大正の玉音放送
1928(大正13)年10月18日木曜日午前11時30分、皇居・表御殿の御車寄。
「車寄せだけではなく、自動車まで改造したのか……」
御車寄に設置されたスロープを、侍従の海江田幸吉さんと一緒に車いすで下りた兄は、停車している黒塗りの御料車を見て呆然とした表情で言う。兄が使っていた御料車の後部座席は、半分ほどが取り外されている。後部の荷室も取り外され、スロープを取り付ければ、バックドアから車いすに座ったまま、自動車に乗り降りできるようになっていた。
「主馬寮の人たちが頑張ってくれたのよ。それから、産技研の人とか、豊田さんの息子さんの会社の人とかも」
一足早く外に出ていた私は、物珍しそうに御料車を眺める兄に向かって微笑んだ。主馬寮とは、宮内省内で馬や馬車、自動車などの管理や運用を担当する部署だ。彼らが私と、宮内大臣の牧野さんの要請を受けて改造したのが、今、兄の前に停まっている御料車である。ちなみに、“豊田さんの息子さん”というのは、産業技術研究所所長の豊田佐吉さんの長男・喜一郎さんのことで、彼は東京帝国大学を卒業すると、私のたっての願いで自動車製造会社を設立していた。
「そうか……皆が協力してくれたのか。それはありがたい」
兄がそう言った時、「陛下、動きます!」と海江田さんが声を掛ける。兄が軽く頷くと、兄の乗った車いすは海江田さんに押されてスロープを上がり、御料車の中にすっぽりと入った。
「今日のように、時間厳守が要求される時には、この車は本当にありがたいな」
私たちの方を振り向いて話す兄の足元では、海江田さんが金具や紐を使って、車いすを自動車の床に固定している。その作業が終わると、水色の通常礼装をまとった節子さまが、兄の隣の座席に素早く乗り込んだ。
「さ、内府殿下、俺たちも参りましょう」
御料車のバックドアが閉じられると、大山さんが私に優しく声を掛ける。私は頷くと、降りしきる雨の中、割り当てられた車へ移動した。
私や牧野さん、そして奥侍従長や鈴木武官長など、兄と節子さまに供奉する人々が全員自動車に乗り込むと、車列はゆっくりと動き出す。目的地はラジオの放送所がある芝区の愛宕山だ。今日の正午、愛宕山のスタジオから、牧野さんが兄の病状発表を行い、その後、勅語を読み上げる兄の声が、全国に生放送されることになっていた。
「しっかり警備されてるわね」
車列が皇居を出て内堀を越えると、私は窓から外の様子を見て呟いた。愛宕山までの道は、警察官、そして、警備に協力している近衛師団の兵により、厳重に警備されている。恐らく、沿道の市民の中には中央情報院の人も紛れていて、妙な行動を取る者がいないか、密かにチェックしているのだろう。
「“君側の奸”と噂される牧野さんのお通りですからな」
私の隣の座席にいる大山さんが、ややおどけたように言う。
「まぁ、そうだけどね」
私は大山さんにこう応じると、
「やっぱりそういう噂、まだ流れ続けているのね」
と彼に確認した。「ええ」と大山さんは首を縦に振ると、
「盛岡町のお屋敷を取り囲む女性たちの数も、昨日から更に増加し、現在200人ほどになっているということです」
私にこう報告した。
「雨が降ってるのに?」
私は車の窓から外をまた見た。低く垂れこめた雲から降る小さな雨粒が、ぽつぽつと窓ガラスにぶつかっている。昨日の午後から、東京では雨が降り続いていた。
「いい加減、家に帰って欲しいな。この雨の中で居座り続けて、風邪を引いても知らないわよ」
私が大きなため息をつくと、
「女性たちにも、警官たちがラジオを聞かせるそうです」
大山さんは私に更に報告した。
「そりゃあ、今の東京で、一番玉音放送を聞かせなきゃいけない人たちだもんね」
大山さんにはこう答えたけれど、
(だけど……本当に玉音放送でこの騒動が収まるかしら?)
