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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第79章 1926(大正11)年大寒~1926(大正11)年冬至
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あと10日

 1926(大正11)年12月8日水曜日午前10時20分、皇居・御学問所にある内大臣室。

 毎週水曜日の午前10時からは、余程のことが無い限り、表御殿で枢密院会議が開催される。兄は毎回出席するけれど、内大臣には出席する権利がないため、水曜日の午前10時以降は、私にとって、皇居内で自由に時間を使える貴重な機会である。その貴重な機会を利用して、怪盗アルセーヌ・ルパンが出てくるフランス語の小説を私が読んでいると、

「ああ、内府殿下、こちらにいらっしゃったのですか」

内大臣室のドアが開いて、宮内大臣の牧野伸顕(のぶあき)さんが顔を見せた。12月だというのに、牧野さんの額には汗が光っている。「どうしたんですか?」と私が尋ねると、

「いえ、内府殿下は、今は医療棟にいらっしゃるだろうと思い込んで、そちらに行ってしまいまして……だいぶ歩いてしまいました」

牧野さんはそう答え、ハンカチーフを取り出して汗をぬぐった。医療棟では今の時間、大日本医師会会長で永楽病院の院長でもある入沢(いりさわ)達吉(たつきち)先生が、侍医の先生方に最新の臨床医学の知識について講義している。もちろん、今日入沢先生を皇居に招いた真の目的は、“危険”とされる今日に発生してしまうかもしれない、兄の体調悪化に備えるためである。

「ごめんなさい、牧野さん。入沢先生の講義も聞きたかったのですけれど、体力を温存する方が優先だと思って、お昼まではここで休むことにしました。兄上と離れられる貴重な機会ですからね」

 私が牧野さんに謝罪して微笑すると、

「……内府殿下、今朝の陛下のご体調はいかがでしたか?」

牧野さんは私が勧めた椅子に腰かけ、私にこう尋ねた。

「今朝もバッチリ、良好ですよ」

 私は牧野さんに笑顔で答えた。「今朝の拝診所見に問題はありませんでした。私が兄上の診察をしようとすると兄上に怪しまれるので、私は兄上を直接診察していませんけれど、御学問所で顔を合わせた限りでは、健康状態に問題はないように見えました。今日は例の“危険”とされる日ですけれど、これなら大丈夫ではないかと思います」

「そうですか、それはよかった」

 牧野さんは明らかに安堵したように首を縦に振った。「私も陛下の拝診録には目を通しておりますが、本当に陛下のご体調に問題がないのか……医学の専門家ではないので確信できないのです。しかし、医師でもあらせられる内府殿下が、拝診録をご覧になって問題ないと判断なさったのであれば、間違いなく問題ないのでしょう」

「ええ。今日は、入沢先生が夕方までいてくれます。夜も、侍医の先生方が当直体制を強化してくれますから、兄上のことは、まず大丈夫だと思いますよ」

 私がこう言うと、牧野さんはジッと私の顔を見て、

「内府殿下のお顔が、少し、明るくなったような気が致します」

と言った。

「私など、陛下の御身に万が一のことが起きてしまったら……と、毎日、戦々恐々としているのですが……」

「私だってそうですよ」

 私は牧野さんに苦笑いを向けた。「ただ、兄上を守るために、やるだけのことはやっている……って、ちょっと吹っ切れたのかもしれません。兄上を“史実”と同じように死なせないために、私はこの35年間、頑張ってきたんですし……」

