1929(昭和元)年7月の梨花会
※フランスの更新可能軍艦の数が間違っていたのに気づいたので訂正しました。(2025年11月12日)
1929(昭和元)年7月13日土曜日午前10時5分、皇居・表御座所にある御学問所。
「では、これでこの書類は片付いたね」
御学問所の壁際に置かれた椅子に座る私は、お上が内大臣の牧野伸顕さんを相手に政務を進めている様子を見つめていた。先週まで、お上は赤坂御用地にある赤坂離宮で暮らしていたけれど、今週の月曜日、皇居の改修が終わったのを機に皇居に引っ越した。このため、毎週土曜日の私の勤務地も、赤坂離宮から皇居に替わった。
「はい。では、侍従長を呼びましょうか」
牧野さんの穏やかな声に、
(ということは、今日は、奥閣下が出勤して……)
私はそう考えながら廊下に面した障子に目を向けてしまい、ハッと我に返った。お上の侍従長は、奥閣下ではなく、鈴木貫太郎さんだ。それに、奥閣下は先月の26日、吐血して亡くなったではないか。
(ああ、私、何やってんだ……)
私がため息をついた瞬間、
「……叔母さま、梨花叔母さま、いかがなさいましたか?」
お上が私を呼ぶ声が聞こえた。
「あ……何?」
私が急いでお上の方を振り返ると、
「相談したいことがあって、先ほどから叔母さまを4、5回呼んだのですが、反応がないものですから……」
お上は私に心配そうに言う。
「ああ、ごめん。ちょっと、ぼーっとしちゃって……」
私がお上に謝罪すると、
「もしかして……奥閣下のことを思い出されていたのですか」
お上は私にこう尋ねる。
「……この御学問所は、長い間、奥閣下と一緒に働いたところだからかな。どうしても、思い出しちゃうのよ。亡くなる前日も、奥閣下と一緒に仕事をしたし、亡くなったのが、余りにも突然のことだったから、奥閣下が、まだ生きている気がしてね」
「ですね……」
牧野さんが少し悲しげな様子で頷く。
「……だけど、こんな風に、突然知り合いに死に別れるなんてこと、これからも、十分に起こり得るのよね。梨花会の古参の面々は、皆80歳を超えている。今は元気だけど、奥閣下のように、突然亡くなる可能性は十分にあるわ」
「叔母さまのおっしゃる通りです」
私の言葉に、お上はしみじみとして口調で応じた。「爺たちは、いついなくなるかわからない。爺たちから学べることをできる限り学んで、自分のものにしなければなりません。そして、爺たちがいなくなっても、この国が盤石であるように、僕たちも、次世代の人材を育成しなければ……」
「その通りね」
お上に相槌を打った私は、
「ところで、お上。私に相談したいことって何?」
とお上に尋ねた。
すると、
「実は、皇居の敷地内に、生物学の研究室を建てたいのです」
お上は少し恥ずかしそうにしながら私に答えた。
「僕はお父様と違って、趣味らしい趣味がありません。ゴルフやビリヤードは多少嗜みますが……でも、植物や海の生物の研究をしている時は、時間を忘れて熱中できて、心の安らぎを覚えるのです。だから、皇居の敷地に生物学の研究室を建てて、政務の合間にそこで研究をしたいのですが……いけないでしょうか?」
「いいと思うわ」
私が即答すると、
「本当ですか?!ですが、お父様はそういった建物を作っておられませんでしたが……」
一瞬顔を輝かせたお上は、すぐに心配そうな顔になって私に尋ね返す。
「それは、建物を作らないといけないような趣味を、あなたのお父様が持っていなかったからよ。馬場は昔からあったし、漢詩は筆記用具さえあればどこでも作れるじゃない。でも、お上の生物学の研究は、研究設備を収容できる建物がある方が絶対にスムーズに進められる。芳麿さまも鳥の研究をしているし、お上も是非、生物学の研究をするべきだと私は思うわ」
お上の母方の従兄の名前を出して私が主張すると、
「分かりました。では、即位礼が終わったころに建築準備が始められるよう、宮内大臣と相談して……」
お上は私にのんきな答えを返す。
「そんなの、今すぐ始めていいわよ。お上の息抜きに絶対に必要なものだもの。お上の精神衛生上、生物学の研究室は今すぐ建てるべきだわ」
「ですが叔母さま、……他の皇族たちが何か言ってはこないでしょうか?」
少し声を荒げた私に、お上はやはり心配そうに尋ねた。
「大丈夫よ。お上を若輩者と侮るような無礼な皇族がいたら、私が黙らせるわ。それでも黙らない奴がいたら、うちのお義父さまに叱ってもらうから」
「それは……非難された側が恐怖の余り、家に引きこもってしまうのではないでしょうか。お上に無礼を働いたのもさることながら、顧問殿下と有栖川宮殿下、両殿下のお叱りを被るのですから……」
