舞子
※漢字ミスを訂正しました。(2024年7月20日)
1910(明治43)年5月3日火曜日午前9時、兵庫県垂水村にある有栖川宮家の舞子別邸。
「ふう……」
名勝地として知られる舞子海岸にほど近い別邸の2階、窓に面した廊下に小さなテーブルを出した私は、窓からの景色を眺めながら、1人で紅茶を飲んでいた。窓の外には、よく手入れされた松が植えられた庭園があり、その向こうに明石海峡と淡路島が見える。ここから淡路島までは、直線距離で4kmほどらしいから、もしかしたら、私の時代の明石海峡大橋がある場所に近いのかもしれない。
(いい景色だなぁ……)
私は紅茶を一口飲んだ。結婚以来、1人になったのは久しぶりのことだ。もちろん、夫となった栽仁殿下と一緒にいることは全く嫌ではないし、可能であれば、彼とずっと一緒に過ごしたい。けれど、栽仁殿下は、“考え事をする”と言って、朝食の後、別の部屋に入った。そこで私も、1人の時間を楽しむことにして、自分で紅茶を淹れて2階に上がったのだ。
(しかし、結婚以来ここまで、よくやってこられたなぁ……)
一つため息をつくと、先月17日の婚儀からのことが自然と思い出される。私の人生の中で、あれほど多くの行事が詰めこまれた時間は初めてだったので、1か月も経っていないはずの婚儀が、遠い昔の出来事のように感じられてしまう。そう錯覚するほど、この半月余り、目まぐるしい日々が続いたのだ。
まず、婚儀の日が一番大変だった。賢所で婚儀を挙げた後、束帯姿の栽仁殿下と記念写真を撮ると、五衣唐衣裳の装束のまま、栽仁殿下と一緒に大急ぎで参内して、お父様とお母様に婚儀が無事済んだことを報告した。その後は、霞が関にある有栖川宮本邸に向かい、供膳の儀……結婚した2人が初めて食事を共にする儀式を済ませ、邸内の霊殿に参拝して、祀られている歴代の有栖川宮のご先祖様に、婚儀が無事済んだことを報告した。
その頃には時刻は正午を回っていたけれど、まだお昼ご飯にありつくことはできなかった。装束を真新しい袿袴に着替えて、次に臨んだのは親族固めの盃の儀式だ。義理の両親となった威仁親王殿下と慰子妃殿下、義理の祖母となった董子妃殿下、義理の妹となった徳川實枝子さまと盃を交わすと、ようやく昼食になった。親族固めの盃でも賢所での婚儀でも、それから、お父様とお母様に挨拶した時や供膳の儀でも、お酒を口にせざるを得なかったのだけれど、幸い、それぞれの量が少量だったので、数年前のような悪酔いはしないで済んだ。
午後1時半になると、私たちの結婚を祝うお父様からの使者がやってきた。それだけではなく、お母様、兄、節子さまからも、それぞれ結婚を祝う使者が派遣されてきたし、妹の昌子さま・房子さま・允子さまの住む高輪御殿、輝仁さまだけの住まいとなった青山御殿、聡子さまと多喜子さまが住む麻布御殿からも、それぞれ結婚祝いの使者がやってきた。各々の使いの人に挨拶をしたり、持参したお祝いの品に対するお礼を言ったりしなければならないので時間が掛かり、使者が全員帰ったのは午後2時半だった。そこから、おすべらかしだった髪をシニヨンに結い直して、新調した真っ白い中礼服に着替え、栽仁殿下と一緒に宮中の晩餐会に出席した。麻布区盛岡町の新居に帰った後は三箇夜餅の儀をして、それでようやく1日の行事が終了したのだった。
翌日の18日も大忙しだった。朝から栽仁殿下とお礼言上のために参内した後、霞が関の義父の家で昼食会・晩餐会・夜会が立て続けに開かれた。19日には各宮家へのあいさつ回りをして、やはり霞が関の義父の家で、国軍関係者を招いての昼食会、そして親族を招いての晩餐会が開かれた。晩餐会には義妹の實枝子さまの舅である徳川慶喜さんだけではなく、兄夫婦や異母妹の昌子さまたちも招かれていたので、
――え、ちょ……皇太子殿下と皇太子妃殿下まで出席なさるなんて、俺、聞いてねぇよ……。
私の親族の1人として出席した叔父の千種有梁さんの顔が、兄夫妻の姿を認めた途端、見る見るうちに真っ青になった。
――こ、こんなところにゃ、恐れ多くていられねぇぜ……。お、俺は帰らせていただきますからな!
