試着
※地の文を訂正しました。(2021年9月12日)
1910(明治43)年4月2日土曜日午後3時半、青山御殿。
「ほら、章姉上。せっかくの晴れの衣装なんだから、笑顔になったら?」
御殿で一番広い和室の中。婚礼の時の装束を着て立っている私に向かってこう言うのは、弟の輝仁さまだ。16歳の彼は、現在幼年学校の3年生。目標通り、9月に航空士官学校に入学できるよう、目下猛勉強中である。
「そうですよ、お姉さま。本当に素晴らしい装束で、お姉さまの美しいお顔に良く映えますのに……」
兄の隣で少し不満げに言ったのは節子さまだ。そして、私の妹たち……昌子さま、房子さま、允子さま、聡子さま、多喜子さまも、私の着ている五衣唐衣裳を熱心に見つめながら、節子さまに同調するように大きく首を縦に振った。
「でもね、すっごく重いのよ、この格好……」
前に立てられた大きな鏡の中の自分を見ながら、私は唇を軽く尖らせた。濃色の小袖を着た上に同じ色の長袴を付け、更に同じ色の単に袖を通してから、“萌黄の匂”の五衣を1枚ずつ重ね着する。その上に表着、そして萌黄色の唐衣と裳を付ける。髪もかつらを使って、毛先が床に付くくらいまで長くして、“おすべらかし”という独特な形に結った私の姿は、完全に雛人形の女雛そのものだった。それはいいのだけれど、この装束、本当に重くて動きづらいのだ。一式合わせたら、重さは10kgは超えるのではないのだろうか。
「袴の裾も滅茶苦茶長いし……。歩けるか心配だよ」
長袴という名の通り、付けている袴の裾は、女学校時代に着ていた女袴よりももっと長く、裾は床に長く引きずってしまう。どうしたって、裾を踏みながら歩くことになるので、不安定なことこの上ない。
「ああ、どうしよう、賢所で転んじゃったら……」
私が顔をしかめた瞬間、廊下から大勢の足音が近づいて来て、
「増宮さま。皆さまお揃いになりました」
と言いながら、大山さんが廊下側から障子を開けた。彼の後ろには、有栖川宮威仁親王殿下を除く梨花会の面々が顔を揃えている。彼らは私の姿を見ると、一様に「おお……」と讃嘆の声を漏らした。
「ああ、古式ゆかしく、本当に華やかな装束で、増宮さまの美しさが光り輝いて……わし、生きててよかった……」
梨花会の面々の先頭にいた三条さんが泣き出すと、
「本当ですねぇ、三条さん。天女さまみたいに奇麗じゃねぇか、増宮さま……」
三条さんの隣に立っていた井上さんが、やはり目を潤ませながら言った。井上さんの後ろにいる松方さんも、無言のまま涙を流している。泣いていないのは、梨花会の面々を案内してきた大山さんと、物珍しそうに私の装束を眺めている高野さんと牧野さん、そして斎藤さんと高橋さんぐらいだ。陸奥さんと原さんまで、ハンカチーフで涙を押さえていたので、私はどう話しかけていいか分からなくなり、
「えっと……褒めてくださるのはありがたいんですけれど、皆さん、お仕事はどうしたんですか?朝鮮の件で忙しいんじゃ?」
と一同に尋ねてみた。
すると、
「朝鮮の方は、昨日付で清に滞りなく併合されましたから、忙しいことは何もありません」
陸奥さんがハンカチーフを下ろし、微笑しながら答えた。
「それに今日は土曜日ですから、午後は休みです。我々がこうして青山御殿に参上しても、何の問題もないわけです」
落ち着き払って答える陸奥さんの言葉に、私の心が妙な刺激を受ける。そうだ、今日の午後は、本当は休みなのだ。私が自由に動くことが出来る、婚儀前、最後の休みだったのに……。
「おや、どうなさいましたか、殿下。ご機嫌斜めのようですが」
流石、陸奥さんは私の顔色の微妙な変化を逃さなかった。隠しても、どうせすぐバレてしまうので、
