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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第80章 1927(大正12)冬至~1927(大正12)年(2回目の)冬至
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魔境

 1927(大正12)年3月5日土曜日午後3時30分、東京府渋谷町にある児玉自動車学校の応接室。

『おお、ついに到着したぞ!美しき東洋の神秘の国、日本に!』

 廊下からは、男性のものとはっきり分かる太い声が響いてくる。本来は、私の知らない言語での叫びなのだけれど、私の隣に座っている宮内大臣の牧野さんが翻訳してくれたので、知りたくもなかった言葉の意味が、私の脳に刻まれてしまった。

『そうだな、兄者。富士山、“Ninja”、そしてあの山岳好きの姫君……俺たちはついに日本にたどり着いたんだ!』

 先ほどの者とは違う大きな声が、私の鼓膜を刺激する。意味が全ては分からなくても、“富士”やら“忍者”やらいう言葉は聞き取れる。この言葉を発した人物は、日本という国をどのように捉えているのだろうか。私は両腕で頭を抱えたくなったのを必死に我慢した。

『うむ、そうだ!あの強く美しい、世界の平和の象徴であらせられる姫君のいる国に……おい!あの姫君に、本当に会わせてくれるのだろうな?!』

『会わせてくれなければ、お前らがいかに強い“Ninja”の軍団であっても、俺たちは協力しないぞ!』

「……と言っています」

 廊下から聞こえてくるイタリア語を、イタリア駐在公使を務めた経験がある牧野さんが、困惑の表情で翻訳する。

「悪夢だわ……」

 私が大きなため息をついて天を仰ぐと、

「梨花さま、落ち着いてください」

「大山閣下のおっしゃる通りです。別に、あの2人は、内府殿下に危害を加えようと考えているわけではないのですから」

私の横に座る大山さんと、私の前にある椅子に座る児玉さんが、すかさず私をなだめた。

 なぜ私が、児玉自動車学校で、こんな拷問を受けることになってしまったのか……それを説明するには先々月に発生した、イタリアのマフィアによる中央情報院のロシアの拠点への襲撃という、前代未聞の事件が発生した背景を語らなければならない。

 関東大震災が発生した直後、数年間軟禁されていた館から脱走したイタリアの王族、トリノ伯とアブルッツィ公のことを、イタリア政府は“インフルエンザで死んだ”と公表した。ところが、“流行作家・マリオ”として、原稿料を出版社に前借りし、逃亡に必要な資金を得たトリノ伯は、律儀にも、逃亡先から原稿を出版社に送った。出版社はその原稿を“遺作”として、本にまとめて出版したのだけれど、その本がイタリア国王、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の目に留まってしまったのだ。

――あのアンポンタンども!おとなしくしていればよいものを……もう許せん!

 怒り狂った国王は、臣下たちに、トリノ伯とアブルッツィ公の暗殺を命じた。しかし、臣下たちにはトリノ伯が書く小説のファンが多く、彼らは何やかやと理由をつけて国王の命令を拒んだ。痺れを切らした国王は、密かにマフィアと接触して、彼らにトリノ伯とアブルッツィ公の暗殺を依頼した。

 その依頼を引き受けたマフィアは、ロシアのガッチナという街で、小学校の用務員として働くイタリア国王の従弟たちを見つけた。そして、マフィアは標的(ターゲット)の住まいである小学校の職員寮――中央情報院の拠点――を襲撃し、標的(ターゲット)を殺そうとしたのだけれど、異変を察知した中央情報院の職員たちによって、マフィアは全員返り討ちにされてしまったのである。

 マフィアが院の拠点を襲撃している間もぐっすりと眠って目を覚まさなかったトリノ伯とアブルッツィ公は、翌朝、院の職員による尋問を受けた。トリノ伯とアブルッツィ公は、自分たちが寝泊まりしていた職員寮が、日本の諜報機関の関係施設であることを知ると、自分たちはイタリアの王族であるとあっさり白状した。そして、

――日本のNinja軍団なら、内府内親王殿下にも会うことができるだろう!私たちを日本に連れて行って、あの美しい姫君に会わせろ!そうすれば、お前らに全面的に協力する!