変な日本語を呟きながら席を立ち、叔父は食堂から逃げ出そうとしたけれど、後ろに控えていた大山さんに行く手を阻まれ、殺気を浴びせられてしまったので、震えながら自分の席に戻った。その一連の行動が、かえって兄の目を引いてしまい、叔父は宴の途中で兄に手招きされ、私の女医学校時代の話などを、兄に問われるまま、冷や汗をかきながら答える羽目になった。
結婚4日目の20日は、午前中に小石川区にある豊島岡墓地にお参りした後、自動車を飛ばして、池上村の洗足池のほとりにある勝先生のお墓と、赤坂区の青山墓地にある爺のお墓に、栽仁殿下と一緒にお参りした。勝先生も爺も、もし今まで生きていたら、きっと私の結婚を心から喜んでくれただろう。そう思ったので、私が強く要望したのだ。勝先生に師事していたことのある陸奥さんも、爺の息子さんである護麿さんも、涙を流して喜んでくれた。
その日の午後には、霞が関の義父の家で、栽仁殿下の今の配属先である“日進”の幹部、私の4月までの勤務先である築地国軍病院の職員、それから、5月からの私の勤務先である横須賀国軍病院の職員を招いて園遊会を開いた。夜にも、医科研や産技研の研究者、東京帝国大学医科大学の先生方や東京女医学校の職員・同窓生を招いた晩餐会があった。医科研の野口さんが妙なことをしないかがとても心配だったけれど、野口さんの隣の席にヴェーラを配置していたのが功を奏した。ご機嫌になった野口さんが、女医学校の同窓生に怪しい視線を向けようとするたびに、ヴェーラが野口さんを鬼のような形相で睨みつける。すると、いつも折檻されているのを思い出すのか、野口さんの顔が引きつり、途端におとなしくなるのだ。こうして、ヴェーラのおかげで、晩餐会は滞りなく終了したのだった。
その翌日の21日にも、私と栽仁殿下の同窓生や、お世話になった先生方を招いて園遊会を開いた。夜には、盛岡町の新居で、梨花会の面々を招いて晩餐会を開催した。高野さんと高橋さんと斎藤さんと牧野さん以外の人が、“生きてこの日を迎えられて良かった……”と言いながら途中で泣き始めてしまい、慰めるのが大変だった。そのくせ、一部の人間は私たちの新居に興味津々で、
――では、お2人のお部屋がどうなっているのか確認させていただいて、今後の夫婦円満のために助言を……。
と言いながら、伊藤さんと井上さんと西園寺さんが、私と栽仁殿下のプライベートなエリアになっている2階を見物しようとした。大山さんが階段の前に立ちはだかり、一同をギロリと睨みつけたので、何とか立ち入られずに済んだけれど、もし立ち入られていたらと考えると今でも寒気がする。
結婚6日目となる22日には、浜離宮で開かれた観桜会に、栽仁殿下と一緒に初めて出席した。今まで独身だったから、出席する必要はなかったけれど、結婚したので出席しなければならなくなったのだ。来賓の挨拶やお祝いの言葉を、にこやかに受けるのは大変だったけれど、栽仁殿下や義両親にも助けられ、何とかこなすことが出来た。
その翌日、23日の土曜日、私と栽仁殿下は西に向かう列車に乗り込んでいた。皇族が結婚した時には、伊勢神宮と神武天皇陵にお参りして、結婚を報告する習わしがある。そのため、私と栽仁殿下は、24日には伊勢神宮に参拝し、翌々日の26日には神武天皇陵にお参りした。
26日の夜に京都に着いたけれど、結婚に関係する行事はまだ残っていた。27日には、私の今生の祖父母である孝明天皇と英照皇太后の陵墓、更に京都にある有栖川宮家の菩提寺にもお参りして、結婚を報告した。翌日の28日には、京都にいる有栖川宮家の旧臣たちを招いて昼食会を開いた。会場は二条離宮、つまり二条城だったけれど、二の丸御殿や本丸御殿の構造や調度を楽しむ余裕は当然なく、とても悔しい思いをした。
