ殿下やアクセル殿下やマルガレータ殿下、そして彼らに随行している侍従や武官たち、演奏家たち、更には東京音楽学校の教職員たちとあいさつを交わしている間に、私と栽仁殿下についてきた院の職員さんたちは、課せられた任務を遂行するために姿を消していた。私は彼らの任務の成功を密かに祈った。
校舎2階にある奏楽堂の座席に私たちが座ると、早速演奏が始まった。東京音楽学校では西洋音楽が主に教えられているけれど、日本の音楽の研究も行っている。その関係で、舞台では一流の演奏家たちによる清元節が奏でられていた。けれど、
(どうしよう、これ……)
清元節を聞きながら、私は愕然としていた。今、舞台上で奏でられている清元節をどうやって鑑賞したらいいのか、全く分からないのだ。もちろん、お上に東京音楽学校行きを命じられてから、邦楽の歴史についてはここ数日、夜遅くまで勉強していたし、レコードで代表的な曲を聴くなどして、事前準備はやっていた。ところが、こうやって鑑賞を始めてみると、何をとっかかりにして清元節を味わえばいいのか、私には全く見当がつかなかったのだ。
こうなってしまうと、集中力は完全に消えて無くなる。唄も三味線も、間違いなく一級品なのだろうけれど、私には、前世のロールプレイングゲームの眠る呪文にしか聞こえなかった。夜遅くまでの勉強のせいで身体に残っていた眠気も手伝って、清元節を聞きながらつい舟を漕ぎかけた瞬間、
「梨花さん、大丈夫?」
隣の座席に座っていた栽仁殿下が、私の肩をそっと叩いた。
「正直ダメかも。眠くて……」
私が栽仁殿下に囁くと、
「じゃあ、休んでなよ」
栽仁殿下は私に小声で返す。私が反論できないでいる間に、栽仁殿下は後ろにいる我が家の職員さんに何かを囁く。しばらくして、
「宮さま、応接室で休ませていただきましょう」
私の斜め前に千夏さんが現れて小声で言った。彼女は後ろの席の人たちの邪魔にならないよう屈んでいる。
「じゃあ、栽さん、あとはよろしくね」
外賓のおもてなしをする役目を果たせないのは申し訳ないけれど、外賓の前で眠りこけるのもよろしくない。ここは素直に休む方がいいだろう。私は栽仁殿下に囁くと、千夏さんの後について奏楽堂を出た。
1930(昭和2)年3月19日水曜日午前10時、東京音楽学校。
「宮さま……お加減はいかがですか?」
奏楽堂を出ると、千夏さんは心配そうに私に尋ねた。
「ん……さっきはめまいがしたけど、今は大丈夫」
まさか千夏さんに、“居眠りしかけた”と正直に言うことはできない。私が営業スマイルとともに千夏さんに言うと、彼女は突然、私の手をつかむ。何事かと問おうとした瞬間、
「宮さま、千夏の背におつかまりください。おぶって差し上げます」
千夏さんは真剣な表情で私に申し出た。
「千夏さん、そこまでしなくても……。今は平気だし」
私は彼女の申し出を慌てて断ったけれど、
「ですが宮さま、応接室は1階にございます。もし宮さまが階段を下りられている最中にめまいを起こされてしまったら、いかがなさるおつもりですか?」
千夏さんは私の手をつかんだまま更に訴える。
「あのね、千夏さん。千夏さんが私を背負って階段を下りる方が、私が1人で階段を下りるよりよっぽど危険よ。もし、背負われた私が千夏さんと一緒に階段から落ちて、千夏さんの下敷きになったら大変なことになるわ」
私が冷静に千夏さんに指摘すると、彼女は一瞬言葉に詰まった後、
「た、確かにそうです……。では宮さま、申し訳ございませんが、階段はお1人でお下りください」
私にこう言って一礼する。私は頷くと、1階へと通じる階段を、手すりにつかまりながら慎重に下りた。
1階に下りた時、左の方から人の気配がした。私が視線を向けた廊下には、2人のヨーロッパ人の男性が立っている。そのうち1人は、先ほどフレゼリク皇太子殿下から紹介された、皇太子殿下に随行しているバイオリニストだった。
(皇太子殿下に付き従っているなら、皇太子殿下と一緒に奏楽堂にいそうなものだけど……何か変ね)
とっさに物影に隠れた私に、「宮さま?」と千夏さんが訝しげに声を掛ける。私は振り向いて口の前に人差し指を立て、黙っているようにとジェスチャーで命じると、千夏さんを引っ張って、2人で男たちから見えない物陰に隠れた。
物陰から時々顔を出し、私は2人の男の様子を窺う。バイオリニストと話している男性はこちらに背を向けているので、顔は確認できない。ただ、同じような背格好のヨーロッパ人の男性が、私たちを出迎えた教職員の中にいたような気がするから、もしかしたら、東京音楽学校に雇われている外国人教師かもしれない。
その教師かもしれない男性が、上着の内ポケットから折りたたまれた青い紙を取り出し、バイオリニストに渡す。バイオリニストは青い紙を開くと何かを喋ったけれど、何語かは私には分からなかった。青い紙には、白い線で何かの図が描かれているように見える。
(何かの設計図……かしら?)
