幼君か、その父か(2)
1927年7月24日、日曜日。
その日の朝、ルーマニア王国の首都・ブカレストの西側に住む農民たちは、西の方から飛行器が飛んできて、東のブカレストの方角へと去っていくのを見た。ルーマニア王国には、飛行器は片手で数えられるほどの数しかない。だから、飛行器を初めて見た者も多く、「あれが飛行器って奴か」「空を飛ぶ乗り物って、本当にあるんだな」と言いながら、農民たちは空を見上げて飛行器を見送った。……だが、彼らは知らなかった。自分たちが見上げていた飛行器に、2年前に王位継承権を放棄した元王太子・カロルが乗り込んでいたことを。
やがて、飛行器はブカレスト市内にある陸軍の練兵場に着陸した。練兵場に整列した兵士たちは、着陸した飛行器を敬礼して出迎える。飛行器から降りたカロルのそばに、陸軍司令官のアレクサンドル・アヴェレスクが駆け寄った。
「お早いお着きで」
敬礼して話しかけてきた司令官に、
「ああ、本当に、飛行器の速度には驚いた」
カロルは微笑で応じた。「途中、給油のために着陸は必要だったが、列車より確実に速かった。それに、こうして司令官の所に直接やって来られるから、国境近くの列車内で止められる心配もない」
「はい。初めに聞いた時には驚きましたが、こうして陛下を安全にお迎えできるのですから、飛行器はよいものです」
アヴェレスク司令官はカロルに答えると、
「さぁ、お着替えいただきましたら、国葬の会場にご案内いたします」
こう言葉を続け、最敬礼をする。カロルは鷹揚に頷くと、「よろしく頼む」と司令官に言った。
20日に亡くなったフェルディナンド国王の葬列を見送ろうとブカレスト市内の大通りに集まった市民たちは、前国王の霊柩が通るはずの道を、喪章を左腕に巻いた大勢の兵士たちが整然と歩いていくのを目撃し、目を瞠った。そして、その兵士たちの真ん中に、軍服を着て馬に乗ったカロルがいることに驚愕の声を上げた。「王太子殿下が帰られたぞ」という叫びが群衆の間に広がる。「やはり、父君の葬儀には参列なさるのだ」と感動の涙を流す老婆もいる。どこからか「王太子殿下万歳!」という声が湧き上がり、それは瞬く間に群衆に広がっていった。
軍隊と「王太子殿下万歳!」という群衆の叫びは、フェルディナンド国王の葬儀会場である大聖堂に近づいていく。次第に大きくなる外からの声に、葬儀の参列者たちはざわめいた。
「な、何だ?!何の騒ぎだ?!」
外から聞こえてくる声に、“王太子殿下”という言葉が混じっているのを聞き取ったルーマニア王国の首相、イオン・ブラティアヌは、側近を手招きすると、「おい、外を見て来い」と慌てて命じる。しかし、側近が首相の命令に応じて動き出す直前、大聖堂の扉が大きく開かれた。アヴェレスク司令官をはじめとする軍の将官たちを従えて大聖堂に入ってきたのは、軍服の正装に身を包んだカロルだった。
「……?!」
「カロル……戻ってきてくれたのね?!」
葬儀に参列していた王族たちを驚愕が襲う。特に、カロルの母、故フェルディナンド国王の妃・マリアは椅子から立ち上がり、久しぶりに見た長男の姿に右手を伸ばした。他の参列者たちも、目を見開いたり、「王太子殿下だ……!」と叫んだり、思い思いに驚きを表している。その中で1人だけ、憤怒の形相で椅子を蹴り、カロルに近づいていく人物がいた。ブラティアヌ首相である。
「何をしに来た」
前国王の霊柩に近づこうとするカロルの前に立ちはだかると、首相は憎しみのこもった眼でカロルを見つめた。
「今は国葬の真っ最中だ。貴様のような、王位継承権を放棄した者に、参列する資格はない!」
「首相、余りにも無礼ではないですか?!」
叫びながら前に出ようとするアヴェレスク司令官を片手で制すると、
「しかし、父との親子の縁まで放棄したわけではない」
首相に相対したカロルは穏やかな声で言った。
「だから私はここに来たのだ。どうして父の葬儀に子が参列してはならないのか、理由を聞きたい、首相」
「そうだ、そうだ!」
