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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第50章 1910(明治43)年穀雨~1910(明治43)年処暑
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ハレー彗星の日

 1910(明治43)年5月17日火曜日午後5時15分、横須賀国軍病院の玄関前。

「何ですって?!」

 退勤する私を馬車で迎えに来た東條さんからその情報を聞き、馬車の座席に座った私は思わず目を見開いた。

「間違いないのですね?!」

「はい、間違いございません」

 住まいである別邸へと動き始めた馬車の中、黒いフロックコートをきちんと着こんだ東條さんは、私の問いに冷静な口調で答えると、軽く頭を下げた。

「そんな……三条さんが亡くなったなんて……。先月、盛岡町にお祝いに来てくれた時には元気だったし、特に体調を崩している訳でもなさそうだったのに……」

 東條さんが私に報告したのは、三条さんが今日の午前中に亡くなったという情報だった。今朝まで、三条さんが体調を崩したという知らせは、私のところにはもたらされていない。万が一、お父様(おもうさま)お母様(おたたさま)と兄夫妻、そして梨花会の面々が大きく体調を崩したら、往診に行くから私に知らせるようにと、東京の本邸で留守番をしてくれている大山さんにお願いしている。だから、三条さんは、本当に急に体調を崩して亡くなったということになるのだけれど……。

「死因や、亡くなった時の様子について、何か情報はありますか?」

 私の質問に、

「はい、三条閣下はここ数日風邪気味で、微熱があったということです。それ以外に身体の不調はなかったので、様子を見られていたそうですが……」

東條さんは落ち着いて答え始めた。

「今朝方、“胸が苦しい”と訴え始められたので、ベルツ先生が往診されたそうですが、その時には脈が激しく乱れていたとのこと。心不全……でしたか、その徴候もあったということです。そのまま、午前10時25分に亡くなられまして……」

「そうでしたか……」

 私は唇をかみしめた。風邪気味の後、不整脈と心不全が出る……話だけ聞けば、急性の心筋炎が生じたのではないかと思う。私の時代なら、ステロイドを大量に投与したり、一時的に体外ペースメーカーを使ったり、あるいは機械的に循環補助をしたり……そういった治療手段を取ることも出来るけれど、この明治時代では不可能だ。

(私が初めから三条さんの治療に関わっていても、助けられなかったか……)

 そう考えながらうつむいた私に、

「三条閣下には、本日付で、正一位が追贈されました。また、明日から3日間、廃朝(はいちょう)となります。御葬儀は24日に、国葬で執り行われると……大山閣下から知らせがありました」

東條さんは更に告げた。廃朝というのは、天皇が喪に服するために、政務をしないことを言う。天皇の近親者や、国家に多大な功績がある人が亡くなった時に取られる措置だ。三条さんは、“史実”でもこの時の流れでも、維新の元勲である。その死を悼むためには当然の措置だろう。

「分かりました……。でも、そうか、亡くなってしまったのね……」

(“史実”よりは、長生きできたけれど……)

 三条さんとの思い出が、私の頭の中に浮かんでは消えていった。

 初めて彼に出会ったのは“授業”の時だけれど、

――神仏の使いや……。

と言いながら、爺に抱っこされた5歳の私を拝んだので、とても戸惑ったのを覚えている。三条さんのインフルエンザを治療した時、私がインフルエンザに感染してしまったのも、今となってはいい思い出だ。字がとても上手だったから、書道を少し教わったこともあったけれど、生徒(わたし)に資質が無かったからか、残念ながら三条さんのような字を書けるまでには上達しなかった。

 けれど、三条さんの一番の功績は、常に穏やかな雰囲気を醸し出し、梨花会の中に和やかな空気を作り出していたことだと私は思う。梨花会が始まった当初は、メンバー同士が対立していがみ合い、会議が紛糾しそうになることもあった。そんな時、

――ほら、増宮さまの御前やろ?いがみ合うのを見せたら、増宮さまの教育に悪い。頭を冷やさんとあかんよ。

上座の方に座っている三条さんがのんびりした口調で一同に呼びかけると、感情的になっていた討論が落ち着く。そして、参加者たちが冷静さを取り戻し、暗礁に乗り上げかけていた議論が前に進んでいく……こんなことが、何度かあったのだ。1、2年経つと、個々のメンバー同士の仲も良くなって、個人的な対立から会議が紛糾する心配は全くしなくてよくなったけれど、それでも、三条さんの醸し出す穏やかさは、話し合いを前に進める力になっていたのは変わりない。……もっとも、その穏やかな雰囲気の中から、三条さんは私や兄に向かって鋭い質問を飛ばしてきたから、まったく油断は出来なかったのだけれど。

