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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第81章 1928(大正13)年冬至~1928(大正13)年処暑
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地下鉄に乗ろう!

 1928(大正13)年3月8日木曜日午後4時、皇居・表御座所にある天皇の執務室・御学問所。

「では、本日はここまでと致しましょう」

 御学問所に運び入れられた移動式の黒板の前でにっこり微笑んだのは、内大臣秘書官長である我が臣下だ。その言葉を聞いた途端、

「うう……もう、勘弁して……」

欧州情勢に関する問いで、大山さんに散々やり込められてしまった私は、机上演習の時に使う丸テーブルに突っ伏してしまった。

「おい、梨花。今日の机上演習は難しかったから気持ちは分かるが、流石に行儀が悪いぞ」

 隣に座っている兄が、私の肩をぽんぽん、と叩く。

「ほら、起きろ。キャラメルを食べて元気を出せ」

 兄の優しい声に、私は黙って身体を起こし、丸テーブルの上のお皿に入っているキャラメルを1粒口に放り込む。濃厚な甘さを口の中で味わい尽くしてから、ぬるくなった紅茶を飲むと、少し気分が落ち着いた。

「天皇陛下が(おい)の問いに全てご正答なさるとは……少々、手加減し過ぎたかもしれません」

「いや、相当辛かったぞ。脳を搾り取られてしまうような気がして……」

 嘯いた大山さんに渋い顔をして答えた兄は、紅茶を一口飲んだ。そして、大山さんに二の矢を継がせないうちに、

「ところで大山大将、俺はいつ、地下鉄道に乗りに行けるのだ?」

大山さんを軽く睨みながらこう尋ねた。

「それは、私も知りたいわ。私、東京の地下鉄に初めて乗るのは兄上と一緒に、って決めてるもん」

 私も横から、兄を援護射撃する。兄が“地下鉄道”と言ったのは、昨年の12月に上野と浅草の間に開通した地下鉄のことだ。東京で初めての地下鉄は市民の人気を呼び、開業初日から大勢のお客が押し寄せ、お正月には、列に並んでから地下鉄の車両に乗り込むまで1時間以上掛かるという混雑ぶりだった。地下鉄の運賃は、同区間を走る東京市電の2倍の10銭もするのに、である。

「正月は、上野の警察が弱り切るほどの大繁盛だったというが、そろそろ、人出も落ち着いただろう。どうだ、大山大将?」

 兄が目に力をこめ、声を励まして聞くと、大山さんは微笑んで、

「ええ、確かに、そろそろ問題ないでしょう」

と兄に向かって言った。

「よし!」

 兄は嬉しそうに叫び、隣にいる私の手を握った。

「やっと……やっと、東京で地下鉄に乗れるぞ!洋行した時、ロンドンやパリで地下鉄に乗る機会を得て、日本で地下鉄に乗れるのはいつのことになるだろうかとやきもきしていたが……ついに、その日がやって来た!」

「そうね、兄上!」

 私も叫ぶと、兄の手を両手で握り返した。

「先月、うちの子たちと栽仁(たねひと)殿下が、微行(おしのび)で地下鉄に乗りに行ったのよ。”とても面白かった“って、口を揃えて言って……。でも私、地下鉄に乗るのは兄上と一緒に、って決めてたから、その時はついて行かなかったの。だから、すごくうらやましかったわ!」

「俺だって、甘露寺(かんろじ)や鈴木武官長が地下鉄に乗った話をするたびに、悔しい思いをしたさ。鳩彦(やすひこ)が地下鉄の会社に招かれて、開通式の前に地下鉄に試乗したと聞いた時は、“なぜ俺に試乗の機会を譲らなかった!”と、鳩彦を呼び出して問い詰めそうになった。……だが、そんな日々も今日で終わりだ。よし、早速明日の午後にでも、梨花と一緒に地下鉄に乗りに行って……」

