梨の花
1910(明治43)年4月15日金曜日、午前10時半。
「いい天気だね、梨花さん」
東京府六郷村にある京浜電気鉄道の六郷堤駅を出ると、濃紺の和服に、同じ色の羽織を着た私の婚約者・有栖川宮栽仁王殿下は、隣に立つ私に話し掛けた。
「そうね、とてもいい天気」
栽仁殿下と右手を繋いでいる私は、首を動かして上を見た。頭上には、雲1つ無い気持ちのよい青空が広がっている。うららかな春の陽射しが、私達に静かに降り注いでいた。
「空の色、梨花さんの着物の色みたいだね」
栽仁殿下は私の着物を見つめながら、にっこり微笑む。
「この図柄は、梨の花かな?」
「そ、そうなの。お母様が、昔、贈ってくれたもので……」
“私のお気に入りなの”と言おうとした口を、私は慌てて閉じた。
(い、言えない……今日は結婚指輪を渡されるかもしれないから、この着物にしただなんて、恥ずかしくて言えない!)
お母様が、空色の地に、白い梨の花が描かれたこの着物を私に贈ってくれてから、もう20年近く経つ。少し大きめに仕立ててくれたので、大人になった今でも着られるこの着物は、私が持っている服の中で一番好きな服だ。お気に入りだから、何となく、大事な時に着るようになった。
そんな大事な着物を、今日のデートで着ることにしたのは、私の淡い期待からである。
――結婚指輪は、ご一緒に梨の花を見にお出掛けになる15日に、若宮殿下から直接お渡しになるのでしょうか。
3日前、納采の品の目録を見た大山さんは、私に向かってこう言った。それからというもの、頭から離れないのだ。栽仁殿下が、今日のデートの時、私に結婚指輪を渡してくれるのではないかという期待が。
(け、結婚指輪、お互いの手にはめ合うのかな?何か誓いの言葉とか言うのかな?わ、私、一体どんな顔して、指輪をはめられたらいいのかな……?)
どんどん頭の中で疑問が回り始め、身体に熱がこもり始めた時、
「とても素敵な柄だね、梨花さん。今日の目的にピッタリだし、梨花さんにすごくよく似合ってる」
栽仁殿下が澄んだ美しい瞳で私を真正面から見つめた。
「あ、ありがとう……」
私は思わず、栽仁殿下から顔を背けた。頭の中で疑問を重ねた挙げ句、甘い妄想に捕らわれ始めた私の心の中を、大切な婚約者に見透かされてしまったような気がしたからだ。
(お、落ち着け!落ち着け、私!今日は指輪を渡さないかもしれないのよ?!婚儀前の最後のデートだからって、甘い期待を抱いちゃダメ!)
期待で跳ね回ろうとする心を、私は理性で必死に叱りつける。そんな私を見て、
「ふふ、恥ずかしがってる梨花さん、可愛い」
栽仁殿下はクスリと笑い、「じゃあ、梨の畑に行きましょうか」と私を優しく促して歩き始めた。
駅から多摩川に向かってほんの少し歩き、道を兼ねた堤防の上に立つと、前方一面に、白い花を咲かせた木がたくさん植えられているのが見えた。梨の木が植えられた畑である。多摩川沿いの土地は梨の栽培に適しており、昔から梨の栽培が盛んで、果実は東京市内に出荷されることが多い。また、春になると咲く梨の花を見に、東京市内から多くの人が訪れるのだそうだ。品川から乗った電車の中で、栽仁殿下が私に教えてくれた。
「一面、真っ白だね、これは……」
「うん、雪が積もったみたいだね。清で“梨雪”って呼ぶのも納得だ」
栽仁殿下は満足気に頷くと、
「じゃあ、もっと近づいてみようか」
と私に声を掛け、梨畑に向かってゆっくり歩き始める。
(け、景色に集中できない……)
繋がれた手から伝わる栽仁殿下の温もりにドキドキしながら、私は彼の隣を歩いた。
