使者
1910(明治43)年6月8日水曜日午後3時30分、横須賀国軍病院の診察室。
「どうやら……間違いなさそうですね」
患者用の椅子に座った私の前で、カルテを書きながら言ったのは、私の東京女医学校時代の恩師・吉岡弥生先生だった。
「やはり、そうですか……」
恐る恐る確認すると、
「ええ、おめでた、ですね」
医師用の椅子に腰かけた弥生先生は、私の目をしっかり見つめて頷いた。
「です、か……」
私は大きく息を吐いた。生まれて初めての、そして、前世でも経験したことの無い事態に、頭が追いついておらず、私はそれ以上の言葉を口にすることが出来なかった。
思えば、先月、三条さんが亡くなったころから、身体の調子が今一つだった。当直明けの日は、いつもよりも疲れるし、普段の日も、しっかり眠っているはずなのに、日中もずっと眠気が残るのだ。なので、三条さんが亡くなり、東京でいくつか用事を片付けなければならなかった期間、大山さんとも相談して、思い切って5日間の休暇を取った。休暇中、用事がない時は、盛岡町の家でのんびりして、体力の回復に努めた。
ところが、東京でゆっくり休んだ後も、気だるさが消えることはなかった。月経が遅れているのには当然気が付いていたので、私も“もしかして”とは思ったのだけれど、確信が持てなかった。月経はストレスなど、他の要因で遅れることもある。それに、私の時代のような検査薬がないから、この時期に自分で妊娠を判定することはできないのだ。
倦怠感は6月に入ってもしつこく続き、吐き気も伴うようになった。食欲もだんだんなくなってきたので、次の休みの日に上京して、産婦人科の医師の診察を受けられるように、東條さんに手配してもらおうか……と考えていたら、今日の午前中、胃腫瘍の患者さんの手術をしている時に、突然激しいめまいに襲われたのだ。第1助手を務めてくれていた上司に、術者をすぐに交代してもらったので、手術自体はちゃんと進んでいった。
おそらく、私は妊娠しているのだろう。私自身もそう思ったし、横須賀国軍病院の医師全員がそう考えた。それを確定させるには、私の診察をしなければならない。けれど、国軍病院の医師全員が、私の診察をためらった。私は彼らにとって同僚である。しかも、私は皇族なのだ。内診を躊躇してしまうのも無理はない。
そこで思い出したのが、弥生先生のことだった。
――何か困ったことがあったら、相談に乗りますよ。体調を崩されることもあるでしょうし、男性には話しにくいこともあるでしょうから。
先々月、女医学校の同窓生たちと一緒に晩餐会に招いた時、弥生先生は私にこう言ってくれたのだ。私の正体を知りながら、私を皇族ではなく一生徒として扱ってくれた弥生先生なら、同僚たちがためらう私の診察もやってくれるだろう。という訳で、東京女医学校に連絡を入れてもらったところ、弥生先生はすぐに横須賀に駆け付けてくれたのである。だから、“横須賀国軍病院で、軍医ではない医者が診察をする”という、通常ではありえないことが実現したのだった。
「……今は2か月の末か、3か月目のはじめぐらいかしら」
弥生先生が私に微笑を向けた。
「です、かね……。ということは、出産予定は、ええと……」
「来年の1月中旬から下旬でしょうか」
頭が上手く働かない私に、弥生先生はこう言って頷いた。
(子供……産むのか、私……)
もちろん、考えていなかったわけではない。横須賀国軍病院の院長や幹部たちとは、私が妊娠した時、仕事をどう進めるか、何度も話し合い、大体のことを決めていた。とは言え、子供は授かりものだから、結婚してすぐ妊娠するとは限らない。だから、実際にこの取り決めを実行するのは先のことだろうと思っていたのだけれど……まさかこんなに早く、栽仁殿下との子供を授かることになるとは、まったく考えていなかった。
「あの、先生……」
ようやく脳みそが動き始め、私は弥生先生に声を掛けた。
「私の分娩を担当していただけないでしょうか?」
すると、
