孫バカ総理と色ボケ議長
1909(明治42)年9月11日土曜日午後2時、皇居内の会議室。
「ふむ、この席はいいですね。増宮殿下のお顔がよく見える」
月に1度の、兄と私が参加して開かれる梨花会。7月まで井上さんが座っていた席に、今回は陸奥さんが座っている。私がこの時代に転生したと分かってから最初に開かれた梨花会以来、黒田さんが長く座っていたこの席は、何となく“内閣総理大臣の指定席”という位置づけになり、黒田さんが内閣総理大臣を辞した後は山縣さんが、山縣さんの次は伊藤さんが、そして、4年前の衆議院議員総選挙の結果、与野党の勢力が逆転して伊藤さんが総理大臣を辞職すると井上さんが使っていた。そして、今日陸奥さんがこの席に座っているのは、彼が昨日、第6代の内閣総理大臣に就任したからだった。
先週の金曜日、9月3日に行われた衆議院議員総選挙で、陸奥さんが率いる立憲自由党は300議席のうち153議席を、大隈さんが党首を務める立憲改進党は146議席を獲得した。前回の総選挙が行われた4年前より、地方で電信・電話網が発達した結果、以前より迅速な投票集計が可能になり、9月6日に全議席が確定したのだ。……もちろん、私の時代に比べたら、集計速度は遅いと思うけれど。
それはさておき、選挙の結果、衆議院における与野党の勢力は逆転した。そこで、立憲改進党を与党としていた井上さんの内閣は、梨花会での取り決め通り総辞職し、新たに陸奥さんが内閣総理大臣に就任することになり、昨日、親任式が行われた。陸奥さんは、立憲自由党の総裁であり、貴族院の男爵議員にも選出されている。流石に私の時代のように、ほとんどの閣僚が立憲自由党に所属しているという訳ではないけれど、日本の歴史上初めて、国会に議席を持つ与党のトップが内閣総理大臣になったのである。それは画期的なことではあるのだけれど……。
「あのー、陸奥さん」
機嫌が良さそうな陸奥さんに、私は冷たい声で呼びかけた。
「何でしょうか、殿下」
微笑しながら振り向いた陸奥さんに、
「一応確認しておきますけれど、昨日夕方の初閣議に、陸奥さんが小次郎君と麟太郎君を同席させたって今朝の新聞に書いてあったのは、デマですよね?」
私はこう尋ねた。
すると、
「事実ですが、何か?」
陸奥さんの口からとんでもない答えが飛び出し、私は「はぁ?!」と思いっきり顔をしかめた。
「い……一体、何を考えてるんですか!閣議に小学1年生と幼稚園児を同席させるって!私の時代だって、そんなことはありませんでしたよ!」
よろけそうになりながらもツッコミを入れる私に、
「勅令や法律のどこに、“孫を閣議に同席させてはいけない”という文言がありますか?子供は国の宝だというのに」
陸奥さんは涼しい顔でこう答える。
「法律が無くても、常識ってものがあるでしょう!全く、本当にあり得ないですってば!」
「やれやれ、殿下がうちの廣吉と同じようなことをおっしゃるとは思いませんでしたね。良い機会ですから、小次郎と麟太郎に政治の何たるかを学ばせようと思ったのですが」
「それ、小学1年生と幼稚園児が学べる内容じゃないですから!」
陸奥さんに全力で抗議していると、
「まぁまぁ増宮さま、抑えてください」
横から宮内大臣の山縣さんが私を止めた。
「増宮さまも、御年6歳のころから、この梨花会に参加なさっておられたではないですか」
「確かにそうですけれど……最初は巻き込まれて参加させられた感じでしたよ……」
上医になるために、兄を助けられるようになるために、きちんと政治の勉強をしなければならないと思ったのは、原さんと初めて会った8歳の時のことだ。それまでは、私が梨花会に参加して、政治の話を聞いてもなんの意味もないと思っていた。
と、
「陸奥総理」
私の前の席に座っている兄が、陸奥さんに視線を投げた。
「本当にそれだけの理由で、孫たちを閣議に同席させたのか?」
「とおっしゃいますと?」
ニッコリと笑った陸奥さんを、兄は鋭い目で見つめながら、
「今日の新聞、各紙ともに昨日の閣議のことに触れ、陸奥総理のことを“孫バカ総理”と書き立てていた。しかし、記事の文章も見出しも、どの新聞も判を押したように似ていたし、記事の分量もなぜかほとんど同じだった。だから、妙な印象を受けたのだ」
と、落ち着いた声で言い、更にこう続けた。
