悪童
1910(明治43)年6月9日木曜日午後1時15分、有栖川宮家葉山別邸。
「どうして、中央情報院のことを知っているのですか?」
応接間近くの縁側に、私と並んで腰かけた宮内省の職員……実は日本の非公式の諜報機関・中央情報院の職員である石原莞爾さんは、驚いたような表情で私を見つめた。中央情報院の存在を知る人間は、皇族の中にもほとんどいない。だから、私が院のことを知っているのが意外だったのだろう。
「本部がある青山御殿に、私は4月まで住んでいました。だから、そこの別館が何に使われているかぐらいは知っています」
私は慎重に、石原さんに答え始めた。
「それに、院の前総裁の大山さんは、私の臣下です。臣下のやっていることを、主君が知らないはずがないでしょう?」
本当は、私が大山さんに出し抜かれることはしょっちゅうあるし、大山さんが手がけていることで私が知らないこともたくさんある。けれど、それはおくびにも出さないようにして、私は石原さんに説明した。一度石原さんに弱みを見せてしまえば、私が皇族であっても、彼は容赦なく私を見下すだろう。そんな気がするから、油断が出来ない。
「なるほど」
石原さんは頷くと、
「では、俺が中央情報院に入ったことも、報告を受けていたのですか?」
私に怖気づくことなく、すぐに私に次の質問をする。私の近くに遠慮なしに座っていることと言い、先ほどの私を値踏みするような視線と言い、本当に彼は度胸がある。それとも、既に私のことを自分より下に見ているか。
「……と言うよりは、見て分かりました」
院の新入職員のことまでは、いちいち大山さんから報告を受けている訳ではない。けれど、敢えてそのことには触れず、私は自分の思考過程を、差しさわりの無い範囲で話すことにした。
「そのフロックコートは真新しい。それに、あなたが部屋に入ってきた時、動作が少しぎこちなかったのです。だから、新入職員さんだろうと思いました。今の時期に宮内省に入る職員は、院に抜擢されて、身分を偽装するために宮内省に勤務する場合がほとんどです。だからあなたも、院の人だろうと見当がつきました。どの部署から抜擢されたのかを知りたかったので、わざと軍装を着てあなたの前に行きました。元軍人なら、院に入ったばかりのこの時期、まだ軍人時代の癖が抜けきらなくて、軍装の私が敬礼をしたら軍隊式の答礼をするだろうと思ったので」
まぁ、元軍人の可能性が高いとは、前世の知識を思い出した段階で思っていた。石原さんの目を見た時、私は前世の日本史の資料集で見た石原莞爾の写真を思い出したのだ。もちろん、今の時点よりずっと後年の姿を撮影したものだけれど、私の顔をじっと見つめていた目の形は、その写真と全く変わっていなかった。それに、玄関を出る直前、東條さんに使者の名前を聞いたら、
――あの気に食わない奴ですか?石原と名乗っていました。
と答えられたので、彼が石原莞爾であることは確定した。だからこの賭けには私が勝つだろうと思っていた。そして、私の目論見通り、軍人時代の癖が抜けない彼は、私に軍隊式の挨拶をしたわけだ。
「さて、院の新人の所属は、盛岡町の私の家になるはずですけれど、なぜわざわざ青山御殿の所属と偽ってこの別邸にやって来たのか、説明してもらいましょうか」
その行為は明らかに問題だ。場合によっては、院の総裁の金子さんに話して、然るべき処分を石原さんに下してもらわなければならない。軽く石原さんを睨みつけたつもりだけれど、私の視線をものともせず、
「確かめようと思ったのです、妃殿下の人となりを」
石原さんはこう答え、私が要求していなかったことまで喋り始めた。
石原さんは1902(明治35)年の6月、中学1年生の時に、幼年学校の入学試験に合格して上京した。幼年学校を卒業した後、1905(明治38)年の9月に歩兵士官学校に入学したということだから、私の弟分である朝香宮鳩彦王殿下・東久邇宮稔彦王殿下の一つ下の学年に在籍していたことになる。1908(明治41)年夏に歩兵士官学校を卒業すると、石原さんは広島の歩兵連隊に配属された。そこで中央情報院にスカウトされ、国軍は病気で退役したことにして、今年の6月初めに院に入り、麻布分室、つまり盛岡町の私の家の別館に所属することになった。