「はっ……」

 私に頭を下げた牧野さんに、

「あ、でも、私の顔が明るくなったのは、表向きは“医療行為法”が上手くいきそうだから、ということにしておいてくださいね」

私は慌てて注意した。細かいところから情報が漏れないように注意しないと、私たちの考えていることが兄に露見してしまう。

「かしこまりました」

 牧野さんが私に答えて微笑むと、

「ところで、24日の夜の口実は、上手く作れそうですか?」

私は懸念事項の1つを彼に確認した。

「ちょうどよい具合に、溜まってきております。中には、荒唐無稽なものもございますが……」

「ま、それはいつも通りですから、余り気にしていませんよ」

 少し困ったように言う牧野さんにこう返すと、

「もし量が足りないようなら、“医療行為法の最後の見直しが必要”と言って誤魔化します」

と私は笑顔で付け加えた。

「じゃあ、牧野さん、今日も何事も無く乗り切りましょう。よろしくお願いします」

「はい、こちらこそ。……しかし、内府殿下のご様子を見ておりましたら、何も起こらないだろうという考えが強くなってまいりました」

 牧野さんは私に一礼して言うと、微笑んで内大臣室から退出した。


 1926(大正11)年12月15日水曜日午前10時45分、宮内省・大臣室。

「今のところ、落ち着いておりますね」

 大臣室のソファに腰を下ろした私に、宮内大臣の牧野さんが穏やかな口調で話しかけた。

「そうですね」

 私は牧野さんに頷くと、出された緑茶を一口飲んだ。

「今日の拝診録も問題なかったし、今朝の政務の時も、兄上は見た限りでは健康そのものでした。今日も先週の水曜日と同じように、侍医の先生方への講義をする、という名目で、三浦先生が来てくれていますから、何があっても大丈夫ですよ」

 今日は“史実”で、兄の病状が悪化していることが官報で発表された日である。梨花会の中では“危険”と認識されている日なので、私たちは今日も、兄の健康状態の急変に備えて、兄に悟られないようにしながら、様々な手を打っている。今日と同じく“危険”とされた12月8日は無事に乗り切ったので、今日を乗り越えれば、あとは“史実”の崩御の時刻、12月25日午前1時25分を無事に乗り切ればいいだけだ。

「確かに、内府殿下のおっしゃる通りです」

 微笑んだ牧野さんは、左手首の腕時計に目をやり、

「さて、そろそろ、有栖川宮(ありすがわのみや)殿下と渋沢閣下たちがいらっしゃる時刻ですが……」

と呟く。その言葉に呼応するかのように、大臣室の前の廊下が急に騒がしくなった。

(あれ?)

 今日の10時50分に、この大臣室に打ち合わせにやってくるのは、私の義父・有栖川宮威仁(たけひと)親王殿下、貴族院議員の渋沢さんと西園寺さんと桂さん、国軍参謀本部長の斎藤さん、そして児玉さんと大山さんの7人のはずだ。けれど、廊下には、どう考えても10人以上の気配がある。一体どういうことだろうか、と私が訝しく思った瞬間、

「いやぁ、今日も陛下がお元気そうで、本当に良かった!」

枢密顧問官の1人である伊藤さんが、嬉しそうに叫びながら大臣室に飛び込んだ。その後ろには、枢密院議長の黒田さんや、内閣総理大臣の原さんがいる。……どうやら、枢密顧問官と国務大臣で、梨花会に入っている人は全員いるようだ。更には、義父たちも姿を見せていて、大臣室は一気に賑やかになった。

「あの……枢密院会議、もう終わったんですか?」

 確かに、枢密院会議が終わり次第、それに出席していた梨花会の面々も打ち合わせに合流する予定だった。ただ、今日の議題の数から考えると、会議の終了時刻が早いような気がする。

「議論が順調に進みましてね」

 私の質問に黒田さんが答えると、

「しかし、陛下が終了直前に、“医療行為法”の件をご下問になった時は肝を冷やしました。内府殿下が医療行為法でお悩みになっているフリをなさっているのが、陛下に露見したのかと思いまして……」

その横から内務大臣の後藤さんがこんなことを言う。彼の顔は、心なしか青ざめていた。

「しかし、若槻厚生大臣に事前に言い含めておりましたから、切り抜けられたではないですか。内府殿下が成立過程に関わっていなければ、貴族院の無所属議員たちを納得させるのが難しくなるという彼の説明に、陛下もご納得されておられましたからね」

