前(さきの)内府殿下の再就職
1929(昭和元)年4月3日水曜日午前11時45分、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「こうして会うのは、久しぶりですね」
盛岡町邸の応接間。軍服を着た私は、夫の栽仁殿下と一緒に国軍参謀本部長・斎藤実さんを迎えていた。今日は神武天皇祭で、私も栽仁殿下も午前10時から行われたご神事に参列したけれど、同じくご神事に参列していた斎藤さんも、軍服の正装のままだった。
「ええ、前内府殿下が天皇陛下のところにいらっしゃる頻度が少ないですから」
私にそう言った斎藤さんに、
「だって、お上はご優秀ですもの。私が出る幕なんてありませんよ」
と私は応じると、「それで、ご用件はなんでしょうか?」と尋ねた。
すると、
「実は、先月の27日に、軍医学校校長の花山軍医大佐が、急な病で亡くなったのですが……その後任に、前内府殿下はどうかという話が持ち上がっているのです」
斎藤さんは思わぬ言葉を私に告げる。私の想定から完全に外れた彼の言葉に、私は「はぁ……」と芸のない返事しかできなかった。
「先日、前内府殿下が、軍医学校にお問い合わせをなさったと聞きました。ですから、軍医への教育にご興味がおありと推察したのですが……」
「いえ、軍医学校に問い合わせたのは、軍医学校を卒業していれば、帝国大学を受験する場合、高等学校卒の資格は得ていると認められるのかということで、軍医の教育に興味があるわけではないのですけれど……」
斎藤さんの勘違いを私は訂正したけれど、
「前内府殿下もご存知の通り、軍医委託生制度を利用して医師免許を取り、軍医になった者は、軍医として10年働けば退役が認められます。従って、軍医は中尉や大尉で退役してしまう者が多く、少佐以上の者が他の兵科と比べて少ないのが実情です」
斎藤さんは私の言葉を無視し、私に向かって話し続ける。
「ですから、軍医学校の校長を務められる人材はなかなかおりません。しかし、前内府殿下ならば、軍医学校の校長もご立派に務められましょう」
「ちょっと待ってください、斎藤さん」
私は斎藤さんの言葉を慌てて止めた。「期待してくださるのはありがたいですけれど、私は軍医中佐です。確か、軍医学校の校長職は大佐がなるものだったと思いますから、私が軍医学校の校長になるのは無理ですよ」
私が軍医学校に通っていたのは、1902(明治35)年の9月から1904(明治37)年の9月までだから、今から25年ほど前のことになる。私が軍医学校に入学した当初は、森林太郎先生が軍医学校の校長だったけれど、その時、森先生は確か大佐だった。それを思い出した私は、斎藤さんに問い質した。
「はい、仰せの通り……ですから、校長事務取扱という形で、軍医学校に赴任していただくことになります」
「校長事務取扱……」
つまり、校長がいないから、校長の業務を臨時代行する、という形にするのだろうか。
「それで本当に大丈夫ですか?軍医学校の職員の中には、私と同じ中佐の人もいるでしょう。その人たちを差し置いて、私が校長代理のような立場になってよいのでしょうか?」
「それはご懸念には及ばぬかと存じます」
私の問いに、斎藤さんは軽く頷いて答えた。「前内府殿下は皇族であらせられます。更に、内大臣として大正の御世をしっかり支えられたという、他の誰にも成しえない実績もお持ちです。だからこそ、中佐でありながら、実質大佐相当の職にお就きになっても問題はない……山本閣下もこのように考えておられます」
「そうですか……」
私は顎に左手を当てて考え込んだ。本来の意味とは少し違うかもしれないけれど、皇族であることと、そして、前内大臣であることが必須の職に就けと、私は要請を受けている。更に、ここで山本権兵衛国軍大臣の名前が出てきたということは、斎藤さんは自らの一存で動いているのではなく、山本国軍大臣や内閣総理大臣の原さんの意向を受けて、私のところにやってきたのだろう。私がここで“引き受ける”と返事をすれば、恐らく、話はすぐにまとまる。
「……相談したい人が、何人かいます。その人たちに相談してから、返事をさせてください」
私は姿勢を正して斎藤さんに告げた。
「もちろん。……失礼ですが、どなたにご相談をされるのでしょうか?」
斎藤さんの質問に、
「まず、栽仁殿下ですね」
と私は答えたけれど、
「僕は、この話、受けていいと思うよ」
私の隣に座っている栽仁殿下はサラっと言う。
「あ、そうなの……」
呆気なく返ってきた夫の答えに私は拍子抜けしたけれど、すぐに気を取り直し、
「それから、大山さんと兄上、お母様にも相談したいです」
斎藤さんに改めて答えた。
すると、
