5回目の追悼式
1928(大正13)年9月1日土曜日午前11時20分、皇居・表御座所にある天皇の執務室・御学問所。
「今日は、暑くなりそうだな」
今日は土曜日だから、本来なら、迪宮さまが政務の見学をする日だ。けれど、今日はこれから、関東大震災の死没者追悼式が青山練兵場で行われるので、迪宮さまは参内していない。御学問所で追悼式への出発の時間を待っている兄は、同じく御学問所で待機している私と大山さん、そして侍従長の奥保鞏さんと侍従武官長の鈴木貫太郎さんに話しかけるように呟いた。
「そうね。朝から、よく晴れてたから」
私は兄に微笑んで応じてから、
「陛下、お水をどうぞ」
と兄に勧める。暦の上では9月に入ったけれど、今日は晴れているからか、気温が上がっている。ひょっとしたら、30℃を超えているのではないだろうか。兄が着ているのは夏用の白い軍装だけれど、それでも、上衣は長袖だ。汗をたくさんかいてしまうだろうから、水分はしっかり取ってもらいたい。
「そうだな」
兄は私の言葉に素直に頷くと、執務机の上にある水の入ったコップを取り、中に入った水を飲み干す。そして、コップを机に置くと、
「関東大震災が起こって、今日で5年になるのだな」
しみじみした口調で言った。
「もう、そんなに経つのですか」
兄の言葉に応えて言った鈴木さんが、
「そう言えば、関東大震災の時、宮城はどのような様子だったのですか?」
と、奥侍従長と大山さん、そして私の方を向いて尋ねた。
「なかなか大変でしたな」
奥侍従長が答えると苦笑する。「地震が防災訓練の最中に起きましたから、皆、無事で済みましたし、取るべき行動も何となくできましたが、当初は宮殿も、宮内省の庁舎も使えませんでしたから、事務は天幕の下でやることになったのです。職員たちが悪戦苦闘しておりました」
「電気が止まりましたから、皆、夜に戸惑っておりましたな」
大山さんはそう言ってクスっと笑う。「水道も止まりました。宮城内の井戸は問題なかったのですが、若い職員たちは水汲みに苦労していました。俺は、若い頃の生活に戻っただけと思って、そんなに苦痛ではなかったのですが」
「ああ、宮城もそこまで被害を受けていましたか」
鈴木さんが相槌を打つと、
「震災が起きてから数日は、俺と節子も含めて、俺の周りの者は皆、観瀑亭に寝泊まりして、そこで仕事をしていたのだ」
兄が更に鈴木さんに教えた。「震災が起きた直後の数日は、夜中に余震が何度も起きたから、よく眠れなかった」
「あの時、お風呂になかなか入れなかったから辛かったわ」
私も苦笑いしながら話に加わった。「他にも、久しぶりに分娩を手伝ったり、観瀑亭で秘書官の皆と一緒に寝たり、大変だったことは色々あったけれど、とにかく、一番印象に残っているのはお風呂のことかな」
すると、
「思い出した。章子が多喜子の分娩を手伝った帰り、傾いた和田倉門の渡櫓を見て失神したのだ。あの時は、生きた心地がしなかったな」
兄が右の拳で左の手のひらを軽く打って言うと、顔を軽くしかめた。
「……それには触れないようにしてたんだけどなぁ、あに……じゃない、陛下」
「あ、そうだったのか、それはすまん」
不満の声を漏らした私に、兄は素早く頭を下げると、
「……しかし、防災訓練の最中に地震が起こると言う天祐にもかかわらず、4000人近くの死者が出てしまった」
真面目な表情に戻ってこう言った。
「犠牲者たちの霊を弔うこと、そして、あの地震で心身ともに傷ついた者たちを助け、寄り添い、励ますこと……それは今後も、俺たちがしていかなければならないことだ。そして土木技術を発展させて、災害に強い国土を作り、災害による犠牲者をできる限り少なくすること……それも犠牲者たちの霊に誓わなければ。それは、戊辰の役以降の戦で死んだ者たちを弔うことと同じく、今後も続けなければならない」
兄の言葉に、私の頭は自然と垂れた。“仁慈に富む”と評される兄の性格……それは昔から変わらない。傷ついた人々に、兄はどこまでも寄り添い、そして、励まし助けようとする。
と、
「……戊辰の役で思い出したが、今年の特別大演習は岩手県で開催だな」
兄はこんなことを言い出した。「はっ」と答え、鈴木さんが頭を下げると、
「岩手に行くのは、皇太子だった時以来だが……そう言えば、章子も岩手に行ったな」
兄は私に視線を向ける。
「まだ独身だったころだから……もう20年以上前ね」
私が素直に兄に返答すると、
「あの時は、内府殿下がお転婆をなさって、当時内府殿下に仕えていた東條くんが、度肝を抜かれておりましたな」
大山さんが横から笑顔で余計なことを言う。
「ちょっと、大山さん!」