 後藤さんをなだめるような調子で言った原さんは、

「それより、12月25日の未明をどう乗り切るか、考えなければなりません。何としてでも、万が一のことが起こらないようにしなければ!」

決意を新たにして叫ぶと、左の拳を握りしめた。

「それは大丈夫ではないでしょうか、原さん」

 斎藤さんが呆れたように原さんに応じる。「陛下はご健康そのものです。“史実”では無かった抗生物質も種々ありますし、万が一、ここから肺炎にかかられたとしても、崩御あらせられるようなことはないのでは……」

 すると、

「何を言っているのですか、斎藤さん。陛下が感染なさった細菌が、抗生物質の効かない細菌ならどうするのですか?!」

原さんがものすごい目つきで斎藤さんを睨んだ。

「そうじゃ、そうじゃ!それに、“史実”でわしが殺された日、この時の流れでも、ハルビン事件で袁世凱(えんせいがい)が暗殺された!それと同じようなことが、陛下の御身には起こらないという保証はあるのか?!」

 原さんの横から、伊藤さんも鋭い視線を斎藤さんに突き刺す。大山さんと威仁親王殿下も、斎藤さんに恐ろしい眼を向けており、斎藤さんは思わず1歩退いた。

「やれやれ、伊藤殿を落ち着かせるのが面倒ですね。山縣殿か井上殿が健在なら、僕も少しは楽ができるのでしょうが……」

 その時、前髪を掻き上げながら、枢密顧問官の陸奥宗光さんが大臣室の中央へと進み出た。主演俳優がさっそうと舞台に現れるかのように一同の中心に立った陸奥さんに、その場にいる全員の視線が集まる。その陸奥さんは私に視線を投げると、

「ですから、内府殿下に手伝っていただきましょうか」

そう言ってニヤリと笑った。

「面倒なことを私に押し付けないでくださいよ……」

 私はため息をついたけれど、大臣室に漂っている嫌な空気を放ってもおけないので、

「伊藤さん、私たち、やれることは全部やっていますよ」

こう言いながら、伊藤さんに向き直った。

「今年の避暑先は、兄上が“史実”で亡くなった地である葉山ではなく、日光にしました。兄上の健康状態にも問題はありませんし、“危険”な日の侍医さんたちの備えもバッチリです。御殿の温度管理や側仕えの人間の健康管理、兄上の食事の栄養管理、兄上のストレス発散……思いつくことは全てやっています。それだけではありません。私が今生で医者になると決心してから35年、私も、伊藤さんたちも、兄上を守るために、兄上に健康に過ごしてもらうために、やれるだけのことをやってきたんです。だから……あとは、運を天に任せていいと思います」

 いつの間にか静まり返った大臣室に、

「……大変結構ですね」

ニヤニヤ笑い続けていた陸奥さんの声が響く。

「人事を尽くして天命を待つ……事ここに至れば、それでいいではありませんか。ジタバタしないで、腹を括るべきでしょう。……ねぇ、伊藤殿」

「……そうじゃな」

 陸奥さんの言葉に、伊藤さんが深く頷く。その顔からは、先ほどまであった険しさがなくなっていた。

「なるほど。久しぶりに、嫁御寮どのに教えられましたね」

 義父が伊藤さんの隣で感心したように言うと、

「ところで、24日から25日にかけての段取りを、一度確認したいのだがのう」

後藤さんの隣にいた枢密顧問官の西郷さんがのんびりと一同に問うた。

「24日の夜は、私、皇居に泊まることにしています」

 私は頭の中で手順を確認しながら答え始めた。

「皇居に泊まる理由は、仕事を片付けなければならない、ということにします。……牧野さん、私が24日の夜に片付ける仕事の量はどうですか?」

「十分な量を確保致しました。これなら、陛下からご下問があっても誤魔化せるかと」

 牧野さんは私に最敬礼した。彼の表情はいつもと変わらず穏やかだった。

「それで、例の時刻……12月25日の午前1時25分になったら、兄上の無事を確認します。当直の侍従さんと侍従武官さんが、奥御殿を見回りするのについて行ければいいですけれど、兄上に近づきすぎると、私がいるはずのない奥御殿にいることを、兄上が気配で察してしまうし……難しいですね」