梨畑のそばまでやってくると、咲いている花の様子がよく分かるようになった。桜や梅の花に似た形の五弁の花が、何個か固まって咲いている。花弁の色は、雪を思わせるような白だ。
「綺麗……」
この花は、どんな匂いがするのだろうか。梅のように、ほのかな暖かい香りがするのだろうか。私は道に花のついた枝を伸ばしている梨の木に近づき、花に顔を近づけようとした。
すると、
「あ、嗅ぐのはやめる方がいいよ、梨花さん」
私の右手を握った栽仁殿下が私に言った。
「へ?何で?」
「梨の花って、余りいい匂いがしないんだ。何と言ったらいいかな……生臭いというか……」
私は花に近づけようとしていた顔を引っ込めた。……言われてみれば、何となく、生臭いような嫌な臭いが、周囲に漂っているような気もする。
「なるほどねぇ。梅みたいに、香りは楽しめないんだ」
軽いため息をついた私に、
「うん、でも、欠点と言えばそれだけだね。こうやって、眺めている分にはとても美しい」
栽仁殿下は優しい声で言うと、遠くに視線を投げる。梨の真っ白い花は青空に良く映え、美しい、可憐な姿を見せていた。
「そうだね。……見ることができて、良かった。ありがとう、栽さん、誘ってくれて」
栽仁殿下の方を振り向いて微笑すると、
「僕も、梨花さんと一緒に梨の花を見られて良かった」
栽仁殿下も私に向かって微笑みを返した。
梨畑を出た時に懐中時計を確認すると、あと10分ほどで正午になろうとするところだった。
「堤防に座って、梨の花を見ながらお弁当を食べようか」
栽仁殿下の提案に、反対する理由は見当たらない。私と栽仁殿下は再び堤防まで戻り、多摩川と梨畑がよく見える法面に腰を下ろして、お互い持って来たお弁当を広げることにした。どこか遠くで、子供たちが遊んでいるようだ。はしゃぎ声がそよ風に乗って微かに届く中、私たちは箸を動かしながら、眼下に広がる一面の梨の花と、その向こうに流れる多摩川の水面とを眺めていた。
「上から見ると、本当に雪が降り積もったみたいね。今、春なのに、不思議な感じがする……」
お箸で鯛の照り焼きの身をほぐしながら、私が呟くと、
「……そうだね。周りはすっかり春なのに」
栽仁殿下がゴボウの煮物を食べ終えてから私に答えた。
「タンポポが咲いてるし、蝶も飛んでる。だけど、ここだけが氷に閉ざされたみたいだ」
「そうね」
(氷、か……)
胸が微かに痛んだ。思い出してしまったのだ。私の心が、未だに凍てついていることを。栽仁殿下が去年の秋に練習航海に出てから、何度も何度も、あふれ出てしまう苦しみを吐き出そうと試みているのに、彼が帰って来てからも、キスにまつわる前世の記憶は、私の心の一部を凍てつかせたままだ。
「梨花さん、どうしたの?」
ふと気が付くと、栽仁殿下が心配そうに私を見つめていた。
「辛そうだ……接吻の話をしている時みたいに……」
私は目を伏せると、「ごめんね……」と呟くように栽仁殿下に謝った。
「栽さんは、無事に練習航海を乗り越えて帰ってきた。けれど、私、大山さんにも兄上にもお母様にも手伝ってもらったのに、あの思い出を乗り越えられなくて……」
「そうなんだ……」
栽仁殿下は箸を置き、私の左手を優しく取った。
「話が最初に止まるところは、今、どこなんですか?」
「その時その時によって、違うの……」
私は目を伏せたまま答えた。「調子がいい時は、野田の奴が工藤さんと抱き合ってたところまで、止まらずに話せる。けれど、仕事で悩んでいることがあったり、当直明けで疲れていたりする時は、私がバレンタインにケーキを作ったところで止まることがある。止まるところが一定しなくて……少しずつ、前進していくんだったら、回数を重ねれば何とかなるって分かるのに……」
すると
