希宮(まれのみや)さまの結婚
1927(大正12)年9月8日木曜日午後3時20分、皇居・奥御殿。
「ああ、希宮殿下……」
奥御殿の一室。あと20日ほどに迫った婚儀で使う装束……五衣唐衣裳を着て部屋の真ん中に立っているのは、兄夫妻の長女で23歳の希宮珠子さまだ。かつらを使って髪を“おすべらかし”という独特の形に結い上げ、ひな人形のお雛様のように美しくなった希宮さまの姿を見て、希宮さまに常に付き従っている乃木希典さんが声を放って泣いていた。
「誠に、誠にお美しいお姿で……天に舞う、天女のようでございます……」
泣き声の間から、切れ切れに言葉を発する乃木さんに、
「ああ、その通りだな、乃木中将。節子と章子の装束姿も美しかったが、我が娘の装束姿となると話は別だ。ああ、あんなに小さかった珠子が、こんなに立派に、美しく成長して……」
希宮さまを見つめながら同調した兄の目からは、涙が一筋流れ落ちる。
「本当に……あのお転婆だった珠子が、こんなに淑やかに、美しくなって……夢のようです」
兄の隣に立つ節子さまも、手にしたハンカチーフで、頬を伝う涙をそっと拭っていた。
と、
「嫌だわ、乃木も、お父様もお母様も……。まだ婚儀まで間があるのだから、そんなに泣かないでください」
五衣唐衣裳をまとう希宮さまが、呆れたように言った。
「泣くのでしたら、わたしの身体を支えてください。この装束、本当に重くて……」
「確かに重いよね、この装束」
兄と節子さまのそばに控えていた私は、文句を言う姪っ子に苦笑いを向けた。私も婚儀で使う装束を初めて着た時、“滅茶苦茶重い”と、兄と節子さまに愚痴った記憶がある。
「だから、さっさと写真撮影を終わらせないとね。私、カメラマンさんを呼んでくるね」
装束の重さに顔をしかめる希宮さまに私が言うと、
「ああ、ありがとう、梨花叔母さま!」
希宮さまが顔を輝かせる。「私は章子だよ」と彼女に注意してから、私は少し離れたところで待機している宮内省のカメラマンさんを呼びに行った。
これから撮る写真は、今月の27日に行われる希宮さまと賀陽宮家のご当主・恒憲王殿下とのご婚儀の公式発表にも使われる。まず、希宮さま1人だけの写真をカメラマンさんが撮ると、
「よし、次は俺と節子と一緒の写真だ」
兄がすぐにこう命じる。カメラマンさんは兄の命令にとても戸惑ったようだけれど、希宮さまの両隣に素早く動いた兄と節子さまを見て覚悟を決めたらしく、シャッターを切る時には落ち着いていた。この親子そろっての写真は、恐らく公表されることはないと思うけれど、希宮さまの、そして兄と節子さまの大切な思い出の写真となるだろう。
「乃木」
両親との写真を撮り終わると、希宮さまが乃木さんを呼んだ。
「一緒に写真を撮りましょう」
「お、恐れながら……!」
部屋の隅で撮影の様子を見守っていた軍服姿の乃木さんは、希宮さまの言葉を聞くとその場に平伏した。
「私は、希宮殿下の臣下でございます。そんな者が、殿下と一緒の写真に納まるのは、余りにも恐れ多きことにて……」
「何を言っているのよ」
自分の言葉を固辞する臣下に、希宮さまは少し顔をしかめると、
「……乃木、こっちに来てちょうだい。わたし、この装束が重くて倒れそうなの。立ってわたしのそばに来て、わたしが倒れないように横からそっと支えて。これは命令よ」
乃木さんにこう命令する。「では……」と一礼した乃木さんは、希宮さまのそばに行き、彼女が命じた通り、横から恐る恐る身体を支える。希宮さまはそれを見るとすぐに、
「ありがとう、乃木。あとは手をつないでくれれば大丈夫だわ。……そう、それでわたしと同じ方向を見てちょうだい」
