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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第49章 1909(明治42)年白露~1910(明治43)年清明
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ハルビン事件

 1909(明治42)年10月26日火曜日午前11時40分、青山御殿の私の居間。

「ほう、やはり増宮さま、書道が御上達なさったようでございます」

「……それはどうも」

 百人一首の歌を一首、ちょうど清書し終えた私は、伊藤さんの言葉に適当に頷いた。今まで、10枚以上の色紙に、百人一首の歌の散らし書きをしていたので、私の疲労は限界に達していた。

「“忍ぶれど 色に出でにけり 我が恋は 物や思ふと 人の問ふまで”……なるほど、若宮殿下とのご婚約が内定になるまでの増宮さま、そのままですな」

「からかわないでもらえますか……」

 疲れているので、大きな声を出す元気がない。ため息をつきながら伊藤さんにお願いすると、伊藤さんも、隣に座っている大山さんも、私に向かってニヤニヤ笑った。

 今日は、“史実”では、伊藤さんがハルビンで暗殺された日である。“なるべく、“史実”と似ている状況に伊藤さんを置かない“という目的に従い、伊藤さんは昨夜から青山御殿の客殿に入り、私と大山さんと一緒に過ごしていた。

 そして今朝、

――せっかくの機会ですから、元輔導主任として、増宮さまの書道の上達ぶりを確認させていただきましょうか。

伊藤さんは朝食の後、こんなことを言い始めた。昨日、霞が関の威仁(たけひと)親王殿下から、“百人一首の歌をいくつか、色紙に一首ずつ清書してくるように”という課題を出されたところだったので、私は伊藤さんのリクエストに応じ、彼と大山さんに見守られながら、居間で課題に取り組み始めた。どの歌を清書するかを全く考えていなかったので、清書する歌は大山さんに選んでもらっているのだけれど、大山さんはなぜか恋の歌ばかりを私に提示する。そのたびに、他の歌がいい、と抗議しようとするけれど、大山さんが優しくて暖かい瞳でじっと私を見つめるので、私は何も言えなくなり、彼に提示された恋の歌を仕方なく清書する……ということが、かれこれ3時間以上繰り返されていた。

「いやあ、素晴らしい。わしが輔導主任を退いたころには、楷書はお上手でしたが、崩した字はどこかぎこちなさが残って物足りなかった。それが今は、ぎこちなさが無くなり、筆圧の強弱を上手く制御しておられる」

「有栖川宮殿下について書道を習い始めてから、梨花さまの字は明らかに変わりました。筆をお使いになる機会が、格段に増えたのも影響しているでしょう」

 讃嘆する伊藤さんに、大山さんが横から説明を加える。そして大山さんは更に、

「若宮殿下へのお手紙も、筆でお書きになっていらっしゃるのですよ」

と、余計な情報を伊藤さんに伝えた。

「ほう。増宮さまがわしに下さるお手紙は、いつもペンで横書きですが……」

「い、いや、栽仁(たねひと)殿下は、筆で書いた手紙をくれるので、私も筆で書いた手紙を返した方がいいかな、って思って……」

 ニコニコ笑う伊藤さんに、慌てて事情を説明すると、

「わしも増宮さま宛てのお手紙は、いつも筆で認めておりますが、……なぜわしには、筆で書いたお手紙を下さらないのですか?」

伊藤さんは笑みを崩さぬまま、私にこう質問した。

「え、あ、あの……」

 どう返したらいいのだろうか。言葉に詰まり、必死に答えを考えていると、

「若宮殿下も、梨花さまに書道を教えていらっしゃいますからね」

伊藤さんの隣で、大山さんが穏やかな声で言った。「若宮殿下の休暇中は、毎日若宮殿下とお会いになり、若宮殿下から書道の指南を受けておられました」

「なるほど。それは上達しない方がおかしい。書道の指南を受けつつ、若宮殿下との愛を育み……」

「……伊藤さん、今からハルビンに行きますか?」

 両腕を胸の前で組み、しきりに頷く伊藤さんにこう言ってみると、彼は「これは失礼いたしました」と頭を慌てて下げた。

「さて、ご昼食までにはもう少し時間がありますから、もう1枚いかがですか、梨花さま?平兼盛の歌と同じ、天徳内裏歌合で詠まれた、壬生忠見(みぶのただみ)の歌などいかがでしょう」