「昨日のことでした。青山の本部から秋山さんがいらして、色々と話をなさいました。その話題が妃殿下のことになった瞬間、秋山さんが“不世出の天才”だの“極東の名花”だの“国軍の勝利の女神”だの、妃殿下のことを異常に褒め称え始めたのです」
(あー……)
ため息をつきたくなったのを、私は必死に堪えた。秋山さんは、私の前世のことを知る前は、極度に私を神聖視していた。そして、前世のことを知ってからも、私を必要以上に特別視している。そんな彼に私のことを語らせてしまったら、話が1000倍ほど盛られてしまうだろう。
「それで秋山さんに聞いたのです。“妃殿下は、ニコライの色欲から逃れるために軍医になっただけではないのですか?”、と」
石原さんは本人の私に、悪びれもせず言い放った。
「俺は幼年学校、そして歩兵士官学校で、1学年上に在籍していらっしゃった朝香宮殿下と東久邇宮殿下のご様子を拝見しています。お2人とも、皇族だからと言って偉ぶることなく、真面目に学業や訓練に取り組まれ、ご自身の実力で好成績を収められていました。しかし、皇族の多くは特権を使い、入学試験を免除されたり、日常の試験も免除されて別枠で首席卒業となったりします。ですから、“妃殿下はどうなのだ。医師免許を取ったと言うが、試験をきちんと受けたのか?”と……秋山さんにそう聞いたら、殴られました。俺は殴られたのが納得できなかったので、秋山さんを殴り返して、そこから取っ組み合いのケンカになりました」
「……そこに、私が妊娠したという知らせが入った。東京からの見舞いの使者を装えば、私に近づくことが出来る。ちょうどいい機会だから、女狐の化けの皮を剥いでやろう。そう思って、ここにやって来たということかしら」
私がこう確認すると、石原さんは黙って頭を下げた。
(度胸がいいと言うか、何と言うか……)
私が少し自虐気味に言った“女狐”という言葉を、石原さんは訂正しようとしなかった。普通なら“いえいえ、妃殿下が女狐などとは滅相も無い!”と慌てて否定するところである。
(要するに、石原さんは、相手が平民だろうが皇族だろうが関係なく、自分が“尊敬に値する”と思った人間しか尊敬しないのかしら?)
ならば、私が石原さんに何を言っても無駄かもしれないし、私も努力をしてまで彼からの尊敬を得ようとは思わない。ただ、彼が事実を誤認しているところは訂正しておきたい。そう思った私は、
「あなたが秋山さんにぶつけた疑問点、私本人から回答します」
と事務的な口調で言った。
「まず、ニコライから逃げるために軍医になったのは事実です。私は、兄上とお父様を病から守るために医師になりました。ですから、外国に住むことはできません。ならば、外国人と結婚できない職業に就けばよいということになって、その職業の候補になったのが軍医でした。軍人は、結婚条例で、結婚相手は日本人に限ると決められていますからね」
私はそこまで一気に言うと、ため息をついた。帝国議会を臨時招集して徴兵令を改正する羽目になった、8年前のあの騒動のことを思い出したからだ。
「……全く、迷惑な話です。それでもニコライが私の身柄を狙って来たせいで、極東戦争が起こってしまいました。後世の歴史家が呆れるでしょうね」
「はぁ……」
「それから、医術開業試験はきちんと受けました。いえ、“きちんと”というのはおかしいですね。偽名で受験しましたから」
「は?!」
驚きの声を上げた石原さんに、
「当然でしょう。人の命を預かる職業に就くのに、皇族だからということで試験を免除されるのはおかしいと思ったからです」
私はキッパリと言った。
「もちろん、今のあなたのように、どこにも連絡や相談をしないでやったことではありません。大山さんにも、あの時厚生大臣だった原閣下にもお願いしました。最終的にはお父様にも承認を得て実現したことです。ウソだと思うなら、大山さんと原さんに確かめてみてください」
すると、
「ふん、大山ですか!」
石原さんが大山さんを呼び捨てにした。
(?!)
