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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第82章 1928(大正13)年処暑~1929(大正14)年雨水
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過ぎたる宝

 1929(大正14)年2月12日火曜日午前10時、皇居・奥御殿にある兄の書斎。

「さて、今日こそは、これを決めないといけないぞ」

 午前中の政務を終えると、兄は普段使っているデスクの引き出しから1枚の紙を取り出し、私と迪宮(みちのみや)さまに見せる。その紙には、


 天皇 侍従長

    侍従武官長

 上皇 侍従長

    武官長

 内大臣


という5行が、万年筆で記されていた。

「確かに、そろそろ決めないとマズいわね」

 兄の退位の日まで、あと20日を切った。新天皇と上皇の側近人事の要が未だに決まっていないのは、今後の業務に支障を来してしまう。私がこう言うと、

(おい)は、席を外しておりましょうか」

私の斜め後ろにいた内大臣秘書官長の大山さんが微笑んで申し出る。

「その方がいいかもしれないな」

 兄が悪戯っぽい笑顔を見せると、大山さんが一礼して兄の書斎を後にする。その気配が遠くなって消えたのを確認すると、

「兄上、もう大丈夫よ」

私は兄に頷いてみせた。

「ふう……これで気兼ねすることなく相談ができるな」

「大山さん経由で、伊藤さんたちに人事の情報が漏れたら、また騒動が起こるもんね……」

 兄と私が同時に息をふうっと吐くと、

「では早速、人事を決めましょう」

迪宮さまが笑顔で言った。

 3月からの天皇の侍従長と侍従武官長、そして上皇侍従長と上皇武官長、内大臣……天皇・上皇側近の重要の5つのポストの中で、まず決まったのは、上皇侍従長、そして、天皇の侍従武官長だった。

「俺の侍従長は、奥大将のままでいい。もし、これを機に引退すると言うなら、甘露寺(かんろじ)か八郎にやってもらう」

 兄は、自分の侍従長は、現在の奥保鞏(おくやすたか)さんのままでよいという意向を示した。一緒に名を挙げた甘露寺受長(おさなが)さんと西園寺(さいおんじ)八郎さんは、兄のご学友で、兄が心を許している友人でもある。

「僕の侍従武官長は、(たちばな)中将のままがよいです。彼から教わりたいことは、まだたくさんあります」

 迪宮さまが言った“橘中将”は、私と兄の剣道の師匠でもある橘周太(しゅうた)歩兵中将のことだ。実直で高潔な人格は、兄からはもちろんのこと、迪宮さまからも愛され、就任以来12年以上、迪宮さまの強い希望で東宮武官長を務め続けていた。

「じゃあ、上皇侍従長と、天皇の侍従武官長はこれで決まりとして……」

 私は呟きながら、手元の紙に鉛筆で人事案を書きつけると、

「残りのポストが問題よね。特に内大臣」

そう言いながら、鉛筆を指の間で回した。

「いきなりそこから行くか」

 兄が私に苦笑いを向ける。以前、内大臣の後任を誰にするかを巡り、梨花会は大混乱に陥った。兄はその時のことを思い出したのだろう。

お父様(おもうさま)、内大臣には、どのような者を選べばいいのでしょうか?」

 真剣な表情で迪宮さまが兄に問うと、兄は少し考えてから、

「俺にとっての理想の内大臣は、政治のことも、宮中のことも、何でも気兼ねなく話せて、時に俺に適切な助言をくれる者……まぁ、梨花そのものだな」

と迪宮さまに答える。

(私、兄上の診察をして、兄上の話し相手をしていただけだった気がするけど……)

 私が心の中で兄にツッコミを入れると、

「ただ、天皇と内大臣の関係には、様々な形があっていいと思う」

兄は更にこう続けた。

「例えば、裕仁(ひろひと)が生まれる直前に亡くなった(かつ)先生が、”内大臣府出仕”として、実質的な内大臣をやっていた時、勝先生は先帝陛下……裕仁のおじじ様を政治的に補佐していたし、宮中の問題の相談にも乗っていた。その一方、亡くなった徳大寺侯爵が侍従長と内大臣を兼任していた時、徳大寺侯爵は侍従長の仕事だけを行い、裕仁のおじじ様を政治的に補佐することはなかった」

 兄は一度言葉を切ると、迪宮さまに微笑みを向け、

「さぁ、裕仁。お前が内大臣として望むのは、どのような人物だ?」

と優しい声で問いかけた。

「そうですね……」

 迪宮さまは首を傾げてから、

「僕にいつも難題を吹っ掛けてくる者は遠慮したいです。問いを出され続ければ政務が進みませんし、僕は、内大臣に色々なことを相談したいと思っているので……」

と兄に答える。

(あ、分かるわ、それ)

 私は可愛い甥っ子の言葉に深く頷いた。もし、伊藤さんや黒田さんなど、梨花会の古参の面々が内大臣になったら、迪宮さまを補佐する、と言うよりは、迪宮さまに難問を突き付け、それに対する反応を楽しむだろう。となると、梨花会の古参の面々は、この時点で迪宮さまの内大臣候補から外れる。

