抱擁のその先に
1909(明治42)年8月16日月曜日午前11時、神奈川県葉山村。
水色の無地の着物を着た私は、葉山村の海岸沿いを南北に走るメインストリートを、婚約者の有栖川宮栽仁王殿下と一緒に、南に向かって歩いていた。朝一番で有栖川宮家の別邸に行き、彼の父親の威仁親王殿下に抗結核薬の注射をして、有栖川宮流の書道を習った帰り道である。瑠璃色の和服を着流した栽仁殿下は、右手で私の診察カバンの取っ手を握り、左手で私の右手をしっかり握っている。栽仁殿下との婚約が内定してから1年が過ぎ、彼と手をつなぐのも少しは慣れたけれど、手が触れ合う度に胸がドキドキしてしまうのは、内定の当初から変わらない。
と、
「そう言えば、昨日の昼食会で、陛下が僕に“指輪を準備しろ”と命じられたけれど……」
栽仁殿下が私に話しかけた。
「梨花さん、どんな指輪にしたいか、希望はある?」
「え、えっと……」
昨日、お父様とお母様は私と栽仁殿下を葉山御用邸の本邸に招いた。そして、一緒にお昼ご飯をいただいたのだけれど、その席上、お父様が、
――栽仁、章子との結婚までに、そなたと章子の指輪を用意しろ。章子と永遠の愛を誓うにふさわしい指輪をな。
ニヤリと笑って、栽仁殿下にこう命じたのだ。
「豪華なのは、イヤで……」
私は、そう言いながら、白い日傘を差す自分の左手に目をやった。自分がもし、指輪をするとしたらどんなものがいいのか、想像しようとしたのだ。
「宝石が付いてるのも、イヤで……。極力、シンプルなデザインのものが良くて……」
「それでいいの?」
驚く栽仁殿下に、
「だって、そうしたら、手袋の下に付けていてもバレないし……仕事をしている時も目立たないから、付けている時間を長く出来るかな、って……」
私は小声で何とか答え、足を止めてしまった。
「梨花さん?」
立ち止まって私を覗き込む栽仁殿下の視線から逃げるように、私は左に顔を向けた。
「は、恥ずかしい……まるで女学生みたいに夢見ちゃって、“結婚指輪はずっとつけていたい”って思うなんて……」
顔を真っ赤にしてうつむくと、
「梨花さん、僕の方を向いてください」
栽仁殿下が私に優しく声を掛けた。恐る恐る、首を右に動かすと、視界に栽仁殿下の微笑みが飛び込んできた。
「僕は好きですよ、ロマンティックで。昔、枢密院の陸奥書記官が、手袋の下に指輪をしていましたよね。エセルさんとの愛を誓った証として。……僕も、梨花さんとお揃いの指輪が欲しいです。そうしたら、離れていても、梨花さんを感じられるから。梨花さんもそうでしょう?」
私は黙って、首を縦に振った。栽仁殿下とお揃いの指輪をはめた私自身の姿を想像してしまって、返事を口にする余裕がなくなってしまったのだ。そんな私を見て、
「ふふっ……梨花さん、可愛くて、とても奇麗です」
栽仁殿下は微笑を含んだ声で言うと、
「……そうだ。少し、海岸を散歩しませんか。まだ、お昼ご飯までには時間があるから」
と私に提案した。
「もちろん」
私は日傘を持ち直した。私たち2人の後ろ、20mくらいの距離を置いて、大山さんが護衛のためについて歩いている。“多少の寄り道は構わない”と彼に言われているから、海岸を歩いても問題は無いだろう。
御用邸本邸の敷地の北の端を通る道へと折れて、少しだけ歩くと、白い砂浜が広がる一色海岸に出る。ここから3kmほど北にある逗子の海水浴場は人で賑わうけれど、葉山の海岸で海水浴をする人は少なく、人の姿は数えるほどしか見当たらなかった。もっとも、これからレジャー産業が発展すれば、この海岸も海水浴客で混雑するようになるのかもしれないけれど。
「葉山の海辺を歩くといつも思うけれど、ここは、東京と比べて、海も空もずっと広いね」
相変わらず手をつないで歩きながら、私が栽仁殿下に話しかけると、
