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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第82章 1928(大正13)年処暑~1929(大正14)年雨水
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至らない母

 1928(大正13)年10月18日木曜日午後2時30分、皇居・奥御殿。

 愛宕山の放送所への行幸があったため、今日の午後の政務は、普段より1時間半遅れの午後2時30分に始まることになっている。私が大山さんと一緒に、兄の決裁が必要な書類を持って兄の書斎の近くまでやって来ると、兄の書斎の前の廊下に2人の男性が佇んでいるのが見えた。内閣総理大臣の原(たかし)さんと、宮内大臣の牧野伸顕(のぶあき)さんだ。

「原さん、牧野さん、どうなさいましたか?」

 私が声を掛けると、2人は素早く私に向かって一礼する。そして、

「陛下に、御礼を申し上げようと思いまして」

原さんが恭しい態度で私に答えた。

「ところで、内府殿下。1つお伺いしてもよろしいでしょうか?」

 原さんの隣に立つ牧野さんが、真剣な表情で私に質問する。

「先ほどのラジオ放送……陛下は勅語を読み上げられず、ご自身のお言葉で、勅語の内容や、勅語を出すに至った事情をご説明されましたが、あれは、内府殿下がご進言になったからですか?」

「いえ、違います」

 私は首を左右に振った。「だから、私、ビックリしたんです。……今は、兄上のやり方が一番よかったとは思いますけれど」

 更に私が言葉を続けようとした時、

「おや、人が多いな」

私たちの後ろから声がする。それとともに、歩行器の脚に被せられたゴムが床にぶつかる鈍い音も聞こえた。四脚の歩行器を使いながら、黒いフロックコートを着た兄は私たちの前にゆっくりとやってきた。兄の後ろには、節子(さだこ)さまと迪宮(みちのみや)さまがピッタリとくっついている。私たちは慌てて深く頭を下げた。

「原も牧野大臣も、どうして俺のところに来たのだ。今は忙しいだろう?」

 私が障子を開けると、兄は入り口に設けられたスロープを使って書斎に入る。歩行器を使いながら、兄は原さんと牧野さんにこう尋ねた。

「その……御礼の言上でございます」

「私もです」

 兄に続いて書斎に入った節子さまと迪宮さまの後ろから原さんと牧野さんが言うと、

「礼?俺が卿たちに礼を言われるようなことをしたか?」

兄は書斎の自分の椅子に座りながら応じる。

「わたしどものことを、恐れ多くも、ラジオ放送でお(かば)いになったではありませんか。“これは、大臣や皇族などに強要されて言っていることではない。譲位のことは全て、わたし自身が考えて言っていることである”と……」

 原さんは書斎に入ると、床に敷かれたじゅうたんの上に正座してこう言う。彼の隣に牧野さんも正座した時、

「東京市内の混乱を鎮めるのに、最善の手を打ったまでだ」

兄は穏やかな口調で原さんと牧野さんに述べた。「勅語には、あのような文言は入れられないからな。卿らが頑張って作ってくれた勅語は読まなかったから、それが申し訳なかったが」

「恐れながら陛下、我々に一言おっしゃっていただければ、陛下のご説明用に原稿を用意いたしましたが……」

 牧野さんが軽く頭を下げて申し出ると、

「それはできないな」

兄はそう言ってニッコリ笑った。

「そんなことをしたら、卿らは一番大事な部分を、俺に遠慮して削ろうとするではないか」

 兄の指摘に、原さんと牧野さんが、額がじゅうたんについてしまうくらいに頭を下げる。確かに、まともな思考を持った臣下なら、主君が自分のことを庇おうとしたら、“そんなことはなさらなくてもよろしゅうございます!”と頑なに主張して、主君の行動を無理にでもやめさせてしまうだろう。

「まぁ、それは終わったことだから、よいではないか」

 兄は笑顔のままこう言うと、私たちに椅子を勧める。私たちが書斎に置いてある臣下用の椅子に腰かけると、

「さて、ラジオ放送を受けて、官僚たちや東京市中の反応はどうだ?と言っても、まだ放送から2時間ほどしか経っていないから、官僚たちはともかく、東京市中の反応を全て拾うのは難しいだろうが……」

一同の顔を順々に見ながら問う。

 すると、

「官僚たちの間で囁かれていた陰謀論は、たちどころに消えました」

私の隣に座った大山さんが発言した。

「そりゃ、兄上に真正面から否定されちゃ、噂は完全になくなるだろうけれど……相変わらず、情報を掴む速度が半端ないわね」

 私の言葉に、大山さんは微笑で応じる。もちろんこれは、中央情報院の情報網によるものだろうけれど……流石は中央情報院、とんでもない情報収集力である。

「なるほど。さて、問題は市中の様子だが……どうだ?」

「流石にまだ、全体の把握はできておりませんが、宮城(きゅうじょう)前広場は、普段の平日より、多少、人出が多くなっています。しかし、皇居に向かって額づいたり、拝礼したりする者は少数です。示威行動をする者もおらず、宮城前広場にいる者の大半は、見学・観光に終始しています」