私は内心、首を傾げざるを得なかった。
玉音放送をこのタイミングでする目的は、兄が譲位をするという事実を突きつけ、その衝撃で東京市内の混乱を収めることである。もちろん、それと一緒に、“譲位は原総理や牧野宮内大臣の陰謀によるものである”という噂も打ち消せれば最高だ。
けれど、勅語の中には、そのような噂を打ち消すような文言……例えば、“これは天皇が自分の意思で言っていることである”などという文章は入れられなかった。帝国憲法では、天皇はこの国の主権を持つとされている。その天皇が、わざわざ勅語で“これは自分の意思で言っているのだ”と言ってしまうと、この国の主権を持つ人が天皇以外にいるという解釈がなされてしまう可能性も出てくるのではないか、という意見が、勅語の内容を検討している時に出てきてしまったのだ。だから、勅語の内容は、“天皇の業務の中に遂行できないものがあること、そして、天皇に在位したままで死ぬと大喪儀で国民に多大な負の影響を与えてしまうことから、来年3月1日に譲位をすることにした”というものになった。
(噂を打ち消すには、不十分な内容になっちゃったなぁ……。でも、仕方ないか。とりあえずこの勅語を放送して、それで騒動が収まらなかったら……本当に、戒厳令を出さないとね)
私が顔をしかめた時、車列の先頭は愛宕山の放送所の門を潜り抜けた。
兄の御料車のバックドアが開かれると、先に車から降りていた牧野さんが、兄を最敬礼で出迎える。それを見た兄が、
「牧野大臣、俺を出迎えていないで、早く行け。そちらも放送があるだろう」
とやや不機嫌そうに言う。牧野さんは兄に先立って、正午から病状経過の発表を行う。兄はその開始時間を気にしているのだろう。
「はっ……。では失礼して、行ってまいります」
牧野さんは兄に最敬礼すると、秘書官を従えて放送所の本館へ向かう。それを見届けると、兄は放送所の所長さんの先導で、新しく建設されたスタジオに入った。
新設されたスタジオには、車いすでスムーズに出入りができるように、出入り口にスロープが設置されていたけれど、内部は一切装飾されていない。スタジオの奥にやや重厚な印象の机と椅子があり、机の上にマイクと小さな置時計が置かれている以外は、物品は何もなかった。
椅子の横に兄の乗った車いすが停まった時、スタジオの横から牧野さんのくぐもった声が聞こえた。スタジオの一方の壁には、大きな窓がはめ込まれている。その窓の向こうに、様々な機械が置かれた調整室があるのだ。調整室の窓際に立つ機械関係部署の責任者らしき男性の向こうから、『ご体調はご本復されるも、ご歩行は改善を認めず……』という牧野さんの言葉が切れ切れに響く。
「やっているな」
椅子に座った兄が微笑した時、
『天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、畏くも御自ら勅語を宣らせ給うことになりました』
別のスタジオにいるアナウンサーの声が微かに聞こえた。スタジオの隅に待機している宮内省の活動写真班のカメラは、既に回り始めている。兄のそばに付き添っていた私と節子さまは、急いでスタジオの外に出た。スタジオには兄と活動写真班、そして海江田さんと奥侍従長が残された。
スタジオ外の廊下の天井近くの壁に取り付けられたスピーカーからは、国歌の演奏が聞こえる。このスピーカーからは、ラジオ放送がそのまま流されているそうだ。国歌の演奏が終われば、スタジオのマイクの前に座っている兄が、おとといから私たちが必死に準備した勅語を読み上げる。
国歌の演奏が終わると、スタジオ前の廊下は静寂に包まれた。節子さまも私も、大山さんも侍従武官長の鈴木貫太郎さんも、その他、兄に供奉した面々は直立不動の姿勢で、兄の勅語を待っている。
ところが、
『――嘉仁である』
スピーカーから降り注いだ兄の第一声は、勅語の出だしとは全く違う、兄の名乗りだった。
(はい?!)
私は目を瞠った。思わず、右隣にいる大山さんの方を振り向くと、彼も目を丸くしている。大山さんだけではなく、私の左に立つ節子さまも、鈴木武官長も、……ここにいる人全員が、一様に驚きの表情になっている。ドアの向こうのスタジオに兄がいると知らなければ、恐らく、皆叫んでいただろう。
国民などに呼びかける形式を取る勅語は、“朕”という天皇の一人称で始まることが多い。今回の勅語も、“朕”で始まっていた。ところが、兄は勅語を読まず、自分の名前を名乗ったのだ。
(一体、どういうことなの?!)
予想していない事態に戸惑う私たちに向かって、
『勅語を読み上げようと思っていたのだが、漢字が多い勅語は、ラジオのような音声の情報だけでは分かりづらい。それに、勅語は官報に載るし、今日中には各新聞が出す号外に載る』
兄の声はスピーカーから容赦なく降り注ぐ。確かに兄の言う通り、この時代の勅語は漢文調なので、音声だけでは、その意味を完璧に理解するのは難しいけれど……。
(それならそれで事前に言ってよ!ビックリするじゃない!)
