女神と死神
1928(大正13)年6月8日金曜日午後1時10分、赤坂御用地内にある鞍馬宮邸の別館。
「ああ……今日、行幸啓が予定されていて、本当にラッキーでした」
兄と節子さまの東宮仮御所への行幸啓に供奉した私は、昼食会の後、いつものように東宮仮御所を抜け出して、鞍馬宮邸別館……日本の非公式諜報機関・中央情報院の本部に顔を出していた。もちろん、内大臣秘書官長で、中央情報院の初代総裁でもある我が臣下も一緒である。
「幣原さんに問い合わせたら、“情報が入っていない”と言われてしまいました。でも、明石さんを気軽に呼び出すと、黒鷲機関を警戒させてしまいますし……。だから、今日はたっぷり教えてもらいますよ、ルーマニアとブルガリアの戦争のこと!」
私は勢い余って前にあるテーブルを叩いてしまったけれど、
「心得ております」
私の前に座った中央情報院総裁の明石元二郎さんは、私の言動に動じることなく、早速状況の説明に入った。
現地時間の6月6日午前0時、バルカン半島東部にあるルーマニア王国が、突如、南隣にあるブルガリア王国に宣戦布告した。それと同時に、ルーマニア軍はブルガリアとの国境であるドナウ川を渡河し、ドナウ川沿いのいくつかの村を占領した。ルーマニア軍は更に南進し、占領地を増やす構えである。
「……というのが、現在までに我々が手に入れた戦闘についての情報になります」
私と大山さんの前にバルカン半島の地図を広げた明石さんは、手際よく進めた説明を一旦締めくくると、
「さて、内府殿下、何かご質問はございますか?私の分かる範囲で答えさせていただきます」
私に微笑を向け、こう言ってくれた。
「……正直なところ、ルーマニアがブルガリアを攻撃する理由がよく分からないのです」
後で大山さんに、“欧州情勢に関するご理解が足りませんな”と怒られてしまいそうだけれど、私は疑問を正直に明石さんにぶつけた。
「ええと、ルーマニアの開戦事由って、“バルカン半島を浄化して新秩序を建設する”でしたっけ……。それ、バルカン半島にある国すべてにケンカを売ってるような文言ですよね。ルーマニアは、バルカン半島を全部征服する気なんですか?」
「その可能性はあります」
明石さんは冷静に私に答えた。
「え、じゃあ、オーストリア=ハンガリーにセルビア、モンテネグロ、ブルガリア、ギリシャにオスマン帝国……それを最終的には全部征服すると……」
「そういうことになります」
少し声が震えた私に、明石さんはやはり冷静に応じる。
「ルーマニアは、西でオーストリア=ハンガリー帝国と、南でブルガリア王国と境を接しています。今回、ブルガリアを標的にしたのは、オーストリア=ハンガリーを相手にするより、戦いを有利に進めやすいと見たからでしょう」
「3年前には、最終的に国王陛下のただ1人の弟君が、内乱を企てた罪で処刑されるという、大規模な内戦がありましたからな。そのために、ブルガリアの現国王・ボリス3世についた異名は“冷酷王”……本当は、国民と気さくに触れ合う心優しいお方ということですが、気の毒なことです」
淡々と状況を解説する明石さんに続き、大山さんがやや皮肉めいた口調で付け加える。
「でも、そんな“冷酷王”だって、去年結婚したでしょ。ドイツのオルデンブルク大公国のお姫様と……。だから、私、ブルガリアはルーマニアと同じように、ドイツ陣営に入ってると思っていたわよ。ブルガリアの野党はイギリスと連携しているだろうけれど」
私は隣に座る大山さんの方を向くと、1番腑に落ちないことを確かめようとした。
「同じドイツ陣営に入っている国同士の戦い……それをドイツは容認したの?」
私が大山さんに尋ねると、
「そのあたりに関する情報が、今朝、ドイツにいる手の者から入りました」
明石さんがやはり冷静な口調で答えた。
