暇乞い
※読み仮名ミスを修正しました。(2023年6月1日)
1910(明治43)年4月16日土曜日午前10時30分、皇居・表御座所。
「そなた……」
空色の通常礼装を着た私の姿を見て、執務机の前に立つお父様が軽く目を瞠った。
「お父様、いかがなさいましたか?」
軽く首を傾げた私が尋ねると、お父様は「あ、いや……」と呟いて、
「そなたは普段も美しいが、今日はその美しさがいや増しておるから……」
と、私から視線を外しながら言った。こちらに向けた頬が、少し赤くなっているのは気のせいだろうか。
「ええ、本当に」
お父様の斜め後ろに立つ、桃色の通常礼装姿のお母様が、私に穏やかな優しい目を向けた。
「美しさと気品が、自然と身体から溢れ出て……正しく、我が国を代表するプリンセスにふさわしいお姿です」
「恐れ入ります」
私はお父様とお母様に一礼する。普段、ドレスはほとんど着ないから、ドレスの時は身のこなしに苦労するのだけれど、今日は不思議と支障なく動ける。
「何か、良いことでもあったのか?」
訝しげに尋ねるお父様に、
「あら、お上、お忘れになったのですか?」
お母様がクスッと笑いながら話しかけた。
「昨日、栽仁さんと、六郷村に梨の花を見に行かれた……山縣どのがそうおっしゃっていたではないですか」
「ああ、そうだったな」
お父様は頷くと、
「すると……、納采の品の目録にあった指輪、昨日栽仁から受け取ったのか?」
と私に聞き、微笑する。
「はい……昨日、殿下にいただきました」
私がこう答えると、
「でも、今は、指輪をなさっていないのですね。見せていただきたかったけれど……」
お母様が、視線を私の手に動かす。何の装飾品もつけられていない私の左手を確認したお母様は、少し残念そうな表情になった。
「お母様……少し、ほんの30秒ほどだけ、お待ち下さい。今、お目にかけますから」
私がそう言って、首の後ろに手を回そうとしたその時、
「梨花さま、お待ち下さい」
私に従って表御座所に入っていた大山さんが私を止めた。
「外してはなりません。昨日、若宮殿下がお手ずからお掛けになったものです。どうかそのまま、明日まで外さずにお願いします」
「そう?……ではお母様、そばに行ってもよろしいでしょうか?」
お母様に尋ねると、「構いませんが……」と、お母様が軽く首を傾げる。私はお母様のすぐ前まで歩いて行くと、通常礼装の高い襟の下から指を入れ、肌の上にあるはずの銀のチェーンの在り処を探る。目的のものを首尾よく見つけると、私はチェーンを引っ張り出し、その先に掛けられたものを右の手のひらにそっと載せた。
「まぁ……!」
お母様の顔が綻んだ。「指輪をネックレスになさったのですね!」
「はい」
私もお母様に微笑みを向けた。「大山さんが考えてくれたんです。私の場合、仕事柄、手を清潔に保たなければならない場面が多くなります。それに、手術の時は絶対に外さなければなりません。けれど、こうやって、首から掛けておく分には、仕事の邪魔にはなりません」
「なるほど、そうすれば、栽仁との永遠の愛を誓った指輪を、肌身離さず身につけていられる、という訳か」
お父様は私のしようとしていた説明を奪い、私にニヤッと笑い掛けた。
「それは、昨日、栽仁が首に掛けたのか」
「はい……傷むかもしれない、とは思ったのですが、嬉しくて、寝る時も、お風呂の時も外さずに……」
私はお父様に答えると、手のひらに載せた銀の結婚指輪を見つめた。指輪の中には、銀のチェーンが通されている。このチェーンは、大山さんが用意してくれたものだった。
――愛する梨花さん。僕の愛の誓いの証で、梨花さんの首もとを飾らせてください。
昨日の夕方、青山御殿の車寄せで、栽仁殿下が私の首に指輪のネックレスを掛けながら言った言葉を思い出した。ネックレスにするために指輪を外された時、ふわふわしていた心はいつもの場所に軟着陸したのだけれど、栽仁殿下が私の首に指輪のネックレスを掛けた瞬間、再び心の奥に暖かくて優しい光が灯され、何かに包まれて宙に浮かぶような心地になったのだ。1日に2回も、心が高揚したような状態になったのは初めてだったので、“一体何をしたのか”と栽仁殿下に尋ねたら、
