盛岡町の抗争
1928(大正13)年10月15日月曜日午前8時50分、皇居・奥御殿にある兄の書斎。
「もうさぁ、大変だったわよ、週末は!」
私は兄と迪宮さま、そして大山さんに、おとといの梨花会の直後、私が巻き込まれた騒動について愚痴っていた。
「夜になったら、集まった人たちも帰るかな……と思って、霞ヶ関の本邸から、盛岡町邸の職員さんに、電話で様子を聞いてもらったのよ。そうしたら、あの人たちがまだいるって言われてさぁ……。だから、仕方なく本邸の客室に泊まらせてもらったの。次の日なら大丈夫だろうと思ったら、あの人たちがまだ正門の前に居座ってるって言われちゃって……。だから私、土曜日からずっと盛岡町邸に帰れてないのよ!はぁ、まったく、どうしたらいいのかしら……」
私が大きなため息をつくと、
「梨花叔母さま、その女性たちに解散命令は出せないのですか?」
迪宮さまが不思議そうに尋ねた。
「もちろん、出してもらってるよ」
私は迪宮さまに答えると、再びため息をついた。「近くの警察署も、警察官をたくさん派遣してくれたんだけど、彼女たち、“たまたま通りかかっただけ”とか、“今日たまたま来ただけで、集まったわけではない”とか、屁理屈をこねまくって解散命令に応じなくて……。だから、警察の人たちと彼女たち、盛岡町邸の前でずっと睨み合いを続けてるみたい」
「それは災難だったな。……しかし、その女性たち、国粋主義者の組織や、我が国の情勢をかく乱しようとする外国とつながっている形跡はないのか?」
兄は私に労いの言葉をかけると、目をギラリと光らせて問いを投げる。「もし、女性たちの背後にそのような者がいるのならば、地の果てまでも追い詰めて捕まえて、重い罰を与えなければならないが……」
「現時点では、そのような者は確認できておりません」
大山さんが殺気立った兄に穏やかな口調で回答した。「余りにも目立つ行動を取った者は拘束し、警察で取り調べを行っておりますが、居住地もバラバラ、職業も主婦、女学生、工員、電話の交換手など様々で、梨花さまを非常に慕っているということ以外には共通点はありません」
「……私を慕っているっていうけど、ハッキリ言って迷惑なのよ」
私は大山さんにこう言うと、口を尖らせた。
「つーか、デモをしに盛岡町邸に来るな!自分の勝手な理想を私に押し付けるな!そんで、ご近所に迷惑をかけるな!私はあんたたちの理想を叶えるためじゃなくて、兄上と自分自身のために生きてるんだってば!」
私が怒りに任せて、そばにある兄の事務机をバン、と叩いた時、
「陛下、よろしいでしょうか?」
書斎の障子の外から、侍従の甘露寺受長さんの声が聞こえた。
「謙仁王殿下と禎仁王殿下が、内府殿下にご面会を求めていらしておりまして……」
「え?今?」
甘露寺さんの言葉に、私は腕時計の盤面を確認する。今の時刻は午前8時53分……長男の謙仁と次男の禎仁が通う学習院中等科では、1時間目の授業の真っ最中のはずだ。首を傾げた私に、
「いっそ、謙仁と禎仁をここに呼ぶか。お前がいなかった間の盛岡町邸の様子を聞きたいし……」
微笑を向けた兄はこう言って、「分かった、2人をここに通せ」と障子越しに甘露寺さんに命じた。
しばらくすると、甘露寺さんに連れられて、学習院の制服を着た謙仁と禎仁が、兄の書斎に足を踏み入れる。強張った表情で風呂敷包みを抱えている謙仁に対して、禎仁は落ち着いた様子で、周囲の様子を物珍しそうに観察していた。
「天皇陛下と皇太子殿下には、ご機嫌麗しく拝し奉りまして、恐悦至極に存じ上げます」
私たちの前に並んで立つと、謙仁と禎仁は最敬礼をする。挨拶の言葉を述べたのは謙仁だった。