「“ブルガリアのボリス3世が、貴国の影響下から脱してイギリスの影響下に入ろうとしている確たる証拠を得た。ついては、我がルーマニア軍がブルガリアを侵略し、彼の地を占領して、完全に貴国の影響下にある土地とする”……ルーマニアの国王・カロル2世からは、ドイツにこのような打電がありました。ドイツはこれを受け、ルーマニアの軍事行動を全面的に容認したとのことです」
「なっ?!」
目を見開いた私に対し、
「ほう……理由をでっち上げ、ブルガリアを攻撃する了解を取り付けたということですか。確かに、ドイツから見たブルガリアは、野党の動き次第でイギリス陣営に入るかもしれない国ですからな」
大山さんは余裕のある表情で明石さんに応じる。
「ルーマニアの攻撃により、ブルガリア国内は混乱しております。ドイツ寄りの政策を取るブルガリアの与党は、ドイツに援軍を要請しましたが、ドイツに断られました。このため、ブルガリアの与党ではドイツに対する不信感が渦巻き、イギリス陣営に入るべきとの声が強くなっています」
「……って言っても、ブルガリアがイギリス寄りになったのは、ルーマニアが攻撃したからであって、元々のものじゃないですよね。要するに、ルーマニアは己の欲望のためにブルガリアを攻撃したと理解していいんですよね?」
更に報告を続ける明石さんに私が問うと、彼は黙って首を縦に振る。私はため息をついた。
「まったく……カロル2世がそんな過激思想の持ち主だったなんて。“史実”でもそうだったのかしら。いや、“史実”のルーマニアのことなんて、全然知らないけれど……」
「カロル2世、と言うより、カロル2世の背後にいる王室顧問が、過激な思想を持っているようです」
私の呟きを拾った明石さんはこう言った。
「ジュリアン・ベルナールと名乗るフランス人です。カロル2世がかつて王位継承権を放棄し、パリで暮らしていた時に知り合ったようですが、そのベルナールが、“バルカン半島を浄化する”と主張しています」
「ジュリアン・ベルナール……」
ルーマニアの物騒な王室顧問の名を口にした私に、
「少年の時に顔を火傷し、ひどい痕が残っているので、顔の上半分を白い仮面で覆っています。しかし、政治手腕は抜群でして、昨年のクーデターでカロル2世が即位して以降、数々の行政改革を立案し、成功させています。油断ならない人物です」
明石さんはこう報告して一礼した。
「そ奴、本当にフランス人かどうかも含めて、調べる必要がありますな」
目を一瞬光らせた大山さんに、
「そうね。フランス人が、フランスの仮想敵国であるドイツの力を使って戦争を起こすなんて、ちょっと考えにくいもの」
と私は応じ、
「だけど今は、ルーマニアとブルガリアの戦争を止めるのが最優先よ。ブルガリアがイギリス陣営に加わったら、完全にドイツとイギリスの代理戦争になってしまう。放置しておくと、ドイツとイギリスが直接戦い出して、世界大戦に発展する可能性もあるわ」
大山さん、次いで明石さんの顔を見てこう言った。
「明石さん、イギリスの反応はどうですか?この戦いに加わる可能性はありますか?」
「困惑している、というのが正直なところでしょう」
私の質問に明石さんは答えた。「ドイツ陣営内の内輪もめと考えていた戦いが、ブルガリアの態度の変化によって、ドイツ陣営とイギリス陣営の戦いになりつつあります。しかし、イギリスも、そして、ドイツもですが、大規模な陸戦を継続する財政力はまだありません。両陣営とも、ルーマニアとブルガリアの早期講和を欲しているでしょう」
「じゃあ、イギリスと国連に働きかけて、皇帝を操れば、戦争を止められる可能性は十分にあるわ。私はまた疲れるだろうけれど……」
「諦めてくださいませ、梨花さま。“平和の女神”の責務でございますよ」
両肩を落とした私に、我が臣下は容赦なく告げる。
「分かってるわよ。また、ドイツ大使を呼び出して、話をすればいいんでしょ。それから、幣原さんにも話を付けて、国際連盟の吉田さんに調停を頑張ってもらわないと」
「幣原くんに話を付けるのは、皇居に戻りましたらすぐ……の方がよろしいですな、梨花さま」