――梨花さんがもっと素敵になるおまじないを掛けただけだよ。
彼はそう言って、大山さんと視線を交わして微笑していたけれど……。
「……そなた、幸せそうだな」
お父様が苦笑する気配がして、昨日の出来事を反芻していた私は我に返った。
「申し訳ありません。つい、昨日のことを思い出してしまいました」
慌てて頭を下げると、
「よいではないですか、お上」
お母様がお父様をたしなめるような調子で言った。
「幸せそうな増宮さんを見ていると、こちらも幸せになれますから」
「それは確かに、そうだが……」
お父様が呟くように応じた時、
「陛下、山縣です。失礼致します」
表御座所に面した廊下から、宮内大臣の山縣さんの声がした。
「そろそろご刻限でございますので、緋桜どのや侍従たちに入ってもらいますが……」
「うん、分かった」
お父様が頷くと、侍従や女官たちが表御座所の中に入ってきて、私とお父様、お母様との別れの盃の支度をする。あっという間に準備は整って、私は両親と、定められた席についた。
「別れの盃とは言うが、これは章子が栽仁の妻になる、大事な門出の儀式だ。だから、あらかじめ断っておくが、今だけは少し酒を飲むからな」
お父様がいかめしい顔でこう言ったのは、私が幼い頃、禁酒を強く進言したからだろう。山縣さんによると、両親の禁酒と禁煙は、20年以上経った今でも続いているそうだ。
「かしこまりました。しかし、量は少しでお願いします。量が過ぎれば、お酒は身体に毒ですから」
私も真面目な表情を作ってこう返すと、「わかっておる……」と、お父様は唇を軽く尖らせながら答えたのだった。
「お父様、お母様」
椅子から立ち上がり、一礼して両親に呼び掛けたけれど、そこで私の口は止まってしまった。多分、今までに育ててくれたお礼を言えばいいのだろうけれど、お父様とお母様には、“前世の記憶がある”と言い始めた私のことを受け入れてくれたことをはじめとして、お礼を言いたいことがたくさんある。だから、どうお礼を言えばいいか分からなくなったのだ。
「増宮さま?」
大山さんが私に訝しげな声を掛ける。緋桜権典侍など、梨花会の人間ではない人たちもいるから、いつもの“梨花さま”ではなく、“増宮さま”と私を呼んだ。
(あ、そっか……)
大山さんの呼び掛けで、何を言えばいいか、方向性が見えた。お礼を言いたいことはたくさんあるけれど、私の中身を知らない人がビックリしないような言葉にしないといけない。
「……27年の長きにわたり、私に愛情を注いでいただき、慈しみ深く育てていただいたこと、心より感謝申し上げます。栽仁殿下の妻となりましても、上医を目指して精進致します」
こう言って、下げた頭を上げると、
「それでよい」
お父様が軽く頷いた。
「朕は昔、そなたに“上医を目指せ”と言った。それはそなたが栽仁の妻となっても変わらぬ。これからも、上医を目指して修業に励め。……他にも言いたいことはあるが、それは後で言う」
お父様が視線で促すと、お母様が口を開いた。
「増宮さん、ご結婚おめでとう。栽仁さんと力を合わせて、幸せになってくださいね」
鈴を転がすようなお母様の声に黙って頭を下げると、漆塗りの盃が表御座所に運びこまれ、私は両親と、作法通りに盃を交わした。
儀式が終わったとたん、
「章子、気分は悪くなっていないな?」
お父様が私の方に身を乗り出すようにして確認した。
「お気遣い、恐れ入ります。大丈夫です。ほんの少ししか飲んでおりませんから」
緋桜権典侍が私の盃に注いだお酒の量は、本当にちょっとだけだった。飲んだ量は合計で10mlもないのではないだろうか。ちなみに、昨夜はぐっすり眠れたし、朝ごはんもちゃんと食べたから、酔う心配はない。
「そうか、ほんの少しか。……緋桜め、朕の盃にも、ほんの少ししか注がなかった。あともう少し、注いでくれてよかったのに」
お父様の不機嫌そうな声に、銚子を持った緋桜権典侍が、お母様とニッコリと笑い合う。
「正しいご判断ですよ。その“あともう少し”が積み重なれば“たくさん”になってしまって、身体に毒になります」
私もそう言ってニッコリと笑うと、居並ぶ人たちの間にクスクス笑いがさざ波のように広がった。