「そうか。一進一退しながら、少しずつ前に進んでるってことだね」
栽仁殿下は私に微笑を向けた。
「へ……?」
「だって、僕に最初にあの話をしてくれた時には、梨花さん、あのひどい男に恋をしたところで、話が最初に止まったんだ。でも今は、調子が悪くても、話が最初に止まるのは、そこより少し後のところだ。……大丈夫だよ、梨花さん。梨花さんはちゃんと、前に進んでる。状況は、僕が練習航海に出発する直前より良くなってるよ」
栽仁殿下は、私の手を握り、澄んだ美しい瞳でじっと私を見つめた。
「不思議ね……」
思わず、素直な想いが、私の口からこぼれ出た。
「栽さんと一緒にいると、心が前を向けるの。ダメじゃないかって思うことも、何とかなるんじゃないか、って思えるようになって……」
「そうなの?」
「そうだよ……」
小さな声で私は答える。恥ずかしくて、気の利いた答えが全く頭に浮かばない。
「私、多分、あなたが思っているより消極的だよ。特に、男女のお付き合いってことに関しては」
「分かります」
栽仁殿下が苦笑いする。
「でも、僕は梨花さんのそんなところも愛しいです」
愛しい、という単語に、心が飛び跳ねてしまった。なぜだか、身体がとても熱くなる。
「梨花さん、大丈夫?」
「あ、大丈夫よ……まだ、愛しい、とか、愛してる、とか、言われるの、慣れてないから……」
目を逸らしながら答えると、
「ふふっ、じゃあ、一緒に暮らすようになったら、“愛してる”って、もっと梨花さんに言わないといけないな」
私の大切な婚約者は、こんなことを言って悪戯っぽく笑う。完全に動きを止めてしまった私に、「少し、食事に集中しようか。僕も梨花さんも、箸が全然進んでないから」と彼は声を掛け、私から手を離すと、再び箸を持った。
「梨花さんも、食べ終わったみたいだね」
栽仁殿下が私に確認したのは、私がお弁当箱を空にして、手提げカバンの中に片付けようとした時だった。黙って頷くと、「ちょっと待っててね」と栽仁殿下は言い、後ろを向いて自分のカバンの中を探る。何をしているのだろう、と不審に思った瞬間、栽仁殿下が私に向き直り、
「梨花さん、渡したいものがあります」
とても真面目な表情で私に告げた。
「はい」
栽仁殿下の態度につられ、私も背筋を伸ばす。すると、栽仁殿下は、
「結婚指輪です」
と、少し上ずった声で言った。
「にゃっ……?!」
目を丸くして、身体が固まってしまった私に、
「本当は、婚儀の日に渡せればいいな、と思ったんです」
栽仁殿下は説明を始めた。
「でも、婚儀の日は、やることがたくさんあります。婚儀が終わった後も、親族の固めの儀式をしたり、勅使の方や花御殿からの御使を迎えたり……そんな慌ただしい中で、梨花さんに大切な指輪を渡すなんてこと、したくありません。それなら今日、美しい梨の花を見ながら渡したい。そう思ったから……」
栽仁殿下は、左の手のひらに、紺色のビロードで覆われた小さな箱を載せる。蓋を開くと、中には銀色に輝く指輪が2つ並んで入っていた。少しサイズの大きいのが栽仁殿下の指輪で、小さいのが私の指輪だろう。
「練習航海に出発する直前に注文しました。梨花さん、ゴテゴテと飾りのついたものは嫌いだろうと思ったから、何も飾りがついてない、銀の指輪なんだ。大山閣下に確認したから、指輪の大きさは大丈夫なはずだけど、もし、もっと飾りが付いたものの方がいい、ってことなら、新しく指輪を作り直して……」
「イヤ!」
私は小さく叫んで、駄々っ子のように首を左右に振った。「これがいい……このシンプルなのがいい……。だって、そういうのがいいって、私、栽さんに言ったじゃない……」
気が付くと、私の目からは、涙がポロポロとこぼれていた。