「“恋すてふ わが名はまだき たちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか”……って、また恋の歌じゃない。いい加減他の題の……はい、申し訳ありません、それを清書します」

 優しく暖かい瞳でじっと私を見つめる大山さんに逆らえず、私は渋々頷いて、自分の前に色紙を置く。これは、お母様(おたたさま)が数年前に私に贈ってくれたものだ。もらったきりしまい込んでいたのだけれど、やっと出番がやって来た。

「……そう言えば、そろそろ、“史実”で伊藤さんの暗殺が発生した時間でしたっけ?」

 筆を持とうとした私は、ふと思い出して伊藤さんに尋ねた。

「恐らく……もう過ぎておろうとは思いますが」

 伊藤さんは数秒ほど目を閉じて考え込んでいたけれど、

「うん、間違いない。わしの乗った列車がハルビンに着いたのが朝の9時。そこから、1時間もしないうちにやられたから……過ぎたとみて間違いないですな」

と深く頷いた。

「じゃあ、これで、伊藤さんは暗殺を免れたのかしら、大山さん?」

 私が大山さんに聞くと、

「分かりませんよ、梨花さま。まだ油断は禁物です」

大山さんは真面目な表情で答える。

「そうね。伊藤さんに女を取られた男が、天井裏に潜んでるかもしれない」

 私も真面目な顔をして答えると、伊藤さんが一瞬身体を震わせた。

「安心してください、伊藤さん。天井裏にも床下にも、怪しい気配はありません」

 大山さんが穏やかな声で言うと、

「……うん、大山さんが言うなら間違いないな。第一、中央情報院の手練れの者たちに、この青山御殿は警護されているのだから」

伊藤さんはほっと息をついた。

「全く……御冗談はおやめください、増宮さま。肝を冷やしましたぞ」

「別に冗談を言ったつもりはないんですけど、意地悪は言いたくなるんです。朝ご飯を食べ終わってからずっと、苦手な恋の歌ばかり清書させられて……」

「苦手を克服していただかなければ困りますぞ、増宮さま。若宮殿下が近づいたら逃げ出してしまうようでは、ご婚儀の後、夫婦としておやりになっていけるのか、元輔導主任としては非常に心配なのです」

「に……逃げてませんよ!書道だって、栽仁殿下からも習ってますし……」

 私がうつむきながら伊藤さんに答えると、

「書道を習われて……他には?」

伊藤さんがニヤリと笑った。

「ほ、他に?」

 顔を真っ赤にした私に、

「一緒にお食事をなさったり、一緒に出掛けられたりはなさったのですかな?」

伊藤さんは容赦なく質問する。

「あ、あの、伊藤さん……それは、ちょっと、答えたくないんですけど……」

「いいえ、お答えいただきます。元輔導主任には、増宮さまと若宮殿下の仲がどれほど進展したか、それを把握する義務がございます。このようにゆっくりお話しできる機会、最近ありませんでしたから、今日は是非お話いただきますぞ」

 私をじっと見つめる伊藤さんの眼は真剣で、絶対に私から事実を聞き出そうという決意が垣間見えた。

(困るよ……)

 助けを求めようと思って、我が臣下の方をチラッと見ると、彼は穏やかに微笑んで、私を見つめていた。“是非お話しください”と彼が私に促しているのは明白だった。

「い、意地悪……」

 私が呟いたその時、遠くから足音が響いた。だんだんこちらに近づいてくる足音は、千夏さんや東條さんのものより重い。誰だろう、と考えていると、足音は私の居間の前で止まり、

「大山閣下!」

中央情報院の職員……表向きは青山御殿の職員である明石(あかし)元二郎(もとじろう)さんの叫び声が聞こえた。大山さんはスッと障子を開けて廊下に出ると、明石さんと小さな声で二言三言話してから、

「増宮さま」

と私に呼びかけた。

「明石君に、御居間に入ってもらってもよろしいでしょうか」

「構わないよ」

 私が答えると、明石さんは大山さんの後ろについて、身を屈めながら居間に入ってきた。彼の表情は明らかに強張っている。椅子を勧めたけれど、「立ったままで結構です」と明石さんは答え、椅子に座る素振りを見せなかった。