「三条さんのところに弔問もしたいし、お葬式も可能なら出席したいけれど……できるかしら?ええと、確か、休みの予定は……」

 東條さんに尋ねながら、私がカバンからスケジュール帳を取り出そうとした時、

「20日はお休みですから、ご弔問が可能です」

東條さんがぱっと答えた。

「それから、21日の土曜日の午後にもご弔問ができますし、若宮殿下とご一緒のご弔問がよろしいのであれば、22日の午前中からお出ましになればよろしいかと。ですが、24日は元々ご勤務の予定ですから、そこで国葬にご参列になるのであれば、どこかの日曜日で、日中のご勤務が必要になる可能性が高いです」

(たね)さんの休みと重なっちゃうってことか……)

 東條さんの言葉を聞いた私は、軽く顔をしかめた。横須賀港を母港とする装甲巡洋艦“日進”に配属されている栽仁殿下は、土曜日の夕方に葉山別邸に戻って来て、日曜日の夕方まで滞在する。今、“日進”が近海で訓練して、土曜日の午後には横須賀港に必ず戻って来るから可能なことだ。それもあって、土曜の夕方から日曜の夕方までは、可能な限り予定を入れないようにしているのだけれど……。

「……殿下のお休みと重なってしまいますけれど、事情が事情ですから、仕方がありませんね。日曜日の出勤を、殿下に許していただきましょう」

 呟くように東條さんに言うと、

「はい。三条閣下は、国家に多大な貢献をなさった方です。国葬には、若宮殿下か妃殿下か、どちらかは参列なさるべきかと……」

東條さんはこう言った。東京の本邸にいる大山さんの代わりに、葉山別邸の業務を全て取り仕切っている彼は、業務を滞りなくこなしている。しかし、何か変事が起こった時、彼がそれに対応できるかは、注意深く観察しなければならない……大山さんはそう言っていた。

「明日は当直ですから、明日と明後日は、私は使い物にならないと思います。三条さんの弔問と葬儀のこと、“日進”の殿下と大山さんにも連絡を入れて、準備を進めてくださいね」

「かしこまりました、仰せの通りに」

 東條さんが私に頭を下げた時、馬車は有栖川宮(ありすがわのみや)家の葉山別邸の門をくぐった。


 1910(明治43)年5月19日木曜日午後0時50分、有栖川宮家葉山別邸の食堂。

「あのー、宮さま?」

 当直を終えて帰宅し、仮眠の後で遅めの昼食をとっていた私に、食後のお茶を持ってきた千夏さんが声を掛けた。

「……どうしたの?」

 私が麦飯を飲み込んでから千夏さんに応じると、

「今頃、この地球に、ハレー彗星の尾が掛かっているんですよね?」

彼女はいつもの元気に似合わない震える声で私にこう確認する。

「そういう話だったわね」

 ハレー彗星は、約75年に一度、地球に接近する彗星だ。前世の私が生まれる数年前、1986(昭和61)年にも地球に接近したと聞いたことがあるけれど、そのハレー彗星が、今まさにこの地球に接近していた。今日の日中には、彗星が地球と太陽との間を通過するということで、天文学者たちが観測に挑戦するという新聞記事を私も目にした。

 すると、千夏さんは心配そうな表情で、

「地球は、ハレー彗星のせいで、今日、滅亡してしまうのでしょうか?」

と、大真面目に私に尋ねた。

「は?」

 思いっきり顔をしかめた私に、

「み、皆さん、そう話していらっしゃいます。ハレー彗星の尾に地球が包まれるので、空気が無くなって、生きとし生けるものがすべて死に絶えるって」

千夏さんは心配そうな表情を崩さないまま喋り続けた。

「ハレー彗星の尾には毒が含まれていて、それを吸うと死んでしまうから人類は滅亡する、とも聞きました。出入りの業者さんから、“空気が無くなる時でも大丈夫なように、自転車の車輪のチューブに空気を詰めておくのがよい。予備を持っているから安価でお分けします”と言われたので、買おうと思ったのですが、東條くんが業者さんを追い返してしまったので買えなくて……」

(よし、東條さん、よくやった。後で褒めておこう。それから、その業者、出禁にする方がいいかしら。デマに付け込んでお金を巻き上げようとした詐欺師の可能性もあるからなぁ……)

 千夏さんの言葉を聞きながらそう思っていると、

「宮さま、千夏たち、ここでのんびりしていていいのでしょうか?どこかに避難する方がよいのではないでしょうか?」

千夏さんは縋るような目で私を見つめた。

(いや、絶対違うって)

 私は心の中でツッコミを入れた。もし、1910年のこの時点で人類が滅亡していたら、前世の私は存在していないことになるのだ。とは言え、私の前世のことを知らない千夏さんにそんな反論は出来ない。私は少しだけ考えると、

「千夏さん、大丈夫よ」

こう言いながら、千夏さんに微笑を向けた。

「ハレー彗星は、約75年ごとに、この地球にやってくる。確か、前回は1835年に地球に近づいたはず。もし、ハレー彗星のせいで空気が無くなって生物が死に絶えたり、ハレー彗星の毒で人類が滅亡したりするのなら、1835年に人類が滅亡していないとおかしい。でも、そんな話、聞いたことがないでしょ?」