 兄の問いに、大山さんは淀みなく答える。

「この雨ですから、外に出かけて何かをする、という気分にはなりにくいでしょうね」

 牧野さんがこう言うと、

「天候に救われましたな。示威行動を起こそうとする者も少なくなるでしょう」

と、原さんもホッとしたように応じる。

「新しくデモを起こしている人はいないだろうけど、私の家の前に居座っている人たちはどうなっているのよ。それが問題だわ」

 私は大山さんに向かって、顔をしかめて言った。

「それは確かに、梨花叔母さまのおっしゃる通りです。……大山閣下、何か情報はありませんか?」

 兄の横に座る迪宮さまが尋ねると、

「先ほど、金子さんから情報が入りましたが、盛岡町邸の周囲に居座っていた女性たちは、本館に向かって土下座をしているようです」

大山さんの口から信じがたい言葉が飛び出した。

「は?!」

「陛下のラジオ放送でのお言葉を聞いた彼女たちは、梨花さまは医師としても、陛下の重臣としても、陛下を助けようと努力なさっていたのだと感じ入り、今までの己の不明を詫びているようです」

 両目を丸くした私に、大山さんは信じがたい報告を更に続ける。

「そうはならんやろ!」

 呆れながらツッコミを入れた私に、

「そうですか?私は少し、彼女たちの気持ちが分かる気がしますけれど」

迪宮さまの隣に座る節子さまが苦笑しながら言った。

「分かんなくてもいいと思うわ、そんなもの!盛岡町邸(うち)の周りにいる人たち、自分が悪いと思うなら早く家に帰りなさい!」

 私は節子さまに言い返しつつ、女性たちに罵声を浴びせた。

「まぁ……盛岡町での騒ぎは収まりそうだな。国粋主義者たちの動きはどうだ?」

「そちらは今のところ、目立った動きはありません。もう少し、動向を見守る必要はありますが……」

 兄の質問に大山さんが回答すると、

「すると、今の時点では、戒厳令は出さずに済みそうですな」

原さんが安堵したように応じた。

(じゃあ、(たね)さんの第1艦隊も出動しなくて済む、ということは……)

「どうした、梨花?」

 あれこれ考えようとした時、兄が私に優しく声を掛ける。考えていることを隠す理由はないので、

「いや、うちの子たちのこと、どうしようかな、と思って……」

私は兄に正直に答えた。

「おととい顔を合わせた時、謙仁(かねひと)は落ち着いていたし、禎仁(さだひと)なんて、この事態を楽しんでいるんじゃないかとも思えたけれど、万智子(まちこ)のことがとても心配なの。しかもあの子、私と間違われて襲われてしまったから、ショックを受けていないか心配で……」

 すると、

「大丈夫ですよ、梨花お姉さま。お姉さまが要職に就いていらっしゃるから、万智子さんたちもある程度覚悟していらっしゃると思いますわ」

節子さまがゆったりした口調で私に言う。

「うーん、どうだろう……。そういうこと、子供たちと話したことがないのよねぇ……」

 私は顔をしかめ、両腕を胸の前で組んだ。

「前世が平民で、そんなに偉くならないうちに死んだからかもしれないけれど、自分が偉い人間になったから、家族に危害が加えられるかもしれないっていう発想が全然できてなかったのよね。本当は、内大臣になった時にでも子供たちと話し合うべきだったんだろうけれど、あの時は無我夢中だったからなぁ……」

「それはまた、梨花さまにご教育することが増えた、ということになりますが……」

 大山さんは私に向かって微笑むと、

「それはそれとして、女王殿下方には、今回の一件、梨花さまから何らかのお話をしなければならないでしょう」

その微笑を崩さずに私に進言した。

「そうね。子供たちには、まず謝らないと。だけど、万智子には拒絶されるかもしれないわね。“危ない目に遭わせた”って非難されて……。覚悟しておくわ」

 どうやら、東京市内の混乱は終息に向かっているようだ。けれど、新たな悩み事に頭を支配されることになった私は、大きなため息をつくしかなかった。


 1928(大正13)年10月19日金曜日午後5時25分、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮(ありすがわのみや)家盛岡町邸の前。

(よかった……いなくなってる……)

 自動車が正門に近づき、窓から外を確認した私はほっと息をついた。昨日の夕方までに、盛岡町邸に集まっていた女性たちは全員退去した。けれど、大山さんに、“国粋主義者の動向が分かるまでは念のため皇居にご滞在を”と言われたので、昨夜も私は皇居に泊まった。今日になって、国粋主義者たちの動きが沈静化したことが確認されたので、こうして帰宅したけれど……自分の目で女性たちがいなくなった盛岡町邸を見て、騒動は終わったのだということを私はやっと実感できた。

