1927(大正12)年のお正月
1927(大正12)年1月2日日曜日午後2時30分、東京市麻布区盛岡町にある有栖川宮家盛岡町邸。
「いやあ、めでたい!実にめでたい!」
盛岡町邸本館の食堂の椅子に腰かけ、和菓子に舌鼓を打ちながら喜びの声を上げているのは、枢密顧問官の伊藤博文さんだ。私と初めて出会った時にはまだ40代だった彼も85歳になったけれど、足腰はちゃんとしているし頭脳は明晰で、私が彼に論戦で勝てる要素はまだどこにもない。
「陛下が、例の日をお乗り越え遊ばされた!昨日の新年拝賀、大元帥の御正装をまとわれた陛下のお姿、何と神々しかったことか……!聖天子とはまさに陛下のことであると、この伊藤、実感いたしました!」
「それは当たり前のことですよ、伊藤閣下」
伊藤さんの隣で、なぜか胸を張ってこう言ったのは、内閣総理大臣で与党・立憲自由党の総裁でもある原敬さんだ。兄に忠実に、数々の職務をこなす彼は、世間では、“辣腕の白髪宰相”と呼ばれて評判も高い。けれど、
「陛下は我が国始まって以来、最も素晴らしい聖天子であらせられるのです。その御徳を称え奉り、御稜威を世界にあまねく行き渡らせるのが、我々臣下の務めであります」
……非常に真面目な顔で一同に力説する原さんを見ていると、辣腕を振るう総理大臣と言うよりは、兄の狂信者……いや、熱心なファンと言うべきだと感じてしまう。これでも、私の隣に座っている栽仁殿下が、原さんに“史実”の記憶があることを知らないという事情を考慮して、猫をかぶっているのだ。……原さんが兄を慕ってくれていること自体は、非常にありがたいのだけれど。
と、
「心配する必要は全くないと思ったのだけれどねぇ」
原さんの斜め向かいに座った枢密顧問官の陸奥宗光さんが、ニヤッと笑って言った。それに続いて、
「陸奥閣下のおっしゃる通りではあります。しかし、俺は“史実”でのご最期を記憶しておりましたから、陛下がその通りのご最期を遂げられてしまうやもしれぬという不安を抱えておりました。この時の流れでの陛下がお健やかであらせられ、大正の御代が続くこと……誠に喜ばしく感じております」
国軍参謀本部長の斎藤実さんが、しみじみとした口調で述懐する。斎藤さんは“史実”で、兄が重態に陥ったという情報に接するやいなや、直ちに赴任先の朝鮮から日本に戻り、葉山で闘病している兄を連日見舞い、回復を祈ってくれたそうだ。だから、この時の流れでの兄が今も元気なことに、彼は深い感慨を覚えているのだろう。
「……本当、そうですね。兄上が例の時刻を過ぎても元気で、私も肩の荷が下りました。私が今までやってきたことは、無駄じゃなかったんだな、って」
私が斎藤さんの言葉に応じるようにして気持ちを吐き出すと、
「若宮殿下」
今まで黙っていた大山さんが、紺色の和服に同じ色の羽織をまとった栽仁殿下に向かって呼び掛けた。
「何でしょうか」
穏やかに返した夫に、
「“史実”で陛下が崩御なさった日のことは、若宮殿下も梨花さまからお聞きになったと存じますが、若宮殿下はどのようにお感じになっておられましたか?……実は、今から思い返すと、俺はこの件に関して、少々頭に血が上ってしまっていたようです。ですから、若宮殿下が今回の件をどのようにお考えになっていたかをお伺いして、今後の参考にできればと考えておりまして……」
大山さんは一気に言うと頭を下げる。
「……ようやく認めたのね。自分が冷静じゃなかったってこと」
私がため息をつくと、
「恐れながら、梨花さまも、この件に関しては、冷静なご判断をなさっていたとは言い難い時期もございましたが」
我が臣下は容赦なく私に指摘を加えた。
「仕方ないじゃない、肉親なんだもん。お母様のおかげで少しは吹っ切れたけれど、やっぱり、例の時刻の前後は気が気でなかったし……」
唇を尖らせて大山さんに反論する私を、栽仁殿下は「まぁまぁ」となだめると、
