支える2人
1928(大正13)年9月2日日曜日午後1時55分、皇居内にある医療棟。
私は栽仁殿下に支えられながら、兄のいる貴賓室から出た。梨花会の面々も一緒だ。兄のそばでずっと泣いていたからか、頭が少しふらふらする。
控室に戻ると、秩父宮さま、筑波宮さま、倫宮さま、そして珠子さまが、大山さんに声を掛けられて控室から出て行った。節子さまと迪宮さまは、まだ貴賓室に残っている。迪宮さまへの譲位を決めたと、他の自分の子供たちに話す……私たちが貴賓室を出る直前、兄はそう言っていた。
「どうぞ、梨花さま。今なら、召し上がれるかもしれません」
控室の長椅子に夫と並んで座ってから数分後、大山さんがこう言いながら、お皿に盛られたサンドイッチを持ってきて、長椅子の前にあるテーブルの上に置いた。お盆の上にあるティーポットを大山さんが傾けると、ティーカップから紅茶の湯気が立ち上る。「どうぞごゆっくり」と一礼して大山さんが去ると、私は控室に栽仁殿下と2人きりになった。
「梨花さん、サンドイッチをどうぞ。僕、お昼ご飯は食べたから、紅茶だけ飲むよ」
栽仁殿下が私にサンドイッチを勧める。そう言えば、最後に食事をしたのはいつだろう。私はお皿に手を伸ばし、サンドイッチを一切れ口にした。
すると、
「ああ、よかった」
栽仁殿下が私に笑顔を向けた。
「へ……?」
「梨花さん、ずっと何も食べてなかったんだよ。昨日、この控室に入ってから」
キョトンとした私に、栽仁殿下は優しい声で言う。
「水分は口にしていたけれど、ここに食事が運ばれても、梨花さん、食べようとしなかったんだ。僕が何を言っても上の空で……」
「そうだったの?!」
私は慌てて、兄が倒れてから今までの記憶を吟味する。ところが、脳裏に浮かぶべき記憶は、私の脳細胞からかなり欠落してしまっていた。何とか覚えているのは、追悼式の会場から兄と一緒に戻ってきた時のこと、そして先ほど兄に呼ばれて、譲位の決意を聞かされた時のことだけだ。
「ごめん、栽さん……。この控室にいた時の記憶が無いわ……。水分を取ったとか、食事に手を出そうとしなかったとか、そういうのも、全然……」
自分の記憶力の無さに呆れながら夫に謝罪すると、
「仕方ないよ。梨花さんは、いつもとは違う状態だったんだ。天皇陛下を守れなかった責任を取って死ぬって、ずっと思い詰めていたんだから」
栽仁殿下は穏やかな調子で言った。
「だから、とても怖かった。梨花さんが死んでしまうじゃないか、って。皇太后陛下にも、“増宮さんを死なさないように、片時もそばを離れないようにしてください”と命じられたから、僕、ずっと梨花さんから離れないようにしていたんだ」
私は黙ってうつむいた。私は栽仁殿下だけではなく、お母様も心配させてしまったようだ。後で、お母様に謝らなければならない。
「気持ちは分かるけどね」
栽仁殿下は私の左手を握ると、寂しそうに微笑んだ。
「梨花さんは、小さい頃から天皇陛下を守ると誓って、天皇陛下のために頑張ってきたから。……でもね、梨花さん。梨花さんは、僕の愛する人なんだ。だから、死のうなんて、もう考えないで」
栽仁殿下の澄んだ瞳が、私に向けられている。その瞳の光を見つめていると、昨日から自分の手で散々に切り刻んだ自分の心が、優しく包まれていく気がした。
「ごめんね、栽さん。あなたの言葉が受け取れなくて……」
栽仁殿下に頭を下げた私は、
「ああ……これって、妻として失格よね。愛する夫が、そばであれこれ自分のことを心配して、世話を焼いてくれているのに、ずーっと兄上のことで頭がいっぱいで、責任を取って死のうって考えてるなんて……」
と言って、ため息をついた。
「あのさ、栽さん。皇族が離婚できるかどうか分からないから、とりあえず、別居したいの。もし離婚が可能なら、あなたとの離婚の手続きを始めようかと……」
私が恐る恐る栽仁殿下に申し出ると、彼は急に私を抱き締める。「ひゃい?!」と変な声を出してしまった私に、
「何を言っているんだい、梨花さん。別居はしないし、もちろん離婚なんてしない。僕が艦隊で過ごさないといけない時、梨花さんがそばにいなくてどんなに寂しい思いをしているか分かっているの?」
栽仁殿下は情熱的に囁く。思わず顔を真っ赤にしてしまうと、
「心の中に忠誠を捧げる人がいるのと、愛を捧げる人がいるのは、別々に考えていいんだよ。僕だって、天皇陛下に忠誠を誓っているけれど、愛を捧げる人は梨花さんだ。そもそも僕は、梨花さんはこういう人なんだと承知の上で、梨花さんを愛している。離婚しないといけない理由なんて、どこにもないよ」
彼は私を澄んだ瞳でじっと見つめながら、真剣な口調で一気に言った。
「は、はい……」
私は彼の勢いに負けて頷くと、
「その……栽さん、ありがとう」