「……では、大山と山縣以外は下がれ。人払いしておけ」
お父様は1つ咳払いをすると、わざといかめしい顔つきをしてこう命じる。緋桜権典侍や侍従たちが慌ててお父様に最敬礼して立ち去っていくと、表御座所にいるのはお父様とお母様、そして私と大山さんと山縣さんの5人だけになった。
「増宮さん」
お母様が私を優しく呼んだ。
「お上と私から、増宮さんに渡したいものがあるのです。こちらにおいでくださいな」
その言葉に従い、私はお母様の前まで歩いて行く。お母様の両手には、平べったい、黒のビロードの箱が載せられていた。
「これは、産技研の御木本どのに作っていただいた髪飾りです。洋装の時にぜひお使いになって」
「ありがとうございます。……開けてよろしいですか?」
お母様から箱を受け取った私は、早速こう確認した。「もちろん」とお母様がニッコリと笑ったので、箱の蓋を慎重に開けてみる。銀細工で出来た枝葉の中に、小さなダイヤモンドをたくさん散りばめて形作られた白い五弁の花がいくつか、固まって咲いている。花芯に当たる部分には、真珠がはめ込まれていた。恐らく、御木本さんの養殖真珠だろう。
「梨の花……ですね」
「ええ、増宮さんの前世の名前であり、今生の雅号でもある“梨花”を、図案に使っていただきました。綺麗でしょう?」
「はい。まるで、本当に梨の花が咲いているみたい……」
一昨日見た“梨雪”……多摩川近くに広がった、一面の白い花の絨毯を、堤防から見下ろした時のことを、私は思い出した。そして、今、首から掛けている結婚指輪を、栽仁殿下が、左手の薬指にはめた時のことも……。
「お母様、この髪飾り、今ここで付けてもよろしいですか?」
「ええ、よろしいですよ。是非見せてください」
お母様がこう言ってくれたので、私は大山さんを呼んだ。彼に手伝ってもらって髪飾りを頭の左側につけると、大山さんがサッと手鏡を差し出す。銀とダイヤモンドで出来た梨の花が、私の髪を美しく飾っていた。
「本当に綺麗……」
鏡の中を見た私が思わず呟くと、
「よく似合っておられますよ、増宮さん」
お母様がニッコリ微笑む。
「……その髪飾り、大事にしろ。朕と美子から、そなたへの餞だからな」
「かしこまりました。大切に使わせていただきます」
お父様に最敬礼すると、
「では、皆、下がれ」
お父様はまたいかめしい顔に戻って言う。再び頭を下げ、大山さんと山縣さんと一緒に表御座所を出ようとすると、
「待て、章子、そなたは残れ!」
お父様が慌てたように私に怒鳴った。
「?……はい」
その場に立ち止まる私を置いて、大山さんと山縣さんは表御座所を後にする。
「美子、お前も下がれ」
隣に座るお母様にも、お父様はこう命じる。
「あら、一体どうしてでしょうか?」
お母様が微笑を含んだ声で尋ねると、
「そ、それはだな……」
お父様の顔が、急に赤くなる。
「お上、なぜ私まで、表御座所を出なければならないのでしょうか?」
お母様はからかうような調子で、重ねてお父様に問うた。お父様は唇を引き結んで、握った両手を小刻みに震わせていたけれど、やがて、
「ふ……章子と、2人きりで話したいからだ!悪いか!」
ニコニコ笑っているお母様に、叫ぶように答えた。
「あらあら」
微笑むお母様に、
「分かったら、さっさと下がれ!ふ、章子と2人きりで話す時間が無くなるだろう!」
お父様は再び叫ぶ。
「では、どうぞごゆっくり」
お母様は微笑とともに言い残すと、優雅な身のこなしで表御座所を退出する。それを見届けてから、更に自分で出入り口まで行き、廊下や続きの間に人影がないことを確かめると、お父様は自分の椅子に座り、
「章子、こちらへ参れ」
と私を手招きした。私は素直に、お父様から1mほど離れたところに立った。
ところが、
「違う、もっと近くに寄れ!」
お父様は更に激しく私を手で招く。2歩前に進んで、お父様に楽に触れられるところに私が立つと、
「それでよい」
お父様は立ち上がり、私の身体を正面から抱き締めた。
「お父様……」
「よくぞ……よくぞ、この日を迎えてくれた、章子」
驚く私を抱き締めるお父様の声は、涙で濡れていた。
「“史実”では、そなたは1歳の誕生日を迎えることなく、命を落としていたのだ。それがこの時の流れでは立派に美しく成長し、心の通い合う夫と結ばれ……本当に嬉しい」