私がそう推測した瞬間、
『そこまでだよ、おじさんたち』
ドイツ語の言葉とともに、何かがぶつかる音がする。バイオリニストの口から、絶望の叫びが漏れた。青い紙は、黒いインキでベッタリと汚されている。バイオリニストの足元には、インク瓶が転がっていた。
『貴様……!』
教師かもしれない男がドイツ語で叫ぶ。彼の視線の先には、東京音楽学校の黒い詰襟の制服を着た若い男性の姿がある。その彼の顔を見て、私はアッと叫びそうになった。眉の形を変えているけれど、彼の顔は私の次男・禎仁のものだったからだ。
顔を真っ赤にしたバイオリニストは禎仁に足音荒く近寄り、禎仁につかみかかろうとする。けれど禎仁はその手をバックステップしてかわし、いつの間にか口にくわえていたホイッスルを鋭く吹いた。すると、廊下の両側にある扉が一斉に開き、黒い羽織に灰色の袴をつけた男性たちがわらわらと廊下に出てくる。そして、あっと言う間に外国人2人を拘束し、扉の中へと消えた。
「……」
静まり返った廊下には、黒い羽織に灰色の袴を付けた初老の男性が1人残り、周囲を確認している。その人物の顔にも私は見覚えがあった。清元節の出演者のように装っているけれど、あれは中央情報院副総裁の広瀬武夫さんだ。隠れようとしたけれど、広瀬さんはすぐに私たちを見つけてしまい、顔に驚きの表情を浮かべた。
「校長殿下……千夏さん……」
「校長事務取扱ですけどね。まぁとにかく、お疲れ様」
困惑している広瀬さんに、私は冷静に応じた。けれど、千夏さんは明らかに混乱しながら、
「な、なぜ、広瀬さんがここに……。それに、なぜ、清元節の演者の格好を……」
目の前に突然現れた広瀬さんに、次々と疑問をぶつける。
「千夏さん」
混乱する千夏さんを、広瀬さんは刺すような視線で見つめた。そして、
「今見たことは、誰にも喋ってはいけない。旦那さんやお子さんたちにもだ。もし喋ったら、校長殿下にもご迷惑がかかるし、俺は千夏さんを殺さないといけなくなるかもしれない」
と冷たい声で告げた。
「!」
「だから、今見たことは忘れなさい。いいね」
顔を真っ青にした千夏さんが頷いたのを確認すると、広瀬さんは近くの扉の中に素早く姿を消す。私と千夏さんの前には、誰もいない廊下が真っ直ぐ伸びていた。
1930(昭和2)年3月19日水曜日午後4時30分、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「東京音楽学校で我々が捕らえた者は、1人はフレゼリク皇太子殿下お抱えのバイオリニスト、もう1人は、東京音楽学校にピアノ教師として雇われていたデンマーク人でございました」
本館1階にある応接間で、私は中央情報院総裁の明石元二郎さんと、我が家の別当の金子堅太郎さんから、東京音楽学校に関する件の報告を受けていた。ちなみに、出席する予定だった皇居での昼食会は、面倒くさくなってしまったので、“体調不良”ということにして休ませてもらった。
「ピアノ教師は3年前に東京音楽学校に雇われましたが、“ピアノを教える”という名目で上級軍人の家庭に入り込み、情報収集を行っていました。そして、ある技術士官と懇意になり、その士官を丸め込んで、金剛型代艦に採用される技術本部式の2号重油専焼缶とオールギヤード・タービンの図面を手に入れました」
「ああ……確かに、新しい缶とタービンを採用すると聞きましたね。……それで?」
私が明石さんに話の続きを促すと、
「ピアノ教師は、設計図を手に入れたものの、どうやってドイツに送るか悩んだようです。下手に郵送すれば、院の検閲にひっかかります。ドイツ大使館の誰かに渡そうにも、ドイツ大使館は院が厳重に監視しておりますので、こちらも設計図を我々に奪われる可能性が高い」
明石さんは低い声で報告を再開する。
「そこに、フレゼリク皇太子殿下が来日するという報が入りました。皇太子殿下の一行には、黒鷲機関の仲間がいる。しかも、皇太子殿下に随行しているので、我々も手が出しにくい。だから、“日本音楽の視察”という名目で皇太子殿下ご一行を東京音楽学校に立ち寄らせれば、黒鷲機関の仲間と自然に接触でき、設計図を受け渡すことができる。そのような流れで、フレゼリク皇太子殿下の東京音楽学校ご訪問が計画されたようです」
