葉山で優雅なお茶会を
1929(昭和元)年5月2日木曜日午前10時20分。
お上は、来日したイギリス国王ジョージ5世の3男・グロスター公を新橋駅で出迎えた。グロスター公はお上にガーター勲章を奉呈するため、3月の末にイギリスを発ち、日本にやってきたのである。現役軍人で東京とその周辺に所在する皇族は、全員お上とともに、新橋駅でグロスター公を出迎えるようにと宮内省から要請があったので、私も軍医中佐の正装に勲一等旭日桐花大綬章を付けてグロスター公を出迎えた。
そして翌日、1929(昭和元)年5月3日金曜日の夜、軍医学校での仕事を早めに切り上げた私は、軍装から明るい桃色の中礼装に着替え、栽仁殿下と一緒に、グロスター公を歓迎する皇居での晩餐会に出席した。今回来日したグロスター公は29歳、4年前の1925(大正10)年に来日したジョージ王子のすぐ上の兄である。ジョージ王子や長兄・エドワード皇太子のような社交的な性格ではないという話だったけれど、彼はお上や秩父宮さま、そして秩父宮妃の勢津子さまたちと、和やかに言葉を交わしている。ここだけ見ると、晩餐会は問題なく進んでいるように見えるけれど……。
『いやぁ、日本はよいですなぁ』
斜め前から聞こえた英語に、私は身体を少し強張らせた。声が聞こえた方向に視線を動かすと、イギリスの大蔵大臣、ウィンストン・チャーチルさんの顔が見える。白ワインの入ったグラスを持った彼は、
『輸入物のワインでも、フランスのお高く留まった連中の晩餐会よりもいい酒を飲ませてくれる。やはり、酒が美味い国はいい国ですな』
私に向かって笑顔で言い放った。
(なんでこの人、また日本に来たんだよ……)
私はぼやきたいのを我慢しながら、チャーチルさんに営業スマイルを向けた。ウィンストン・チャーチル。“史実”では第2次世界大戦の時にイギリス首相を務めた人物だ。もちろんこの時の流れでも非常に有能で、それ故、非常に厄介な人である。できることなら彼には会いたくないのだけれど、私はこの人に、今回を含めて5回も会ってしまっている。日本とイギリスとの距離を考えると、この回数の多さは明らかに異常だ。
『宿舎に戻ったら、米内と一緒にまた飲みますよ。我が偉大な祖国のウィスキーに敵う酒はないが、日本酒も焼酎もなかなか美味い。今夜は飲み通します』
完全に酒に溺れている言葉を吐いたチャーチルさんは、上機嫌でワインを呷る。厄介な酒飲みであり、そして厄介な政治家でもあるのが、チャーチルさんの嫌なところだ。
(また裏で要求しようと思って日本に来たんだろうけど、日本を何だと思っているのかしら)
私がこっそりため息をついた時、
『ところで、妃殿下は、軍医学校の校長職にご就任なさったそうですな』
チャーチルさんは、今度は真面目な表情で私に話しかけた。
『ええ、代理職ではありますけれど』
相手の酒臭い息に耐えながら私が答えると、
『日本に向かう船上でその話を聞いて、魂消ました』
チャーチルさんは大袈裟な身振りと一緒に感想を述べる。そして、声を潜めると、
『まさか、妃殿下直々に、中央情報院の構成員育成に関わられるとは……』
チャーチルさんは見当外れのことを言う。私は左手に持っていたフォークを落としかけた。
『……違いますよ』
私は正直に事実を伝えたけれど、
『とぼけても無駄ですぞ。軍医学校には、大山将軍がいるではありませんか』
チャーチルさんは小声で言ってニヤリと笑う。
『あの人は、勝手に私についてきただけです。私に軍医学校の職員の人事権はありませんもの』
冷静に回答した私に、『ふん、まぁいいでしょう』とチャーチルさんは鼻で笑うように応じると、
『ところで、我々は、上皇陛下と皇太后陛下に招かれて、葉山御用邸でのお茶会に出席することになりました』
こんなことを口にした。それは私も、先日、兄自身の口から聞かされている。イギリス側は“昼食会のご開催をお願いしたい”と要望したらしいけれど、“食事会を開催するのは、お上に対して恐れ多い”という兄と節子さまの強い意向で、グロスター公と兄夫妻の面会は、お茶会という形でセッティングされることになった。
すると、
『妃殿下も、そのお茶会に出席なさいませんか?』