「あー、堅苦しいのは抜きだ」
謙仁の挨拶に、兄は微笑して応じた。「それに、身内の者しかいないのだから、俺のことは“伯父上”と呼べばよい。……さて、章子に会いに来たということだったが」
「はい。母を見舞って、土曜日からの我が家の状況を、母に報告してほしい……金子の爺にそう頼まれて参内したのですが……」
少し口ごもった謙仁に、
「まさか、僕とお父様もいるところで叔母さまに会うことになるとは思っていなかった……というところかな」
迪宮さまが優しく声を掛ける。謙仁は恐縮したように一礼した。
「さて、おとといの夕方から、盛岡町のお屋敷では、どのようなことが起こっているのですか?」
大山さんが穏やかな声で尋ねると、
「はい、おとといの夕方、50人ほどの女性が正門の前に集まって、母上への要望を口々に叫びました」
謙仁は頭を上げ、状況を説明し始めた。
「駆けつけてくれた警察官によって、数人の女性が捕まりました。しかし、大声を上げると警察官に捕まると知った彼女たちは、無言で正門の周りに居座り続けています。次第に人数が増えて、今朝、僕たちが車で盛岡町の家を出た時には、女性たちは100人ほどになっていました」
(増えてるのかよ……)
私が顔をしかめたその時、
「でも、無言じゃない時もあったよ、大山の爺。今朝、姉上が、集まった女性たちに襲われて」
禎仁がとんでもないことを大山さんに言った。
「なんですって?!」
思わず椅子から立ち上がった私に、
「母上、落ち着いて。姉上は無事だったから」
禎仁はなだめるように言うと、
「姉上が今朝、華族女学校に行こうとして家の敷地の外に出たところで、女性たちに襲われたんだ」
再び大山さんの方を向いて報告を続ける。
「“内府殿下がお出ましになった!”って声が聞こえたから、多分、姉上を母上と見間違えたんじゃないかな。でも、姉上には千夏さんがついていたから、千夏さんが姉上に近づいた女の人を2、3人投げ飛ばして撃退したよ」
「な……投げ飛ばした?」
禎仁の言葉を聞いて目を丸くした迪宮さまに、
「ああ……千夏さん、柔道が強いのよ」
私はそっと注釈を入れた。
「……女王殿下は、霞ヶ関のご本邸にお移しする方がよろしいですな」
禎仁の報告を聞き終わった大山さんは、こう言って眉をひそめる。「このままでは、女王殿下は盛岡町邸に出入りなさる度に、女性たちに詰め寄られてしまうでしょう」
「大山さんの言うとおりね。……まったく、17歳の万智子と45歳の私を見間違えるって、デモ集団の目は節穴なのかしら」
私は苦々しい表情で大山さんに応じると、今日何度目になったか分からないため息をついた。
「万智子も章子と同じように美しいから、見間違えるのも無理はないが……万智子が義兄上のところに移るなら、章子は宮中で寝泊まりさせる方がいいな」
そう言った兄は大山さんの方を向くと、
「章子が寝泊まりする部屋を、奥御殿に用意してくれ」
と命じた。
「あ、兄上、そこまでしてくれなくていいよ。私も霞ヶ関の本邸にいれば大丈夫だから……」
兄の気持ちはありがたいけれど、奥御殿に部屋を用意してもらうのは流石にやり過ぎだ。私が謹んで辞退しようとすると、
「それはダメだ。この状況で、万が一内大臣が襲撃されれば、東京の治安維持が難しくなる」
兄は私をキッと睨みつけて言う。
「叔母さま、お父様のおっしゃる通りです。事態が落ち着くまでは、どうか奥御殿にご滞在ください」
迪宮さまもこう言うので、私は反論できなくなってしまった。
「謙仁王殿下、禎仁王殿下、今決まったことを、盛岡町邸の職員に伝えてください。お母上は皇居にご滞在なさる。お姉上は霞ヶ関の本邸に移られる、と」