「そうですね。僕もそう思います」
栽仁殿下はニッコリ笑って同意した。
「梨花さんと一緒にいるからかな。余計にそう思います。梨花さんと一緒なら、この広い空と海を、どこまでも駆けていけそうな気もして」
「そうね。私も、この時代の世界を、どこまでも行ってみたいけれど……」
そこまで呟いて、私は軽くため息をついた。
「……私、日本からは出られないな。兄上とお父様を、病気から守らないといけない。皇族の身体に臣下が傷を付けてはいけないっていうしきたりが、完全に崩れない限り、私は日本から出られない」
肩を落としながらそう言うと、
「じゃあ、飛行器を、どんどん発展させればいいよ」
栽仁殿下は明るい声で私に応じた。
「梨花さんの時代には、飛行器を使えば、東京からヨーロッパまで半日あれば着くんでしょ?その水準まで技術が発展すれば、ヨーロッパにいても、東京にすぐ戻れるよ」
「そうねぇ……」
「それに、技術がそこまで発展しなくても、しきたりが壊れればいいんだよ。時間はかかるだろうけれど」
「そっか……」
栽仁殿下の言葉を聞いていると、私の考えもだんだんと上向いてくる。そう言えば、飛行器は“史実”以上の早さで地上に現れたし、皇族の身体に臣下が傷を付けてはいけないというしきたりも、少しずつは崩れてきているのだ。
「じゃあ、私たちがおじいちゃんとおばあちゃんになる頃には、ヨーロッパに行けるかしら?」
私が尋ねると、
「きっと行けるよ。その時は、2人で、いや、可能なら僕たちの子供も連れて、ヨーロッパを楽しもう」
栽仁殿下は嬉しそうにこう答えた。
そんなことを話しながら、砂浜を南に向かって歩いていると、下山川のほとりにたどり着いた。この川は、御用邸の本邸と別邸の敷地の境目を流れている。
「ちょっと行き過ぎたかしらね」
「そうだね。梨花さんと話していたら、あっという間だった。じゃあ、さっきのところから、道に戻ろうか」
栽仁殿下がそう言って、クルっと後ろを向こうとする。その動きが急だったので、身体を引っ張られた私はバランスを崩し、砂に足を取られて大きくよろめいた。
「あ……」
顔から砂浜に激突するのだけは避けなくては。とっさに判断して、私が左手を日傘から離した刹那、
「梨花さん!」
栽仁殿下が横から、私の身体をしっかり抱き締めて支えた。
(くぁwせdrftgyふじこlp!)
栽仁殿下に抱き締められていると分かった瞬間、私の思考回路は一気に回った熱で跡形もなく崩壊した。言語化できない悲鳴が、心の中を駆け回る。婚約者に……恋している人に抱き締められるという、今生で初めての、もちろん前世でもしたことの無い経験に、私は完全に取り乱していた。
海から陸に向かって吹く風が、私の手から離れた白い日傘を舞い上げる。日傘の柄が地面にぶつかる音で、私はようやく、制御不能になっていた心と身体を落ち着かせるべく、事態の把握に取り掛かった。
(えと、えーと、私がコケかけて、それを栽さんが抱き締めて止めてくれて、えーと……)
兄にも、大山さんにも、抱き締められたことは何度もある。それに、3年前、栽仁殿下には“お姫様抱っこ”をされたこともある。そのはずなのに、栽仁殿下の身体から伝わる温もりは、私の思考力を、猛り狂う嵐のように吹き飛ばそうとしていた。
(こ、ここ、私から、“年上の余裕”とかいうのを見せて、栽さんに話しかけないといけない?でも、そんなんムリだし……ていうか、栽さん、何で私を抱き締めたまんまなの?!ど、どうしたら……)
かき消されそうになる思考力をかき集めて、必死に考えていると、
「梨花さん」
上ずった栽仁殿下の声が耳に入り、次の瞬間、私の身体は彼の両腕の中で勢いよく回った。互いの胸元がぶつかり合って、ふと見上げると、栽仁殿下が澄んだ美しい瞳で、じっと私の目を覗き込んだ。
(?!)