「梨花さん、涙が……。驚かせちゃったかな。ごめんなさい」
慌ててハンカチーフを探そうとする栽仁殿下に、
「謝らないで!」
私は涙がこぼれるのも構わず叫んだ。
「私こそ、驚かせて、ごめんね。……嬉しいの。栽さんが、結婚指輪を渡してくれるなら、今日がいいって……梨の花を見ながら、指輪を渡されたいって、思ってたから……でも、そんな甘い期待は持っちゃダメだって、そんな……夢みたいなことは起こらないって、必死に自分を抑えて……」
「そうなんだ。……じゃあ、良かった。梨花さんの夢を叶えられて」
栽仁殿下は私を見つめて微笑むと、「どんなふうに指輪をはめられたい?」と私に優しく尋ねた。
「ご、ごめん、そこまで、考えてなくて……」
顔を真っ赤にしてうつむくと、
「じゃあ、僕が考えた言葉があるから、それを伝えながら、指輪をはめるね」
栽仁殿下はこう言った。私が黙って頷くと、
「梨花さん、左手を出して」
彼は優しく、私に囁くように言う。私は言われた通り、微かに震える左手を、そっと栽仁殿下の方に差し出した。栽仁殿下は自分の左手で、私の左手を下から支えると、
「梨花さん」
私の名前を呼んだ。
「僕の大切な、愛しい梨花さん。僕は一生、梨花さんを愛して、梨花さんをそばで支え、守ることを誓います。その誓いの印として、梨花さんの手を、この指輪で飾らせてください」
栽仁殿下の優しい声が、私の心に流れ込んでくる。先ほどまで聞こえていたはずの風の音や子供たちのはしゃぎ声が世界から消え、私の聴覚は、大切な婚約者の心地いい声だけをとらえていた。その声と言葉が、私の心の中でいっぱいになった瞬間、身体の奥の方で、暖かくて優しい光が灯ったような気がした。
(あ、あれ……?)
自分の中で起こった変化に、私は戸惑っていた。嫌な感覚ではない。むしろ、どこか心地いいし、懐かしい感じもする。
「じゃあ、指輪をはめるよ、梨花さん」
栽仁殿下は右手に持った指輪を、私の薬指にそっと通す。何の宝石も付いていない銀の指輪は、私の左手の薬指の根元に、ピッタリとはめられた。
(あ……)
その刹那、私の心が、優しくて暖かい何かに抱き締められ、ふわりと宙に浮いた。
「梨花さん……?」
私の異変を察知したのか、栽仁殿下が私の左手をギュッと握る。
「……大丈夫よ、栽さん」
私は大切な婚約者に微笑んだ。「ふわふわしているだけ。随分と久しぶりだったから、私も驚いてしまったけれど」
「そっか」
栽仁殿下は私の手を握ったまま頷くと、
「辛くはない?」
と私に尋ねる。
「ありがとう、辛くないわ。むしろ、心地いい。でも、栽さんに手を握っていて欲しいの。その方が、暖かくて安心できるから」
「もちろん、梨花さんの望みなら」
栽仁殿下は私に応えると、
「だけど、僕の手にも、指輪をはめてもらわないと」
そう言って、私に苦笑いを向けた。
「ごめんなさい。うっかりしていたわ。栽さん、指輪を下さる?」
素直に謝ると、栽仁殿下は指輪の入った小箱を私に差し出す。私は、自分のものよりサイズの大きな指輪を持ち、「栽さん、左手を貸して」と婚約者にお願いした。
「私の大切な、愛する栽さん。私は一生、栽さんを愛して、栽さんを支え、守ることを誓います。その誓いの印として、栽さんの指に、この指輪をはめさせてください」
心をこめて、誓いの言葉を音声に変えてから、私は婚約者の左手の薬指に、銀の指輪をそっとはめる。薬指の根元まで指輪を動かすと、示し合わせたかのように、私と栽仁殿下は見つめ合った。
「……こういう時、誓いの接吻をすると格好がつくんだろうけれど、それは止めておくね、梨花さん」
栽仁殿下の少し残念そうな言葉に、