「……ありがとうございます」
言葉に京都なまりがまじり始めたお父様に、私は心をこめてお礼を言った。
「お父様とお母様が、前世の記憶がある、未来を知っていると言い始めた私のことを受け入れていただいたこと……それに、医師になりたいという願いを叶えていただいたこと、本当に、本当に感謝申し上げます」
「医師になれたのは、そなた自身の実力や。せやけど……内親王が医者になるという前代未聞の願いに、朕が許しを与えたのは確かやな」
お父様は呟くように言うと、
「そなたには、小さい頃から、いつも驚かされてばかりやった。せやけど、そなたは本当に頭が良うて優しいし、いとぼい子や。許されるならば、朕の手元で、この光り輝く珠のような子、いつまでも慈しみたい……そうもいかないのは、分かってるけどな……」
と、私の身体を一層きつく抱き締めた。
「お父様……」
「栽仁の嫁になっても、朕が病気になったら、診察しに来てくれるか?」
震える声で、少し不安そうに尋ねるお父様に、
「それはもちろん」
と私は即答した。
「病気の時はもちろん、お父様が毎朝の侍医の診察を受けない時にも、他の時でも、私はお父様のところに参ります。ただ、出来れば、お父様がいつもお健やかでいらっしゃること……私の医術には、いつまでも用がない状態でいらっしゃること、それが娘としての願いです、お父様」
涙のあふれるお父様の目を見つめながら、私は続けて言った。
「お父様、私、今生で、お父様の娘に生まれることができて、本当によかったです。いつまでもお母様と、お元気でいらしてください」
「章子……」
お父様の顔が涙でぐしゃぐしゃになったその時、どこからか、すすり泣く声が表御座所に届いた。驚いた私とお父様が身体の動きを止めた瞬間、
「何と……何と麗しい、父娘の情愛であることか……」
お父様自身が誰もいないことを確かめたはずの廊下から、すすり泣きに混じって、山縣さんの声が聞こえてきた。
「やっ……山縣ぁっ!」
私の身体から手を離しながら、お父様が顔を真っ赤にして叫んだ。
「なぜそこにおるのだ!下がれと言っただろう!」
「しかし、“下がったすぐ後で来るな”とはおっしゃっておられませんな」
そう言いながら、表御座所の入口から姿を現したのは、山縣さんと一緒に退出したはずの我が臣下だ。彼の後ろには、ハンカチーフを目に押し当て号泣している山縣さんと、ゆったりとした微笑を顔に湛えたお母様が立っていた。
「まさか……大山さん、私とお父様の話を立ち聞きしていたの?」
「立ち聞きとはお言葉が悪い。ただ、陛下と梨花さまが何をお話しになるのか心配で、見守っていただけでございます」
私の質問に、大山さんは落ち着き払ってこう答える。
「み、見守る……朕と章子のやり取りに、見守らなければならない要素などあるものか!」
お父様が大山さんに向かって反論しようとすると、
「お上も増宮さんも、不器用でいらっしゃいますから……」
お母様がすっと前に進み出て、お父様と私に微笑みを向けた。「お互いの思いを、きちんと伝えられるのか、心配だったのです。ですが……ようございました。お2人とも、素直な気持ちを吐き出しておられましたから……」
お父様がバツの悪そうな顔をして、唇を引き結んでいる間に、お母様はするすると私のそばに歩いて来て、私の身体をそっと抱いた。
「梨の花は、梅よりも、桜よりも、花を咲かせるのが遅いけれど、その花の美しさが、他の花に劣る訳では決してない……」
小さな声で、歌うように呟いたお母様は、私の顔を見上げ、
「春が……本格的な春がやって来たのですね……」
そう言って、私に穏やかな微笑みを向けた。
「はい……お母様と兄上と大山さんと、それから、栽仁殿下のおかげで……」
私も微笑んで頷くと、
「お母様……私に母親として、愛情をたくさん注いでくださって、ありがとうございました。お母様の娘でいられて、私、とても幸せです。これからも、栽仁殿下と一緒に、2人でもっと幸せになります!」
お母様の目をしっかり見つめてこう答えた。
……こうして、私の独身時代最後の参内は、騒がしくも和やかに終了したのだった。