私の答えを聞いた牧野さんが苦笑する。ちなみに、私の義父の有栖川宮威仁親王殿下は、11月に行われる即位礼に関する事務一切を取り仕切る“大礼使”という機関の総裁に就任している。もちろんこれは、義父が皇族の重鎮と呼ぶにふさわしい立場にいるからである。
「ありがとうございます。梨花叔母さま」
お上は私に向かって、深く頭を下げた。
「迷いが消えました。研究室のことは、早速、宮内省に準備を始めさせます」
「そっか。早く完成するといいね」
私が声を掛けると、お上は無邪気な子供のように頷いた。
1929(昭和元)年7月13日土曜日午後2時25分、皇居・表御殿にある牡丹の間。
「なるほど。イギリス・ドイツ・フランスの3か国は、僕たちの予想通りの内容で軍縮条約に合意したということだね」
久しぶりに皇居で開催された梨花会では、まず、9月3日に行われる衆議院議員総選挙のことが話し合われ、その後、2日前に締結された第3回軍縮条約の内容が出席者一同に説明された。配布された資料に目を通したお上がその内容をざっとまとめると、山本権兵衛国軍大臣が恐縮したように一礼した。
(よくこの資料をまとめられるわね……いや、事前に見ていたんだろうけど……)
私はお上の能力の高さに圧倒されながらも、配られた資料の文字を目で追う。そこには、今回の軍縮条約で、イギリス・ドイツ・フランスが所有してもよいとされた主力艦が記載されている。条約本文には、前回の軍縮条約と同じように、艦名が全て記されているけれど、配布資料には艦型とその隻数だけが書かれていた。
・イギリス(計44隻、排水量1153638トン)
戦艦“ネプチューン”(排水量19680トン)
巡洋戦艦“タイガー”(排水量28400トン)
コロッサス級戦艦(排水量19680トン):2隻
オライオン級戦艦(排水量23400トン):4隻
キング・ジョージ級5世級戦艦(排水量23400トン):4隻
アイアン・デューク級戦艦(排水量25000トン):4隻
クイーン・エリザベス級戦艦(排水量31585トン):6隻
リヴェンジ級戦艦(排水量29150トン):8隻
ネルソン級戦艦(排水量35000トン):5隻
インヴィンシブル級巡洋戦艦(排水量17526トン):3隻
インディファティガブル級巡洋戦艦(排水量18500トン):3隻
ライオン級巡洋戦艦(排水量26270トン):3隻
・ドイツ(計26隻、排水量651446トン)
巡洋戦艦“ザイドリッツ”(排水量24594トン)
巡洋艦“ブリュッヒャー”(排水量15842トン)
モルトケ級巡洋戦艦(排水量22979トン):2隻
デアフリンガー級巡洋戦艦(排水量26600トン):3隻
マッケンゼン級巡洋戦艦(排水量31000トン):2隻
ヘルゴラント級戦艦(排水量22808トン):4隻
カイザー級戦艦(排水量24724トン):5隻
ケーニヒ級戦艦(排水量23500トン):4隻
バイエルン級戦艦(排水量31000トン):4隻
・フランス(計21隻、排水量507009トン)
ダントン級戦艦(排水量17597トン):3隻
クールベ級戦艦(排水量23474トン):4隻
プロヴァンス級戦艦(排水量23230トン):4隻
ノルマンディー級戦艦(排水量25230トン):5隻
リヨン級戦艦(排水量25230トン):2隻
ダンケルク級戦艦(排水量30264トン):3隻
「ちょっとずつ主力艦の数は減ってきたけれど、まだまだかしらね」
何とか資料を読み終えた私が感想を漏らすと、
「次の軍縮会議は1934年となるが、そこまでに艦齢20年を超える主力艦も出てくるだろう。1933年の末までに艦齢20年を超える各国の主力艦の数は何隻になる?」
お上が一同に問うた。
「イギリスは戦艦“ネプチューン”やコロッサス級戦艦など合わせて20隻、ドイツは巡洋艦“ブリュッヒャー”やモルトケ級巡洋戦艦など13隻、フランスはダントン級戦艦など5隻となります」
大臣官房付きの堀悌吉海兵中佐が、サッとお上に回答する。余りの数の多さに、梨花会の面々がざわめいた。
「これさぁ……古い主力艦の代艦が全部作れれば、造船会社は大儲けじゃない?別に、わざわざ運動して、廃艦になる主力艦を減らそうとしなくてもいいと思うけど……」
私が顔をしかめて呟くと、
「人の欲というものは、尽きることがないですからのう」
枢密顧問官の西郷さんがのんびりと言う。
「おいしい話にはいくらでも食らいつきたくなるのが人の性というもの。そして、憎むべき相手が強ければ、それを上回る強さを手に入れたくなるのも人の性でございます。儲けたい、力を手に入れたいという欲は、人間、捨てるのがなかなか難しいですからなぁ」
「一応、ドイツでは、“次の軍縮では対英6割が目標である”という説が流行しているのですがね」