――要求が容れられないのであれば、俺たちはここを逃げ出して、ロシアの警察に駆け込むぞ。そして、ここがNinjaの拠点であると密告してやる。アルプスの断崖絶壁に比べれば、こんな建物、脱出するのは容易いな。

トリノ伯とアブルッツィ公はこう言って、院の職員たちを脅迫した。時には、自分たちを監視している人間を殴ったり、部屋の備品を壊してみたり……。並々ならぬ筋力を発揮して交渉を試みようとするイタリアの王族に、ガッチナの拠点の責任者である乃木保典(やすすけ)さんは手を焼き、“いかがすべきや”と、東京の中央情報院本部にお伺いを立てた。その結果、トリノ伯とアブルッツィ公は東京に移送され、中央情報院の支部でもある児玉自動車学校で身柄を預かることになったのだけれど……。

「私、帰る」

 トリノ伯とアブルッツィ公が日本へとやって来てしまった経緯を思い出して絶望した私が、応接室の椅子から立ち上がろうとすると、

「なりませんよ、梨花さま」

大山さんが私の両肩を強い力で押さえつけた。

「そうですぞ。陛下も梨花会でおっしゃっておられたでしょう。あの2人の身柄を我が国で押さえておけば、イタリアに対する強力な切り札として使えます。それは将来、日英同盟を存続させるための材料にもなりますし……」

「確かにそうかもしれませんけど、納得できないんです!」

 真剣なのかふざけているのか分からない顔で私を説得しようとする児玉さんに、私は怒りをぶちまけた。

「なんで私、セクハラ野郎と登山マニアに会わないといけないんですか!」

「内府殿下、これも国益のためです。お気持ちは、重々承知しておりますが……どうか、ご辛抱ください」

 なおも怒りに震える私を、牧野さんが必死になだめる。牧野さんが言うなら仕方ない、と、私が湧き上がる怒りを何とか抑え込んだ時、応接室のドアがノックされた。

『うおおっ!素晴らしい(ブラービィ)!内府内親王殿下だ!30年近くの時を経て、ますます美しさと知性を増している!』

『ああ、兄者!写真も美しかったが、間近で拝見すると、美しさが段違いだ!』

 私の姿を一目見るなり、ヨーロッパ人と思しき男性2人が、抱き合って号泣し始める。約30年の年月が、多少顔立ちを変化させてはいたけれど、この2人は、私にセクハラ行為を働いたトリノ伯と、私を登山に誘おうとしてトリノ伯との決闘騒ぎを起こしたアブルッツィ公で間違いない。