と乃木さんに言う。言われた通りにした乃木さんは、カメラのレンズと相対する形となり、あっという間に希宮さまと乃木さんのツーショット写真が撮影された。
「希宮殿下!なぜ、騙し討ちのようなことを!」
顔を真っ赤にして怒鳴る乃木さんに、
「だって、こうしないと、乃木がわたしと一緒に写真を撮ってくれないもの」
希宮さまは悪びれることなく答えた。
「人生の節目の思い出は、写真にして残しておかなくちゃ。そうしたら、わたしの子供たちに、わたしが結婚した時、乃木の爺はこんな顔をしていたんだよ、って見せられるから」
顔を真っ赤にしたまま自分を睨みつけている乃木さんに、希宮さまは笑顔で話す。そんな主君の様子に怒る気を無くしたのか、乃木さんは軽くため息をつくと、「それならば仕方ございませんな」とボソッと言った。
「叔母さま」
乃木さんが離れると、希宮さまは私を呼んだ。
「わたし、叔母さまとも写真を撮りたいの。いいでしょう?」
「はぁ、それは構わないけれど……」
私の婚儀の時、父方のおばと一緒に写真を撮っただろうか、と考えてしまったけれど、そもそも、お父様のきょうだいは、幼い頃に全員亡くなっているので、“父方のおば”という存在がいないことを私は思い出した。それなら、希宮さまの好きにしてもらえばいい。そう思い直した私は、希宮さまのそばまで歩いて行くと、彼女と並んで写真を撮った。
「ああ、よかった。ありがとう、叔母さま」
ニッコリ微笑む姪っ子に、
「希宮さま……あなた、体調は悪くない?大丈夫?」
私は彼女の顔を観察しながら尋ねた。
「目の下に、うっすらクマができているような……叔母さまの勘違いだったらいいのだけれど」
すると、
「ああ、分かっちゃいましたか」
希宮さまは苦笑して、舌をペロリと出した。
「昨日の夜、お母様に書状をいただいたのです。それが長くて、読み終わらなくて……気が付いたら朝になっていました」
「長い……?」
眉をひそめた私に、
「ええ、とっても。広げたら、こーんなに長くて……」
希宮さまはこう言いながら、両腕を広げようとする。けれど、装束の重さに阻まれて、「重っ」と言って腕を下ろした。
「えーと、とにかく、長い手紙だったのね?」
「はい、私の部屋の幅より長い書状でした。そんな紙に、小さな文字がぎっしり書かれていて……」
私が確認すると、希宮さまは私に鼻息荒く答える。希宮さまの部屋に私は入ったことは無いけれど、部屋の幅より長い書状となると、3mか4m……いや、ひょっとすると5mくらいあるかもしれない。
「節子さま……そんな、直江状みたいな長さの書状、どうして書いたのよ……」
毎日皇居で顔を合わせているのに、節子さまはなぜ、そんなに長い書状を希宮さまに渡したのだろう。少し怖さを感じながらも節子さまに問い質すと、
「だって、心配じゃないですか!」
節子さまは私の方に身を乗り出して言った。
「珠子は賀陽宮家の人間になるのですよ。今まで直宮として、恵まれた生活を送ってきましたけれど、嫁げば生活はガラリと変わります。家風も異なるでしょうし、今のように私や嘉仁さまに甘えることもできないのです。それは珠子に教え諭さなければなりませんし、賀陽宮さまと、姑の好子さまの言うことをよく聞いて、賀陽宮家のご家風に合うような妃になって欲しいですし、……それから嫁入りに持たせる物も、どれをいつ使って、どの着物をどんな時に着て……ということは、一通り伝えなければなりませんし……そう考えながら書いていたら、書状がどんどん長くなってしまって……」
「それ、せめて要約しようよ……。何mもあったら、希宮さま、読むのに苦労するよ」
熱心に訴える節子さまに、私が呆れながらツッコミを入れると、
「ご安心を、皇后陛下」
部屋の隅に戻っていた乃木さんが、大きな声で節子さまに呼び掛けた。
