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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第79章 1926(大正11)年大寒~1926(大正11)年冬至
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分かれ道

 1926(大正11)年10月31日土曜日午後2時5分、赤坂御用地内にある鞍馬宮(くらまのみや)邸の別館。

「なるほど。それが事件の流れですね」

 別館の玄関脇にある部屋。呟いて眉をひそめた私の前で恐縮したように一礼したのは、日本の非公式の諜報機関・中央情報院の総裁である明石元二郎(もとじろう)さんだ。中央情報院の本部であるこの別館に、私と大山さんは今回も、兄と節子(さだこ)さまの東宮仮御所への行幸啓の機会を利用して訪れていた。

「……もう一度確認しますけれど、ヴェニゼロスさんがギリシャ本国から出て行ったのって、7月でしたっけ?」

「はい。全ての公的役職を剥奪され、故郷のクレタ自治州に戻りました」

 明石さんが答えてくれたのは、ギリシャ王国の前首相、エレフテリオス・ヴェニゼロスさんのことだ。昨年発生したブルガリアの内乱に関与していたヴェニゼロスさんは、中央情報院とイギリスの諜報機関・MI6(エムアイシックス)が仕掛けた作戦により、ギリシャ国内での全ての影響力を失った。そして、失意の中、故郷のクレタ島……正確には、オスマン帝国のクレタ自治州に戻り、隠遁生活に入った。

 ところが、その彼の姿が消えてしまったのだ。

 10月のある朝、ヴェニゼロスさんの家に新聞配達に来た青年が、いつもはピッタリ閉ざされている家の門が開いているのに気が付いた。不審に思って敷地の中に入ると、家のドアも開きっ放しだった。青年は家の中をのぞいて声を掛けたけれど、中には誰もいなかった。

「……それで、警察が家の中に踏み込んだら、家は足の踏み場もないくらい荒らされていて、床には血が点々と落ちていた。そして、ヴェニゼロスさんの寝室と思しき部屋にあったベッドは、血まみれになっていた。もちろん、家には誰もいなかった。それどころか死体も見つからなかった……」

 私が、ヴェニゼロスさんの家に警察が踏み込んだ時の状況をおさらいすると、

「……ちと妙ですな」

私の右隣に座っている大山さんが、顎を撫でながら言った。

「人を傷つけたり、金目のものを探して家探しをしたりしたならば、大きな物音がしたはずです。それが、その音を聞いた者が誰もいない、とは」

「まぁ、ヴェニゼロスさんの家、街の中心部からは離れていて、近所に家は無かったというから、そこを考慮に入れれば何とか納得できるけれど……ヴェニゼロスさんの死体が見つからないっていうのは変よね。死体を引きずった跡も無いみたいだし……。でも、クレタ島の警察は、“行きずりの強盗による犯行”って早々に結論付けたんでしょ。どう考えても怪しいわ」

 悩ましげな表情をしながら首をひねる大山さんに同調して、私も疑問点を挙げていると、

「クレタ自治州の警察は、かつてギリシャの首相を務めていたヴェニゼロスの扱いに困っていたようです」

明石さんは私たちにこう言った。

「元々、クレタ自治州は、1908年に、オスマン帝国からの独立とギリシャとの合併を宣言していますが、それは国際的には認められていません。しかし、ヴェニゼロスは、“自分は本国の前首相なのだから、厳重な警護をしろ”と警察に要求したようです。それを伝え聞いたオスマン帝国が、ヴェニゼロスの要求に難色を示したことで、クレタ自治州の警察の内部では、オスマン帝国の言うことに従って通常通りの警備をするか、それともそれを無視して、ヴェニゼロスに対して厳重な警護体制を敷くか、意見が分かれたそうです」

「それは不思議ですな」

 大山さんの目が光った。「クレタ自治州は、国際的には認められてはいないとは言え、オスマン帝国からの独立を宣言しているでしょう。今更オスマン帝国の言い分を採用するのはおかしいと思いますが」