「なるほど。そこに、あなたたちが間一髪で介入して、設計図の流出は防がれた、というわけね」
「さようでございます」
明石さんは私に一礼すると、
「ピアノ教師は即日解雇の上、強制送還と致しました。情報を流出させた技術士官は、軍法に則って裁きを受けさせます。また、フレゼリク皇太子殿下に随行していた黒鷲機関のバイオリニストは、デンマーク本国に送還されます」
と私に伝えた。
「“ドイツは我が隣国ではあるけれど、敵にも味方にもなり得るこの状況下では、我が身辺からドイツの諜報員は排除するべき。日本にご迷惑をおかけし、大変申し訳なかった”……フレゼリク皇太子殿下は天皇陛下にこのように謝罪されました」
「そうですね。デンマークには、防諜体制を見直してもらう方がいいかもしれません。……ところで、明石さん」
私は軽くため息をつくと、明石さんを睨んだ。
「うちの禎仁が作戦に加わっていたのはなぜなのかしら?あの子はまだ16歳なんですよ。いくら諜報の訓練を受けていると言っても……」
「まぁまぁ、妃殿下」
声を荒げた私の横から、金子さんがなだめに入った。
「今回は、若宮殿下と妃殿下に付き従って東京音楽学校に潜入した陽動部隊とは別に、音楽会の演者や、音楽学校の学生に化けて、密かに東京音楽学校を探る部隊を作る必要がありました。学生に化ける者は、校舎内を比較的自由に動けますから是非とも欲しかったのですが、うまく学生に化けられる人間が、禎仁王殿下しかいなかったのです。ですから、今回の作戦に加わっていただきました。万が一、殿下に危険が及びそうになった時の警備体制も、広瀬君が整えておりましたので……」
「まぁ、それなら……」
私が渋々頷いた時、応接間のドアがノックされた。明石さんと金子さんが頷いたのを確認して「どうぞ」と応じると、ドアが開いて、今まさに話題に上っていた私の次男が姿を現した。
「母上、母上に電話だよ」
「んー、今は明石閣下と金子さんと話してるから、後でかけ直してもらうようにお願いしてもらっていいかな?」
私が禎仁にお願いすると、
「電話、伯父上からだよ」
東京音楽学校のものではなく、普段着ている学習院の制服をまとった彼はサラっと私に言った。
「……それを早く言いなさいっ」
慌てて椅子から立ち上がった私に、
「母上、取り込み中なら、僕が母上の声真似をして、伯父上に応対しようか?」
禎仁はとんでもない提案をしてくる。
「バカっ、何考えてるのよ。そんなの、一発でバレるからやめなさい!」
私は次男を叱りつけると、電話がある部屋に急いだ。
「もしもし、お電話代わりました」
私が受話器を取り上げると、名乗る前に、
「梨花!」
兄の必死な叫びが耳を貫いた。
「もう……兄上、どうしたのよ。今日は仙洞御所には行かないって前から言ってたでしょ」
今日は水曜日だから、いつもなら仙洞御所に行くのだけれど、今日は皇居での昼食会があるから行かないと前から兄には伝えていたはずだ。まさか兄は、そのことを忘れてしまったのだろうか。そんな疑念を私が抱いた時、
「お前、体調は大丈夫なのか?!今日のフレゼリク皇太子との昼食会、体調不良で欠席したそうではないか!」
受話器から、兄の大きな声が流れてきた。
(あ)
そう言えば、昼食会を欠席したことを兄には伝えていない。一応、説明しておかなければならないか、と思った瞬間、
「熱はないのか?!食事は取れているのか?!」
兄は矢継ぎ早に問いを繰り出した。
「い、いや、あの……」
「もし体調が悪いのなら、今から侍医を盛岡町に行かせる!いや、お前は体調が悪くても“元気だ”と言い張って無理をしかねないから、どちらにしろ、侍医を行かせる方がいいな。今すぐ手配して……」
「だから待って!お願いだから待って、兄上!」
私の怠惰さにより蒔かれた種は、兄をとんでもない方向に暴走させようとしている。私は夕食の時間まで、兄の誤解を解くのに全力を傾ける羽目になった。
※フレゼリク皇太子殿下が音楽家を帯同しているのはフィクションです。ご了承ください。