「院と一緒に、記事に介入したか?しかし、“孫バカ総理”と大衆に印象付けて、陸奥総理に一体どんな利益があるのか……。修業が足りぬゆえ、それが未だに見えない」
「流石は皇太子殿下でございます」
兄に答えたのは、陸奥さんではなく、私の隣に座った大山さんだった。「陸奥さんから依頼がありましたので、ちと、悪戯をしてみたのですよ」
「僕は、海外から警戒されています」
陸奥さんは嬉しそうに、兄に向かって説明を始めた。
「日英同盟を最初にまとめたのは僕です。その時も、そして、極東戦争の時も、僕は世界を相手に、外交で派手に立ち回りました。そのせいで、イギリスをはじめとするヨーロッパの国々は、僕が総理大臣になり、一体どんな要求を列強に突き付けるのかと心配しているようなのですよ。そんなもの、まだ考えてもおりませんのに」
陸奥さんがニヤリと笑うと、
「まだなくても、そのうち出来ますやろ。バルカン半島も、いつ騒ぎが起こるか分からんし……列強が無茶を言うて来たら、こっちも無茶を通すぐらいのことはせんとねぇ」
三条さんがのんびりと、毒にまみれたセリフを吐いた。
「三条殿のおっしゃる通りではあるのですが、ともかく、僕のことを“手強くはない相手”と世界に認識してもらう方が、日本にとっては有利です。ですから、折角の機会を最大限に利用することに致しました」
そう言って、恭しく兄に向かって頭を下げた陸奥さんを見ながら、
(そういうことか……)
私はようやく納得していた。自分を愚か者に見せかけることは、相手の油断を誘う基本的な手段である。けれど……。
「小次郎にも麟太郎にも、日本を背負う一流の人物になってもらわないといけません。陛下と皇太子殿下、そして迪宮殿下を適切に補佐できるような……。そのためには、かつての増宮殿下と同じように、幼いころから政治の何たるかを、肌で感じてもらわなければね」
(これ、単に、孫が可愛いから閣議に引っ張って来ただけで、後からもっともらしい理由をくっつけたんじゃ……)
嬉々として語る陸奥さんを見ながら、私はこっそりため息をついたのだった。
さて、新総理の孫バカっぷりが冒頭から炸裂するトラブルはあったけれど、梨花会の議事は、その後順調に進んでいった。国内と海外の問題については一通りの話が終わり、議題は“史実”で来月26日に発生する伊藤さんの暗殺事件のことになった。伊藤さんは、枢密院議長に残留している。もし彼が命を落としてしまったら、梨花会のみならず、多方面に悪影響が出てしまう。
「しかし、下手人の名前が未だに分からないのは困ったことですね」
第2代内閣総理大臣、現在は枢密顧問官を務める黒田さんが、そう言って肩を落とした。
「本当に申し訳ないです。私が転生したって分かって20年以上経った今でも、伊藤さんを殺した犯人の名前が思い出せないんですから。前世のバイトで日本史の授業をしていた時に、生徒に教えた覚えもあるし、犯人の名前も板書した覚えがあるのに……」
私はため息をつくと、出席者一同に向かって頭を下げた。暗殺犯の名前さえ分かれば、そいつを伊藤さんに近づけさせないぐらいのことはできるのだ。
と、
「それは俺にも責任があります、増宮殿下」
国軍参謀本部長の斎藤さんが、恰幅の良い身体を前に折り曲げながら言った。
「俺も、“史実”の記憶を持ち合わせてから25年以上が経ちます。しかし、伊藤閣下の暗殺犯の名前はやはり思い出せません」
「俺もです。伊藤閣下の暗殺は大事件でした。犯人が死刑になったという新聞記事も読んだのに、その犯人の名前だけがどうしても出てきません」
斎藤さんと同じように“史実”の記憶を持つ高野さんも、末席で頭を下げる。
(そうなんだよね……)
私と斎藤さん、高野さんだけではない。実は“史実”の記憶を持っている原さんも、伊藤さんの暗殺犯の名前が思い出せないのだ。……原さんの場合、実は思い出せているという可能性もゼロではないけれど、暗殺犯の名前を私たちに隠しておくメリットが無いので、私も大山さんも、原さんは本当に暗殺犯の名前が思い出せないのだろうと考えていた。
「高野の頭を一発殴ったら、犯人の名を思い出すのでは?」
高野さんの上司である国軍航空局長の児玉さんが首をひねると、
「お言葉ですが、閣下。閣下には何度も殴られておりますが、思い出す気配が全くありません」
高野さんは慌てて答えた。