「実は、クレタ自治州の事情によるものです」

 大山さんの問いに、明石さんは冷静に答えた。「クレタ自治州には、財力はさほどありません。ヴェニゼロスが要求する警備を行うと、自治州に過大な出費が強いられてしまいます。そこで今回は、わざとオスマン帝国の言い分を採用して、出費を抑えることにしたようです。ヴェニゼロスの家の周辺には、警察によって見張り小屋がいくつか建てられましたが、警官はそこに全く配置されていなかったとのこと」

「つまり、“あなたのことは厳重に警備している”という姿勢だけヴェニゼロスさんに示して、ヴェニゼロスさんを満足させようとしたということですね」

 私が確認すると、

「仰せの通りです。そんな経緯がありますので、警察は早々に事件を闇に葬ろうとしております」

明石さんはこう言って、再び私に頭を下げた。

「なるほど。……でも、肝心なことが分からないままですね。ヴェニゼロスさんは死んだのか、それともどこかで生きているのか……」

「はい、それは大問題でございます」

 私の言葉に、明石さんは微かに顔をしかめて応じた。

「院でも、MI6でも、ヴェニゼロスの行方を捜しておりますが、一向に見つけられません。ブルガリアの前王・フェルディナントのように、人知れず既に死んでいるか、あるいは……」

「院とMI6に匹敵するような組織……例えば、黒鷲機関などが、ヴェニゼロスをかくまっているか……ですな」

 大山さんがこう言うと、明石さんが大山さんに黙って頭を下げた。

「ほとぼりが冷めたところで、ヴェニゼロスさんをギリシャに戻して、ギリシャへのドイツの影響力を大きくしたいという考えがあるのでしょうか。でも、ギリシャはイギリスの影響力が強い国です。そう簡単に、ギリシャへのドイツの影響力を大きくするなんてことはできないと思いますけれど……」

 私が自分の考えを述べて首を傾げると、

「ギリシャではなく、他の国に潜り込ませるのかもしれません。ヴェニゼロスは国際情勢を読む力に長けてはいませんが、頭も切れますし、政治家としての腕は確かです」

我が臣下はこんなことを言い始める。

「だとしても、彼を受け入れようと考える国は、なかなか現れないと思うわよ」

「それに、別に、受け入れ先が“国”でなくても構わないのですよ、梨花さま」

 私の反論に、大山さんはニヤリと笑って応じた。「諜報組織や犯罪組織の長、あるいは参謀役……ヴェニゼロスの才幹は、そのようなところでも生かすことができます」

「滅茶苦茶な話になってきたわよ」

 私はため息をついた。「私の存在も滅茶苦茶だと思うけれど、ギリシャの政治家がドイツの諜報機関を牛耳るなんて、どんな荒唐無稽な三文小説なの?」

 すると、

「犯罪組織……という点で言えば、最近、イタリアのマフィアがロシアに出張っているという情報もあります」

明石さんが私と大山さんの話に割って入ってきた。

「内府殿下。ヴェニゼロスの行方に関しては、あらゆる可能性を排除してはならないと私は考えています。たとえそれが、荒唐無稽なものであっても、です」

「……訳が分からなくなってきました」

 私は両腕で頭を抱えた。

「おや、梨花さま。この程度で音を上げられますか?」

 そんな私に、大山さんは無慈悲な言葉を投げる。

「無理よ。他にも色々考えないといけないことがあるんだから」

 私が言い返すと、

「ほう、例えばどんなことでございますか?」

大山さんは容赦の無い質問をしてくる。

(それ、今ここで聞くことかなぁ?)