「そうね。あと、梨花会でも一応追認してもらわないといけないわ。他にもいい知恵が出るかもしれないし。……明石さん、明日の梨花会に何とかして出ていただいて、バルカン半島の情勢を説明してくれませんか?」
「かしこまりました、内府殿下。詠子内親王殿下に算術を教える約束をしておりましたが、適当な理由をつけて延期致します」
バルカン半島情勢に関する話はにわかに進み始め、私と大山さん、そして明石さんとの間で、やるべきことが次々に決められていく。私は、今日、中央情報院の本部を訪れることができて本当によかったと思った。
ルーマニアからブルガリアに行われていた攻撃は、現地時間の6月10日にピタリと止み、そのままルーマニアとブルガリアは停戦に合意した。そして、国際連盟の仲介により、直ちに両国は和平交渉に入り、6月の末には、ルーマニアは占領地をブルガリアに返還し、賠償金を支払うことで決着がついた。
「実は、ルーマニアは、ドイツに相当ごねたようです」
7月初旬のある日、内大臣室に顔を見せた大山さんは、和平の舞台裏をそっと教えてくれた。
「ドイツはルーマニアに対して、このままでは、ブルガリアに対する粛清ではなく、ドイツ陣営とイギリス陣営の全面戦争になってしまうこと、そして、梨花さまの駐日ドイツ大使への発言を受け、皇帝が直ちにルーマニアに停戦するよう強く命じたことを理由として、ブルガリアとの停戦を要請しました。ところが、例のベルナール王室顧問が、あくまでバルカン半島の“浄化”は続行するとドイツに主張したようです。それを聞いた皇帝が、“ならばルーマニアと手を切り、女神のご意志に反する国として、ドイツがルーマニアを攻め滅ぼすしかない”と激怒し、ようやくルーマニアは停戦に合意したとのこと」
「その仮面の人、ずいぶん物騒ねぇ……」
大山さんの説明を聞いた私がため息を漏らすと、
「例の王室顧問は、講和が結ばれるとこう言ったそうです。“日本に平和の女神とやらがいる限り、世界で戦争は起こらないであろう。しかし、あの女が死ねば、世界のあちこちで銃声が響くようになるだろう。そうなった時こそ、私の出番である”、と。梨花さまに対し、恐れ多いことですが……」
大山さんは私に容易ならぬ情報を告げた。
「その人、自分が死神にでもなったつもりかしら」
私は再び、盛大にため息をついた。「確かに、私が死ぬか皇帝が死ぬかすれば、今のように戦争を止めることはできなくなると思うわ。でも、もしそうなっても、何とか戦争を止められるように、国際連盟を作ったわけだし……」
「梨花さま。今後、梨花さまの警備を強化致します。万が一、ルーマニアからの刺客が梨花さまのお命を奪えば、大変なことになりますから」
硬い表情で一礼した大山さんに、
「本当は嫌だけど、仕方ないわね。受け入れはするけれど、その死神気取りの王室顧問の力を奪って欲しいわ」
と私は答える。ベルナール王室顧問さえ、政治の表舞台から何らかの形で消えれば、私に対する暗殺の危険も無くなる可能性が高い。
すると、
「さて……それはなかなか難しいかもしれません。昨年のクーデターの経緯からも分かる通り、ルーマニアには黒鷲機関の手の者が大勢配置されております。ですから、院とMI6の工作も、効き辛い状況が続いています」
大山さんからは意外な回答が返ってきた。
「そう……」
私は顔をしかめた。ならば、仕方がないけれど……。
「諜報機関同士の戦いかぁ……。前世でパパに付き合って、その手の映画を見ていた時は、単なるフィクションだろうと思っていたけれど、こうして、現実のものになっちゃうなんてねぇ……」
こういう時、チャーチルさんのように葉巻を燻らせば、ある程度格好がつくのだろうけれど、生憎、私は今生でも前世でも、葉巻は嗜まない。私は両肩を落とすという平凡な反応をすると、これから世界で繰り広げられるであろう暗闘に思いを馳せた。