西郷さんの言葉に、外務大臣の幣原さんが苦笑いして応じた。「イギリスは防衛や警備のため、主力艦をある程度植民地に派遣しているから、本国にいる主力艦は、保有が認められた主力艦の6から7割程度である。一方、ドイツの主力艦は、そのほとんどが本国にいる。万が一、ドイツとイギリスが戦争となれば、植民地にいるイギリスの主力艦が本国に戻る前にイギリス艦隊を叩いてしまえば、互角の艦隊決戦ができる、と……」
「艦隊決戦など、飛行器が発展している今では、双方の指揮官が望まなければ起こらないでしょう」
山本五十六航空中佐がズバリと言うと、
「そうだな。それに、フランスの艦隊がイギリスと連携した場合はどうするつもりなのだろう」
山下奉文歩兵中佐も冷静に指摘した。
「その一方、イギリスでは、まだ軍縮会議による規制がかかっていない補助艦……1万トン近くある巡洋艦4隻で、敵の主力艦1隻にあたれば、必ず敵の主力艦を撃破できるという説が政界で流行しているようです」
更に、幣原さんはこんな情報を一同に投げる。
「今、イギリスの巡洋艦が何隻あるか知りませんが、その説に従って計算した場合に巡洋艦が足りなければ、新しく建造するのでしょうね。本当にそんなことをやってしまえば、イギリスの財政は破綻しますよ」
枢密顧問官の高橋是清さんが眉をひそめると、大蔵大臣の浜口雄幸さんが「主力艦20隻の建造もありますしね」と渋い顔で頷いた。
「その説をイギリスが取った場合、ドイツも財政が危うくなるね。イギリスの巡洋艦が増えれば、ドイツもそれに対抗して巡洋艦を建造しなければならない。……梨花叔母さま、これは、うまく煽れば、次の軍縮会議で補助艦の制限まで話を薦めることができるかもしれません」
お上は明るい声で私に言ったけれど、
「欲深い造船業界の攻勢は覚悟しないといけないから、補助艦制限はできても、相当骨抜きにされると思うわ」
私は冷静にお上に答えた。「それに、強く補助艦の制限のことを言い過ぎると、日本も補助艦を廃艦にしないといけなくなるかもしれない。そんなことになったら、空母の保有が認められたのに、軍人さんたちが悲鳴を上げるわ」
「内府殿下のおっしゃる通り、補助艦制限が設けられたとしても、無いも同然の規定にされる可能性は高い。造船業界の者たちは、海軍に余り関わりのないルーマニアのことまで言い立てて、制限が作られるのを阻止しようとするでしょうし……」
私に続いて苦笑しながらこう言った伊藤さんは、
「しかし、先日チャーチルとも話し合いましたが、ルーマニアのジュリアン・ベルナール……奴は本当に何者なのでしょうな」
と続け、首を傾げた。
「うん、それは僕も気になる」
上座からお上が話に加わる。
「まさかとは思うが……廃帝ニコライなのでは?」
「あんなに私と結婚しようとしてた人が?」
私はお上にしかめ面を向けた。「しかも、あの仮面の人ほど優秀じゃないでしょ。私の身柄を押さえようとして極東戦争を起こしたこと以外は、君主としては並みの人物だと思うけれど」
「しかし、動機としては十分ですねぇ」
枢密顧問官の陸奥さんが、ニヤニヤしながら私に言った。「手ひどいしっぺ返しを食らい、今までの愛が憎しみに変わる。よくある話ではないですか」
「確かにその通りですが、陸奥どの。廃帝ニコライはデンマークから動いていません」
陸奥さんに応じたのは、私の隣に座る我が臣下だった。「側近のプレーヴェもです。もっとも、プレーヴェは今、心臓を悪くしていて、ニコライの看病を受けているようですが」
「あとは、極東戦争を戦った軍人たちでしょうか」
国軍参謀本部長の斎藤実さんが言う。「アレクセーエフが生きていれば、前内府殿下を狙ってもおかしくありませんが、奴は東朝鮮湾海戦で死んでいます。あとは、奴の幕僚にいた者たちですが……」
「保典をはじめ、ロシアにいる院の者たちにも注意を払うよう命じておりますが、彼らの中に怪しい動きをしている者はいません」
斎藤さんに大山さんがやや低い声で答えた。
「この件に関しては、引き続き地道に情報を集めるしかないでしょう。ひとまず俺は梨花さまのおそばで梨花さまをお守りし、万が一のルーマニアからの襲撃に備えることといたします」
「それはありがたいわ」
私は大山さんに機械的に返答した。
(だけど……本当に誰なのかしらね、仮面の人って)
彼の正体を明らかにするのは、ルーマニアの怪しい動きを止めるのには役に立たないと思う。だから、彼の正体については、全く無視していい話なのだけれど……私はなぜか、妙な胸騒ぎを覚えていた。
※ネルソン級は架空のスペックです。
※ダンケルク級は実際のダンケルク級のスペックだと思いますが、艦名は実際と変わっている可能性があります。