大山さんの言葉に、謙仁と禎仁は揃って「はい」と頷く。そして、
「母上、これを」
謙仁が抱えていた風呂敷包みを私に差し出した。
「姉上が焼いたクッキーです。母上、きっと疲れているだろうから、甘いものが欲しいでしょう、って」
「ありがとう!」
私は謙仁から包みを受け取ると、
「謙仁、禎仁、あなたたちも危ないと思ったら、すぐに霞ヶ関の本邸に移るのよ」
頼もしい息子たちに注意した。
「うん、余りにも人が盛岡町からいなくなったら、女性たちが不審に思って霞ヶ関に押し寄せるかもしれないから、なるべく盛岡町にいるようにするけれど、金子の爺とも相談する」
禎仁が私にこう答える。そして、謙仁と一緒に再び最敬礼すると、禎仁は謙仁と一緒に書斎から去っていった。
「ひどいことになっているな」
謙仁と禎仁の気配が感じられなくなると、兄が両腕を胸の前で組んで顔をしかめた。
「梨花と間違えたとはいえ、万智子を襲うとは……。かと言って、戒厳令を出すほどでもないから、女性たちを排除はできないしなぁ」
「ただ、霞ヶ関の有栖川宮さまのご本邸にまで女性たちが押し寄せたら、その時は戒厳令を出さなければならないでしょう。暴力的な手段は余り取りたくないのですが……」
ぼやいた兄に、迪宮さまがこう進言する。義父の住む霞ヶ関の本邸の隣は外務大臣官舎で、斜め前にはベルギー大使館がある。その他、近隣にはロシア・イタリアの大使館や内閣総理大臣官邸、外務省などもあり、政治・外交の中枢となる機関が集まっているのだ。そこでデモ騒ぎが起こってしまえば、迪宮さまの言う通り、戒厳令を出してデモ集団を強制的に取り締まるしかないだろう。
「そう言えば、栽仁は騒ぎに巻き込まれていないか?先ほどの謙仁と禎仁の報告にも名前が出てこなかったが」
兄の質問に、
「先週末はずっと横須賀にいたのよ。明後日の神嘗祭に合わせて、明日の夜に東京に戻る予定だけど……」
と私は答える。すると、
「女性集団の状況によりますが、若宮殿下は東京にお戻りにならない方がよいかもしれませんな」
大山さんが私にこう言った。
「確かに、盛岡町邸に戻ると、デモ集団のただ中に飛び込む格好になる可能性があるからねぇ……」
私は両肩を落とした。明日の夜までにデモ集団が盛岡町邸の周辺から消えればいいけれど、そうなる保証はどこにもない。
「明日、栽仁殿下が横須賀を出るまでに、東京に戻るかどうか、金子さんに判断してもらうしかないか……」
私が顔をしかめて言うと、「では、そのように連絡しておきましょうか」と大山さんが優しく言った。
1928(大正13)年10月16日火曜日午前8時55分、皇居・奥御殿にある兄の書斎。
「どうだ、盛岡町の様子は昨日と変わりないか?」
私と兄と迪宮さまと大山さんの前には、今日も謙仁と禎仁が立っている。学習院にちゃんと行っているのか心配になって、報告する前に尋ねたら、昨日は皇居に寄った後、学習院にちゃんと登校したそうだ。今日もそうするという答えが2人から返ってきたので、私はほっと胸をなで下ろした。
「はい、昨日の夕方ですが……」
昨日よりは宮中の雰囲気に慣れたのか、謙仁は兄からの問いにハキハキと答えた。
「新しく、20人くらいの女性の集団が、隊列を組んでやってきて、盛岡町邸に向かって叫び始めました」
「叔母さまの家の前に居座る女性の数が、増えたということかな?」
迪宮さまが横から尋ねると、「いえ、少し違います」と答えて謙仁は首を左右に振る。
「その女性たちはこう叫んでいました。“内府殿下は、内大臣としての仕事に専念し、天下国家を救う大計のために働くべきだ!”と……」
(は?)