29日には、列車で京都の更に西、広島に向かった。私が広島にいた頃、住まいとして使っていた浅野侯爵家の別邸・泉邸で、30日の夜と5月1日の昼間、2回祝宴を開いた。出席者は栽仁殿下が卒業した海兵士官学校の職員、それから私が広島時代にお世話になった広島国軍病院の職員や、第5軍管区司令部の人たちだ。広島の国軍関係者たちは、私と栽仁殿下が来るのを非常に心待ちにしていてくれたようで、2回開かれた祝宴は、東京や京都で開かれたそれよりも盛り上がった。ただ、盛り上がり過ぎたために、
――いやぁ、あの棒倒しの時は、妃殿下の若宮殿下への想いの深さを見せつけられました!若宮殿下の胸ぐらを掴みながら、“あなたの身体が傷つくのは嫌だから、あなたに苦しんでほしくないから言ってるのにっ……!”と叩きつけられたあの言葉、想いが深くなければ言えるものではありません!今から思えば、あれは仲の良い夫婦のケンカそのものでしたなぁ!
海兵士官学校の校長である島村少将が、例の棒倒しでの事件を出席者一同に暴露してしまったので、お客様たちが更に盛り上がる中、私と栽仁殿下はただただ赤面するしかなかったのだけれど……。
そして、合計13回の祝宴を終えた私と栽仁殿下は、2日の夕方、兵庫県にあるこの別邸に入った。この別邸は、先代の有栖川宮・熾仁親王殿下が建てたもので、お父様も何度か滞在したことがある。紺碧の瀬戸内の海、そしてその向こうに見える淡路島という景色はとても雄大だ。明石海峡を船が東西に行き来している様子も、見ていて飽きることはない。
(いいな、この眺め……)
紅茶を飲みながら、目の前に広がる眺望を楽しんでいると、
「梨花さん」
後ろから、優しく声が掛かった。私のことを“梨花さん”と呼ぶのは、この世でただ一人しかいない。
「栽さん」
私を“梨花さん”と呼ぶということは、周囲には誰もいないのだろう。私は遠慮なく、2人きりの時にだけ使う呼び名で夫を呼んだ。
「考え事は済んだの?」
「うん、上手く計画が立てられたよ。あとは梨花さんに確認して、細かいところを詰めるだけ」
私の質問に答える栽仁殿下の左手の薬指には、銀の結婚指輪が光っている。軍装の時は、私と同じように、銀のチェーンを指輪に通し、首から下げてシャツの下に隠しているけれど、今は紺色の和服を着流しているから、指輪を本来の位置に戻していた。
「私の確認が必要なの?一体、どんな計画なのかしら?」
私が尋ねると、
「明日、姫路城を一緒に見に行く計画だよ」
栽仁殿下は優しい声で私に言った。
「姫路城……行けるなら行ってみたいけれど、今、修理中じゃないかな?」
私は首を軽く傾げた。2か月ぐらい前に、帝国議会で、姫路城の修理予算が承認されていた記憶があったからだ。
すると、
「大丈夫だよ。さっき、ここで働いてもらっている職員さんに確認したんだ。姫路城の修理が始まるのは7月からだって。だから、今なら見学できるよ」
栽仁殿下から、思いがけない答えが返ってきた。
「そうなの?!やった!」
パッと顔を輝かせた私に微笑むと、栽仁殿下は私の前に、自筆の計画表と姫路城の地図を置いた。計画表には、列車の時刻や所要時間、現地での滞在時間などが整理されて書かれていた。
「舞子の駅から姫路までは、列車を使えば片道1時間半もかかりません。夕方にここに戻ることを考えると、4、5時間しか姫路にはいられないけれど、梨花さんの気分転換にいいかなって思って。ほら、梨花さん、二条城が全然見学できなくて、とても悔しそうにしてたから……」
「栽さん……」
「大天守と小天守は回れると思うけど……それとも、じっくり見られるように、大天守だけの方がいいかな?」
「大天守だけで終わる可能性が高そうね……」
私にそっと身を寄せた栽仁殿下の温もりにドキドキしながら、私は彼に返答した。