「殿下、私に頼まなくても……。帝国大学の産婦人科の先生方が分娩を担当するのではないのですか?」
弥生先生は困惑したように私を見た。その目をじっと見つめ返して、
「お願いします。私、弥生先生に、私の赤ちゃんを取り上げて欲しいです」
もう一度お願いすると、先生の顔に苦笑いが浮かんだ。
「……殿下がそこまでおっしゃるなら、仕方がありませんね。謹んで、引き受けさせていただきます」
「ありがとうございます、弥生先生!」
私は椅子から勢いよく立ち上がった。弥生先生に最敬礼しようと思ったのだけれど、頭を下げようとした途端めまいに襲われ、慌てて椅子の背を掴んだ。
「殿下、大丈夫ですか?!」
「はい、何とか……」
私は慎重に椅子に座り直した。……無理は禁物だ。もう、この身体は、私一人だけのものではないのだから。
「ところで、殿下、これからの勤務をどうなさるかを、院長先生と相談しなければなりませんよ」
そう言った弥生先生に、
「はい。計画は一緒に立てているので、あとはそれを実行に移すだけです」
私は微笑して頷いた。「悪阻がひどかったら休暇を取る。当直勤務は免除してもらう。お腹が大きくなったら、体力の消耗が激しくなるから、手術からは外れて、体力を温存することに努める……」
「素晴らしいですね。もうそこまで決めているのですか」
「はい。私は、結婚した初めての国軍の女性軍人です。当然、私の妊娠が、国軍の女性軍人では初めての事例になる可能性も高い。それが不幸な結果に終わってしまったら、私と栽仁殿下だけではなく、国軍の他の女性軍人たち、そして、国軍そのものにも悪影響が出る……院長先生にそう言われました」
私が国軍初の女性軍人になってから、もうすぐ8年が経つ。今では毎年1人か2人、女子看護兵が誕生している。けれど、彼女たちの中に、結婚した者はまだいない。私の妊娠と出産は、彼女たちが将来妊娠した場合のモデルケースになるだろう。だからこそ、この妊娠を、不幸な結果に終わらせたくない。
「今は悪阻がひどい時ですから、多少状況が良くなるまでは、お休みを取られる方がよいでしょう。私からも院長先生に申し上げておきます」
ニッコリ笑った弥生先生に、
「ありがとうございます、弥生先生。しっかり、体調を回復させます」
私は心からのお礼を申し上げたのだった。
1910(明治43)年6月9日木曜日午後1時、有栖川宮家葉山別邸。
「宮さま、お加減はいかがですか?」
「……ごめん。大丈夫と言いたいけれど、全然ダメ」
寝室の布団の上に座った私は、昼ご飯の食器を片付けに来てくれた千夏さんにため息をつきながら答えた。布団の脇には、ほとんど食べることが出来なかった昼食のお膳が置いてある。おいしいと分かっているのに、食べ物のにおいが吐き気を刺激してしまって、どうしても箸が進まなかった。
「少しは頑張って食べてみたけれど、においが辛くて、全然食べられない。食べないといけないのは分かっているのだけれど、どうしても、ね……」
微笑して、わざと明るい声で言ってみたけれど、
「宮さま……」
千夏さんは眉を曇らせたままだった。
「……まぁ、食べられるものを、地道に探していこう。悪阻対策の料理集もあるし、水分や熱量が全く取れてないという訳ではないから」
私は傍らのガラス瓶に視線を投げた。ガラス瓶の中には、千夏さんに作ってもらった経口補水液が入っている。それは何とか飲めるから、水分と、ある程度のカロリーは取れるだろう。
と、廊下で足音がして、
「妃殿下、青山御殿からお見舞いの使いが参りました」
黒いフロックコートを着た東條さんが障子を開け、私に報告した。
「ああ……じゃあ、会わないと、ですね。千夏さん、そこの羽織を取ってもらっていい?」
「はいです」