「僕の捉え方は、大山閣下の参考にはならないと思いますよ」
大山さんに苦笑いを向けた。
「もちろん、梨花さんを筆頭として、閣下方が今まで努力なさってきたのだから大丈夫だろう、という思いと、“史実”の通りに陛下が亡くなってしまうのではないかという恐怖と、その両方が心の中にありました。だけど、最終的には陛下はご無事だろうと思ったんです。万が一、陛下の御身に何か問題が起こっても、梨花さんがきっと何とかするだろうと信じていたので……」
「……私のことを、万能決戦兵器みたいに言わないでくれるかなぁ」
私が栽仁殿下を軽く睨むと、
「大変結構ではないですか」
陸奥さんが笑顔で言った。「内府殿下への深い愛の表れかと存じます」
「あのねぇ……」
私は思い切り顔をしかめたけれど、それで陸奥さんのニヤニヤ笑いが止まる訳がない。しかも大山さんと伊藤さん、更には原さんと斎藤さんまで、私に笑顔を向けている。私は咳払いをすると、
「それよりあなたたち、ここでのんびりしていていいんですか?お年始回りのお客様、あなたたちの家にも来るでしょう」
一同をじっと見つめながらこう言って、話題を変えようと試みた。
「内府殿下は不思議なことをおっしゃいますね」
陸奥さんが笑顔を崩さずに私に応じる。「年始回りの客に会いたくないから、こちらに参ったのですよ。あの連中に会うよりも、若宮殿下と内府殿下にお会いする方がはるかに有意義ですからね」
「わしも、同じ理由でございます」
「わたしもです」
陸奥さんの答えに伊藤さんと原さんが同調すると、
「俺は、少々事情が異なりまして……」
斎藤さんは恥ずかしそうに頭をかく。
「どういうことですか?」
栽仁殿下が尋ねると、
「実は、自宅にいると、挨拶に来た客と、つい、酒を飲んでしまいそうになるのですよ」
斎藤さんはこう答え、困ったように微笑んだ。
「特に今年は、陛下がご無事だったという喜びもありまして、つい酒を飲んで祝いたくなってしまいますので、盛岡町にお邪魔すれば、酒の誘惑に負けることはないだろう、と……」
「斎藤さんはもっと盛岡町邸にいていいですよ。何なら、お正月の間、泊まってもらってもいいです」
私が斎藤さんに反応すると、
「ところで、原閣下、1つお伺いしてもよろしいでしょうか」
栽仁殿下が姿勢を正し、原さんに声を掛けた。
「もし、機密保持の関係で答えられないのでしたら、お答えいただかなくても結構なのですが、日英同盟は更新されるのでしょうか?」
「若宮殿下でしたら問題はありませんので申し上げますが、明日、同盟を更新することで、イギリスと合意します。期間は10年後、1937年の1月までです」
原さんが恭しく回答すると、
「ただし、同盟が延長できたのは、日英両国の国民が考えているようなおめでたい理由からではないことは付け加えておきます」
陸奥さんが相変わらずの笑顔で栽仁殿下に言った。
「まさか、院を敵に回したら大変なことになるという判断と、私の皇帝に対する抑止力が同盟延長の理由だなんてねぇ……」
私はこう呟いて両肩を落とした。世間では、“日本は太平洋、イギリスは大西洋とインド洋の平和を守るために、日英同盟を更新したのだ”などと、能天気なことを言っている。しかし、イギリスは、大義を全うするために自国の利益を損なうような真似はしない。イギリスが日本との同盟を継続すると決めたのは、自国の諜報機関・MI6を上回る実力を持つ中央情報院は敵にせず、協力関係を継続する方が国益になるという判断と、イギリスの仮想敵国であるドイツの動きをいざとなれば操れる私を味方につけておきたいという考えからだ。イギリスは、あくまで自国の利益のために、日本との同盟を更新したのである。
「危なっかしい継続理由よね。皇帝が死んだら私は用済みだし、MI6だって、院に追いつけ追い越せで頑張ってるんでしょ。次の更新にイギリスが応じてくれるかどうか……」