 私の反論に、

「それは、確かにそうです……」

千夏さんは渋々頷いた。けれど、

「ですが、宮さま……千夏は不安です……」

彼女の心配そうな口調は変わらなかった。

「古来より、流星は凶兆と言われています。イギリスの国王陛下も、7日に亡くなられましたし、三条さまも一昨日お亡くなりになりました。国家にとって重要な方が、また亡くなってしまうのではないかと、千夏は不安でたまらないのです……」

「千夏さんらしくないなぁ」

 私は千夏さんに向き直った。

「残念だけれど、人はいつか死ぬものよ。それは医学がどんなに進んでも変わらない。だから私たちは、全力で生きなければならないの。それに、故人を悼むのは大事なことだけれど、明るい未来を思い描くのはもっと大事なことよ。昔の私のように、故人を思う余り立ち止まってしまっていては、故人に叱られてしまう」

「宮さま……」

 千夏さんがさっと頭を下げる。私の今生での初恋の相手・フリードリヒ殿下のことを、千夏さんには話したことがある。そのことを思い出したのだろう。

「……だから、私も殿下との未来を考えなければならないし、千夏さんも東條さんとの未来を考えていかなければならないよ。せっかく、東條さんのお父様から、結婚の許可がもらえたのだし、ね?」

 そう念押しすると、

「は、はいです……」

頭を下げたままの千夏さんの頬が、赤く染まった。

 実は、東條さんと千夏さんの結婚に当たって、東條さんと千夏さんの親族が結婚に同意してくれるかどうか、私は少し心配していた。農家出身の千夏さんは平民だけれど、東條さんは士族だ。この時代、身分が違う者同士が結婚したいと思っても、親が“身分違いだ”と言って許可しないケースもある。そんなことがこの2人の結婚でも起こってしまうのを危惧していたのだ。……まぁ、蓋を開けてみたら、千夏さんの親族も、東條さんの親族も、2人の結婚に諸手を挙げて賛成したのだけれど。

「そ、そうですね……。分かりました。千夏も、明るい未来を思い描けるように、頑張ります!」

 頭を上げた千夏さんの声は、普段通りの元気さにあふれていた。どうやら、彼女の不安は払拭できたらしい。そう思った瞬間、気が緩んだのか、私は大きなあくびをしてしまった。夕べの当直は至極平和で、一度もたたき起こされることは無くぐっすり眠れたし、先ほど、しっかり仮眠も取ったはずなのに、身体がまだ睡眠を欲しがっている。

(この別邸に入ってから、10日ぐらいしか経ってないし、慣れていなくて疲れているのかしら。しっかり休養する方がよさそう……)

「千夏さん、私、もう少ししたらお昼寝しますね」

 千夏さんにそう告げた時、廊下で人が走る足音がして、

「妃殿下!」

先ほど、見事婚約者を詐欺師の手から救った東條さんが、緊張した表情で現れた。

「どうしたのですか?」

 私は眠いのを我慢しながら東條さんに尋ねた。

「急な御来客が……」

 私に返答しようとした東條さんが、後ろからやって来た人物に押しのけられる。私の前に姿を現したのは、私の母方の叔父・千種(ちくさ)有梁(ありはる)さんだ。黒いフロックコートを着た彼の顔は、疲労からかやつれているように見えた。

「叔父さま、どうなさったのですか?三条さまのお屋敷に詰めているのだろうと思っておりましたけれど……」

 私がこう聞いたのは、亡くなった三条さんと叔父との関係が頭にあったからだ。今から8年前の1902(明治35)年、私を軍籍に入れるために徴兵令を改正することになった時、貴族院議員になっていた叔父は三条さんに捕まり、公家出身の貴族院議員たちに対する政治工作をさせられる羽目になった。それ以後、叔父は三条さんに、貴族院関係の仕事や政治工作をずっとさせられていたから、当然、三条さんのお屋敷で、葬儀の手伝いや弔問客の対応に当たっているだろうと思っていた。

(なんで、叔父さまが葉山にいるの……?)

 しかし、叔父は私の疑問には答えず、私の前まで歩いてくると、急に床の上に正座した。そして、

「殿下、お願いです!何も言わずに、俺を匿ってください!」

そう叫びながら、私に向かって深く頭を下げた。

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― 新着の感想 ―
[一言] エドワード七世が亡くなったのなら、翌年六月に新国王ジョージ六世の戴冠式が行われるはず。史実では東伏見宮依仁親王が参列したが、英国側が増宮夫婦の出席を要請してくる話にしたら面白いかも。
[一言] 三条実美さん、ご冥福をお祈りいたします。梨花様の結婚式を目にすることができて、史実よりも満足でしたでしょう。 千種さん、何があったのですか。
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