 兄が両目をギラつかせながら意気込んだ時、

「お喜びのところ、大変恐れ入りますが、陛下」

大山さんが再び兄に微笑を向けた。

「明日は警備の都合がつきませんので、来週の土曜日の午後にお出ましをお願いします」

「何?」

 兄は鋭い視線を大山さんに向けた。

「なぜだ、大山大将。いつもなら、微行(しのび)に出たいと俺が言った翌日には、警備体制が整って、微行に出られるではないか」

「恐れながら、地下鉄での陛下の警護は、院にも経験がございません」

 大山さんは、兄の視線を柔らかく受け止めると、穏やかな口調で答えた。

「ですから、院としても、警備体制を入念に確認しなければなりません。それにお時間をいただきたいのです」

 兄は不満そうに大山さんを睨んでいたけれど、大山さんの態度はいささかも崩れない。

「……仕方がない。地下鉄に乗るのは、来週土曜日の午後にする」

 やがて、兄はこう言って唇を尖らせた。

「でも、これでやっと地下鉄に乗りに行けるね」

 私が兄をなだめると、

「ああ、それは間違いない。これで元気も湧いてくるというものだ」

兄はすぐに機嫌を直して、嬉しそうに頷く。

 すると、

「では、こちらを」

大山さんが2枚の紙を取り出し、私と兄に1枚ずつ渡す。そこには、ヨーロッパ情勢に関する問題が、びっしりと書かれていた。

「こちらの問いの答えを書いたものを、来週の火曜日にある陸奥どのの机上演習の時に提出してください。出来が悪ければ、来週の微行(おしのび)の話は、考え直さなければなりませんなぁ……」

 大山さんの穏やかな声が、大きな氷塊となって背中を滑り落ちていくような気がする。これは、本気で課題に取り組まなければ、大変なことになってしまいそうだ。私と兄は顔を見合わせるとため息をついた。


 1928(大正13)年3月17日土曜日午後1時30分、東京市麹町(こうじまち)区大手町にある東京市電・大手町停留場。

「そう言えば、梨花」

 停留場で上野方面に向かう市電を待ちながら、焦げ茶色の中折れ帽をかぶった兄は、私の方を見て言った。

「何?」

 紺色の無地の和服を着て、髪を束髪に結った私が、隣に立つ兄を見上げると、

半井(なからい)の婚約は調ったと聞いたが……結婚するのはいつなのだ?」

兄は私にこう尋ねた。

「ああ……それね。早くて再来年の9月よ」

 私が答えると、茶色い羽織を着た兄は「ん?」と首を傾げた。そんな兄に、

「あのね、半井君が婚約した人、今、女学校の最終学年なのよ」

私は最初から事情を説明した。

「彼女、看護師を目指していて、女学校を卒業したら看護学校に入るの。それで、2年勉強して看護師の免許を取って、その上で半井君と結婚することになったから、結婚は、彼女が看護師の免許を取った再来年の9月なのよ」

「ああ、なるほど」

 私の話を聞いた兄は、ようやく頷く。

「では、結婚はまだまだ先だな」

「まぁ、そうだね。だけど、それでいいんじゃないかな。将来、国軍を退役して開業することを考えたら、奥さんには看護師の免許を確実に取ってもらう方がいいからね」

 私が兄に応じた時、ちょうど上野方面へと向かう市電の姿が見えた。私は口を閉じると、兄と一緒に目の前に止まった車両に乗った。

 上野の停留場で市電を降りて、地下鉄の出入り口へと歩いていく。お正月には出入り口の階段から人が溢れ、鉄道の上野駅の方まで列が伸びたということだけれど、流石に今はそこまで人はいない。けれど、出入り口の階段を下りきる前に、乗車待ちの列の最後尾に追いついた。どうやら、地下鉄の人気はまだまだ衰えていないようだ。とは言え、お正月の時のように乗車まで1時間以上掛かるということはなく、列に並んでから5分ほどで改札口のすぐそばまで近づけた。

「10銭硬貨は持ったか?」

 改札口へと続く列が動き出すと、兄が振り向いて私に確認する。

「もちろんよ。兄上こそ、持ったの?」

 私が言い返すと、

「当たり前だ」

兄がニヤッと笑い、10銭硬貨を右手の親指と人差し指でつまんで私に見せる。そして、木製のバーが十字のように伸ばされた回転木戸式の改札機の横にある小さな箱に硬貨を入れ、

「よいしょ」

掛け声とともにバーを押し、改札を通り抜けた。

「おおっ!これは面白いなぁ!」

 改札を通った兄は、目を輝かせてはしゃいでいる。この回転木戸……ターンスタイルとも呼ばれるけれど、私の時代だと、テーマパークの出入り口によくあるものだ。けれど、この時代では殆ど見かけない。硬貨を入れたらバーが回って人1人を通す、という仕掛けも珍しい。兄が小さな子供のように喜ぶのも分かるけれど……。