「かと言って、僕の言うことに肯定しかしない者は嫌です。僕が間違っていると思ったら、“間違っている”と僕に対してきちんと言える者がいいと考えます」

「なるほど。となると、伊藤の爺たちは内大臣にはなれそうもないか……」

 兄はそう言って苦笑すると、

「裕仁、意中の者はいるのか?」

とズバリ問うた。

「牧野閣下がいいと考えています」

 迪宮さまはハッキリと答えた。「宮内大臣を何年も務めていますから、僕と接する機会も多く、気心が知れています。それに、僕が間違っていると思えば、“間違っている”と指摘してくれる人ですし、時には僕を鍛えることもあります。牧野閣下なら、共に政治ができるという感覚があります」

「そうか、よく分かった」

 満足げに頷く兄の横で、

「じゃあ、内大臣は牧野さんで決まりだね」

と言いながら、私は人事リストに牧野さんの名を書き加える。

「ということは、……あとは兄上の武官長と、迪宮さまの侍従長だね」

 私が兄と迪宮さまに話しかけると、兄は「ああ」と首を軽く縦に振り、

「俺の武官長は……南部だな」

と呟くように言う。

「鈴木閣下ではないのですか?」

 不思議そうに聞いた迪宮さまに、

「裕仁、お前、鈴木貫太郎(かんたろう)という男を使ってみないか?」

と、兄は問いを返した。

「え?」

「色々と考えたが……鈴木貫太郎という男を俺のそばに居続けさせるのは、国家にとっても、彼にとっても、非常にもったいないことだ」

 兄は迪宮さまに、考えながら1つ1つ言葉を伝えていく。

「彼は、これから活躍すべき人材だ。裕仁のそばで……俺はそう思う」

「“史実”と同じように、ですか……」

 迪宮さまはそう言いながら右手で自分の顎を撫でると、

「僕は、鈴木閣下の人となりをよく知りません。しかし、懐の大きな人物であることは分かります。……侍従長をどうするか迷っていたのですが、確かに、鈴木閣下は適任かもしれません」

穏やかな調子で言った。

「ですが、鈴木閣下が侍従武官長になった時、”絶対に梨花会に入れる”と陸奥閣下たちが騒いでいたように記憶しています。結局、梨花会には入っていませんが……。侍従長になれば、鈴木閣下は梨花会に入らなければならないでしょう。そんな状況で、鈴木閣下は僕の侍従長になってくれるでしょうか?」

「ま、そこは大丈夫でしょ」

 少し心配そうな迪宮さまに、私は軽く請け負った。

「今日は出勤しているはずだから、今から鈴木閣下と話してみたら?」

「うん、善は急げと言うしな」

 兄は私の提案に頷くと、「じゃあ梨花、鈴木武官長をここに連れてきてくれ」と私に命じた。

「了解!」

 私は迪宮さまを安心させるように微笑むと、表御座所にある侍従武官詰所に向かった。


 1929(大正14)年2月12日火曜日午前10時35分、皇居・奥御殿にある兄の書斎。

「私を新しい侍従長に……でございますか」

 兄の侍従武官長である鈴木貫太郎海兵大将は、迪宮さまの侍従長に就任して欲しいと兄から打診されると、驚きの表情を見せた。

「私のような武骨一辺の人間に、侍従長を務めよ、と?」

「いつも話していることを考えると、鈴木武官長は武骨一辺とはとても思えないのだが」

 戸惑いの色を隠せない鈴木さんに微笑んだ兄は、

「譲位をするにあたって、色々考えたのだが……上皇となる俺にとって、鈴木武官長は過ぎたる宝なのだ」

と、鈴木さんに穏やかな声で説明を始めた。

「もちろん俺も、鈴木武官長と離れるのは辛い。武官長とは漢籍について心置きなく語り合えるし、俺に遠慮なく接してくれるからな。……しかし、鈴木武官長の能力は非常に高い。帝王を補佐する才があると俺は思っている。武官長の能力は、新しく天皇になる者のそばで発揮されるべきだ」

「僕も侍従長を誰にするか悩みましたが、鈴木閣下の他に適任者がいないのです」

 兄の隣に座った迪宮さまが言うと、

「恐れながら、東宮大夫の曾禰(そね)荒助(あらすけ)どのではいけないのでしょうか。よく皇太子殿下を補佐していると拝察いたしますが……」

鈴木さんは頭を下げ、兄と迪宮さまに言上する。

「曾禰閣下は、だいぶ身体を悪くしています」

 迪宮さまは、首を左右に振った。「心臓の調子がよくないのです。僕の即位を機に引退して、養生したいと言われてしまいました。だから、侍従長として適した人間は、もう鈴木閣下しかいないのです」

「は……」

 恐縮したように一礼する鈴木さんに、

「僕はこれまで、お父様(おもうさま)の政務をつぶさに見てきましたが、天皇となれば、もちろん、僕1人で政務をすることになります」

と迪宮さまは語った。

お父様(おもうさま)に追いつけるように、新たな事態に自分1人でも立ち向かえるように、勉強もして、経験も積んだつもりですが、やはり不安は残ります。だから、僕が1人で政務をする時に、お父様(おもうさま)の考えや思いに少しでも触れていた者に、そばにいて欲しいのです。その者の言動や人となりは、きっと、自分が天皇として振る舞う上で、1つの指標になりますから」