夫に深々と頭を下げ、お礼を言った。
「あの、栽さん……つまり、私は、栽さんを愛していてもいいのね?」
私がおずおずと確認すると、栽仁殿下は「もちろん」と返答して笑顔になる。その明るい笑みに、私の心は飛び跳ねた。
「た、栽さん……」
私は夫の胸にもたれかかると、夫の顔をじっと見つめた。澄んだ瞳に視線が絡め取られ、心臓の鼓動が速くなる。のぼせた頭は、考えることをとっくに放棄していた。
(あ、これ、キスされる……)
夫の唇が私の唇に近づき、私がいつものように目を開けたまま、夫の唇を受け止めようとした時、控室の扉が外からノックされた。サッと夫の身体から離れて「どうぞ」とノックに応じると、倫宮さまを先頭にして、兄の5人の子供たちが、どやどやと控室に入ってきた。
「ああ、皆さま。天皇陛下からのお話が終わったのですか?」
栽仁殿下が澄ました顔で尋ねると、末っ子の倫宮さまが「はい」と首を縦に振った。
「裕兄様に、天皇の位を譲るって……」
強張った顔で倫宮さまが言うと、
「驚きましたけれど、お父様のご説明を聞いて納得しました。ぼくは、お父様が迪兄さまに天皇の位をお譲りになったら、迪兄さまを頑張って支えようと思います」
三男の筑波宮尚仁さまが力強く言った。その発言に、珠子さまと、兄の次男の秩父宮さま、そして倫宮さまが頷く。どうやら、兄の子供たちは譲位に賛成しているようだ。
と、
「叔母さま、昨日は申し訳ありませんでした」
秩父宮さまが私の前に進み出て頭を下げた。
「はい?」
一体、何のことを言っているのだろうか。首を傾げた私に、
「昨日、勢津子との婚儀を延期する、と、お母様に申し上げたのを聞かれたと思いますが……婚儀は予定通りに挙げることにしました」
秩父宮さまは少し恥ずかしそうにしながら言った。彼が昨日、そんな発言をしたことなど全く記憶にない。反応に困っていると、
「そう言えば、おっしゃっておられましたね」
私の横にいる栽仁殿下が、秩父宮さまにこう応じる。……ということは、私が忘れているだけで、実際にあったことなのだろう。
「先ほど、お父様に同じことを申し上げたら、“馬鹿なことを言うな”と叱られました。“俺が死んだなら仕方がないが、そうでなければ予定通り結婚しろ。お前の結婚をとても楽しみにしているのに、俺から楽しみを奪うな”、と……」
神妙な態度で説明する秩父宮さまの後ろから、
「わたしも、お父様に叱られてしまったの、梨花叔母さま」
賀陽宮恒憲王殿下の妃である珠子さまも、しょんぼりしながら言った。
「“俺のことが心配なのは分かるし、ありがたいことだけれど、腹の中の子供をもっと大事にしろ。もし、俺のせいで珠子に負担がかかってしまって流産してしまったら、俺はお前と恒憲と乃木中将にどう詫びればいいのだ!”、って」
「私は章子なんだけどね」
相変わらず私の名を間違える姪っ子に注意をしてから、
「そりゃ、あなたのお父様もそう言いたくなるわよ。だってあなた、先月私が往診に行った時、辛そうだったじゃない。今、体調はどうなの?」
と、私は彼女に尋ねた。
「ええ、つわりはほとんど無くなったわ。先週から、勤務も少しずつ再開していたの。9月から、もっと勤務時間を増やそうかと弥生先生と相談していたのだけれど、お父様のことも心配だし、どうしようかしら……」
答えながら考え込んでしまった珠子さまに、
「そこは、体調第一で考える方がいいわ」
と、私は彼女にアドバイスした。「自分が考えている以上に、心は身体に影響を与えるものよ。少なくとも、勤務時間については、弥生先生とも改めて相談して決めるべきだと私は思うわ」
「うーん……じゃあ、叔母さまのおっしゃる通りにしますね。今のわたしの身体、わたしだけのものではないですし」
珠子さまが私に笑顔を見せた時、
「お姉さま」
彼女の後ろから声がした。気が付くと、控室のドアの前に、節子さまが立っている。彼女が着ているのは、昨日と同じ灰色の通常礼装だった。
「お姉さま、お話したいことがあるのだけれど、ちょっといいかしら?」
節子さまはそう言いながら、私を手招きする。私はサンドイッチをもう一切れ口の中に放り込んでから、彼女の後について控室を出た。
節子さまは医療棟を出ると、真っ直ぐ奥御殿の方へ向かって歩く。奥御殿に入ると、彼女は自分の書斎に私を招き入れた。節子さまの書斎は、洋式の兄の書斎とは違い、すべて和風で統一されている。兄が椅子に座って机に向かうのに対し、節子さまは畳の上に正座して文机に向かう。もちろん節子さまは洋行した経験もあるし、洋風の生活にも慣れているのだけれど、
――読み書きをするのは、文机でやる方が落ち着くのよ。
彼女はそう言って、個人の書斎では和風を貫いていた。
そんな書斎の上座に、節子さまが正座する。私が下座に座ると、