『様々な困難はあったが、生きて日本に来られてよかったな、弟よ!』

『ああ、兄者、本当に夢のようだ……』

「……と言っています」

 トリノ伯(セクハラ野郎)アブルッツィ公(登山マニア)の言葉を、牧野さんが渋い顔で翻訳する。

「カエレ!」

 私が反射的に2人に向かって叫ぶと、

「内府殿下」

「まぁまぁ、落ち着いてください」

大山さんと児玉さんが、同時に私をなだめる。私がやむなく口を閉じると、

「トリノ伯、アブルッツィ公、日本にようこそ」

児玉さんが日本語でこう言いながら立ち上がった。

「私はここの施設の責任者の児玉といいます。さて、そちらの要求通り、ここに内府殿下に来ていただきましたから、こちらの要求、飲んでいただきますぞ」

 児玉さんの言葉を牧野さんがフランス語に訳すと、

『ああ、もちろんだとも!』

茶色い背広服を着たトリノ伯がフランス語で答えた。

『うん、俺はルイージ・ヴェルディ、そして兄者はマリオ・ロッシとして、このNinja施設で裏方として働くのだ』

 続いて、青い背広服に身を包んだアブルッツィ公がフランス語で宣言すると、

『しかし、Ninjaが本当に存在していたとは……。事実は小説よりも奇なり、というやつだ。こんな面白い組織で働けることを光栄に思うぞ』

トリノ伯が妙に尊大な態度で私たちに言う。

「院の人は、忍者とはちょっと違う気がするんだけど……」

 厄介なイタリアの兄弟のフランス語を聞きながら、私が顔をしかめた時、

『ほう……あなた方は、大切なことをご存知ないようですなぁ』

大山さんがフランス語で、トリノ伯とアブルッツィ公に言った。

『ん?』

 大切なこと、とは一体何だろうか。トリノ伯とアブルッツィ公だけではなく、私も首を傾げると、

『実は、この中央情報院という組織は、内府殿下のご命令で創設されたものなのです』

大山さんはとんでもないことを言い始めた。

「は?!」

 私は思わず立ち上がり、我が臣下を睨みつけた。「あ、あなた、何言ってるの!そもそも、院ができた頃、私はまだ子供で……!」

「確かにそうかもしれませんが、臣下の功績はご主君の功績でございます」

 大山さんは私に意味不明な日本語の反論をすると、

『内府殿下のご命令で創設されてから、世界の陰謀の後ろには、常に中央情報院があります。その勢力の大きさは、あなた方も思い知ったでしょう』

呆然としているトリノ伯とアブルッツィ公に対して、フランス語で穏やかに語り掛ける。

「大山閣下のおっしゃる通り……中央情報院は世界を裏から操っているといっても過言ではありません。従って、世界は内府殿下が裏から支配しているのに等しいのです。……あなた方、内府殿下に対する崇敬の念が足りませんぞ。土下座して、内府殿下に許しを請いなさい」

 大山さんのフランス語を牧野さんに翻訳してもらった児玉さんが、日本語で2人に告げる。ニヤニヤ笑っている児玉さんが、この事態を完全に楽しんでいるのは明らかだった。

『『うおおおおっ!』』

 次の瞬間、むさ苦しい叫びを上げて、トリノ伯とアブルッツィ公が土下座した。正座の習慣がないイタリアの王族なのに、彼らの土下座は日本人の私から見ても妙に美しかった。

『ど、どうか、命ばかりはお助けを!我々は、内府内親王殿下に決して逆らいません!』

『俺たちは一介の日本人として、この日本で、兄者とともにNinja軍団のために働き、故郷には帰らない覚悟!どうかお慈悲をもって、俺たちに居場所をお与えください!』

「……と言っています」

 土下座とともに吐き出されたトリノ伯とアブルッツィ公のイタリア語を、牧野さんが機械的に翻訳する。そして、

「大山閣下も児玉閣下も、悪戯が過ぎますなぁ」

と呟いて、クスっと笑った。

「本当にねぇ……」

 私は左の手のひらを額に当ててうつむいた。「あの人たちの中での私のイメージ、滅茶苦茶なことになってそうなんですけれど……」

「しかし、内府殿下のことを、恐れるべき存在としてあの2人が認識すれば、あの2人が内府殿下に近づくようなことは絶対に起こりませんよ」

「それは、そうかもしれないですけどね……」

 慰めるように言う牧野さんに私がこう応じた時、応接室のドアが外から開いた。

「申し訳ありません、児玉理事長。遅れてしまいました」

 応接室に入ってきたのは、この児玉自動車学校の校長・秋山真之(さねゆき)さんだ。元は海兵士官として国軍に所属していた彼は、極東戦争の後で諜報畑に転じた。現在は児玉自動車学校の校長を務めながら、表向きは自動車学校の職員として働いている中央情報院の職員たちを統括している。

「おお、来たか、秋山」

 土下座するトリノ伯とアブルッツィ公を見下ろしていた児玉さんが、秋山さんに笑顔を向ける。「今、イタリアからの客人に、内府殿下の素晴らしさを教え込んでいたところでな」

(素晴らしさ、ねぇ……)

 それは“恐ろしさ”の間違いではないだろうか。心の中で私が児玉さんにツッコミを入れた瞬間、土下座していたトリノ伯とアブルッツィ公が顔を上げ、秋山さんの方を見る。すると、