悲鳴を上げることも出来ず、ただ栽仁殿下の瞳を見つめ返すことしかできない私に、
「接吻をしても……いいでしょうか?」
彼は上ずった声で、私にこう尋ねた。
刹那、
――ねぇ、キスしていい?
忌々しい光景が、脳裡に蘇った。放課後の教室で抱き合う少年少女。そして、2人の間で交わされるキス。熱で支配されていた私の心が、今度は辛さと惨めさで切り刻まれる。鼓動は奔馬のように駆け狂い、身体中の血が渦巻くのを感じた。
(あ……)
フラッシュバックだ。こんなに激しいのは久々だ。意識が暗くなり始めたその時、
「梨花さんっ」
栽仁殿下の大きな声が、私の意識を現実に引き戻した。
「た……栽さん……」
やっとの思いで声を出すと、
「申し訳ありません!」
栽仁殿下が私から少し身体を離し、ガバっと頭を下げた。
「僕は……一時の劣情で、梨花さんの純潔を汚そうと……」
「ち……違うっ!」
私は必死に栽仁殿下に向かって叫んだ。
「私の……私のせいだから……、栽さんは、悪くない……」
「だけど、梨花さんに、こんな辛そうな顔をさせてしまったのは僕ですよ?!」
そう言いながら、私から更に離れようとする栽仁殿下に、私はとっさにしがみついた。
「離れちゃ、イヤ……」
「梨花さん……」
「そばにいて……」
心から溢れ出した熱さと辛さとが涙に変わり、両目から勝手に流れ落ちる。みっともない泣き顔を見られたくなくて、私は自分の顔を栽仁殿下の左肩に押し付けた。
午後0時15分、葉山御用邸別邸の私の居間。
栽仁殿下と、後ろから私たちを見守っていた大山さんの助けを借りて、別邸に戻ってきた私は、麦湯を飲んだ後、栽仁殿下を2階にある居間に招き入れた。大山さんは、私の意図を察したようで、
――恐れながら、梨花さまが若宮殿下にお話になりたいことは、俺が代わりに若宮殿下にお話し申し上げるべきかと……。今の梨花さまでは、お話になっている最中に、先ほどと同じくお倒れになってしまうかもしれません。
そう言って私を止めた。だけど、これは本来、私から栽仁殿下に話すべきことだと思ったので、私に話させて欲しいと必死に大山さんにお願いして、栽仁殿下と2人きりで話すことを納得してもらったのだ。ちなみに大山さんは、“何かあったら駆け付ける”と頑固に主張して、居間の隣の部屋に控えている。
「あのね、栽さん」
小さなテーブルを挟んで向かい合って座った栽仁殿下に声を掛けると、彼は強張った顔で「はい」と返事をした。
「栽さんは、さっき私が倒れかけたのは、自分のせいだって思ってるかもしれないけど……」
私がここまで言うと、栽仁殿下は即座に、
「思っています」
と答えた。
「あなたに、あんなに辛そうな顔をさせてしまいました。そういう顔をして欲しくないから、あなたを守りたいと思っているのに、その僕自身が、あなたを苦しめるようなことを……」
「だから待って」
更に言葉を続けようとした栽仁殿下を、私は強い口調で止めた。
「自分が悪いか悪くないかを判断するのは、これから私が話すことを聞いてからにして欲しい」
「……」
「それで、もう1つ、お願いがあるの」
「僕に出来ることなら、何なりと」
硬い声で応じる栽仁殿下に、
「椅子を、私の隣に持ってきて……私のすぐ隣に座って、私の手を握っていて欲しいの」
私はこうお願いした。
「梨花さん……僕はあんなことを言ってしまったんですよ?!僕のことが、汚らわしいんじゃないんですか?!」
「汚らわしくなんかない!」
驚く栽仁殿下に、私は首を横に振りながら叫んだ。
「だからお願い、私のそばで、私の手を握って。そうしたら、私、倒れずに全部話せると思うから……」
私が深々と頭を下げると、
「わかりました」
と栽仁殿下は答えて立ち上がり、今まで座っていた椅子を少し持ち上げて、私の右隣りに運んできた。それを確認して、
「椅子を、私の椅子とピッタリくっつくくらいに寄せて欲しいの」
私は更に栽仁殿下にお願いした。
「いいんですか?!」
「お願い、そうして……。栽さんがそばにいるって分からないと、私、現実に戻ってこられなくなるかもしれないから……」
目を丸くした栽仁殿下に必死にお願いすると、彼は黙って頷き、私のすぐそばに自分の椅子を置く。そして、椅子に腰かけると、