「だって、今日は横須賀に行って、栽仁殿下に会おうと思っていたのに、装束の試着の予定が入ったから、横須賀に行けなくなってしまったんですもの……」
私は陸奥さんに正直に答えた。
私の婚約者・有栖川宮栽仁王殿下は、先月30日、半年以上に及んだ練習航海を終え、横須賀港に到着した。そして、4月1日付で海兵少尉に任官し、横須賀を母港とする装甲巡洋艦“日進”に配属された。だから、栽仁殿下と私の休みが合えば、横須賀で落ち合うことも出来る。そして、4月17日に予定された婚儀の日までは、お互いに予定が詰まっているだろうから、栽仁殿下と会うことが出来る休みは今日ぐらいしかないはずだ。ところが、その唯一の休みの日に、装束の試着予定が入ってしまったので、私は栽仁殿下と結婚前に会う機会を失ってしまったのだ。
「栽仁殿下の勤務先が本省だったら良かったのに。そうしたら、すぐに栽仁殿下に会えるんだけどなぁ……」
大きなため息をつきながらこう言うと、
「お気持ちは十分に分かるつもりです」
国軍大臣の山本さんが私の方に向かって一歩進み出ながら言った。
「しかし、今は、若宮殿下が海兵士官として一人立ちされる、大事な時期でございます。ですから、ぜひとも艦隊のご勤務についていただきたいというのが、国軍上層部の一致した意見です。それに、来月になれば、増宮さまも横須賀の国軍病院にご転勤ですから、葉山の有栖川宮家の別邸で、若宮殿下と一緒にお住まいになられるではないですか」
「それは、そうですけど……」
私が山本さんに渋々返答すると、
「山本大臣、分かってやれ、章子の恋心を」
今まで黙っていた兄が、山本さんに向かって微笑した。
「皇太子殿下のおっしゃる通りじゃ」
前国軍大臣の西郷さんが、両腕を胸の前で組みながら頷いた。
「増宮さまは、お仕事のために、横須賀で若宮殿下を出迎えることも出来なかったのだ。練習航海に若宮殿下が御出発なさってから半年余り、一度も会えていない恋しい殿方に、一刻でも早く会いたいと増宮さまが思われるのは当然のこと。やれやれ、有栖川宮家の教育顧問は、頭が固いのう」
「さ、西郷さん!」
「西郷閣下!」
私と山本さんが顔を真っ赤にして西郷さんに抗議した時、また廊下から足音が響き、
「皆さま、写真を撮りますので、並んでいただけますか?」
梨花会の面々の間を縫って、母が部屋の中に入ってきた。母の後ろには、宮内省から派遣されたカメラマンもいる。これから、公式発表に使う写真などを撮影するのだ。きょうだいたちも、梨花会の面々も、一斉に部屋から出て、廊下に待機した。
まず、私一人だけの写真を撮影する。これは、公式発表に使われるだけではなく、お父様とお母様にも献上されるそうだ。次に、兄夫婦と弟妹たちと並んで写真を撮ると、遠慮する母を拝み倒して、2人で写真を撮った。そして最後に、梨花会の面々と並んで写真を撮ることになったのだけれど、私の隣の位置を誰が取るかで揉め、高橋さん、牧野さん、斎藤さん、高野さん以外のメンバーがにらみ合ってしまった。
「殿下の右隣を占めるのは大山殿で問題はありませんが、殿下の左隣は当然、内閣総理大臣のこの僕です」
陸奥さんが軽く胸を張れば、
「何を言う!内閣総理大臣を2度務め、10年以上の長きにわたって増宮さまの輔導主任を務めたわしに決まっておろう!」
伊藤さんが両の拳を握り締めて叫ぶ。
「ここは退いてもらおう、俊輔。増宮さまの左に立つのは、宮内大臣としてご婚儀の全責任を負っているわしじゃ。それに、わしは長年、増宮さまの和歌を拝見させていただいておるからな……」
山縣さんが厳かな声で言う横から、