チャーチルさんは突然私をこう誘った。
『閣下、申し訳ございませんが、それは宮内省と外務省に聞かないとお返事できませんわ』
今のところ、私がそのお茶会に出席する予定はない。私はチャーチルさんに丁重に答えたけれど、
『日程は、今月22日の水曜日です。水曜日には、妃殿下は葉山御用邸にお成りになり、上皇陛下と皇太后陛下にご面会されると聞いております』
チャーチルさんは私の返答を無視して話し続ける。
『面会ではなくて、往診でございますけれど、閣下』
『そうであれば、往診なさった後、そのままお茶会に出席なさればよろしいのです。簡単なことではありませんか』
『おっしゃるほど簡単ではございませんわ、閣下。お茶会の当日、御用邸はグロスター公や閣下を出迎える準備で大忙しになるでしょうから、私がいつも通り往診に伺えば、職員たちの邪魔になってしまいます。往診の日取りをお茶会とぶつからないようにするのがよいと思います』
こんな酒臭い、そして手強い相手とのお茶会に出席するなど御免被りたい。私は遠回しに“お茶会には出ない”と言ったつもりだったのだけれど、チャーチルさんは、人を侮蔑するような笑みを顔に浮かべると、
『ほう、世界に知られた才媛が、この私を怖がっておいでですか』
こう言って私を挑発する。そして、
『ならば、誰かとご一緒でもよろしいですよ』
馬鹿にしたような口調で私に言った。
『若宮殿下でももちろんよろしいですし、もしくは、大山将軍や明石総裁でもよろしい。内大臣を退かれ、軍医学校の校長代理という目立たない職に就いておいででも、お茶会に同行してくださる方はいらっしゃるでしょう?』
酔っているからなのか、チャーチルさんの煽り方は余りよろしくない。私を馬鹿にしているようにも聞こえる。とは言え、こんな言葉に一々反応するほど私も愚かではない。さて、どうしようかと考えた瞬間、
『無礼なお申し出ではありますが、承知いたしました。では、妻は葉山でのお茶会に出席する方向で、外務省と宮内省に頼んでみます』
私の隣で、伊藤さんと話をしていた栽仁殿下が、突然チャーチルさんに言い放った。「た、栽さん?!」と思わず叫んでしまった私に、出席者たちの視線が突き刺さる。私が姿勢を正して澄ました顔をしてみせた時、
『しかし、閣下が後悔なさる結果にならなければよいのですが。僕はそれが心配です』
私の夫は、私と同じすまし顔で、チャーチルさんにこう言ってのけた。
(ウソでしょ?!)
相手は、あのチャーチルさんである。その人にこんな挑発をして、夫は無事でいられるのだろうか。必死にすまし顔を続ける私の耳に、
『私が満足する、優雅なお茶会になると思いますよ。賭けてもいい』
チャーチルさんの上機嫌な声が届いた。
『少なくとも、私はそうしてみせます』
チャーチルさんは、明らかに自分の勝利を確信している。そして、私は負けを悟っている。きっとチャーチルさんは葉山でのお茶会で、私を徹底的に追い詰めるに違いない。私が内心戦々恐々としていると、
「……大体、梨花さんを馬鹿にし過ぎなんだ」
栽仁殿下が私に囁いた。
「だからって、ケンカを買うのはどうなのよ」
私が顔をしかめて小声で言い返すと、
「大丈夫だよ、これ、伊藤閣下の策だから。チャーチルをちょっと懲らしめてやるよ」
と栽仁殿下は言い切る。
(大丈夫かなぁ……)
不安を隠せない私に、「まぁ、見ていてよ、梨花さん」と言うと、栽仁殿下は不敵な笑みを見せた。
1929(昭和元)年5月22日水曜日午後1時30分、葉山御用邸本邸。
『確かに私は、“どなたかとご一緒でもよろしい”と妃殿下に申し上げたし、その人数の指定もしなかった……』
兄と節子さまが主催するお茶会の出席者控室。水色の通常礼装を着て室内に足を踏み入れた私に、チャーチルさんは苦り切った表情で言った。
『だが……どうしてこんなに付き添いの人数が多いのですか?!』
『いや……私もちょっと、理解に苦しんでおりまして……』