「……失礼いたします」
私に一言断って、私の右手をそっと握った。
「私……前世で、小学6年生だった時に、失恋をしたの」
栽仁殿下の手の温もりを、自分の手で感じてから、私は口を開いた。
「私の時代では、大体の小学校では、男子と女子が一緒の教室で授業を受けていてね。私が通っていた小学校もそうだった。そして、私は、同じ組のカッコいい男の子に恋をしたの。それで……」
古い、忌まわしい記憶を自分で呼び起こすのは、やはり辛い。胸がキリキリと痛んで、口の動きが止まった時、
「梨花さん、大丈夫?」
栽仁殿下が、私の右手を強く握った。
「なんだか、辛そうです。話すの、止める方がいいんじゃ……」
「ありがとう。……大丈夫、こうして、手を握ってくれたら」
実際、栽仁殿下の手の温もりを感じて、心の痛みが少し和らいだのだ。それに昔、お母様と兄にこの話を打ち明けた時より、話す時の苦しさも軽くなっている気がする。なぜだかよく分からないけれど、ありがたいことではある。私は深呼吸をすると、再び口を開いた。
「バレンタインの時、私は彼の好物のチョコレートケーキを作った。作る時にはね、私の前世の家族がみんな、協力してくれたんだ。作り方を調べてくれたり、ケーキの試作をしたときに、味見をしてくれたりして……。それに、級友のみんなも、私の恋が上手く行くように、って応援してくれてたんだ。そして、私は彼にケーキを渡して、“好きです”って言おうと思ってたんだけど……」
話が核心に近づいたからか、胸の苦しさが増し、私は栽仁殿下の手を、縋るように強く握った。栽仁殿下もそれに応じて、手を握り返してくれる。それが分かると少し胸の苦しさが消え、私はもう一度喋り出した。
「私が彼にケーキを渡そうとした時、彼は別の美人の女の子と抱き合ってたの。それで、その女の子が、彼と私は恋人同士じゃないのかって、私がそこにいることを知らずに彼に確認したら、彼は私のこと、“医者になるために勉強してるから女じゃない”って言って、それで、彼とその女の子が口付けを交わして……そこから先の記憶が無いの。気が付いたら、家の自分の部屋にいた」
「ひどいな、その男……」
栽仁殿下の声に、珍しく怒りが混じった。
「梨花さん、辛かったですよね。苦しかったですよね……」
「うん、とても……言葉に出来なかったくらい……」
私は栽仁殿下の手を、再びギュッと握った。
「その時の口付けの光景が、私の心の中に、強く残ってしまっているの。そのせいで、手に口付けられたり、“口付け”という言葉を聞くだけで、その光景が頭の中に勝手に蘇ってしまって、その度に、すごく辛くなって、胸が苦しくなってしまう。初めてその光景が蘇った時は、体調が万全じゃなかったこともあって、気を失ってしまった」
「そうだったんですね……」
栽仁殿下がうつむき、私に向かって頭を下げた。
「本当に申し訳ありませんでした、梨花さん。そんなことも知らずに、僕は梨花さんに辛い思いをさせてしまって……」
「だから謝らないで、栽さん。言ってなかった私が悪いんだから。話すのは、結婚の直前にしようと思っていたの。口付けするのも、結婚してからだろうって思ってたから……」
「うん……それは反省しています。余りにも性急でした」
しょげる栽仁殿下に、
「でも……」
と私は言いながら、また彼の手をギュッと握り、
「私と、……口付け、したいよね?」
小さな声で尋ねた。
「それは……したくないと言ったら、ウソになります」
栽仁殿下は、慎重な口調で答え始めた。
「だけど、梨花さんに辛い思いをさせてまですることではないと思うんです。自分の思いや愛を伝える方法は、接吻の他にもある。“愛している”と言葉で伝えたり、こうやって、手をつないだり……」
その瞬間、“口付け”という言葉が出るたびに、チクリチクリと痛んでいた私の心が、痛みなどないかのように跳ね上がった。今まさに、私は栽仁殿下と、手をつないでいるのだけれど……。
「あ、あの、栽さん、じゃあ、今、この、手をつないでいるのは……」
顔を真っ赤にした私が確認すると、
「梨花さんへの僕の愛を、精一杯伝えているつもりですが……足りないでしょうか?」
栽仁殿下は真面目な表情で答えた。
(うにゃぁっ?!)