「恐れながら、大山閣下は、まだ湯河原にご滞在中かと……」
斎藤さんは軽く頭を下げて私に言う。更に、
「大山閣下は梨花さんの臣下だから、梨花さんの決めたことには従うんじゃないかな?」
栽仁殿下も私にこう言ったので、「それもそうね」と私は頷き、大山さんを相談相手から外すことに決めた。
「でも、兄上とお母様には相談したいです。その2人には、私の今後のことについて、いろいろ相談していましたから」
「もちろんです。……どうか今回の話、前向きにご検討くださいますよう、お願い申し上げます」
斎藤さんからこう言われた私は、昼食後、葉山御用邸に滞在中の兄に、往診を兼ねて早速会いに行った。
「よいと思うぞ」
1929(昭和元)年4月3日水曜日午後4時。東京からやってきた私の話を聞いた兄は、微笑して私に言った。
「未来の軍医たちを育てることになるのだな。つまり、日本の軍医の未来が、梨花の双肩に掛かっている、と……」
「なんか、責任重大になってきてない?!」
ニヤニヤ笑いながら言う兄に、私が目を見開いて言い返すと、
「まぁ、そこまで構えなくてもいいだろう。俺や梨花が、今まで梨花会の面々にされていたように、軍医学生たちを梨花が育てればいいのだ」
と兄は笑みを崩さずに言う。
「……梨花会の面々と同じような育て方をしたら、学生が死んじゃうわよ」
梨花会の面々から受けた数々のスパルタ教育を思い出した私は、兄に反論すると一瞬震えた。
「それもそうだ。……で、梨花はこの話、受けるつもりでいるのだろう?」
「うん、そのつもりでいるけど……ダメ?」
私が兄に上目遣いでお伺いを立てると、
「いいに決まっているだろう」
兄は苦笑いを私に向けた。
「俺は上皇で、お前は裕仁の臣下。職に就く、就かないで、いちいち俺の顔色を窺う必要はないのだ。もちろん、俺はお前の考えに賛成だ」
「ありがと、兄上」
私は兄にお礼を言うと、
「じゃ、あさってお母様のところに行って、お母様のお許しが出たら、校長事務取扱の話を正式に受けるね」
微笑して兄に告げた。
すると、
「おお……」
兄の目から、涙が一粒こぼれ落ちた。
「ちょっ……?!兄上、どうしたの?!どこか痛いの?!」
慌てて駆け寄った私に、「違う、身体はどこも悪くない!」と叫んだ兄は、
「俺はな、嬉しいのだ。誰も催促していないのに、梨花の口から、“お母様のところに行く”という言葉が出てきたから……」
と言って、また目から涙をこぼす。
「……なんで私、それで泣かれなきゃいけないのよ。兄上は、私がそんなに薄情な人間だと思っているの?」
私が兄に抗議すると、
「必要以上に遠慮をすることがあるとは思っている。特に、お母様に関することにはな」
兄は服の袖で涙を拭いながら言い返す。とっさに反論できない私に、
「いいか、梨花。さっき自分で言った通り、あさってには絶対お母様のところに行けよ」
兄は強い口調で命じた。
「分かってるわよ。武士じゃないけど、二言は無いわ。あさって、必ずお母様と会うわ」
私がこう答えて微笑むと、兄は満足げに頷いた。
1929(昭和元)年4月5日金曜日午前11時、赤坂御用地内にある東京大宮御所。
「そうですか……」
大宮御所内のお母様の居間。私に軍医学校の校長事務取扱への就任要請があったことを聞いたお母様は
「やはり、来ましたね」
そう言って、私に笑顔を向けた。
「あの、お母様、“来た”というのは、何が……」
戸惑う私にお母様は、
「先日、申しましたでしょう。皇族や元大臣でなければできないことは、増宮さんが自ら追い求めなくても、自然に現れてくる、と……」
笑顔のままこう言った。
「軍医学校の校長事務取扱……いいお役目ではありませんか。増宮さんが今まで医師として学んできたこと、そして、これから医師として学んでいくことを、新しく軍医となる方々に伝えられるのですから」
「……はい」
私はお母様の目をしっかり見つめた。
「私が軍医学校を卒業した頃と今とでは、戦争のやり方も変わっているでしょうから、軍医の立ち振る舞い方も変わっているでしょう。もちろん、医療も進歩しましたから、軍医がやることも増えています。私もそういったことを学ばなければいけませんし、それを学生たちに還元しないといけません。だから、忙しくなりそうです。軍医学校の仕事と同時並行で、兄上の往診も、女医学校での勉強もしないといけませんから」
私が少し早口で言うと、
「女医学校で学ぶ……ということは、弥生先生にもお話をなさったのですね」
お母様は私にこう応じて、また微笑んだ。
「はい。来月から、2週間に一度、女医学校で最新の医療知識を学ばせてもらうことになりました。せっかくの機会なので、軍医学校のお仕事と並行してやろうと思っています」
私がお母様に答えた時、障子の向こうから、