『だから、勅語の意味や、勅語を出すに至った背景などを、わたしの口から国民に直接伝えることにした』
私の心の中のツッコミに、スピーカーからの兄の声が被る。次にどんな言葉が飛び出すのかハラハラしながら、私は兄の声に集中した。
『先ほど宮内大臣が述べたように、わたしは今回の脳卒中によって馬を満足に操れなくなり、観兵式への出席や特別大演習の統監ができなくなった。そして、正座ができなくなり、祭祀での所作ができなくなった。他にもできなくなったことは多いが、天皇としての職務に大きな差し障りがあるのはその2点である』
これは、先ほどの牧野さんからの病状発表にもあった内容だ。けれど、牧野さんの病状発表は漢文調だったので、こうして口語体で改めて聞くと、私にとっては分かりやすい。
『そして、わたしの脳卒中の原因には、不整脈が関わっている可能性がある。不整脈のせいで心臓に血の塊ができて、それが血の流れに乗って脳に飛んで脳の血管を詰め、左足が動かなくなってしまった。……今は、不整脈は起こっていないが、いつ再発するか分からない。今回は左足が動かなくなるだけで済んだが、今度、血の塊が脳の血管を塞いでしまったら、身体の別の場所が動かなくなるかもしれない。それどころか、死んでしまうかもしれない』
スピーカーから流れる兄の声は、ここでいったん途切れる。そして、
『そんな、他人より死ぬ確率が高い状態で、天皇を続けることはできないとわたしは思った。なぜなら、わたしが天皇のまま死んでしまえば、葬儀により、国民に大きな負担を掛けてしまうからだ』
兄は穏やかな口調でこう言った。
『この放送を聞いている者の中には、先帝陛下の大喪儀のことを覚えている者も多いだろう。あれは国家として必要な儀式ではあったが、諒闇により、経済活動は停滞した。葬列や陵墓の整備、大喪列車の運行などで、国民に多大な迷惑をかけることになった。あのような負担を、国民に再び課したくはない。……幸い、皇太子はとても優秀で、既に天皇にふさわしい政治力と判断力、そして困難を乗り越える精神力とを持ち合わせている。こうした諸々の事情を勘案した結果、わたしは皇太子に天皇の位を譲ることを決めた。来年の2月28日にわたしは天皇の位を退き、3月1日には、皇太子が新しい天皇となる』
廊下で一緒に待機している誰かが、すすり泣いている。天皇の位を、迪宮さまに譲る。……兄が脳卒中になってから、何度も聞いていた言葉なのに、こうして、公の場で、全国民に向けてこの言葉が発せられたのだと考えると、私の目頭が熱くなった。
『これは、大臣や皇族などに強要されて言っていることではない。譲位のことは全て、わたし自身が考えて言っていることである。今、この時期に、皇太子に天皇の位を譲ることが、この国をより良くする道であると、わたしは確信する』
「陛下……これをおっしゃるために……」
私の右隣にいる大山さんが、感極まったように呟く。私も彼の目を見て頷いた。兄が勅語を読むのをやめたのは、ラジオでは漢字の多い勅語が分かりにくいから……という理由もあるだろう。けれど、東京市内で広がる、“譲位は原総理や牧野宮内大臣の差し金で行われる”という噂……これを自分の言葉で、明確に否定したかったから、兄は勅語を読むのをやめたのだ。諸般の事情で勅語に入れられなかったことを、自分の言葉で国民に伝えるために……。
『わたしが脳卒中で倒れてから、多くの国民が、わたしの回復を祈ってくれたと聞いた。皆が祈ってくれたこと、そして、わたしの信頼する医師たちが懸命にわたしの治療にあたってくれたこと、それらがあって、わたしは今、こうしてラジオで話すことができる。国民の皆に、わたしの治療に直接尽くしてくれた者たちに、わたしのことを常日頃助けてくれた大臣たちや側近の者たちに、深く感謝する』
兄の言葉は、国民や、治療にあたった医師たち、更には私たち側近や大臣のことにまで及んだ。すすり泣く声がより大きくなる中、
『譲位までの間、わたしは残された力で、政を誠心誠意行う。国民の皆においては、日々の生業に励み、我が帝国繁栄のための礎を、わたしと、そして新しい天皇とともに、心を一にして築いていってほしい』
数秒の沈黙の後、スピーカーからは国歌の演奏が再び流れる。そのメロディーは、廊下に立ち並ぶ人々の泣き声で、途切れ途切れにしか聞こえなかった。
私は、左に立っている節子さまと見つめ合うと、抱き合って泣いた。