「希宮殿下が賀陽宮家に嫁がれましても、私は命を懸けて、希宮殿下をお守り致します!」
「え、ええ、それは……」
乃木さんの声に、節子さまが気圧されたように頷き、
「おう、それは、分かっているのだが、うん……」
つられて兄もぎこちなく答える。
(あのさぁ……)
私は頭を抱えたくなった。乃木さんがいれば、希宮さまの身の安全は間違いなく守られる。問題は、今後は賀陽宮家に仕えることになるであろう乃木さんが、賀陽宮家の他の職員たちと衝突しないだろうか……いや、他の職員たちを委縮させはしないだろうか、ということだ。乃木さんに、“珠子妃殿下のご命令ですぞ”と凄まれたら、逆らえる職員さんはどこにもいないだろう。そうなったら、賀陽宮家のしきたりや家風は、滅茶苦茶に壊されてしまう。
「……希宮さま、乃木さんの手綱を上手く取ってね」
重い装束に疲弊している姪っ子に、私は祈るように小声で注意した。
1927(大正12)年9月27日火曜日午前10時30分、皇居・表御殿にある鳳凰の間。
(うわぁ……)
鳳凰の間の壁際に、侍従長の奥保鞏さんや侍従武官長の鈴木貫太郎さん、宮内大臣の牧野伸顕さんなどと一緒に並んで立った私は、上座をそっと窺って愕然とした。上座に並んで座っている大元帥の正装姿の兄と、サファイアブルーの大礼服をまとった節子さまの表情が、揃ってガチガチに固まっているのだ。兄が天皇に即位してから、皇族男子が婚儀を挙げた後の朝見の儀は何度かあった。その中には、兄の長男・迪宮さまの婚儀後の朝見の儀も含まれているけれど、それらの時は、2人ともこんなに緊張していなかったように思う。
(やっぱり、自分の娘を嫁がせるからなのかしらねぇ)
私がそう結論を出した時、鳳凰の間の入り口に、賢所で婚儀を挙げたばかりの恒憲王殿下と希宮さまがやって来た。私は慌てて、2人に向かって軽く頭を下げた。
まず、鳳凰の間に足を踏み入れたのは賀陽宮恒憲王殿下だ。この9月に中尉から大尉になった彼の兵科は機動である。灰色の軍服を着た彼は、数歩進むと、心配そうに後ろを振り返った。
恒憲王殿下の視線の先には、五衣唐衣裳を着た希宮さまがいる。“松重”の五衣に表着、紅の唐衣を身につけた彼女の動きはゆっくりだ。たぶん、長袴に足を取られているのだろう。
「大丈夫ですか?」
恒憲王殿下が、小さな声で希宮さまに聞いた。
「へ、平気……」
そう答え、首を小さく横に振った希宮さまの身体が、次の瞬間、前に向かって大きく崩れる。そのまま床に倒れ込みそうになるところを、恒憲王殿下がとっさに前から抱きかかえる。何とか身体を起こした姪っ子を見て、私はほっと胸をなで下ろした。
トラブルはあったものの、恒憲王殿下と希宮さまは、無事に兄と節子さまの前に並んで立った。
「本日は、我々のために婚儀を挙げていただきましたこと、厚く御礼申し上げます。これからは、珠子さまと共に支え合い、国に尽くす所存です」
27歳の恒憲王殿下は、ハキハキとした口調で、兄にお礼を言上する。青年士官らしい爽やかさに私が目を瞠った時、
「うん……」
と兄が頷く。けれど、それきり、兄は言葉を発しない。どうしたのかと私が訝しく思った瞬間、鳳凰の間に響いたのは、兄が鼻をすすり上げた音だった。
「つ、恒憲……」
新郎に呼び掛けた兄の両目からは、ぽろぽろと涙がこぼれていた。
「珠子はな、お転婆で気は強いが、本当は、優しい子なのだ。薬剤師として、働いてもいるから、色々と気を張って、無理をしてしまうかもしれない。そんな時は、珠子を助けてやってくれ。……頼んだぞ」
時折声を詰まらせながら、兄は恒憲王殿下に語り掛ける。朝見の儀の慣例からは完全に外れた言葉だけれど、父親としての愛情が表れている言葉なのは、子供を結婚させたことのない私にもよく分かった。