「それは確かに少し違うな。今まで居座っていた連中は、章子に俺の病気を治せと要求していたはずだ。新しく来た女性たちと意見が異なるということになるが……もめ事が起きなかったか?」
「ケンカが起きました」
兄の質問に、禎仁が即答した。
「後から来た女性たちに、居座っていた女性たちが詰め寄ったんです。“内府殿下は医師である!医師ならば、天皇陛下の病を治さなければならない!“って。それで、双方ともに一歩も引かなくて、最後には、”着物の袖がぶつかった“とかで取っ組み合いのケンカになって」
(うわぁ……)
禎仁の詳細な報告に、私は両腕で頭を抱えてうつむいた。
「暴力事件になったから警察も介入できて、合計で40人くらいの女性が拘束されました。でも、捕まらなかった人たちは、まだ盛岡町邸の前で座り込みを続けています」
そう報告を締めくくった禎仁に、
「なるほど。禎仁王殿下は、その乱闘をご覧になったのですかな?」
大山さんが微笑しながら尋ねる。
「うん。本当は、近所の子供のふりをするか、女装してあの人たちの中に紛れ込もうと思ったんだ。でも、金子の爺に止められたから、塀沿いの木に登って、あの人たちの様子を見ているだけにしたよ」
大山さんの問いに明るく答えた私の次男は、
「だけど、おとなしそうに見える女性でも、取っ組み合いのケンカをするんだね。ああいうケンカをする女性って、母上だけかと思ってた」
と付け加えた。
「そ、そうねぇ……」
禎仁にひどいことを言われたような気がするけれど、盛岡町邸の前で発生した抗争の衝撃が大きすぎて、私は彼にこれ以上の言葉を返すことができなかった。兄と迪宮さまが同時に吹き出した一方で、
「謙仁王殿下、禎仁王殿下。盛岡町のお屋敷で今回の騒ぎについて話すのは構いませんが、その他の場所、特に学習院やご友人の家などで、今回の騒ぎについて話してはなりませんよ。盛岡町のお屋敷に女性たちが集まっているのは、彼女たちが噂を聞きつけたからです。お2人が進んで今回の話を他の方に話してしまうと、お母上とお姉上のお帰りはますます遅くなってしまうとお考え下さい」
大山さんは真面目な顔で謙仁と禎仁に注意を与える。確かに、大山さんの言う通りだ。今回のデモの件は、報道管制が敷かれていて、新聞やラジオでは一切報道されていない。けれど、それなのに女性たちが集まっているということは……彼女たちは東京市中に流れる噂を聞きつけ、“自分も内府殿下に嘆願をしたい”と思い、盛岡町にやってきてしまったということだろう。……その“嘆願”とやらが、単なる自分の理想の押し付けだとも知らずに。
「……禎仁の言葉で笑ってしまったが、この様子では、俺の病状と譲位の発表の予定、早めなければならんぞ」
謙仁と禎仁が兄の書斎から退出すると、兄は難しい顔をして私たちに言った。
「はい、もう時間がありません」
迪宮さまも深刻な表情で兄に同調した。「このままでは、梨花叔母さまの家の前の女性の数は膨れ上がる一方です。この不安定な状況が市中全体に広がって、国粋主義者が暴力的な行動に出れば大変なことに……」
「皇太子殿下のおっしゃる通りです。この事態を暴力的な手段を取らずに収束させるには、速やかに譲位に関する発表を行い、国民の動揺を衝撃で鎮めるより他ありません」
「大山さんの言う通りだと思う。……若干私情は入るけど」
大山さんの進言に、私も便乗すると深く頷く。それを見た兄は、
「……原と牧野大臣を呼べ。それから、梨花会の面々も」
力強い声でこう言った。
「放送所の工事が、できていなくても構わない。既存のスタジオを使うしかなくても、何とかするしかない。明日は神嘗祭で祝日だから、あさって、10月18日……そこで俺の病状と、譲位の発表をするぞ」
兄の言葉に、私と迪宮さまと大山さんは、顔を見合わせて頷き合った。