「大丈夫よ」
私は反射的に答える。
「え?」
首を傾げた栽仁殿下に、
「大丈夫よ、キスしても」
私は重ねて答えた。
「でも……梨花さん、そうしたら、倒れちゃうんじゃ……」
「今なら、大丈夫だと思う。きっと乗り越えられる」
不安げな表情になった栽仁殿下に、私は微笑んでみせた。
「それに、倒れたら、栽さんが私を抱き締めてくれればいい。そうしたら、ケガをしないで済むわ」
「……分かった」
栽仁殿下は意を決したように首を縦に振ると、「身体に触るよ」と私に声を掛ける。私が軽く頷くと、彼の両腕が私の背中に回された。
「目は閉じる?」
栽仁殿下の質問に、
「ううん、開けておくわ」
私は即答した。
「そうしたら、キスしてるのは栽さんだって分かる。嫌な記憶に巻き込まれることはないわ」
「じゃあ、僕も目を開けておく。梨花さんが万が一倒れたら、すぐに反応して身体を支えられるように」
栽仁殿下の澄んだ美しい瞳が、私を優しく包み込む。大丈夫。きっと、嫌なことは起こらない。その予感は、私の心の中で確信に変わった。
そして、栽仁殿下と私の唇の距離が縮まり、あと数cmで触れ合おうとしたその時――。
「こらーっ!」
大きな叫び声が、私の聴覚を切り裂いた。
突然の怒声に、私と栽仁殿下は身体の動きを止めた。
「そこの男と女ーーーっ!」
怒鳴り声は、更に私達に近づく。発している人間はすぐに見つかった。堤防の上に、立派な八の字髭を生やした警官がいる。彼は私達を怒りのこもった目で睨みつけ、
「貴様ら、真っ昼間から逢引するとは、言語道断!」
と叫んだ。
「梨花さん、今日、護衛の警官は付く予定だった?」
「ううん、今日は微行だから、秋山さんが陰から付いているだけよ」
あの警官は何者だろうか。私と栽仁殿下が小声で話し合っているうちに、警官は目を怒らせたまま、堤防の法面をこちらに向かって下りてくる。そして、私達のそばに仁王立ちすると、私と栽仁殿下を交互に睨みつけた。
「身体を離せ!」
警官は身を屈めると、私と栽仁殿下の肩を無遠慮に掴み、身体を引き離そうとする。その力に逆らって、栽仁殿下は私の身体をギュッと抱き締めながら、
「僕の婚約者に何をなさるんですか!」
と警官に抗議した。しかし、
「婚約者だぁ?口から出任せを言いおって!」
警官の腕の力は全く緩まない。私は栽仁殿下の身体にしがみつきながら、
「本当です。私達、明後日結婚するんです」
と言った。
「ふん!そう言って誤魔化そうとしても、本官は騙されんぞ!貴様ら、真っ昼間から逢引して、いかがわしい行為に及ぶつもりだっただろう!」
警官はそう決め付けると、
「貴様ら、名を名乗れ!」
居丈高な態度を崩さないまま、私達に命じた。
「人に名乗って欲しい時は、まず自分から名乗るべきでしょう」
落ち着いて対応し、硬い目で自分を見つめる栽仁殿下に、
「生意気な!」
警官は一声叫び、蹴りを放とうとする。その足を、栽仁殿下はとっさに押さえて動かなくした。
「ぬっ……?!貴様、本官に逆らう気か!」
「逆らうも何も、僕の大切な婚約者に対する暴力を封じたまでです。将来を誓い合った者として」
「栽さん……」
私が栽仁殿下の顔をじっと見つめた時、
「殿下ーっ!」
遠くから、聞き覚えのある声がした。表向きは青山御殿付きの職員である、秋山真之さんだ。秋山さんはこちらまで走ってくると、警官に飛び掛かり、
「貴様、殿下方に何というご無礼を!」
と叫びながら、襟元を掴んで、背負い投げの要領で地面に投げ飛ばした。
「秋山さん。微行中なのですから、穏便にお願いします」
私が秋山さんに声を掛けると、秋山さんは一瞬目を見張ってから、