「はっ、かしこまりました!」
恒憲王殿下が最敬礼して兄に応じると、
「珠子……」
兄は涙に濡れた目を希宮さまに向けた。
「息災でな……恒憲と、仲睦まじく、幸せに暮らせよ」
「はい……今まで育てていただき、ありがとうございました。恒憲さまの妻として、薬剤師として、今後も励みます」
泣き続ける兄とは対照的に、希宮さまは明るく、しっかりした声で兄に答える。それが兄の涙腺を刺激したのか、兄はうつむいて、軍服の袖で涙を拭った。
「賀陽宮さま、ふつつかな娘ですけれど、どうか末永く、おそばに置いてやってください。……珠子、身体に気を付けて、賀陽宮さまの妃として、今後も励むのですよ」
節子さまは、手にしたハンカチーフで、とめどなく流れる涙を押さえながら、若い2人に話しかける。迪宮さまの婚儀の時には、こんなことはなかったのだけれど……やはり、希宮さまは5人きょうだいの中のたった1人の女の子だから、とても気に掛けているのだろう。「かしこまりました」という恒憲王殿下の声を聞いて、節子さまは涙を流しながら首を縦に振った。
盃を交わして、鳳凰の間から表御座所に戻っても、兄の涙はまだ止まらなかった。
「あのさ、兄上。そんなに泣くこと?」
御学問所に入っても涙を流し続ける兄に、私が呆れながら聞くと、
「泣くに決まっているだろう!」
兄は即座に答え、私を睨みつけた。
「たった1人の娘が、あんなに美しくて可愛い娘が、嫁に行ってしまったのだぞ!生まれた時のことやら、珠子が乃木中将を臣下にした時のことやら、第一高等学校に合格した時のことやら……、色々思い出してしまって、涙が止まらないのだ」
「ああ、そうですか」
私が事務的に返事をすると、
「おい、梨花、自分には関係ないと思っただろう!お前も万智子を嫁がせれば、きっと俺と同じ気持ちになるぞ!」
兄はムキになって私に反論する。
「そう?まぁ、万智子が結婚するのはまだ先だろうけれど……」
私がこう言うと、兄は「おい」と言いながら、私との距離を1歩詰めた。
「万智子は16歳だろう。そろそろ、結婚の話を考えなければならないぞ」
「は?ちょっと待ってよ、いくら何でも早いんじゃ……」
「早くないだろうが。梨花が女学生だった頃には、今の万智子の年齢で嫁に行くことも珍しくなかった。今はその頃より婚期は数年遅れているが、それでも、女学生の間に婚約が決まるのは、よくある話だろう?」
「た、確かにそうだけど……万智子、栄養学校に行きたいって言ってるのよ。ちゃんと自分で調べて、入学案内も取り寄せて……」
だから結婚の話を万智子にするのはまだ早い、と兄に言い返そうとした時、
「別に婚約なら構わないだろうが。いや、結婚しても構わないと思うぞ。別に、結婚した後に栄養学校に行ってはいけないという法はないからな。多喜子も結婚した後、帝国大学に通っていただろうが」
兄は私にこう言って、私の口の動きを止めてしまった。
「さてと、そうと決まれば、義兄上に連絡しよう。奥手なお前にこんな話をしても、前に進むことはないだろうからな。梨花、義兄上が霞ケ関の家にいるかどうか、分かるか?」
「あのさ、お義父さまに直電する気でしょ!絶対やめて!侍従さんを間に入れるか、手紙を届けさせるかしてよ!」
私が、椅子から立ち上がった兄の前に立ちはだかったので、霞ヶ関本邸の職員さんたちが天皇からの直電に腰を抜かすという事態は避けられた。けれど、その代わりに兄は筆を執って、私の義父・有栖川宮威仁親王殿下に、“万智子の結婚の話はどうなっているか”と問い合わせる手紙を書いたので、この日の午後、私は急遽参内した義父とともに、万智子の婚約について兄と話し合うことになってしまった。