「明石君、今、(おい)に報告したことを、そのまま増宮さまに申し上げてください」

 後ろ手で障子を閉めながら大山さんが命じると、明石さんは緊張した表情のまま、

「それでは、申し上げます。今朝、ハルビンで、袁世凱(えんせいがい)が暗殺されました」

と私たちに報告した。


「な……っ!」

 明石さんの報告を聞いた、伊藤さんの顔が青ざめた。

「何ですって?!」

 私も思わず椅子から立ち上がった。

「ちょっと待って。ハルビンで、満州の資源開発に関する清・朝鮮・新イスラエルの協議が今日あるらしい、って牧野さんに聞いたけど……袁世凱はそれに出席するためにハルビンにいたんですか?!だとしたら、何で朝鮮統監本人が協議に出てきてるんですか?!」

 頭の中に浮かんだ疑問を、そのまま口から吐き出していると、

「増宮さま、お座りください」

大山さんが珍しく、厳しい声で私に注意した。

「お気持ちは分かりますが、まずは、明石君の報告をお聞きください」

「分かった……」

 私は静かに椅子に座ると、一度深呼吸をした。

「……明石君、詳しい情報はないかね?」

 伊藤さんの問いに、

「増宮殿下からもご下問がありましたので、3国間の協議について、我々がつかんでいる内容も含めて報告申し上げますが……」

と明石さんは前置きして、状況を説明し始めた。

「3国間協議に袁世凱が自ら出張って来たのは、一言で言えば、朝鮮の利益を大きくするためです。事前の準備会合では、資源開発がうまく行き、資源の産出によって利益が生じれば、その利益は清・朝鮮・新イスラエルの3国で等分に分割することになっておりましたが、袁世凱は朝鮮の取り分を大きくしたいがため、自ら今日の協議に参加することを決めました」

「取り分を大きくするって言っても、他の2国を恫喝するだけじゃ、取り分は大きく出来ないですよね。袁世凱は、何か策を持っていたんですか?」

 私が明石さんに尋ねると、明石さんは恐縮したように一礼し、

「恐れながら……朝鮮人を、資源開発の労働力として無償で提供するという提案をして、それを見返りに利益を多く確保しようと考えていたようでございます」

と私に答えた。

「無償で提供って……それ、その労働者に給料は支払われないですよね。袁世凱のことだから……」

「その通りです。朝鮮人を強制的に連行して、満州の現場で働かせる予定だったようです」

(うわぁ……)

 明石さんの言葉に、私は思わず両腕で頭を抱えた。袁世凱という男、どこまでも欲が深い。

「なるほど、それで袁世凱がハルビンに出張ってきた理由は分かった。で、袁世凱はどのように暗殺されたのじゃ?」

 頭を抱える私をよそに、伊藤さんは明石さんに重要な質問をする。

「はい。袁世凱は朝鮮から列車に乗り、ハルビン駅に午前9時過ぎに到着しました。袁世凱がハルビン市内の協議会場に向かうため、列車を降りた時に、駅のホームで見物していた群衆の中から犯人が現れ、5mほどの距離から袁世凱に向かって拳銃を発射しました。袁世凱は頭と胸を撃ち抜かれ、ほぼ即死したようです」

(同じだ……“史実”の伊藤さんの暗殺と、状況が同じだ……)

 “史実”の伊藤さんは列車で、午前9時にハルビン駅に着いた。そして、駅のホームに降り立ったところで、銃で撃たれた。細かいところは違うかもしれないけれど、袁世凱が暗殺された状況は、“史実”の伊藤さんの暗殺事件の状況とよく似ている。明石さんの報告を聞きながら、私は背筋が凍り付いていくような感覚に襲われた。

「犯人はその場から逃走しようと試みたようですが、駅を警備していた清の警察官に逮捕されました」

 明石さんのその言葉を聞いた私は、

「名前は?!」

と思わず叫んでしまった。

「犯人の……犯人の名前、分かりますか?!」

「増宮さま!」

 大山さんの厳しい声が再び飛んでくる。静かに話を聞け、と言いたいのだろう。確かに、淑女(レディ)らしくはない振る舞いだと思ったので、私は口を閉ざした。そんな私に、

「はい、安重根という朝鮮人だそうです」

明石さんはそう告げて、深く頭を下げた。

(あ……?!)