「大変申し訳ございませんが、山縣閣下。わたしは、山縣閣下が増宮殿下の和歌を拝見なさるより前から、増宮殿下の将棋のお相手を務めさせていただいております。それに、初代厚生大臣として、増宮殿下の医師免許を発行したのはこのわたし……たとえ誰になんと言われようと、殿下の隣は譲れません!」
……なぜか、原さんが顔面にただならぬ決意をみなぎらせながらこう宣言した。
「原閣下!そうは参りませんぞ!増宮殿下の隣に立つべきは、現厚生大臣であり、増宮殿下奉賛会の会員でもあるこの後藤!」
「何を言う!軍医であらせられる増宮さまの現在の直接の上司は、国軍大臣の俺じゃあ!」
後藤さん、山本さんが言い争いに加わり、更に梨花会の他の面々も参戦していく光景を見ながら、
「何で原さんが加わってるのよ……」
私は、装束のせいで余計に重くなっている両肩をがっくりと落とした。
「いつものことではあるが、余りに長く続けば、梨花が疲れてしまうな」
いつの間にか私のそばに移動した兄が小声で言うと、
「その通りです。この装束の重みに、梨花さまが耐えられません」
大山さんがそれに囁くように応える。
「だな」
頷いた兄は、軽い咳ばらいをすると、
「分かった。では、わたしと大山大将が、章子の両隣に座る」
良く通る声でこう言った。
「あの……皇太子殿下、それは……」
静まり返った一同を代表するように、伊藤さんが恐る恐る兄に抗議しようとしたけれど、
「わたしは章子の、ただ一人の兄だぞ?」
兄が鋭い目で睨みつけると、慌てて口を閉じ、兄に向かって頭を下げた。その他の梨花会の面々が、伊藤さんに倣って一斉に兄に最敬礼すると、
「うん、分かればいい」
兄は満足そうに首を縦に振り、私の左に立った。続いて大山さんが私の右隣に立ち、残りの梨花会の面々も私を中心にして並ぶ。そして無事、梨花会の面々との写真撮影も完了した。
「はー、終わったぞ!」
全ての写真撮影が終わった瞬間、私は両腕を上に思いっきり伸ばそうとしたけれど、重い装束にたちまち動きを制限されてしまい、ほとんど腕を上げることが出来なかった。
「うう……この装束、奇麗だけどやっぱり辛い……。髪も鬢付け油でバリバリに固まってるし……」
ため息をつきながら愚痴ると、
「おいおい、折角の晴れの衣装だぞ?」
兄が私に苦笑いを向ける。
「そうだけどさぁ、大礼服の方が、重くない分、まだ楽だよ。……大山さん、これで写真撮影も終わったから、もう装束は脱いでいいんだよね?」
兄に返答したのに続けて、私が大山さんに尋ねると、
「いいえ」
彼は静かに首を横に振った。
「え?何で?まだ何かやらないといけないの?!」
私の重ねての質問に、大山さんは微笑んで、部屋の入り口を示す。そこには、真新しい紺色の軍服を着た青年が立っていた。肩章に付いた星は、小さいものが1つだけだから、着ている人は少尉だと分かる。サーベル拵えの剣を持ち、白い手袋をはめたこの人は……。
「お久しぶりです、章子さん」
紺色の制帽を取り、私に挨拶した栽仁殿下に、
「お帰りなさい……」
こう返事をした私は、思わず涙をこぼしてしまった。
「ごめんね、30日に、横須賀に出迎えにいけなくて……」
大山さんが皆を追い出し、がらんどうになった部屋の中。私は、海兵少尉の軍服を着た栽仁殿下と向かい合っていた。
「ううん、気にしないで。こっちこそ、梨花さんを驚かせちゃったかな」
微笑する栽仁殿下は、最後に会った去年の8月下旬より日に灼け、1人前の成年士官らしい顔つきになっていた。
「今日は、陛下に帰国の挨拶を申し上げに行ったんです。その後、家に一度戻ったら、“帰りの汽車まで時間があるなら、青山御殿に寄ったらどうだ”って父上に言われて……急いで青山御殿に電話を入れたら、大山閣下が“是非今からおいでください”っておっしゃって下さったから、川野さんに自動車を飛ばしてもらいました」
