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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第48章 1909(明治42)年小寒~1909(明治42)年処暑
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1周年

 1909(明治42)年8月1日日曜日、午後0時30分。

「遅いなぁ……」

 青山御殿の応接間。白地に紫色の水玉を散らした和服を着た私は、イライラしながら応接間の椅子に腰かけていた。

 今日は、私の婚約者・有栖川宮(ありすがわのみや)栽仁(たねひと)王殿下と、この青山御殿でお昼ご飯を食べ、夕方まで一緒に過ごすことにしている。江田島にある海兵士官学校に在学している彼は、昨日、夏期休暇のため、東京に戻ってきた。

――8月1日は、僕と愛する梨花さんの気持ちが通じ合った記念日ですから、青山御殿で一緒にお昼ご飯を食べて、積もる話を色々したいです。

 7月初め、栽仁殿下が江田島からくれた手紙には、こんな文章が書かれていた。8月1日は当直勤務だから、夕方までは私も予定がない。栽仁殿下は段取りよく、お父様の威仁(たけひと)親王殿下の許可ももらっていたので、私も“承知しました。8月1日の正午、青山御殿で待っています”と江田島に手紙を送ったのだけれど……。

「もう、30分経ってるよねぇ……」

 両腕を組んだ私の声に、

「はいです」

一緒に栽仁殿下を待つ乳母子の千夏さんが相槌を打つ。

「遅れるって分かってるなら、霞が関のお屋敷から前もって連絡があるよね。栽仁殿下も大兄(おおにい)さまも、そのあたり、とてもきっちりしてるから」

(ってことは、まさか……青山御殿に来る途中で何かあったの?交通事故とか……誰かに襲撃されたとか?!)

 最悪の想像が頭を過ぎった瞬間、玄関の方から自動車のエンジン音が微かに聞こえた。この青山御殿では、まだ自動車を導入してはいない。ということは……。

「来た!」

 私は椅子から勢いよく立ち上がった。そのまま、応接間を出ようとすると、

「待ってください、宮さま!」

千夏さんが大声で止めた。

「もし、百貨店の貨物自動車でしたら、無関係の者に宮さまのお姿をさらすことになってしまいます!千夏が様子を見て参りますから、宮さまはここでお待ちを!」

「でも、百貨店に頼んでる品物はないでしょう?だったら、有栖川宮邸の自動車の音だよ、これは」

 私の反論に、乳母子は一瞬たじろいだようだ。けれどすぐに、

「と、とにかく、宮さまはここでお待ちください!」

と叫び、応接間から玄関の方へと出て行く。納得できない私は、そのまま彼女の後ろをついて歩いた。

「み、宮さま?!お願いですから、応接間でお待ちください!」

 私がついてくるのに気が付いた千夏さんが、驚きの声を上げる。

「イヤよ!一刻も早く、栽仁殿下に会いたいもの!」

 そう答えながら、千夏さんの脇をすり抜けて玄関に出ようとすると、

「や……やむを得ません!」

千夏さんが横から私の身体に抱き付いた。

「ちょ……何するのよ、千夏さん!抱き付かないで!玄関に行けないじゃない!」

「お、大山閣下に許可はいただいています!もし宮さまが、淑女(レディ)にふさわしくないお振舞いをなさるならば、宮さまをどんな手段で止めても構わない、と!」

 腕の中でもがく私に、千夏さんは震える声でこんなことを言う。

「は?!納得できないわよ、そんなの!7か月会えてなかった婚約者を、玄関で出迎えちゃいけないの?!」

 私が睨みつけると、「そ、それは……」と言ったきり、言葉に詰まってしまった。

「……ってことは、淑女(レディ)として問題ないってことね!なら、強行突破させてもらうわよ!」

 そう叫ぶやいなや、私は千夏さんの腕から逃れようと、必死にもがいた。けれど、相手は講道館で鍛えている柔道の猛者、いくらもがいても、なかなか腕の力が緩まない。これで相手が不審者だったら、私も容赦なく肘打ちや蹴りを食らわすのだけれど、乳母子なのでそういう訳にもいかない。必死にもがき続けていると、

「あら、章子さん、千夏さん」

玄関の方から歩いてきた母が、私たちを見つけて声を掛けた。

「は、花松さま」

 母の姿を認めた千夏さんが、私の身体から腕を離す。

(チャンス!)