 刹那、雷に打たれたかのような衝撃が、私の頭の中を駆け抜けた。……そうだ。“史実”の伊藤さんを暗殺した犯人の名前は、安重根だ。

「朝鮮の情勢は、大きく変わることになりましょう。清・朝鮮にいる職員たちと連携して、情報収集に努めます」

「分かりました。このこと、宮中と内閣には連絡を入れていますか?」

「はい。では、私はこれで失礼します」

「引き続き、頼みますよ」

 明石さんと大山さんのやり取りが、遠くから聞こえてくるような気がする。衝撃から立ち直れないまま、去って行く明石さんの背中をぼんやりと見送っていると、

「増宮さま?」

伊藤さんが私の肩を揺さぶった。

「いかがなさいましたか?」

「思い出しました……」

 伊藤さんの呼びかけに、私は力なく反応した。「伊藤さんを“史実”で暗殺した犯人の名前、安重根です……。名前を聞いて、やっと思い出しました……」

「梨花さま」

 大山さんが私の椅子のそばに寄り、両ひざをつく。

「もっと早く思い出せていれば、袁世凱の暗殺、防げたかも……。多分、ここから朝鮮は荒れる。安重根が朝鮮国内の反清派と連携していたかどうか分からないけれど、袁世凱暗殺の知らせを聞いた反清派は、チャンスと見て一斉に蜂起する。それを清軍が、全力で叩き潰す……。このまま一気に、朝鮮は清に併合されると思うけれど、そこに列強が注目して、軍事介入でもして来たら……」

 と、

「そうはさせませぬよ」

大山さんが私の右手をそっと握った。

「梨花さまのおっしゃる通り、清は反清派の蜂起を潰した勢いで、朝鮮を併合せざるを得ないでしょう。ですが、その混乱を長引かせないよう、そしてその混乱が世界の、列強の耳目を集めないよう、中央情報院も全力で対応します」

「大山さん……」

 私が大山さんの手を握り返した時、

「わしの代わりに、袁世凱が殺されたか……」

伊藤さんが暗い声で、呟くように言った。

「伊藤さん?」

 伊藤さんの真面目な表情が視界に入り、私の心の中に疑念が湧いた。まさか……まさかとは思うけれど、この人は……。

「袁世凱の代わりに、自分が死ねば良かったって思いました?」

 私がこう尋ねると、

「いえいえ、そんな!」

伊藤さんは左右に首を勢いよく振った。

「この時の流れでも、我が国には問題がまだまだたくさんあるのです。それにわしは、増宮さまのお幸せも見届け、そして、増宮さまが上医となられるのも見届けなくてはなりません。死んでいる暇などありませんな」

「……そうですね」

 胸を張る伊藤さんに、私は静かに頷いた。本当に、伊藤さんに死なれてしまっては困るのだ。国内政治でも外交でも、彼の力を借りなければ解決できないであろうことは多いのだから。

「伊藤さん、これからも、日本のためによろしくお願いしますね」

「はっ、増宮さまの仰せの通りに」

 ……こうして、1909(明治42)年10月26日、“史実”での伊藤さんの暗殺事件の発生日、朝鮮統監・袁世凱がハルビンで殺害された。“ハルビン事件”と呼ばれるようになったこの事件をきっかけに、清による朝鮮併合は決定的となり、その動きが加速することになったのだけれど……それはまた、別の話である。

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― 新着の感想 ―
[一言] 所謂修正力というものが働いたようで。でも“正史”の日本の立ち位置にこの歴史の『日本』はおらず代わりに『清国』がいた。 正史以上に過酷な弾圧が朝鮮半島で吹き荒れるだろうから、“正史”の出鱈目な…
[一言] 更新お疲れ様です。 伊藤さんの代わりに袁世凱が身代わり地蔵の如く凶弾に・・・・ 混迷に陥る半島情勢、果たして梨花会はどう介入するのか? 次回も楽しみにしています。
[一言] つまり特定の人物ではなくその役割で被害に遭うかどうか決まるのかな?
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