「では、俺が児玉の代わりに、高野の頭を一発殴って……」
今回の新内閣発足で国軍大臣を退き、枢密顧問官になった西郷さんが、ゆっくりと拳を構えようとすると、
「西郷さん、おそらく無駄です。それに、これ以上高野を傷付けようとすれば、増宮さまに悪影響が出てしまいます」
隣に座っている山田さんが西郷さんを止めた。
「確かにそうじゃなぁ。これで、増宮さまが幼いころのように高所から飛び降りようとなさったら、弥助どんが増宮さまを止めなければならなくなるからのう」
「やりませんよ!」
何度も首を縦に振る西郷さんに、私は叫ぶように返した。自分を傷付けるようなことをしてしまったら、大山さんと兄だけではなく、訓練航海中の栽仁殿下まで心配させてしまう。それは絶対に避けたい。
と、
「犯人の名前は、思い出せぬ定めなのかもしれぬ」
上座から声が響いた。お父様だ。一斉に頭を下げた私たちの頭上から、
「大津事件の時の章子がそうであった。犯人の名前を聞いてから、“史実”でもその男が大津事件の犯人であったと思い出したのだ」
お父様の言葉が降って来る。
(……確かにそうだった)
20年近く昔の記憶を呼び起こした私は、お父様に更に深く頭を下げた。大津事件の犯人、津田三蔵。“史実”ではニコライを襲い、この時の流れでは大山さんを襲った男の名前を、私は爺に聞かされて思い出したのだ。
「しかし、犯人の名前を思い出せなくても、犯人が“史実”で抱いていた動機が、この時の流れで無くなっているのであれば、伊藤閣下の暗殺は回避できるのではないでしょうか?」
末席の方から声を上げたのは、新しく農商務相に就任した牧野さんだ。
「ですから、まずは、“史実”の暗殺犯の動機が何かを考えればよろしいのではないかと」
「確かにその通りですな」
枢密顧問官の松方さんが、重々しく頷くと、
「だんだん、牧野さんの好きな探偵小説のようになってまいりましたか」
文部大臣に就任した西園寺さんが愉快そうに身を乗り出した。
(探偵小説っていうか、2時間サスペンスみたいになってきた気もするけど)
私が心の中でツッコミを入れた瞬間、
「動機って言ったって、俊輔や斎藤の話を聞く限り、これしかないだろう。朝鮮人が、日本の朝鮮での施策の数々を恨んでいた。それが、初代朝鮮統監だった俊輔に向かった……」
井上さんが大きな声で言った。
「数ヶ月前、私が増宮さまと話し合った時も、同じような結論に達しました。大山閣下が、“他のからくりで事件が発生することも考慮せよ”とおっしゃったので、色々考えてみましたが、他にしっくり来る理由が思いつきませんでした」
今月から梨花会に復帰した有栖川宮威仁親王殿下が、井上さんの横から付け加える。先週撮影したエックス線写真では、肺結核の影は完全に良くなっていたので、親王殿下は国軍の勤務にも復帰していた。
「他のカラクリ、ですか。ううむ……」
陸奥さんの総理大臣就任を機に、内務次官から国軍次官に変わった桂さんが大仰に両腕を組んだその時、
「俊輔」
山縣さんが伊藤さんを呼んだ。
「俊輔が“史実”で殺された翌年の8月に、“史実”では日本が韓国を併合したというが、俊輔が殺されていなくても、“史実”での韓国併合は同じ時に行われていただろうか?」
「……恐らく、遅れていただろう」
昔馴染みの問いに、伊藤さんは難しい顔をして答えた。
「わしは最初、韓国は併合せずとも、保護国のままで十分に統治できると思っていた。ところが、日本の保護国となることを良しとしない者が、韓国の国内で多数蜂起した。その暴動が長引き、広がっていくのを見て、わしは、日本が韓国を併合して、徹底的に彼らを弾圧する処置を取らなければ、武装蜂起は終わらないと思ったんじゃ。だから、“史実”でわしが殺される半年ほど前、桂と小村が“韓国を併合するしかないと思うが、閣下の意見はいかがか”と尋ねて来たとき、“併合するしかない”とわしは答えたのだ。ただし、列強を刺激しないように、併合は慎重に行うべしとも考えていたから、併合への拙速な動きを閣僚が取ろうとしたならば、自重するように求めていただろう。だから、さっさと韓国を併合したい者たちにとっては、わしの存在は邪魔になり得ただろうな」
すると、
「ということは、“史実”のわし……いや、わしの意を勝手に忖度した者が、“史実”の俊輔を殺した可能性はあるな」