『あっ!』

アブルッツィ公が驚愕の声を上げた。

『“アキヤマ”と言ったな……まさか貴殿は、極東戦争で日本の連合艦隊の参謀を務めていた秋山真之どのではないか?!』

 ふらふらと立ち上がり、フランス語で尋ねたアブルッツィ公に、

『ええ、その通りですが……』

秋山さんは怪訝な顔をして答える。

『やはり!』

 アブルッツィ公は、今度は嬉しそうに叫び、

『申し遅れた。俺はルイージ・ヴェルディ、かつては“アブルッツィ公”とも呼ばれた男だ!いや、俺はかつて、海軍に身を置いていたことがあってだな、内府内親王殿下の身柄を狙ったロシア艦隊の卑劣な攻撃から、内府内親王殿下を見事守り抜いた日本の連合艦隊の活躍には、拍手喝采したものだ!もしよければ、あの時の戦いのことを教えていただけないだろうか?』

と、フランス語で丁寧に秋山さんに依頼した。

『何っ?!それは本当か?!』

 トリノ伯もすっくと立ち上がり、

『それは是非、話を聞かせていただきたい!私はマリオ・ロッシ、“トリノ伯”とも呼ばれていた男。だが、そんなことはどうでもいい。私は愚弟とともに、あなたの武勇伝を聞かせていただきたいのだ。日本の連合艦隊が、廃帝ニコライの魔の手から内府内親王殿下を守り抜いた、その輝かしい一部始終を!』

熱っぽい口調で秋山さんに話しかける。頬を紅潮させた秋山さんは軽く頷くと、

『よろしいでしょう。我が連合艦隊が、ロシア帝国の魔の手から内府殿下をお守り申し上げた経緯、とくと教えて差し上げましょう!』

両方の拳を握りしめ、フランス語で力強く叫んだ。

「うあああ……」

 両腕で頭を抱えた私の隣で、

「そう言えば、軟禁される直前、アブルッツィ公はイタリア艦隊の司令官を務めていましたね」

牧野さんが顔に苦笑いを浮かべて呟いた。

「ふむ。あの3人、気が合いそうで何よりですな」

 秋山さんとトリノ伯とアブルッツィ公の会話を大山さんに翻訳してもらった児玉さんが満足げに笑う。

「3人とも、梨花さまを慕っておりますし」

「私にとっては迷惑でしかないわよ」

 微笑する大山さんに、私は吐き捨てるように言った。

「……大山さん、あの3人、桜島か十勝岳の火口にまとめて放り込んでもらっていいかな?」

「いけませんよ、梨花さま。秋山さんは日本の諜報の要ですし、トリノ伯とアブルッツィ公も、イタリアに対する大切な切り札なのですから」

 顔をしかめた私を、大山さんが優しくなだめる。けれど、大山さんの言葉には、どこか楽しげな響きが混じっているような気がしてならなかった。

『そして、アレクセーエフ率いるロシア太平洋艦隊の動きを察知した我が連合艦隊は、鬱陵島(うつりょうとう)を出撃したのです。時は1904年8月12日、午後9時でありました』

 私の前では、得意げな秋山さんが、トリノ伯とアブルッツィ公に、極東戦争の東朝鮮湾海戦のことを語っている。『うんうん』『なるほど!』などと合いの手を入れながら、トリノ伯(セクハラ野郎)アブルッツィ公(登山マニア)は、秋山さんの話に聞き入っていた。

(魔境だわ、ここは……)

 秋山さんとトリノ伯とアブルッツィ公によるフランス語の会話を聞きながら、私は深い深いため息をついた。

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いかがです? 彼らに配管工をやらせてみては……
私には見える。 文机を置いた秋山真之が講談師よろしく朗々たる語り口で日本海海戦のときを語るのが。
バカ兄弟with秋山弟・・・・ 火口に沈めようが、火口が破壊される未来しか予測出来ない騒がしさの塊としか・・・・ 本当にコントロール出来るのかね? っても何とかするだろうねぇ・・・・大山さんと児玉…
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