「兄上、早くどいて!後ろがつかえてるのよ!」

 バーの前ではしゃいでいる私は兄に怒鳴った。兄が慌てて改札機から離れると、私は先ほどの兄と同じように、硬貨を改札機横の箱に入れ、バーを押して改札機を通った。

 ホームに並んで待っていると、淡い黄色に塗装された車両が進入してきた。この時代では珍しい金属製の車両である。浅草から乗ってきた乗客が降り、ホームに並んでいた客が全て乗り込むと、車両に3つある扉が閉まり、地下鉄はすぐに発車した。

「これは速い、速いぞ」

 つり革につかまり、窓から薄暗い外を見ていた兄が、興奮した口調で言う。

「そう?」

 車内には、結構な数の人がいる。ぎゅうぎゅう詰めで身動きが取れないほどの混雑ではないけれど、うっかりすると、隣にいる人とぶつかってしまいそうだ。私が周りに注意しながら兄に応じると、

「そうだぞ。もう、隣の駅に着いたではないか」

兄はよく通る声で言う。兄が周囲の乗客の注目を浴びてしまっていないか心配になり、私は左右に首を動かして周りの様子を確認してみたけれど、みんな、各々の連れとの会話に夢中で、こちらに目を向けている人はいなかった。まぁ、この車両の中のどこかに数人……いや、もしかしたらもっとたくさんの中央情報院の職員さんたちがいて、私たちの様子を見守っていると思うから、少し恥ずかしくはある。

 と、

(あれ?)

私の右側、何人かの乗客の向こうに、紺の絣の着物を着て、学生帽をかぶった少年の後ろ姿が見えた。どうも、私の次男・禎仁(さだひと)の後ろ姿に似ているような気がする。気のせいか、とも思ったけれど、

(いや、多分あれ、禎仁だわ)

私はすぐに結論を出した。禎仁は将来、諜報分野で働こうと考えていて、余暇の時間に、我が家の別当で中央情報院麻布分室長でもある金子堅太郎(けんたろう)さんなどから、諜報の講義や実技の指導を受けている。だから、“訓練”という名目で、今回の私と兄の微行(おしのび)について来ている可能性があるのだ。

 禎仁は、私に背を向けたままだ。けれど、何となく、私の方に注意を向けているような気がする。私は禎仁を放っておくことにした。

 上野駅を出発してから約5分で、浅草駅に到着した。市電なら、同じ区間を走るのに15分かかるので、これは驚異的なスピードである。

「市電は、専用の軌道を走っているわけではないからなぁ」

 私の手を引いて浅草寺前の仲見世を歩きながら、兄は地下鉄の速度について考察を述べた。

「だから、歩行者や自転車、それに自動車に、行く手を遮られてしまう。ところが、地下鉄は専用の軌道を走っているから、よほどのことがない限り走行を邪魔されることはない。だからあんなに速度が出せるのだろうな」

「なるほどね。でもさぁ……」

 私が兄に反論しようとした時、私たちは本堂の前にある宝蔵門に到着した。私たちは口を閉じると門をくぐり、本堂に参拝した。

 上野に戻る地下鉄の中でも、兄は興味深そうに周囲を観察していた。ただ、窓から外を覗いても薄暗がりが続いているだけなので、兄は客席やつり革、そして車両の内装の壁などをじっと見つめていた。行きと同じく、あっと言う間に上野に戻って来ると、地上に出た兄は「少し歩こう」と私に声を掛け、不忍池(しのばずのいけ)の方角へと歩き出す。私はもちろん、兄について行った。

「なぁ、梨花。さっき、浅草寺の宝蔵門の前で話そうとしていたことを教えてくれないか?」

 西郷隆盛さんの銅像の近くにある広場を横切りながら、兄は私に質問する。

「……地下鉄の運賃は、市電の2倍よ。しかも、短縮できる時間はたったの10分。地下鉄が延伸して、短縮できる時間が増えたら状況が変わるかもしれないけれど、10分を節約するために地下鉄に乗る人は少ないと思うわ」