盛岡に行った時、私が予定されていた行事から逃げ出して聖寿禅寺に行ったことは、“元からそういう予定だった”と公式発表され、隠蔽されたはずだ。それをなぜこの場で言い出すのだろうか。私が大山さんを睨むと、大山さんは私にスッと身体を寄せ、
「何があったかは申し上げておりませんから、よいではないですか。ご修業が足りませんぞ」
と囁く。私は反論したいのをグッと堪え、我が臣下をまた睨んだ。私の方を見ていた兄は一瞬笑みを見せたけれど、すぐに真面目な顔に戻り、
「今度岩手に行くときは、また、戊辰の役での犠牲者の冥福を祈らなければならないな」
と穏やかな声で言う。御学問所にいた一同が兄に一斉に頭を下げた時、侍従さんが障子を開けて御学問所に入り、
「陛下、出立のご刻限でございます」
と兄に告げる。
「では、行くか」
兄は椅子から立ち上がると、侍従さんに従って御学問所を出る。私たちも兄の後ろに続いた。
1928(大正13)年9月1日土曜日午前11時50分、青山練兵場。
皇居から同じ自動車に乗り、関東大震災死没者追悼式の会場に到着した兄と節子さまを、天幕の下にいた参列者たちが最敬礼して出迎える。東京、または東京近郊に在住している皇族たちの他、内閣総理大臣の原さん以下の閣僚たち、枢密院議長の黒田さんと枢密顧問官たち、貴衆両院の議長と議員たち、そして、国軍の将官たちが天幕の下にずらりと並んでいる光景は壮観だった。今年は関東大震災から5年という節目の年だからか、例年より参列者が多いように感じる。もちろん、皇族の席には、迪宮さまや秩父宮さまなどに混じって、私の義父の有栖川宮威仁親王殿下、そして、私の夫の栽仁殿下がいる。別の天幕には、関東大震災で亡くなった方々の遺族が大勢立っていて、こちらの人数も例年より多いように思われた。
「天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、ここに、関東大震災死没者追悼式を執り行います」
軍楽隊による国歌の演奏の後、前に設けられた舞台正面にある祭壇に一礼した原さんが式辞を読み上げ始める。追悼式が始まった当初は、“異例”と捉えられていた兄と節子さまの追悼式参列も、追悼式の回数を重ねるごとに、当たり前のこととして国民に受け入れられるようになっている。原さんの顔は少し強張っていたけれど、最初の追悼式で桂さんが見せたような極度の緊張状態にはないように思われた。
「……あの忌むべき震災から、5年の月日が経とうとしています。全国各地での復旧事業はだんだんと進み、今では、震災直後、瓦礫の山や焼け跡が街に広がっていたのが嘘のように感じます」
原さんの式辞は更に進む。確かに、東京をはじめ、震災の被害を受けた地域では建設ラッシュが起きており、区画整理が終わった地域では、街並みが震災前とガラリと変わってしまったというところもある。
「だが、復興が進む街並みや田畑を見る時、わたしたちは思うのです。どうしてここに、震災で亡くなってしまった大切な人がいないのか、と。……当たり前のことではありますが、故人は元のようには生き返りません。わたしたちの心の中には、大切な人々を震災で失ったという傷が残っております。しかし、傷を抱えながらも、わたしたちは前に歩まねばなりません」
原さんの式辞を、私は黙って聞いていた。私たちが立てた策で、“史実”より関東大震災の被害は少なくなった。“史実”で10万人とも言われていた死者は、4000人足らずにまで減った。けれど、それでも死者は出てしまったのだ。残された人々の心の痛みは、いかばかりであろうか……。
「亡くなられた方々の御霊の安らかなるを祈念し、式辞と致します」
原さんが式辞を読み終えて自席に戻ると、祭壇横の席に座っていた兄と節子さまが立ち上がり、祭壇の正面に立つ。その瞬間、午前11時58分、地震発生の時刻と合わせて鳴らされる黙祷の合図のサイレンが、追悼式の会場内に響き渡った。参列者は皆、祭壇に向かって頭を垂れ、関東大震災の犠牲者たちの冥福を祈った。
1分間の黙祷が終わると、参列者たちは一斉に頭を上げる。祭壇正面に立っていた兄と節子さまも顔を上げ、祭壇横に設けられた席へ戻っていく。
あと数歩で、兄と節子さまが席にたどり着くというその時、兄の顔が微かに歪んだ。どうしたのかと私が思った瞬間、兄の上体が大きく揺れる。兄は歩こうと、必死に試みているようだ。けれど、上体が大きく前のめりになっている。……明らかに、様子がおかしい。
「お上!」
兄のすぐ後ろを歩く節子さまが目を見開き、兄に向かって手を伸ばす。
「陛下っ!」
参列者の最前列にいた原さんが一声叫び、前へと走り出す。
そして、
「兄上―っ!」
私が駆け出した刹那、更に前に傾いた兄の身体は、舞台の上に倒れた。