 私が走り出そうとしたその時、

「章子さん」

母が私の名前を呼んだ。

「何でしょうか、母上」

 今は一刻も早く、玄関に行きたい。少し尖った声で返事をした私に、

「そんなに慌てなくても、会いたかった方ならここにいらっしゃいますよ」

母は優しく声を掛ける。その母のすぐ後ろから、

「章子さん、お久しぶりです。……ごめんなさい、到着が遅れてしまって」

紺色の羽織を着た栽仁殿下が姿を見せ、私に向かって済まなそうに頭を下げた。

(たね)さん……」

 既に私を阻むものはない。私は素早く、7か月ぶりに出会った婚約者のそばに歩み寄った。

「心配したよ……いろんなこと、考えちゃって……」

「本当にごめんなさい、章子さん。霞が関から来る途中で、自動車の調子が悪くなっちゃったんです。だから途中で車を降りて、川野さんと2人で応急修理をしてて……」

「そうだったんだ……」

 私は胸を撫で下ろした。この時代の自動車は、故障を起こすこともしばしばある。だから、自動車運転免許の試験では、修理の知識があるかどうかも問われるのだ。栽仁殿下は去年の年末に自動車運転免許を取ったし、有栖川宮邸の職員の川野さんも、自動車運転免許を持っている。だから、応急修理も出来たのだろう。

「とにかく、無事でよかった。じゃあ、食堂に案内するね」

 そう言って私が踵を返すと、千夏さんと視線がぶつかった。千夏さんは目を丸くして、身じろぎもせず私を見つめている。

「あ……千夏さん、さっきは、取り乱してしまってごめんなさい」

 腕から逃れ出ようとしたことを怒っているのだろうか。そう思ったので、私は乳母子に謝罪した。けれど、千夏さんの表情は変わらなかった。

「あの……千夏さん、怒ってる?」

 恐る恐る尋ねると、

「あ、いえ、そうではなく……」

千夏さんは弾かれたように答えると、サッと顔を赤らめ、

「その……宮さまは、若宮殿下を、そうお呼びになるのかと……」

と続けた。

「?!」

 とっさに反応できない私に、

「“(たね)さん”ですか……。ほほえましいですわねぇ……」

母がクスクス笑いながら言う。

(う、うわああああああ!)

 叫びそうになったのを、私は必死にこらえた。母も千夏さんもいるのに、2人きりではないのに、私は栽仁殿下を、“(たね)さん”と……2人きりの時に使う呼び方で呼んでしまった。

「あ……あ、あのそのあの、て、手紙では、そ、そう呼んでるから、つ、つい……」

 何とか弁明の言葉を口にした私を、

「とても……とても素敵です、宮さま!」

千夏さんはうっとりとした瞳で見つめている。

「手紙とは言わず、顔を合わせている時でも、どんどん使ってよろしいのではないですか?」

 母はこんなことを言いながら、ニコニコ笑っている。自分の脈打つ音が速くなり、身体が熱くなっていくのがハッキリと分かった。その場にいたたまれなくなった私は、

「た……栽仁殿下、は、早く行きましょ!」

栽仁殿下の右手を掴み、引きずるようにして彼を食堂に連れて行ったのだった。


 午後0時55分。

「梨花さん、大丈夫?」

 人払いをした青山御殿の食堂。小さなテーブルを挟んで向かい合っている栽仁殿下に、私は力無く、首を横に振るしかなかった。

(何やってんのよ、私……。本当に、何やってんのよ……)

 栽仁殿下と手をつないだのは、婚約が内定してから今まで、何回かある。けれど、それは全部、栽仁殿下の求めに応じたものだ。ところが、先ほどは、気が動転して、私から栽仁殿下の手を掴んでしまったのだ。

――梨花さん、この手は……?