 兄と手をつないだ私が、歩きながら兄に答えると、

「梨花の言う通りだ」

兄は難しい顔をして首を縦に振った。

「今は、物珍しさから見物客が乗り込んで、地下鉄道は大盛況だ。しかし、そういう客はいつかは少なくなる。その時に、今の路線だけで、事業の採算が取れるだろうか……」

「多分、無理じゃないかなぁ」

 首を傾げた兄に私は言った。

「別の事業に進出して、安定して資金が得られるようにするべきね。例えば、百貨店とか、不動産とか、遊園地とか……」

「なるほど。そうやって経営を安定させ、延伸に必要な資金を得ると……」

 そこまで言った兄は、不意に黙ると、私の手を強く引っ張る。「どうしたの?」と尋ねる私に「いいから、いいから」と言いながら、兄は角を左に曲がり、曲がったところのすぐそばの壁に背中をピッタリ付けて立つ。そして、私にも同じ体勢を取るように促した。

 私が壁に背中を付けて立ってから数秒後、紺の絣の着物を着て、学生帽をかぶった少年が、私たちの前を通過した。黒縁のメガネを掛けて変装しているけれど、こちらに気づかずに不忍池に向かおうとする彼の顔は、間違いなく、私の次男の禎仁のものだ。

「禎仁」

 兄が名を呼ぶと、禎仁はこちらを向いて目を丸くし、足を止めてしまった。

「やっぱり、あなただったのね」

 微笑を向けた私に、禎仁はバツが悪そうに頭を下げる。そんな禎仁を兄は手招きし、私たちのそばに呼び寄せた。

「今日は、金子分室長に、俺たちの微行(しのび)の護衛をしろと言われたのか?」

 緊張で顔も身体も強張らせてしまっている禎仁に、兄は小さな声で優しく問いかける。

「は、はい。金子の爺と大山の爺に、“実技の訓練だ”と言われて、今日、初めて……」

 兄の問いに、禎仁は緊張した声で答える。いつの間にか、禎仁のそばには商社の勤め人風に化けた中央情報院の石原(いしわら)莞爾(かんじ)さんがいて、私と兄に黙って一礼した。

「そっか。だから大山さんが、今回の微行(おしのび)は土曜日の午後にしろって言ったのね」

 私は数日前の会話を思い出して言った。いつものように、平日の午後に微行(おしのび)に出てしまうと、平日の午後には学習院の授業がある禎仁は、私たちの護衛ができない。だから、学習院の授業がない土曜日の午後に、微行(おしのび)自体を移動させたのだろう。

「それは大変だったな」

 兄は羽織の袖の中で腕組みすると微笑んだ。

「俺は人一倍勘が鋭いから、俺に気配を悟られないように護衛をするのは至難の業だ。それが、院の新人の訓練にはいいらしいが。……いつもは護衛に気が付いても知らぬふりをしているのだが、今日はついて来ているのが禎仁だと分かったから、声を掛けてみることにした」

「恐れ入ります」

 深く頭を下げた石原さんに、

「石原、禎仁の出来はどうだ?」

兄は問うと、悪戯っぽい笑顔を見せる。

「行きの地下鉄の中で内府殿下に、そして今、陛下にも存在を察知されてしまいましたから、腕前はまだまだでございます。しかし、初めてとしては上出来でしょう。今回の不出来に懲りず、励んでいただきたいものでございます」

 石原さんが淡々とした口調で兄に報告すると、

「なるほど。成長の余地あり、か」

兄はそう言って禎仁に優しい目を向け、

「頑張れよ、禎仁。お前が成長して、日本の諜報の第一線で目覚ましい活躍をする日を、俺も章子も待っているからな」

羽織の中にしまっていた手を伸ばし、禎仁の頭を学生帽の上から撫でた。

「さて……もう少し散歩するか」

 兄はそう言うと、再び不忍池の方へと足を向ける。「頑張ってね」と次男に声を掛けると、私は兄を追った。兄に追いついてから振り返ると、道行く人々に紛れたのか、禎仁と石原さんの姿は見えなくなっていた。

※この時期の実際の東京市電の運賃は7銭でした。

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何だか、上皇陛下が皇太子時代に銀座を練り歩いた"銀ブラ事件"を思い浮かべるよ。 この時代では、天皇陛下と内親王殿下の東京観光の真意を探る馬鹿は居ないと思うけどね。
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