「まぁ、そこは何とかなりますよ」

 大臣室の後方にいた児玉さんが私に言った。「万が一、陛下の御身に何かが起これば、絶対に大騒ぎになりますから、表御座所にいらっしゃっても、それと察することができましょう」

 確かに、児玉さんの言う通りだ。それなら、深夜に奥御殿に行く必要はないと考えた時、

「梨花会の面々には、陛下のご様子をどのように伝えるのですか?」

黒田さんが私に真剣な眼差しを向けて尋ねた。

「例の時刻を過ぎて、兄上の状況が分かったら、内大臣室から連絡をするつもりですけれど、余りに長時間電話を使うと、当直の侍従さんに怪しまれるので、盛岡町に電話を入れて、そこから必要なところに連絡を回すことにしています」

 私が黒田さんに答えると、

「遅くまで起きているのは構わないのですがね」

義父の威仁親王殿下がやや不満げに言った。

万智子(まちこ)たちも流石に午前1時過ぎまでは起きていないでしょうし、しかも、嫁御寮どのから電話を受けた後、私が皆の家に電話を掛けなければならないというのは……」

「あの、お義父(とう)さま、院の広瀬さんを借りることにしています。連絡役は彼にやってもらいますから、お義父(とう)さまが電話を掛ける必要はありません。……当日、盛岡町に来ていただくのは構いませんけれど」

 義父に気圧されながら私がこう言うと、

「恐れながら、梨花さま」

今まで黙っていた我が臣下が、私にずいっと身体を近づけた。

「その連絡、(おい)が致しますから、梨花さまは陛下のご無事を確認なさったら、電話などなさらずすぐお休みに……」

「ダメ」

 私は大山さんの申し出を一言で断った。

「なぜでございますか」

「なぜ、って……大山さんに徹夜をさせるわけにはいかないでしょ!」

 気色ばむ大山さんに、私は言葉を叩きつけた。

「兄上は無事だったけど、大山さんが徹夜して体調を崩して死ぬなんてことになったら、私、絶対許さないわよ!大山さんが元気なのは私も分かっているけれど、80歳超え(いいとし)なんだから、今回は自宅で待機して、25日に私が寝不足で倒れた場合に備えてちょうだい。……いい?これは命令よ!」

 大山さんはため息をつくと「かしこまりました」と私に一礼する。彼の顔は明らかに不満そうだ。でも、大山さんの健康を守るために、私の命令には絶対従ってもらわなければならない。

「他の皆もよ」

 私は大山さんから視線を外し、一同の顔を順々に見つめた。

「兄上のことが心配だからと言って、1時25分まで起きているのは禁止です。12月25日は帝国議会の開院式もあるのだから、少しでも身体を休めて、翌日に備えてください。……あ、あと、“自分の命はどうなってもいいから、天皇陛下を守って欲しい”、なんて神仏に祈るのもダメですよ。みんな元気に、元気な兄上を貴族院で出迎えるのが今回の目標ですからね!」

 すると、原さんの顔がサッと青ざめた。……どうやら、私が“祈るな”と言った内容を祈ろうとしていたようだ。それは絶対困るから、後で陸奥さんと一緒に説得しておこう。

「それじゃあ、みんな、これから頑張りましょう!」

 私の声に、大臣室に集った一同が、一斉に頭を下げた。


 “史実”での兄の崩御の日、1926年12月25日まで、あと10日……。

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