「太皇太后陛下、前内府殿下……詠子内親王殿下がお見えになりましたが、いかがいたしましょう?」
お母様の女官が私たちに問うた。私の弟・鞍馬宮輝仁さまの長女である詠子さまは、華族女学校高等小学科第3級……私の時代風で言うと小学4年生だ。なぜ彼女が平日の午前中に大宮御所にいるのかと私は訝しく感じたけれど、すぐに、華族女学校は現在春休み中なのを思い出した。
「章子……伯母さま、どうしておばば様のところにいらっしゃるの?」
数分後、女官さんに連れられてお母様の居間に入ってきた詠子さまは、私の顔を見るとこう尋ねた。
「あなたのおばば様に、新しい任務をすることになりました、って報告しに来たのよ」
私が詠子さまに微笑んで答えると、
「伯母さまは、校長先生におなり遊ばすのですよ」
お母様が詠子さまに優しい声で教えた。
「伯母さま、華族女学校の校長になるの?!」
「あー、違うわよ。軍医学校の校長になるの。正確に言うと、校長事務取扱だけどね」
目を丸くした詠子さまの勘違いを私は訂正する。すると、彼女はつまらなさそうに、
「なぁんだ。伯母さまが華族女学校の校長ならよかったのに」
と言う。
「もし伯母さまが華族女学校の校長になられたら、きっと伯母さまは、詠子さんを厳しく教え導かれますよ」
すかさずお母様が詠子さまにこんな予測を伝えると、私に近いところに正座していた詠子さまは、私から慌てて身体を離した。
「増宮さん、これからお忙しくなるでしょうけれど、身体を壊さないように気をつけながら、お役目に励んでくださいね」
私に向き直り、優しく励ましてくれたお母様に、
「ありがとうございます、お母様。体調には十分注意して、校長事務取扱の職、精一杯励みます!」
と、私は笑顔で答えた。
1929(昭和元)年4月15日月曜日午前9時、東京市京橋区築地4丁目にある国軍軍医学校。
(だいぶ変わったわねぇ……)
有栖川宮家の自動車に乗った私は、窓の向こうの光景を見ながら、感慨に浸っていた。
私が内大臣をしていた13年の間に、国軍軍医学校の校舎は建て替えられた。建て替えにより、校舎は木造から鉄筋コンクリート造りになったけれど、小ぢんまりとしているのは、私が軍医学校に通っていた時と変わらない。
川野さんが運転する自動車が玄関前で止まると、私は3月からお付き武官となった奥梅尾看護中尉を従えて自動車から降りた。玄関前には、教職員と在校生が整列して私を出迎えている。教職員、と言っても、国軍軍医学校の教職員は何年かごとに入れ替わるので、私が在校していた頃にも教職員だった人は流石にいない。だから、出迎えの人々の中に、私が見知った人はいない……そのはずだった。
(は?!)
「殿下、どちらへ?」
奥看護中尉の声を無視して、私は教職員の列の端へ向かう。目指す場所には、歩兵の兵科色であるカーキ色の軍服を着た人物が佇んでいた。
「大山さん?!」
我が臣下の前に立った私は、彼を睨みつけた。
「あなた、何でここにいるの?!確かに、軍医学校で働くことは、湯河原に手紙で伝えたけれど……冷やかしで来たのなら帰ってちょうだい!」
すると、
「冷やかしではございません」
大山さんは穏やかな口調で私に応じる。
「俺は、国軍軍医学校の教職員の1人でございます」
「は……?!」
目を見開いた私に向かって、大山さんは悠々と一礼すると、
「国軍軍医学校の軍事担当教官を本日付で拝命いたしました、歩兵大将の大山巌でございます。校長殿下、どうぞよろしくお願い申し上げます」
私にこうあいさつした。
「いや、私、校長じゃなくて、校長事務取扱なんだけど……」
それに、“国軍軍医学校の軍事担当教官”などという役職、私は聞いたことがない。少なくとも、私が軍医学校に在籍していた時には、そんな肩書を持つ人はいなかった。いや、在学中、軍事関係の座学は、他の生徒と別に、国軍からその都度派遣された教官から教わったから、もしかしたら本当はいたのかもしれないけれど……私が戸惑いながらも、大山さんの言葉を訂正した時、
「あ、あの、殿下、集まっている者たちにお言葉を……」
年配の教職員が進み出て、私にそっと耳打ちする。私は何とか頷くと、集まった人間たちの中央、軍医学校校舎の玄関正面に立った。
「校長事務取扱として赴任した章子です」
生徒・教職員全員に向けての私の第一声は、少々上ずった。
「皆さんご存知の通り、大臣をやっておりまして、臨床からは離れていました。それに、学校の管理も初めてです。できることを1つずつやっていき、一刻も早く業務に慣れる所存です。どうぞよろしくお願いします」
一応、それらしいことは言えたと思う。一礼すると、教職員・生徒たちは一斉に最敬礼した。
※花山軍医大佐は架空の人物です。