「し、しかし増宮殿下、この警官は、恐れ多くも増宮殿下と若宮殿下に対し奉り、暴力行為に及ぼうとしたのですよ」
と、私に最敬礼しながら言った。
「確かにそうですけれど……」
「仕方ないです、秋山さん。僕達、接吻をしようとしたのは確かですから、真面目な警察官なら咎めるでしょう」
秋山さんと私達の会話を聞いて、地面から起き上がろうとした警官の顔が真っ青になる。
「あ、あの……あなた様方は……」
丁寧な口調に変わった警官に、秋山さんは厳かな声を作り、
「こちらにおわすお方をどなたと心得る。恐れ多くも、有栖川宮家のご嫡子であらせられる栽仁王殿下と、天皇陛下の第4皇女であらせられる増宮内親王殿下であるぞ」
……前世の時代劇のドラマで聞いたような言葉を吐いた。
「ひ、ひいーっ!」
一声叫んだ警官は土下座した。
「どうか……どうかお許しを!殿下方に暴力を振るおうとしたこの罪、万死に値します!恐れ多くも、若宮殿下のみならず、“極東の名花”と称えられる増宮殿下にまで……」
「秋山さん、秋山さん」
「はっ」
私の呼びかけに最敬礼して答えた秋山さんに、
「あの警官さんを止めてください」
と私は命じた。
「このままだと、彼、責任をとって自殺すると言いかねません。私たちに出会ってしまったのは、彼にとっては不幸な事故のようなものです。そんなことで、貴重な人命を失う訳にはいきません」
「僕からもお願いします」
栽仁殿下も真剣な表情で秋山さんに言った。
「元はと言えば、僕たちがあの警官を誤解させるようなことをしたのが悪いんですから」
「……かしこまりました」
秋山さんは渋々頷くと、警官の方に歩いていく。
「おい、良かったな。殿下方はご寛大にも、無礼を許してくださるそうだ」
秋山さんが警官に吐き捨てるように言うと、
「ということは……死罪ではなく懲役刑に……分かりました、喜んで刑に服す所存であります」
土下座したままの警官は、何故かこんな答えを秋山さんに返した。
「どうしてそうなるのかしら……」
私は軽くため息をついた。「警官さんが責められるいわれはないのです。それなのに、何故死罪やら懲役やらという話になるのでしょうか」
すると、
「では、懲役刑ではなく、罰金刑でよいと仰せになられるのですか?」
警官は混乱しているのか、更に斜め上の答えを私に返した。
「それも違うのですけれど……」
私は警官の言葉を否定すると、
「栽さん、私、あの警官さんを落ち着かせるために、何をしたらいいかしら?」
と婚約者に尋ねた。
「僕も見当が付かないけれど……あの警官の上司や、所属している警察署の署長に説得してもらうのはどうかな。知った顔の人が説得する方が、話を聞いてくれるかも」
栽仁殿下が答えると、その言葉を聞いていた警官が、再び地面にひれ伏し、
「分かりました。署長も同罪ですね。きっと、喜んで罪に服すと言うでしょう」
更に勘違いした答えを私達に返す。
「……駄目ね、これは」
「僕たちも、あの警官と一緒に警察署に行って、事情を説明する方がいいね。このまま目を離すと、彼、自ら命を絶つかもしれないから」
そう言い合った私と栽仁殿下は顔を見合わせ、
「キスは、本当に夫婦になる時までお預けね」
「そうだね」
声を潜めて言い合うと、苦笑いを交わした。
……こうして、唐衣の上文から始まった梨の花の見物は、結局、ドタバタのうちに終わったのだった。
※六郷村近辺のナシ栽培は、大正時代の多摩川改修工事により、果樹園部分が買収されて河川敷になったことで終わったようです。(「有吉堤竣工100年,アミガサ事件の背景を考察する(1)」(和田一範、「水利科学」2017年10月)を参照しました)