 そう思いながらも、

「……医療行為の統一価格制定のことよ。この時代で医者になってからの宿願が、ようやく叶いそうなんだから」

私はとっさに大山さんに答えた。……本当のことを、明石さんの前で言う訳にはいかない。

 ところが、

「恐れながら、内府殿下がお悩みなのは、そのことではないはずです」

中央情報院の総裁は、私をじっと見つめながら言った。

「陛下が、“史実”と同じような御病状に陥ってしまわれ、崩御なさるようなことになりはしないか……そのことをずっと考え、恐れておられるはずです」

「あ、明石さん……あなた、どうしてそのことを?!」

 思わず立ち上がった私に、

「7月に、大山閣下のご自宅で行われた会合の件については、大山閣下にお伺いしました」

明石さんは神妙な面持ちで答えると、私に向かって最敬礼した。

「確か、“史実”の崩御の日取りは12月25日、それ以前に10月27日と29日、そして12月8日に御病状の悪化があり、12月15日の官報号外で、御病状悪化のことが一般にも公になったと伺いましたが……」

「はい……」

 私は頷くと、椅子に座り直した。

「確か、それ以前の御病状の悪化が見られた日……9月11日も、内府殿下は陛下の万が一のご体調悪化に備えておられたと大山閣下から伺いました。10月27日、そして29日……つまり3日前と昨日でございますが、その2日間も、内府殿下は陛下のご体調の悪化に備えておいでだったのでしょうか?」

「ええ。27日も29日も、医療行為の統一価格制定のために医師の意見を聞く……という名目で、大日本医師会の幹部や、各地の帝国大学医科大学の教授を、内大臣室に呼びました。もちろん、ちゃんと仕事をしないと、兄上に事が露見してしまうので、医師たちと面談して意見を聴取しながら、万が一の事態に備えていました。夜も、侍医さんたちの当直体制を強化してもらって、緊急事態の発生に備えましたけれど、幸い、何事も起こりませんでした」

 明石さんの質問に具体的に答えると、

「恐れながら……内府殿下、お疲れになったのではありませんか?」

明石さんは心配そうな表情になった。

「いえ、それほどでも……徹夜はしませんでしたし……」

 私が首を左右に振ると、

「大山閣下」

明石さんはなぜか、大山さんの方を向いた。

「恐れながら、内府殿下のご疲労は甚だしいようにお見受け致します」

「何を言うのですか、明石君。内府殿下ご自身が先ほど、“それほどでもない”とおっしゃったばかりではないですか」

「あ、あの、明石さん、私、そんな疲れているという訳では……」

 大山さんと私、2人同時の反論を、

「内府殿下がお元気であれば、今のヴェニゼロスの話だけで頭を抱えてしまわれるということはありません」

明石さんは一言で封じてしまった。

「陛下は勘が鋭い方、万が一、内府殿下にご疲労があることを見抜かれれば、そこから、“史実”の陛下のご寿命のことが露見するやもしれません。それに、内府殿下は陛下を輔弼なさる激務を続けていらっしゃいます。このまま、陛下が体調を崩されるかもしれない日に備え続ければ、内府殿下が、ご疲労からご体調を崩されてしまいます!」

 ……確かにその通りだ。明石さんが言っていることは正しい。正しいの、だけれど……。

「この時の流れでの陛下は、まさにご健康そのもの。病の影などどこにもありません。“史実”の崩御の日は仕方ないかもしれませんが、それ以外の、ご体調を崩される可能性があるとされている日は、もう警戒をなさらなくてもよいのではありませんか?!」

「明石君」

「大山さん」

 何事か反論しようとした大山さんの前に、私は前を向いたまま右腕を真っ直ぐに伸ばした。大山さんが渋々口を閉じたのを確認すると、

「お気持ちは大変ありがたいです、明石さん」

私は明石さんに身体を向け直した。

「私も、頭では分かっているのです。この時の流れでの兄上は健康そのもので、“史実”の兄上と同じような病気に突然かかる可能性は、医学的に見て1%……いや、それよりもっと低い確率だというのは。けれど、100%起こらないとは言い切れません。0.01%でも、兄上が体調を崩して亡くなってしまう可能性があるのなら、私は、その0.01%に備えずにはいられないのです」