山縣さんはこう言った。
「“史実”の狂介が、わしを殺せるほど非情になれたとは思えないがな」
「この時の流れの方がもっと無理だ。俊輔を殺すなど、考えたくもない」
山縣さんは首を左右に振りながら伊藤さんに答えると、
「だからこそ、俊輔が殺される可能性は、全て潰しておきたい。お主は17年前、“史実”と同じように馬車にぶつかられてしまったではないか。それと同じように、もしお主の暗殺事件が起こってしまったらと思うと……」
と声を震わせた。
(なるほどねぇ……)
韓国併合への動きを加速するために、韓国併合はゆっくり行おうと思っている政府内の実力者を排除する。確かに、伊藤さんの暗殺がそんなシナリオで起こったとすることも出来るけれど……。
「この時の流れでは、まず発生しない動機ですね」
「私もそう思う」
静かに言った大山さんに、私も頷いた。そもそも、日本が朝鮮を併合するなど、この時の流れではあり得ない。
「あとは……維新以来、伊藤さんが行って来た施策に恨みを持つ者が犯人、という可能性はゼロではないんであるな」
立憲改進党党首の大隈さんが難しい顔をして言うと、
「だとすれば、それは国家のために死ぬることになる。それならば、わしは本望じゃよ」
当の伊藤さんがこんなことを言い始めた。それを聞いた大隈さんが、
「それを避けたいから、こうして話し合っているんである!」
と叫びながら、憤然として椅子から立ち上がった。
「吾輩とて、“史実”と同じように爆弾で怪我をしたとしても、国家のために己の信ずるところをやった結果であるから、別にどうとも思わないんであるが、伊藤さんがここで死ぬのは国家の大損失であり、吾輩としても、かけがえの無い伊藤さんを失いたくないんである!それに、伊藤さんは、増宮さまの婚儀に参列したくないんであるか!」
「……それはもちろん参列したい。悪かった、大隈さん」
激しい口調の大隈さんに、伊藤さんは素直に頭を下げた。
と、
「僕は、他にも可能性があると思っていましてね」
陸奥さんが右手を挙げながら発言した。
「ほう、それは?」
兄の問いに、陸奥さんは自信たっぷりに、
「痴情のもつれです」
と言い放った。
(はぁ?!)
衝撃的すぎる発言に、まったく何も言えなくなってしまった私をよそに、
「伊藤殿は今までに、数々の浮名を流しております。伊藤殿に想い人を寝取られてしまい、恨みを抱いている男もいるはずです。そんな男が、伊藤殿に斬りかかっても不思議ではありません」
陸奥さんは大真面目に推論を述べる。
「なるほど、確かに」
「ありうるのう」
西園寺さんと西郷さんが納得したように頷くと、それに同意するかのように、会議室にいる私以外の全員が首を縦に振った。
「ありうるな。伊藤の激しい女遊びの裏で、泣き寝入りした男も多かろう」
お父様まで、ニヤニヤしながらこんなことを言っている。
「陛下、お言葉ではございますが、わしは揉め事を避けるために、後ろ盾の付いている一流の芸者ではなく、後ろ盾のいない二流、三流の芸者と遊ぶことにしておりまして」
慌てて上座に向き直り、弁解する伊藤さんに、
「二流三流の芸者に想い人がいないとは限りませんし、伊藤さんが遊んだ芸者に一方的に想いを寄せる男もいると思いますが……」
内務大臣に就任したばかりの原さんが、末席から容赦なくツッコミを入れた。
「では、やはり痴情のもつれから……」
我が臣下がニヤニヤしながら頷くと、
「大山さんまで何を言う!この伊藤、そのような下手な遊び方はしない!」
伊藤さんがムキになって反論した。すると、
「今は、じゃろう?そう言えば昔、伊藤さんに芸者を寝取られたことが、あったような無かったような……」
「もしかしたら、俺も俊輔に女を取られたことがあったかもしれないな」
西郷さんと井上さんも、大げさな口調で伊藤さんを追撃した。
「さ、西郷さん?!聞多?!」
思わず目を剥いた伊藤さんを、
「さて、わしはどうだったか……女を寝取られたことがあったかもしれんな」
「僕もあったかもしれません」
「うん、亮子と出会う前、僕もそんなことがあったかもしれないな……」
松方さん、西園寺さん、そして口火を切った陸奥さんが更に煽る。
……そして、梨花会の面々は、伊藤さんを全力でからかい、結局、9月の梨花会は、グダグダで終わってしまったのだった。