 ここまで一気に言った迪宮さまは、少し寂しそうに微笑むと、

「……甘えた考えでしょうか。もし、この考えが天皇としてふさわしくないと思うなら、侍従長に就任する話は断ってください」

と鈴木さんに告げる。

「とんでもございません!」

 椅子に掛けていた鈴木さんは、ガバっと立ち上がり、兄と迪宮さまに向かって最敬礼した。

「他の人間に声を掛けられたなら辞退しておりましたが、他ならぬ、天皇陛下と皇太子殿下直々のお声がけでございます。侍従長の職、謹んでお引き受けいたします」

「そうか、引き受けてくれるか!」

「ありがとうございます、鈴木閣下」

 兄が鈴木さんをジッと見つめながら頷き、迪宮さまは鈴木さんに頭を下げる。

(まぁ、当然の結果ね)

 兄の横にいる私は、鈴木さんが侍従武官長に就任した時のことを思い出していた。あの時、牧野さんの説得で首を縦に振らなかった鈴木さんは、栽仁(たねひと)殿下から“妻が閣下に会いに横須賀に参ります”と伝えられただけで、侍従武官長への就任を承諾したのだ。私よりはるかに権威のある皇太子、そして天皇直々の頼みならば、鈴木さんは絶対に断れない。

 と、

「ところで……侍従長は文官ですから、私は3月から予備役に入るということになりますか」

頭を上げた鈴木さんが、確認するように言う。兄と迪宮さまが反応できていなかったので、

「そういうことになりますね」

私は慌てて鈴木さんに答えた。

 すると、鈴木さんは私の方を向き、

「ということは……私にちょっかいをかけてきた方々の……あの方々の仲間にならなければならないのでしょうか?」

と私に尋ねた。

「そうですね……文官となる以上、“軍人は政治に関わるべきではない”という言い訳は通用しないと思います」

私はこう言うと、鈴木さんに頭を下げた。

「申し訳ありません、鈴木閣下。あの人たち、私がどう止めても聞かないでしょうし……」

「いいえ……しかし、なぜ内府殿下が謝罪なさるのですか?」

「皆、この妹が起点となって集まったからな」

 不思議そうに私に尋ねる鈴木さんに、兄が苦笑しながら答える。「俺も相当やられたよ。もっとも、彼らに鍛えられたからこそ、今の俺があるのだが」

「は?」

 首を傾げた鈴木さんに、

「月に1度は定例の会合があります。重大事件があれば、頻度が増えますが……それには出席してもらうことになります」

迪宮さまが穏やかな口調で言った。

「黙って話を聞くもよし、発言して、原や伊藤顧問官を言い負かしてもよし」

「ただ、侍従長になるからには、その会合を通じて、僕が何を考えているかを知っていただきたいです」

 兄が少しおどけたように言うと、続いて発言した迪宮さまは、鈴木さんにこう要請する。恐らく、脳内にいくつもの疑問符が舞っているのだろう。鈴木さんは怪訝な顔をしながらも、「……かしこまりました」と頭を下げた。

「そうそう、その会合に出席するにあたっては、ちょっとした秘密を共有してもらわなければならない」

 少し楽しそうに鈴木さんに言う兄に、

「ちょっとした、という言葉で片付けられるの?」

私は顔をしかめながらツッコミを入れた。「まぁ、教えておかないと、鈴木閣下が山本中佐にびっくりするのは分かるけど」

「ああ、そう言えば、そんなことを言っていたな」

 兄が私に応じてクスクス笑うと、

「内府殿下……山本中佐というのは、あの、“空の英雄”の山本五十六(いそろく)航空中佐でしょうか?私は、ほとんど面識がないのですが……」

鈴木さんは私にこう尋ねる。

(……これは大変なことになりそうね)

 “史実”のこと、私をはじめとする何人かが“史実”の世界で生きた記憶を持つこと、そして、この時の流れではほとんど接点がない鈴木さんと山本中佐が、“史実”では同じ軍艦に勤務していたことがあり、山本中佐が鈴木さんを深く尊敬していたこと……。すべてのことを伝えられた鈴木さんがどうなるのか、そして、鈴木さんが梨花会に加わったのを見て、山本さんはどう行動するのか……。それを予測した私は、大きなため息をつくしかなかった。

※実際には徳大寺家は公爵となっていますが、拙作ではそれがなかった設定にしています。ご了承ください。


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牧野氏が内大臣に転ずる・・・ となると、宮内大臣の人事がどうなるかだけど、以前の宮内大臣だった故・山縣伯爵から牧野氏に移管した際の嘉仁天皇と裕仁皇太子、内府の梨花様の当時の意見を総括すると、少なくと…
梨花会の爺共が… 牧野さんが内大臣になったら今度は、誰が区内大臣になるかで、醜い争いを繰り広げそうな… 鬼貫さん まあ、この人なら『悪鬼羅刹』共も、軽く裁いてくれるだろうと期待。
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