眼を見張った私に、
「あんな老いぼれに、何が出来るというのです?」
石原さんは真面目な顔で問いかけた。
「最後の陸軍大臣だったが、国軍合同の後、東宮武官長と言う閑職に甘んじて、10年も前に引退した。おまけに、新島八重という女看護兵に怯えて逃げ出した腰抜けではないですか。それが中央情報院の前総裁と言うから、驚きましたよ。本当は、金子閣下がずっと中央情報院の総裁だったのでしょう?」
言い募る石原さんを、私はぼんやり見つめていた。……何という命知らずだろう。大山さん自身が事あるごとに自分を矮小化して報道させるようにしていた結果だとは言え、仮にも中央情報院に抜擢された人間が、大山さんの真価を理解できないとは。私が呆然としていると、
「おや、どうしました。……そう言えば、大山は妃殿下の臣下だと言っていましたね。臣下をコケにされて怒っているのですか?」
石原さんはややぞんざいな口調で私に問いかける。
「いや……怒りを通り越して、あなたがかわいそうになって」
正直な気持ちを私が口にすると、
「かわいそう?」
彼は私の言葉を鼻で笑った。それは無視して、
「ここまで奇麗な死亡フラグは久々に、いいえ、初めて見たわ」
私は両肩をすくめてみせた。
「しぼう……フラグ?妃殿下、それは医学の専門用語ですか?」
「まぁ、ある意味、そうですかねぇ」
私がため息をついた次の瞬間、石原さんが「うがぁっ」と妙なうめき声を出した。後ろから腕で首を絞められたのだ。
「な……何者、だ……?」
首に掛けられた腕を、必死に外そうとする石原さんに、
「君が老いぼれと呼んだ人間ですよ」
背後から気配を消して近づいていた大山さんが、右腕で首を締め上げながら答えた。
「第5軍管区から、“度胸があって敵地潜入に適した人材”と推薦がありましたから、中央情報院に採用しましたのに、背後の俺の気配に気が付かないとは……基本がなっておりませんね、この悪童は。たっぷりと訓練を課さねばなりません」
腕から逃れ出ようと必死にもがく石原さんに語り掛けるように、しかし、激しい怒気を含んだ声で、我が臣下は言った。けれど、必死にもがく石原さんにその言葉が届いているのか、私には正直よく分からなかった。……そんなことより、そろそろドクターストップをかけないと、石原さんの人生が終了してしまう。
「大山さん、首を絞めるのはもうやめて。石原さんが死ぬから」
私が命じると、「仕方がありませんね」と残念そうに呟き、大山さんは石原さんの首から腕を外した。解放された石原さんがエビのように背を丸め、深呼吸を繰り返す。今の絞め技で、相当なダメージを食らったようだ。
「……で、大山さんは、私の様子を見に来たの?それとも、石原さんを捕まえに来たの?」
「両方でございます」
大山さんは、自分から身を離そうとした石原さんの左腕を後ろからねじり上げながら答えた。「昨日、秋山さんと大立ち回りを演じたので、下宿で謹慎処分にしていたのですが、今朝、下宿先から“いなくなった”という連絡が入りましてね。“上等なビワの入った籠を持ったフロックコートの男が、新橋駅から東海道線に乗った”という知らせもありましたから、さてはこの悪童、見舞いにかこつけて、大胆にも妃殿下の人物を見定めに行ったかと、思い当たった次第でございます。まったく……こちらは朝一番に葉山に馳せ参じたかったというのに、この悪童の悪戯のせいで、時間を無駄に致しました」
大山さんのセリフを聞いていた石原さんの顔が、見る見るうちに真っ青になる。どうやら、自分の行動がここまで把握され、正確に推測されていたということを、まったく考えてもいなかったようだ。
「……さて、石原君。君が現在仕えるべき相手であり、俺の御主君でもあらせられる妃殿下に対する無礼の数々、到底許せるものではありません。きつい仕置きが必要ですね」
「お……大山、閣下、一体、どこから、俺と妃殿下のやり取りを……」
力なく尋ねる石原さんに、
「君が自分の出身を語り始めたところからですね。妃殿下はお優しい方ですし、気さくなお人柄ですから、ご自身に対する無礼を咎められることは滅多にありませんが、俺は違います」
大山さんは穏やかな表情で答える。しかし、声に怒りが混じっているのは明らかだ。石原さんの身体が、小さく震え始めた。
「さて、立ってください、石原君。今後もたっぷり分からせてあげますが、この組織で誰の指示に従うべきなのか、まずは身体に刻み込んであげましょう。妃殿下、あちらに行って参りますので、少々お待ちください」
左腕をねじり上げられたまま、大山さんに引っ張られるようにして石原さんが立ち上がる。その背中を右の拳で軽く小突いて歩くように促すと、大山さんは石原さんを先に立てて廊下の先へと歩いていく。
「大山さん、石原さんのこと、殺したら絶対にダメですからね!」
これだけは命じておかないと、私は医者として、新入職員の死亡確認をしなければならない。精一杯の大声で我が臣下の背中に向かって叫ぶと、
「心しておきましょう」
そう答えた彼の姿が曲がり角の向こうに消え、数秒後、悲鳴とともに、人の身体が床にぶつかった音が響いたのだった。
※石原さんの経歴は実際と変えています。