「そうだったんだ……」
なるほど、それで栽仁殿下がここにいる理由は分かった。大山さんも、栽仁殿下から電話があったなら、私にそのことを伝えてくれればいいのに……サプライズでも仕掛けたつもりだったのだろうか。
「……栽さん、少尉任官、おめでとう。制服、すごくよく似合ってる」
私が軽く頭を下げると、
「梨花さんも、その装束、すごくよく似合って、奇麗だよ」
栽仁殿下はそう言って、私を見つめた。
「あ、ありがとう……」
ドキドキしながらお礼を言うと、
「ねぇ、梨花さん、この装束、じっくり見せてもらっていいですか?きっと、婚儀の時には、見る余裕なんてないだろうから」
栽仁殿下は私に尋ねる。私が黙って頷くと、彼は私に近寄り、五衣唐衣裳の観察を始めた。時々、左右や後ろに回りながら、栽仁殿下が装束の細かいところまで眺めている気配を感じ、私の身体は恥ずかしさで熱くなった。
と、
「あれ?この唐衣の上文、初めて見る……梅でも、桜でもないし……」
私の唐衣をじっと見つめていた栽仁殿下が首を傾げた。
「そ、それ、梨の花、なんだ……」
答えた私の声は、少し上ずっていた。「新しく、作ってもらったんだけど……おかしい?」
「ううん、とても素敵だよ、この上文」
栽仁殿下はこう言って微笑すると、
「そう言えば、梨花さんは梨の花って、見たことはあるの?」
と私に尋ねた。
「実は、見たことが無いの。一度は見たいと思っているんだけれど……」
私が答えると、
「じゃあ、一緒に見に行きましょうか」
栽仁殿下は私に提案した。
「それは、行きたいけど……いつ行くの?」
「婚儀の前に、ですよ。梨の花、東京の近辺だと、もうすぐ咲き始めるし」
「こ、婚儀の前って……栽さん、休みは取れるの?私、12日からは休むけど……」
私と栽仁殿下の結婚は、4月11日の月曜日に勅許される。翌日の12日に、青山御殿に勅使がやって来て、“17日に成婚の儀を執り行う”と私に告げる予定なので、私は12日から結婚と転勤のための休暇を取ることにしているけれど……。
(少尉になったばかりで、栽さん、休みは取れるのかな?私みたいに、すぐ休暇は取れないだろうし……)
そう心配していると、
「大丈夫だよ。僕も、11日からは休暇に入ります。少尉になったばかりだと、こんなに長く休暇は取れないらしいけれど、特例で認められました」
栽仁殿下が明るい声で答えた。
「でも、予定がたくさんあるよ?勅使を迎えたり、お父様とお母様に挨拶しに行ったり……大丈夫なのかな?」
「何とかなるんじゃないかな」
色々考えて不安になる私を、栽仁殿下が澄んだ美しい瞳でじっと見つめる。
「僕も予定が多少あるけど、11日から連日予定が入ってる訳じゃないから、半日ぐらいだったら、どこかに一緒に行く暇はあると思うんです」
どうしてだろうか。栽仁殿下に見つめられて、明るい、穏やかな声を聞いていると、下を向いていた心が、だんだん、前を見ようと動いてくるのだ。栽仁殿下への恋心を必死に抑えようとしていた頃は、彼の視線や、彼の声に触れるたびに、胸が苦しく、切なくなったけれど、婚約が内定した今は、彼と相対していることが心地よく、心がほんのりと温められていくような気がする。
「もう、横須賀に戻らないといけないけど、また手紙はやり取りしましょうね、梨花さん。僕も、どこに梨の花を見に行けばいいか、考えておきます」
「うん。……ありがとう、栽さん。今日は会えて、本当に嬉しかった。また、たくさん話そうね」
「もちろんだよ、梨花さん」
栽仁殿下は微笑みながら頷いた。その笑顔につられるように、私の口元もほころんだのだった。