大聖堂の一角から、カロルに同調する声が上がる。その声は一気に広がり、「カロル殿下を参列させろ!」「首相の言うことは間違っている!」などという言葉のうねりとなって大聖堂を覆った。
「くそぉ……」
葬儀に参列しているルーマニア国内の有力者たちや野党の国会議員たちだけでなく、自分を支持するべき大臣たちや与党の国会議員たちまでもが自分を非難していることにブラティアヌ首相は苛立った。早く、自らの舌鋒で手痛い一撃を加え、この傲岸不遜な元王太子を、この大聖堂から、このルーマニアから追い出さなければならない。怒りに震える首相が口を開こうとしたその時、
「首相は私を、自分と馬が合わないからという理由だけで、この大聖堂から追い出そうとしている」
カロルの冷静な言葉が首相に突き刺さった。
「そして、私の息子・ミハイが幼いことをいいことに、権力をほしいままにしようと企んでいる。そのうち、王位を簒奪して、自分がミハイの代わりにこの国の王として君臨するつもりだろう。そんな男に、どうしてこの国を任せられようか」
カロルの言葉に、「その通りだ!」という叫びがいくつも上がった。
「首相が狙っているのは、王家の滅亡だ!」
「大それた簒奪者はルーマニアには要らない!首相は辞任しろ!」
「そうだ、首相は辞任しろ!」
ブラティアヌ首相の辞任を求める声は大聖堂に満ち、今やフェルディナンド国王の葬儀の参列者たちは、首相の糾弾者へと変貌していた。今まで首相を支持していた大臣や国会議員ですら、首相を指さし、「国家を裏切った大悪人!」「亡き国王陛下にひざまずいて詫びろ!」などと叫んでいる。ブラティアヌ首相の顔は、激しい怒りと絶望とで歪んだ。
「私はこのルーマニア最大の危機に、国を救うべく戻ってきたのだ!」
大聖堂の内外に渦巻く怒りの上に、カロルの大きな声が響く。すると、今まで首相を非難していた人々は、
「カロル陛下、万歳!」
「次の国王は、カロル陛下だ!」
と一斉に叫び始めた。故フェルディナンド国王の妃・マリアは、その声を聞き、故国王の霊柩のそばで満足げに頷いている。
「そんな、バカな……」
絶望に打ちひしがれるブラティアヌ首相を、激しい頭痛が襲う。余りの痛みに意識を失い、大聖堂の床に倒れた彼を顧みる者は誰もおらず、大聖堂の内外に集った人々は、“国家の危機を救うべく帰国した”元王太子のカロルこそが、新国王にふさわしいと認め、彼の即位を熱狂的に祝っていた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
1927(大正12)年8月5日金曜日午後1時20分、栃木県日光町にある日光御用邸。
「……以上が、ルーマニアでカロル新国王が即位した経緯でございます」
この日光御用邸は、以前“田母沢御用邸”と呼ばれていたのだけれど、同じ日光町内にあった別の御用邸が廃止になった結果、数年前から“日光御用邸”と呼ばれている。その日光御用邸の御座所で、東京からやって来た中央情報院総裁の明石元二郎さんは、兄と私、そして大山さんに、ルーマニアで発生した一連の事件の詳細を報告し終わると、兄に向かって一礼した。
「ありがとう、明石総裁。……なるほど、随分と芝居がかった事件だったのだな」
数秒の沈黙の後、顔をしかめて言った兄に、
「だよね、私もそう思った」
私はこう応じて頷いた。
「軍の仕込んだクーデターだとしても、余りにも鮮やかすぎるわよ。催眠術でも使ったのかっていうぐらい、みんながカロル陛下に熱狂してるし……これ、絶対何か仕込んでいるわ」
私は兄に感想を述べたつもりだったのだけれど、
「内府殿下のおっしゃる通り、葬列の参観に出た市民の中には、軍に忠実な退役軍人たちが紛れ込んでおり、新国王を賛美するような声を上げ、群衆を扇動したようです」
明石さんは私の言葉に応じるように横から言った。