やはり、熱烈な愛の言葉を聞かされるのには、どうしても慣れることが出来ない。動揺したところに、
「梨花さんは、その……どうなんですか?」
栽仁殿下は、頬を赤く染めながら私に尋ねた。
「え……」
「今は、辛い思いが蘇ってしまうと思います。だから、僕も接吻をするつもりはありません。ですが、もし、その辛い思いが無くなったらって考えたら、どうでしょうか?」
「辛い思いが……無くなったら?」
考えてみたこともない。けれど、私の大切な婚約者からの質問だから、きちんと考えなければいけない。私は、栽仁殿下の温もりを、つないだ手で必死に感じながら、考えをまとめようと試みた。もし、辛い思いが蘇らないのであれば……あの忌々しいキスを見る前、キスに対して漠然と抱いていた憧れが、そのまま通るのであれば……。
「い……一度は、して、みたい、かな……」
恥ずかしさに身体を苛まれながら、何とか答えると、
「じゃあ、その辛い思い、少しずつなくしていければ、とても素敵だと思います」
栽仁殿下は、澄んだ美しい瞳で私を見つめながら言った。
「辛い思いを、なくす……」
呆けたように私が呟くと、
「梨花さんの時代では、こういう時、医学で何とかできないんですか?」
栽仁殿下は真剣な表情で、私に質問する。
「私の時代……心理療法をするのかな。いや、そもそも、この症状をPTSDによるものって断定していいのかよく分からないけど……」
宙を睨みながら考えを巡らせていると、
「ごめん、梨花さん。言っていることが全然分からないから、分かるように説明して欲しいです」
栽仁殿下が私を冷静な口調で止めた。
「ああ、ごめんなさい。つまりね……」
どうやったら、上手く栽仁殿下に伝えられるだろうか。私は少し考えこんでから、
「緩和する方法はあるけれど、今から100年以上の時を掛けて洗練されていく方法なの。しかも、素人にはとても出来ないし、私も存在を知っているくらいで、そのやり方は全然分からない」
と彼に伝えた。今は、精神医学・心理学に多大な発展をもたらしたフロイトやユングが、リアルタイムで活躍している時代である。心理療法の芽が芽生え始めたところだから、私の時代のように発達した心理療法など、もちろん確立していない。
「だから……この時代だと、栽さんや、他の信頼できる人に話すのが、一番いいのかもしれない。実は、この話を他の人にするのは、今回が3回目なんだけれど、今までの中で、辛さが一番軽かったの。だから、もしかして、信頼できる人に、辛さをもっと吐き出せれば……」
そこまで言ってハッと気が付いた私は、
「い、いや、今のはね、別に、栽さんとずっと一緒にいたいから言ってる訳ではなくて、あくまで、私が、口付けに対する辛さを克服できるようになるための手段として言ってて……」
と栽仁殿下に弁明した。そんな私に、
「分かってますよ、梨花さん」
栽仁殿下は苦笑いを向けると、
「僕はどっちの理由でもいいけれど、僕が話を聞くのが梨花さんの辛さを無くす助けになるなら、喜んで協力するよ」
と、明るい声で請け負ってくれた。
「ありがとう、栽さん。本当にごめんなさい」
「謝らないで、梨花さん。僕、愛する梨花さんの役に立てて、とても嬉しいんだからね」
頭を下げた私に、栽仁殿下はニッコリ笑う。照れくさくてその笑顔を見ていられず、私は目を伏せながら「馬鹿……」と小さく呟いた。
※心理療法・精神療法(プラスして薬物療法)については、現状では様々あり、すべて触れると大変なことになりますのでここではこの程度の記述にとどめます。また、実際にこれがPTSDの範疇に入るのかは正直分かりません。あくまで架空のお話としてお楽しみいただけますと幸いです。