私は苦笑しながら自分の左右を見渡した。私の右手を取り、私の傍らに立っているのは栽仁殿下だ。それは非常に常識的な人選だと思うけれど、私たちの後ろでは、枢密院議長の黒田清隆さんが、目を怒らせてチャーチルさんを見つめている。彼の左右を固めるのは、枢密顧問官の伊藤さん、陸奥さん、西郷さん……梨花会の古参メンバーだ。更には、原内閣総理大臣、山本国軍大臣、後藤内務大臣、幣原外務大臣までもが、この控室に顔を揃えている。もちろん、国軍の現役歩兵大将である我が臣下も、最後列からチャーチルさんに鋭い視線を突き刺している。チャーチルさんは、私と一緒に控室に入ってきた人たちに、明らかに気圧されていた。
『まぁ、先日の晩餐会が終わった後、夫と私から、外務省と宮内省に、閣下のお誘いの件をお話したのです』
しかめ面のチャーチルさんに、私は英語で事情を説明し始めた。
『そうしましたら大勢の方が、私の同行者に立候補したのですわ』
『いやぁ、宮中での晩餐会では、貴公と旧交を温める暇がありませんでしたからな』
私の言葉に続いて、伊藤さんが英語でチャーチルさんに話しかけてニヤリと笑う。『いや、こっちは貴様となぞ……』と言おうとしたチャーチルさんは、英語に堪能な陸奥さんに鬼火のちらつく瞳で見つめられてしまい、慌てて口を閉ざした。
『信じてくださらないかもしれませんが、今ここにいる人たちの他にも、何人かが私に同行したいと申し出たのです。“詠子内親王殿下と同じように、僕もチャーチル氏の両頬を引っ張ってみたい”とか、“今後の国会運営のためには、野党党首である私も妃殿下のおそばにいるべき”とか、“総理大臣の暴走を止めなければならない”とか、“チャーチル閣下と近日中に飯に行きたい”とか、皆、おかしなことばかり言って……それを何とか、この人数まで減らしたのです』
私が英語で説明して大袈裟に両肩を落とすと、
『こう言った事情を、貴国の外務省に打電しましたところ、快くご了解が得られましたので、こうして参上いたしました』
幣原さんが至極真面目な表情でチャーチルさんに告げた。
『くっ……外務省は何をしている。こんな連中、1人でも厄介なのに、何人も来させるような真似を……。まさか、陸奥男爵の弟子の、ジュネーブにいるブルドッグ野郎の手が回って……』
余裕のない表情でブツブツ呟くチャーチルさんに、
『僕は吉田君を弟子にした覚えはないのですがねぇ』
陸奥さんがニヤニヤしながら言う。そして、
『そちらが僕たちをどう思おうと勝手ですが、僕たちは公式の場ではできない話をしたくて、こちらにやってきたのですよ』
笑みを崩さずにチャーチルさんに告げた。
『ここには、国軍大臣と外務大臣、そして、内閣総理大臣のこのわたしがいる。それに大山将軍も……貴公が話をしたい人間は、全て揃っていると思うが?』
原さんが一歩前に進み出て、ややたどたどしい英語でゆっくり言うと、
『……確かにそうだ』
少しだけ余裕を取り戻したチャーチルさんは、顔に引きつった笑みを浮かべた。
『では、まずは上皇陛下と皇太后陛下のお招きにあずかることにしよう。アフタヌーン・ティーとは別の楽しみはその後で、だな』
チャーチルさんがそう嘯いた時、宮内省の職員さんが控室に入り、会場への移動を促す。私たちは立ち上がり、お茶会の会場へと向かった。
今日のお茶会は、茶室で茶を点てる日本式ではなく、3段重ねのティースタンドに並んだ菓子やサンドイッチなどの軽食を楽しみながら、紅茶を飲むという英国式のものだった。予定時間の半分が過ぎた頃、兄と節子さまと栽仁殿下、そしてグロスター公と従者たちが別室に移る。食堂に残されたチャーチルさんと私たちは密談を始めた。通訳はいないので、英語が分からない梨花会の面々には、私や大山さんなど英語が分かる人たちが、話の内容を適宜日本語に訳して伝える。
『もうすぐ軍縮会議の本交渉が始まるが、我が国としてはベレロフォン級とセントヴィンセント級、合計6隻の主力艦は廃艦していいと考えている』
ティーカップではなく、ウィスキーのグラスを持ったチャーチルさんは、中身を美味しそうに飲みながら言った。主力艦6隻、約11万5000トンの廃艦……これは私たちの予測通りだ。
『そちらもつかんでいるだろうが、ドイツはナッサウ級4隻、約7万4000トン、フランスはダントン級3隻の約5万3000トンの廃艦を考えている。それで手打ちにしたい……我々はそう考えている』