「内府殿下……」

「いくら自分を安心させようとしても、不安に襲われてしまいます。自分が納得できる説明を、いくつもいくつも積み重ねても……。その不安を打ち消す方法はただ一つ、“危険”とされる日に、兄上が万が一体調を崩した場合にすぐ対応できるような体制を整えておくことだけなのです。……明石さん、間違っても、兄上に“史実”のことを悟らせるようなヘマはしないつもりです。だから、“危険”とされる日には、備えさせてください」

「梨花さま……」

 私が明石さんに向かって頭を下げると、大山さんが困惑したように私を呼んだ。

「梨花さまが明石君に頭を下げる必要は無いのでは……」

「うん、分かってる……」

 前世はどうあれ、今の私は内親王で内大臣……明石さんに頭を下げなくていいのは百も承知だ。けれど、この時の私は、どうしても明石さんに頭を下げずにはいられなかった。

「面をお上げください、内府殿下」

 明石さんがなだめるように私に言った。その声に従って素直に頭を上げると、

「内府殿下のご覚悟はよく分かりました」

明石さんは最敬礼しながら私に言った。

「しかし、内府殿下……。計画を完璧に実行するためには、内府殿下のお身体を、健康に保つことが必要です。どうか、少しでもお休みになって、ご自身のご健康のこともお考えくださいますよう……」

「ありがとうございます」

 また大山さんに注意されそうな気がしたけれど、私は再び、明石さんに一礼した。


 鞍馬宮邸別館の玄関を出ると、まぶしい太陽の光に目を射抜かれた。私は慌てて右手を目の上に当て、目を光から守った。注意しながら頭を上に向けると、抜けるような青空の所々に、羽毛のような白い雲が広がっているのが見えた。

「今日は、いい天気だね……」

 私の呟きに、隣にいる大山さんが「ええ」と相槌を打つ。私は空をちらちら見ながら、東宮仮御所の方へ続く小道に足を踏み入れた。

 大山さんにエスコートされながら、しばらく無言で歩いていると、分かれ道に出た。右の方へ行けば、今、兄と節子さまが滞在している東宮仮御所に着く。左の道は、お母様(おたたさま)の住まい・東京大宮(おおみや)御所に続いている。

(そうだ、お母様(おたたさま)……)

 ふと、お母様(おたたさま)に甘えたい、という思いが、私の心の中に芽生えた。“史実”で今年の12月25日に崩御してしまった兄を、この時の流れでは何としてでも守りたい。けれど、それが上手くいくのかどうか、不安に蝕まれる私の心を、お母様(おたたさま)に打ち明けられたなら……。

「大山さん」

 分かれ道のところで立ち止まった私は、大山さんを呼んだ。

「何でございましょうか」

「私、お母様(おたたさま)のところに行きたい。今から会って、話がしたい。大山さん、兄上に、先に皇居に戻ってくださいって伝えてもらっていいかな?」

「お気持ちに応えたいのは、山々でございますが……」

 すると、私の手を握ったまま、大山さんは首を左右に振った。

「皇太后陛下は、ただいま京都に行啓中でございます」

「ああ、そうだったわね……」

 私は両肩を落とした。そう言えば、先週の土曜日、お母様(おたたさま)は行啓前の挨拶をするために参内していた。

「ですが、来月の5日には、東京にお戻りになられます」

 気落ちする私に、大山さんは優しく告げると微笑みを向けた。

「ですから、お戻りになった後で皇太后陛下にお会いになればよろしいでしょう。……ご安心ください。世間にも目立たず、陛下にも真の理由を悟らせないように、梨花さまが皇太后陛下にお会いになれるよう、(おい)が策を立てさせていただきます」

 そう言うと、大山さんはじっと私を見つめる。優しくて暖かい瞳の光が、そっと私を包み込んだ。

「……じゃあ、お母様(おたたさま)と会う件、よろしくお願いね、大山さん」

 私はやっと、大山さんに笑顔を向けることができた。

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― 新着の感想 ―
ヴェニゼロスさんのゆくえ ああ。そういう事ね… 本当に、ぶちぎれてんですね、あのお方。馬鹿2人の為にここまでやるとは…
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