「大聖堂の中にも、同じように扇動する者がいたようです。また、野党の国会議員のみならず、与党の国会議員や大臣たちにも、アヴェレスク司令官の手が伸びていました。更には、亡くなった前国王陛下の妃で、カロル新国王の母でもあるマリア陛下が、アヴェレスク司令官の“ブラティアヌ首相が王位を簒奪しようとしている”という言葉を信じ、アヴェレスク司令官を支持しまして……。これが国会議員や大臣たちにも伝わり、アヴェレスク司令官側から多額の現金を渡されたことも手伝って、大臣と国会議員のほぼ全てが首相を裏切り、クーデターを支持しました。その衝撃からか、ブラティアヌ首相は、カロル新国王が自らの即位を宣言したと同時に倒れ、亡くなりました」
「そうだったんですね……」
明石さんの言葉に私はため息をついた。「血圧が急に上がって、クモ膜下出血か脳出血が起こって亡くなったのだと信じたいですけれど……クーデター支持者に暗殺された可能性もゼロじゃないですね」
「しかし……」
私の推測を聞いていた兄は、険しい顔になると、
「大山大将、明石総裁、聞きたいことがある」
そう言って、大山さんと明石さんを順々に見た。
「亡くなったフェルディナンド国王陛下は、既に6月から、余命いくばくもないと伝えられていた。それを考えに入れたとしても、7月20日の崩御から僅か4日後のクーデター……。たった数日で、パリにいたカロル新国王、ルーマニアの大臣と国会議員、更には前国王陛下の妃まで巻き込んだクーデターを、ルーマニア軍が計画し、実行できるのか?」
兄の質問に、
「軍だけでは難しいでしょう」
大山さんは即座に回答した。
「私も大山閣下と同じ考えです。これほど大規模なクーデターは、ルーマニア軍単独では成しえないでしょう」
軽く頭を下げて答えた明石さんに、
「そうか。……今回の件、我が国は手を出していない。イギリスの仕業でもないとすると、ドイツの……黒鷲機関の仕業か?」
と兄は険しい顔のまま問う。
「そのように考えております」
明石さんは兄に奉答すると最敬礼した。
「きっと、カロル陛下が乗ってきた飛行器も、ドイツが出したんだろうね」
私は兄にそう言うと顔をしかめた。
「ドイツからなら、同盟国のオーストリア=ハンガリー帝国の領空を経由すれば、ルーマニアに飛べるよ。第1次世界大戦が起こってないから、ルーマニアとオーストリア=ハンガリー帝国は国境を接しているもの」
「しかしだな、梨花。なぜ、ドイツはカロル新国王の即位に手を貸したのだ?」
兄の質問は、今度は私に飛んだ。「ルーマニアの国王は、元々ドイツの王家の出身だから、ドイツとは縁が深いのだ。今更、ルーマニアにおけるドイツの影響力を強める必要があるのか?」
すると、
「ドイツの影響力を強める……というよりは、イギリスに近づこうとしている人物の排除を図ったと考えるべきでしょう」
大山さんがこう言って、ニヤリと笑った。
「ブラティアヌ首相はイギリスびいきでございます。と言っても、心の底からイギリスに忠誠を誓っている訳ではなく、自分が支配している企業にイギリスから融資させ、その金を己の懐に入れるためにイギリスに近づいているのですが……」
「はい、大山閣下のおっしゃる通りです」
明石さんは大山さんに軽く頭を下げた。「ブラティアヌ首相は、“ルーマニアはバルカン半島でのイギリスの拠点にできる”と言って、イギリスに近づいていました。その目的は、大山閣下のご指摘通り、己の私腹を肥やすためだったのですが……それをドイツが目障りに思い、前国王陛下の崩御を利用してクーデターを軍に決行させ、ルーマニアを親ドイツで固め直した……これが一連の事件の真相のようです」
「……そうか、分かった」
明石さんの言葉を聞いた兄は、暗い声で言った。
「黒鷲機関が実力を付けてきているのも恐ろしいが、世界では常に、イギリスとドイツとがどこかで暗闘している。我が国がその争いに巻き込まれないよう、そして、黒鷲機関の手玉に取られないよう、気を引き締めなければならないな」
沈黙の帳が下りた御座所では、机に置かれた扇風機が、大きな音を立てながら首を振り、生暖かい風を私たちに送っている。その金属の羽根がバタバタと回る音が、私には嵐の時に吹く風の音のように思われた。