『それは我が方の予測とも一致しますが、そのラインでの合意に至らない不安要素が何かおありですか?』
外務大臣の幣原さんが問うと、
『英・独・仏の3か国における、造船業界の運動だな。かなりしつこい』
チャーチルさんはそう答えて舌打ちした。
『廃艦が多くなればなるほど、老朽化に伴って新造される主力艦の数が少なくなって、造船業界の収入は少なくなりますからねぇ。……それで?』
軽い調子で話の続きを促す陸奥さんに、
『造船業界の連中が言い立てているのが、ルーマニアとブルガリアの紛争のことだ。奴らは特に、ルーマニアの王室顧問の危険性を訴えている。両国から有事に使う軍艦の注文が入れば、嬉々として建造するのが目に見えているのに、滑稽なことだが』
『あの無礼な男か』
チャーチルさんの言葉に、伊藤さんが顔をしかめて応じる。ジュリアン・ベルナール。仮面で顔を隠したルーマニアの王室顧問は、対外政策を積極的に推し進めようとする姿勢を変えていない。
『あの王室顧問は、一体何者だ?』
チャーチルさんは私たちをねめつけるとこう尋ねた。
『我々も、正体をつかみかねております』
大山さんが冷静に答えた。『フランス人ではないのは確かでしょうが』
『我が親愛なる秘密情報部の諸君もそう言っている。しかし、奴が本当はどこの国の人間で、どんな経歴を持つのかは全く分からない』
大山さんにこう応じたチャーチルさんは、私に身体を向けると、
『それから、奴が妃殿下を妙に敵視しているのも気になります。……妃殿下、どこかで、日本人以外の者に恨まれるようなことをなさった覚えはございませんか?』
丁重な口調で私に聞いた。
『正直、分かりません』
私はチャーチルさんに慎重に答えた。『私自身は、外国人に恨まれるようなことをした覚えはありません。けれど、私がしたことを、私自身は善だと思っていても、他人にとっては悪だったという場合もあります。ですから、逆恨みまで含めたら、私がやったことは、全て敵意の引き金になり得ます』
『正論ですな』
チャーチルさんが頷いた瞬間、
「極東戦争での恨みという可能性はあるか?」
大山さんから私とチャーチルさんのやり取りを翻訳してもらって聞いていた黒田さんが、日本語で一同に問いかけた。
「そんなはずは!」
「いや、考えられる話じゃ。あの戦争で、校長殿下は我が国の象徴の1つと世界に捉えられていた。それに、ロシアには、校長殿下を恐れ多くも“魔女”と罵る者もいた。そのような者なら、あるいは……」
叫ぶ原さんに、伊藤さんが冷静に話しかける。
「校長事務取扱です」
伊藤さんに訂正を入れた私は、
「そうだとしたら、何でルーマニアにいるんですか?そんなところで国王を操ってないで、日本に行って私をぶん殴る方が、復讐が早く終わるでしょうに」
と、日本人一同に問いかけた。
『妃殿下は、意外に直情的なお方のようだ』
陸奥さんから私たちの話を英語で聞いたチャーチルさんがクスクスと笑った。
『復讐にも、様々な方法があるでしょう。相手の命を奪うことを復讐と考える者もいる。相手を自分の支配下に置いたり、相手の大切なものを奪ったりすることで復讐心を満たす者もいる。そして、相手の信条を真っ向から否定し打ち砕くことで復讐を果たそうとする者もいるでしょう』
『1つ確実なことは、ジュリアン・ベルナールがなぜ妃殿下を恨んでいるのかは分からない、ということですな』
チャーチルさんに、大山さんが冷静な口調で言った。『妃殿下のおっしゃる通り、逆恨みだとするならば、何がきっかけで妃殿下に恨みを抱いたのか、我々には分かりません。あの国の防諜体制は強固ですが、地道に情報を集めるしかないでしょう』
『その通りですな。向こうから何らかの情報が得られれば、我々もあの危険人物を排除するとっかかりを手にすることができます』
大山さんにこう応じたチャーチルさんは、
『さて、そろそろ上皇陛下のところに伺わないと、妹君のことがご心配でご機嫌を損ねられてしまいます。またゆっくり、お話する機会を得られることを楽しみにしております、妃殿下』
そう言い残して椅子から立ち上がり、食堂から出て行ってしまった。