(だけど、ここからよねぇ……)

 車が車寄せに着くと、私は両肩を落とした。私が帰宅できなくなってから、今日で1週間となる。突然母親の私がいなくなったこと、そして、デモに巻き込まれたこと……子供たちには心配もさせたし、迷惑もかけてしまった。子供たちに会ったら、まず謝らないと……と私が思った瞬間、

「「「母上、お帰りなさいませ」」」

職員さんが開けた玄関ドアの向こうに、私の3人の子供たちが立っていた。万智子は紫の矢羽根模様の着物に紅い女袴を付け、謙仁と禎仁は学習院の制服を着て、私を笑顔で出迎えている。

「た、ただいま、戻りました……」

 私は小さな声であいさつすると、子供たちに向かって頭を下げ、

「ええと……突然、長い間家を空けてしまって、申し訳ありませんでした」

と子供たちに謝罪した。

「それから、怖い思いをさせてしまって、ごめんなさい。特に、万智子……本当に申し訳なかったわ」

(こんなんじゃ、足りないよね……)

 言葉で謝罪はしてみたけれど、この程度で罪が償えたとはもちろん思っていない。さて、どうやって、罪を償えばいいだろうかと考えようとした矢先、

「母上、どうして謝るのですか?」

今回の騒動で一番被害を受けた万智子が、軽く首を傾げながら私に尋ねた。

「は?!だって、万智子、あなた、この家を取り囲んだ女の人たちに襲われたでしょ?!」

 私が慌てて万智子に確認すると、

「確かに襲われましたけれど、千夏(ちなつ)さんが追い払ってくれたから問題はありませんでしたよ」

彼女は平然とした様子で私に返答する。

「あのね、万智子。あれは、母上が内大臣じゃなかったら起こらなかったことなのよ。知らない女の人たちに家を取り囲まれたり、その人たちに襲われたりすることも……。あなた、怖くなかったの?!」

「まったく怖くなかったと言えば、嘘になりますわ」

 驚いて問う私に、長女は少しはにかみながら言った。

「でも、有栖川のおじい様が、昔、おっしゃったことがあったんです。“万智子は皇族だし、母上が内大臣という要職に就いているから、母上に自分の言うことを聞かせようとする者や、母上に恨みを持つ者に、襲われたり、さらわれたりすることがあるかもしれない。現に、おじい様も、昔、ロシアの廃帝ニコライに大津の街を案内していた時、暴漢に襲われたことがある。だから、そういうことに巻き込まれることがあるかもしれないと、常日頃から覚悟しておきなさい”って。だから、先日襲われた時、おじい様がおっしゃっていたことはこれだったのだな、と思いました。けれど、千夏さんが襲ってきた人を追い払ってくれましたから、怪我をしたりさらわれたりすることはありませんでした。だから、母上がどうして私に謝るのか、私、よく分からないのです」

(な、なんだってー?!)

 私は驚きの目で17歳の長女を見つめるしかなかった。私が皇族で内大臣でもあるから、時に家族が事件に巻き込まれるかもしれないということ……私自身が子供たちに話すべきことを、義父の有栖川宮威仁(たけひと)親王殿下が子供たちに話してくれていたのだ。

(うわぁ……これ、もう、お義父(とう)さまに頭が上がらないや……いや、今までもそうだったけど……)

 脳裏に義父の得意げな顔が浮かぶと同時に、

「僕も、おじい様に同じことを言われました」

「僕もです!」

謙仁と禎仁が元気よく私に言う。「そ、そう……」と、私は力無く息子たちに応じた。

「なんか……母上は、色々足りてないわねぇ……。至らない母親で、本当にごめんなさい……」

 私が子供たちに再び頭を下げると、

「あの、母上」

万智子が私に呼びかけた。

「明日の午後、カステラを焼こうと思っているのですけれど、あれは、1人で作るとちょっと大変なのです。母上、手伝っていただけますか?」

「はい!喜んで、助手を務めさせていただきます!」

 笑顔でお願いする娘に、私は一礼すると笑顔で回答する。

「よし、久しぶりにカステラが食べられるぞ!」

「うん!……でも、母上、ちょっと言葉がおかしくない?」

 謙仁は喜びの声を上げ、禎仁は喜びつつも私にツッコミを入れる。明日の夜は、横須賀から戻る栽仁殿下も加わって、カステラを食べながら、久しぶりの家族そろっての団欒となりそうだ。「だって、万智子の方が私より料理が上手だもの」と末っ子に言い返しながら、私はやっと日常が戻ってきたことをしみじみと感じた。

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