「やっぱり、じっくり見学したい?」
「そうね。前世でも、2年前にも見学したけれど、お城は見学するたびに新しい発見があるから。ふふ、楽しみだなぁ。栽さんと一緒に大天守から見る景色、きっと素晴らしいと思う」
2年前、姫路城を見学した時の記憶を呼び起こしながら、明日のことを夢想していると、
「……梨花さん、触るよ」
栽仁殿下が私に断ってから、左側から私の身体をすっぽりと包み込んだ。
「栽さん、どうしたの?」
「……目を輝かせている梨花さんを見ていたら、愛しくてたまらなくなりました」
私の問いに、栽仁殿下は真剣な声で囁いた。その声の響きと温もりに、私の心が一瞬飛び跳ねた。
「……お城が見られるって喜んでいるのに?普通の男性なら、こんなことで喜んでいる女性を敬遠するよ」
苦笑いを顔に浮かべながらこう言うと、
「じゃあ、僕、普通の男性でなくて構いません」
栽仁殿下は即答した。
「言ったでしょう。梨花さんのことは、全部愛しているって。大好きなお城を僕と一緒に見られるって喜んでいる梨花さんのこと、愛しくてしょうがないんです。こんなにかわいくて愛しい女、絶対に離したくない……」
「余りドキドキさせないで、栽さん……私、栽さんが、全身全霊で私を愛してくれていることだけでも嬉しいのに、こんなことを言われてしまったら、恥ずかしくて……」
結婚しても変わらない、夫の熱烈な愛の言葉に、流石に私も恥ずかしくなり、顔を真っ赤にしてしまった。私の全てを……今まで私自身も知覚することのなかった私の心と身体のことまでも知っている相手に、今更恥ずかしがることは無いのかもしれないけれど、やはり、恥ずかしいものは恥ずかしい。
と、
「……梨花さん、だいぶ僕に応えてくれるようになりました」
栽仁殿下は静かに私に言った。
「結婚するまでは、愛しさを伝えても、梨花さん、すぐに恥ずかしがってしまって、余り返ってきませんでした。梨花さんは奥手だから仕方ないかな、と思っていたけれど、結婚してから、梨花さんが僕の気持ちに応えてくれることが多くなったから、それでまた、愛しさが膨らむんです」
「そう……。でも、私、基本的に奥手よ。栽さんの気持ちに応えられるのは……栽さんの“おまじない”のおかげだと思う」
私は自分の左手に目を移した。左手の薬指には、栽仁殿下とお揃いの銀の結婚指輪が輝いている。今朝、栽仁殿下に、“もっと素敵になるおまじない”を囁かれながらはめられたものである。自分で指輪を付けても何も起こらないのに、不思議なことに、栽仁殿下に“おまじない”を掛けられながら指輪を付けてもらうと、身体の奥に温かい光が灯されたような感じがして、心が優しい何かに包まれるような、高揚しているような状態になるのだ。そんな時には、栽仁殿下の愛のこもった言葉を、素直に受け取ることが出来る。
(栽さんに、暗示でも掛けられているのかな?)
そう考えたこともあるけれど、よく分からない。ただ、今のところ、何か害があるという訳ではないので、放っておくことにした。
(まぁ、子供じみた“おまじない”で、精神状態がまるで変わってしまうのも、単純と言えば単純だけれど……)
私が思わず苦笑いを顔に浮かべると、
「梨花さん?」
栽仁殿下が私の顔を覗き込んだ。
「どうしたの?……何か、考えたことでもあった?」
夫の美しく、澄んだ瞳が、真っすぐに私を見つめている。その瞳に、深い愛情がこめられているのはすぐに分かった。その瞳を見つめ返しながら、
「そうね……私はやっぱり、栽さんのことを愛している、ってことを」
こう答えると、夫は少しだけ頬を赤くしてから、私に微笑みを向けたのだった。
※1910(明治43)年の観桜会は実際には4月27日に開かれました