私は乳母子の手から空色の羽織を受け取った。私の妊娠のことは、“日進”に乗っている栽仁殿下にはもちろんのこと、皇居のお父様とお母様、霞が関本邸の義両親、盛岡町の屋敷にいる大山さん、それから花御殿の兄夫婦にも伝えられた。だからお昼前には、お父様とお母様、義両親、兄夫婦からそれぞれお見舞いの使者がやって来て、私は布団から起き上がり、挨拶しなければならなかった。その時にこの羽織を寝間着の上から着た。今日この羽織をまた着ることになるとは思っていなかったけれど、仕方がない。羽織に両腕を通し終わった時、東條さんに連れられて、1人の若者が部屋に入ってきた。真新しい、黒いフロックコートを着た彼は、籠を捧げ持っている。少し動作がぎこちないから、新入職員かもしれない。
「青山御殿からの使いで参りました。こちら、お見舞いの品でございます」
籠の中に入っていたのはビワだった。もしかしたら、香りがきつくなければ、果物なら食べられるかもしれない。輝仁さまは幼年学校の寄宿舎にいるから、実際に贈り物を選んだのは輔導主任の金子さんだろうけれど、良いものを贈ってくれた。
「わざわざありがとうございました」
礼をして頭を上げると、妙に強い視線が私に突き刺さった。青山御殿からの使者が、じっと私を見つめているのだ。眦が少し下がったやや細い両眼から放たれる光は妙に鋭く、そして強い。まるで、私を値踏みしているかのようだ。
「あの……私の顔に、何かついています?」
とりあえずこう言ってみると、
「いえ。失礼いたしました」
使者はさっと頭を下げた。
(なんか、引っかかるなぁ……)
そう言えば、あの目はどこかで見たことがある気がする。今生では彼と会ったことはない。ということは、前世の記憶か。一瞬目を閉じ、記憶を探った私は、得られた結果に呆然とした。
(まさか……?!)
あり得ない話ではない。あの時に活動していたということは、私と同じくらいの年、あるいは数歳下ぐらいでもおかしくないはずだ。けれど、本当に彼だとすると、なぜここにいるのだろうか。梨花会の面々に話をしたこともあった気がするけれど……。
「……東條さん、この使者の方に、応接間の縁側でお茶を出してあげてください。今、庭の紫陽花が奇麗だから、お茶を飲みながら見てもらったらどうかしら?」
私は東條さんにこう命じた。すると、彼は私の方ににじり寄り、
「恐れながら」
と小さい声で私に反論を始めた。
「他のお使者の方には、そのようなことをお命じにならなかったではないですか。それに、俺……あいつがどうも好かないのです」
「東條さん、これは命令です。従ってくれないと困ります」
私が囁き返すと、東條さんは渋々、と言った感じで頷き、青山御殿からの使者を案内して寝室から去って行った。
「千夏さん、ちょっと」
婚約者の背中を見送っていた乳母子を、私は手招きして呼び、布団のそばに正座した彼女に耳打ちした。
「ええ?!」
驚く千夏さんに、
「大丈夫よ。少し動くくらいなら何ともないから。それに、退屈しているし、あの人、私もちょっと気に食わないから、悪戯してやろうと思ってね」
私が微笑しながらこう言うと、彼女は「わかりました」と頷いた。それを確認すると、私は布団から慎重に立ち上がり、鏡台の前に移動した。
10分後、私は別邸の玄関にいた。流石は千夏さんだ。解いていた私の髪を手早く結い上げてくれたし、服の用意もちゃんとしてくれた。出勤の時に使っている靴を履くと、私は1人で玄関を出た。
庭に回り込むと、青山御殿からの使者が、縁側に座っているのが見えた。胡坐をかいた彼は、庭の紫陽花を見ながら、出されたお饅頭にかぶりついている。私は彼に気付かれないように、建物に沿って慎重に歩みを進めた。
彼が私の方を振り向いたのは、私が彼まであと3mほどの距離まで近づいた時だった。突然庭に現れた私にどう反応するか分からなくなっている彼に、私は右手を挙げ、軍隊式の敬礼を送る。すると、彼は飛び下りるようにして、靴下のまま庭に立ち、私と同じように右手を挙げて答礼をした。
「やっぱり、元は軍人ですか。……石原莞爾さん。あなた、中央情報院の人ですね。しかも、最近入った」
真っ白い軍装をまとった私の言葉に、青山御殿からの使者を名乗る男は、明らかに動揺した表情を見せた。