顔をしかめた私に、
「だからこそ、禎仁王殿下も、俺たちも頑張るのでしょう」
大山さんは微笑みを向ける。
「“史実”のある時期には、アメリカのCIA、ソビエト連邦のKGB、イギリスのMI6が、諜報組織として有名だったということですが、この時の流れでは、中央情報院とMI6、そしてドイツの黒鷲機関が、世界の三大諜報機関ですな」
「……無茶苦茶な話よ」
大山さんの言葉を聞いた私は、またため息をつく。「小さい頃の私の話から設立された組織が、こんな化け物に成長するなんて。しかも、中央情報院の英語訳、“Central Intelligence Agency”なんでしょ。頭文字を取ったら“CIA”って、何の冗談かしらと言いたくなるわ」
「それが我が国の安全と国際的な地位の確立に一役買っているのですから、よいではありませんか」
私の愚痴に、陸奥さんが唇の端に微笑を閃かせて応じた時、食堂の扉が外からノックされる。全員が頷くのを確認してから、栽仁殿下が「どうぞ」と声を掛けると、我が有栖川宮家の別当で、中央情報院麻布分室の分室長でもある金子堅太郎さんが姿を現した。
「ご歓談中のところ、申し訳ございません」
「構わないですよ。何かありましたか?」
深々と頭を下げた金子さんに、栽仁殿下が尋ねると、
「はい、実は、赤坂から入った情報なのですが……」
金子さんは声を潜めて答える。“赤坂”というのは、この文脈では、赤坂御用地内にある中央情報院本部のことを指す。耳をそばだてた私たちに、
「ロシアのガッチナにある拠点で、表の方の職にイタリア人の男2人を雇ったのですが、その2人が、関東大震災の時に自殺して、公式には“インフルエンザに感染して死んだ”と発表されているイタリアの王族、トリノ伯とアブルッツィ公である疑いが出てきた、とのことです」
金子さんは信じられないことを告げた。
「その2人、消して」
私に武芸をさせるか登山をさせるかで決闘したバカ兄弟が、どうして生きているのだろうか。私が反射的にこう言うと、横から栽仁殿下が「まぁまぁ」と私をまたなだめた。
「梨花さん、落ち着いて。まだ“疑い”の段階なんだから。彼らの身柄をどう扱うかは、疑いをはっきりさせてからだよ」
「そうだけどさぁ……」
私が夫に向かって唇を尖らせると、
「ガッチナの院の拠点と言えば、確か、“史実”のレーニン……ウラジミール・イリノチ・ウリヤノフが校長を務めている小学校の職員寮でしたか、大山閣下?」
斎藤さんが大山さんに向かって質問した。
「ええ。今は、乃木さんの次男の保典が、責任者をしておりますな」
大山さんは答えるとニヤリと笑い、
「面白くなって参りましたな。もし本当に、その2人がトリノ伯とアブルッツィ公だとしたら、イタリアへの悪戯に色々と使えそうです」
と、楽しそうに言った。
「私はちっとも面白くないわよ」
私が大山さんに抗議すると、
「内府殿下の戯れ言は横に置いておくとして、これはイタリアも調べないといけないね」
陸奥さんが悪魔のような微笑を顔に浮かべて言った。
「もちろん明石殿なら、その辺りはよく心得ておいででしょう。わたしたちは、何も知らないふりをして、結果を待っていればよいのです」
冷静な口調で陸奥さんに応じた原さんに、
「はい。当人たちの素性もですが、イタリアの方も調査を開始しましたので、また情報が入ればお伝えいたします」
金子さんはそう告げると、一礼して食堂を去っていった。
(嫌な話だなぁ……)
せっかく、兄が危機を脱して、平和な年が迎えられたと思ったのに、気が滅入ってしまった。私が再び顔をしかめると、
「内府殿下、どんな結果になってもお心を乱されぬよう、胆を練るのが肝要でございましょう」
伊藤さんが私を見つめて言った。その顔には、“面白いことが始まった”と書いてあるような気がして、私はげんなりしてしまった。