「お姉さま。どうして私に、嘉仁さまの“史実”の寿命のことを教えてくださらなかったのですか?」
節子さまは穏やかな、しかししっかりした口調で私に尋ねた。
(あう……)
私は答えに困ってしまった。節子さまの問いは、至極もっともなものなのだ。しかし、私は……いや、梨花会の誰もが、その問いに対する明確な答えを持ち合わせていない。
兄に“史実”での寿命を知らせないというのは、原さんと伊藤さんを中心として決まったものだ。そして、節子さまにも兄の“史実”の寿命を教えないというのは……実は、話し合いを経て決められたものではない。私を含め、梨花会の全員が、節子さまに兄の“史実”の寿命を教えないのは当然のことだと思っていたのか、それとも、節子さまに教えるということを完全に失念していたのか……とにかく、彼女に兄の“史実”の寿命を教えるかどうかというのは、議論されたことすらなく、そのまま、全員が彼女に教えずに今日まで来た。けれど、今、何らかの説明がされなければ、節子さまは納得しないだろう。
「え、ええとね……節子さまを、心配させたくなかった、っていうのが第一でね……」
私は、それらしい理由を、とっさにでっち上げ始めた。
「そ、それに、もし節子さまが、“史実”の兄上の寿命のことを知ったら、節子さまの言動から、兄上に“史実”の寿命がバレる……いや、露見するんじゃないかと思って……」
すると、節子さまは微笑み、
「嘉仁さまなら、例え誰が相手でも、“史実”のご自身のご寿命のことを勘付かれたでしょう」
相変わらず穏やかな声で私に反論した。
「実際、そうだったではありませんか。当然ですよ。嘉仁さまは、勘が鋭くていらっしゃるから」
「ん……まぁ、そうかもしれないけど……。機密っていうのはね、知っている人が少ない方が隠匿しやすくなるし……」
私が頭をフル回転させながら、更に言い訳をひねり出すと、
「お姉さま」
節子さまは微笑を崩さないまま、穏やかな声で私を呼ぶ。その声がまとう凛とした響きに、私は慌てて背筋を伸ばした。そんな私に、
「私は、嘉仁さまの妻ですよ」
節子さまは静かに言った。
「お姉さまから見た私は頼りないかもしれないけれど、嘉仁さまのお役に立ちたいという気持ちは、私、お姉さまに負けないつもりです。それに、梨花会は20人以上いるではありませんか。その全員が、嘉仁さまの“史実”のご寿命のことを知っていたのでしたら、それが1人増えたところで、影響はそんなにないと思いますわ」
「はい……」
節子さまの言うことはいちいちもっともで、私の詭弁をいとも容易く壊していく。私は頭を下げると、「申し訳ありませんでした」と節子さまに謝罪した。そんな私に、「嫌だわ、お姉さま、お顔はお上げになって」と声を掛けた節子さまは、
「ねぇ、梨花お姉さま……“史実”の嘉仁さまが、どんな闘病生活を送られたか、分かりますか?」
私にこんなことを尋ねた。
「“史実”の大正7年か8年……1918年か19年くらいには、体調を崩し始めていたみたい」
昔、原さんから聞いた話を思い出しながら、私は節子さまに答えた。
「思うように動けなかったり、喋れなかったりという症状が出ていたらしいわ。“史実”でも、一流の医師たちが原因を調べたけれど、分からなかったそうよ。私もその話を聞いて、原因を色々考えてみたけど、結局分からなかった。……そして、“史実”の兄上の病状はだんだん悪くなって、“史実”の大正10年……1921年の11月に、迪宮さまが摂政に立った。兄上はそれからも療養していたけれど、1925年から何回か失神して、1926年の秋になって肺炎にかかって……」
そこまで言ってうつむいた私に、「そうだったのですね……」と相槌を打つと、
「この時の流れでの嘉仁さまの闘病は、どうなるのかしら……」
節子さまは呟くような調子で私に聞いた。
「正直言って、見当がつかないわ」
私は首を左右に振った。「長くなるかもしれないし、短くなるかもしれない。“史実”より穏やかなものかもしれないし、悲惨なものになるかもしれない。ありきたりな言葉を使うしかないけれど……“神様しか知らない”ってやつだろうね」
すると、
「悲惨になんてさせませんよ。私がいますから」
節子さまはそう言って微笑んだ。
「梨花お姉さまは、いつも悲観的なんですよ。希望を持って、前を向かないと」
「……それは間違いないわね」
私が節子さまの言葉に苦笑すると、節子さまは少し身体を乗り出しながら、「ね、お姉さま」と私に呼びかけた。
「私たち、お互い、支え合って頑張りましょう。嘉仁さまを支えるために」
「……そうだね」
私は頷いて、節子さまに微笑んだ。少し離れて座ってはいるけれど、私と節子さまは、心の中でしっかり手をつないでいた。