 食堂に向かう途中、栽仁殿下にこう言われて我に返った私は、まったく動けなくなってしまった。栽仁殿下が優しく私を促してくれたので、何とか、食堂までたどり着けたのだけれど……。

(え、えと……これ、この時代の婚約者同士として、や、やり過ぎ?そ、それとも適正?えと、えーと……)

 運ばれた食事に箸もつけず、混乱した頭を必死に整理していると、

「もしかして、梨花さんから手をつないだのを気にしてます?」

栽仁殿下は、私が悩んでいることをズバリ指摘した。黙ったまま、何とか頷くと、

「僕は嬉しかったですよ」

栽仁殿下は微笑んだ。

「だって、梨花さんが、自分から僕に近づいて来てくれたんだもの。1年前は、梨花さん、僕が手をつなごうとしたら逃げてました」

「た、確かに、そうだけど……」

 今からちょうど1年前、谷保天満宮の境内で、栽仁殿下と2人きりで話した時のことを思い出す。あの時、栽仁殿下に初めて手を握られた私は大混乱して、完全に動けなくなってしまっていた。

「だから僕、さっき、とても嬉しかったんです。梨花さんとの距離が縮まったんだな、って。距離が近くなったから、梨花さんのこと、前よりしっかり守れるなって思いました」

 栽仁殿下は、じっと私を見つめる。澄んだ美しい瞳にしっかりとらえられ、私の心が大きく跳ね上がった。

(な……なんで、いちいちこんなに頼もしくて、カッコいいのよ……)

 鼓動が速くなった胸を抑え、顔を伏せた私に、

「梨花さん、話は変わるけれど、今月の予定は決まりました?」

栽仁殿下は優しく尋ねた。

「手紙に、“詳しくは会った時に説明する”って書いてあったけど……」

「あ、ああ、それね……」

 私は、「ちょっと落ち着かせて……」と断ると、深呼吸をゆっくり繰り返した。そして、箸を取って、すっかりぬるくなってしまったお吸い物に口を付けた。まろやかな昆布だしと薄口しょうゆの風味を楽しんでから汁を飲み下すと、ようやく、物を考えるゆとりが頭の中にできた。

「……実はね、今月、大阪に緊急で出張する可能性があったの」

「大阪?」

 首を傾げた栽仁殿下に、私は事情をゆっくりと説明し始めた。

 “史実”では、1909(明治42)年の7月31日、つまり昨日、大阪で“北の大火”“天満(てんま)焼け”と後に呼ばれることになる大火災が発生した。未明に北区空心町(くうしんちょう)のメリヤス工場から出火した火は、折からの強風に煽られて西へと燃え広がり、約1万1千戸の家屋だけではなく、官公庁や学校の建物なども容赦なく燃やし尽くしたのだ。

「……けど、斎藤さんがその火事のことを覚えていた。だから、6年前の大阪の内国博覧会の後、“博覧会記念事業”と銘打って、大阪の街の区画整理をして道幅を広げたの。水道や消防組の整備も“史実”より進めてた。7月30日の夜のうちに、空心町に避難命令を出して、送電やガスの供給も止めて、消防組や軍隊にも待機してもらうようにしていたの。ただ、そこまでしても火事が起こることはあるだろうし、もし大きな火事になったら、私の勤めてる築地の国軍病院から、大阪に救援医療部隊を派遣することになっていた。その部隊に、私も加わることになっていたから……」

「そうか、それで、“緊急で出張する可能性”ってことだね。確かに、“史実”のことも絡んでいたら、手紙には書けない」

 私の説明に、栽仁殿下は納得したように首を縦に振った。

「でも、この時の流れでは、火事は起こらなかったんだよね?そんな大規模な火事がもし起こったら、今日の新聞にも記事が載っていてよさそうだけれど、そんなことは書いてなかった」

「うん、火事は起こらなかった。だから、……夏休みは、(たね)さんの希望通りに取って、ずっと葉山の御用邸別邸にいる」

 私が付け加えると、

「じゃあ、14日から27日は、葉山にいるんだね!」

栽仁殿下の顔がパッと輝いた。

「嬉しいな。僕も13日から葉山に行くから、梨花さんにもっと気軽に会える」

「気軽にって、そうもいかないよ。お父様(おもうさま)お母様(おたたさま)は本邸にいるし、(たね)さんだってご両親同伴でしょ?」

 私は苦笑しながら栽仁殿下にツッコミを入れる。13日の金曜日から、栽仁殿下は葉山の有栖川宮家の別邸に避暑に行く予定だ。ただし、ご両親が……父親の威仁(たけひと)親王殿下と、母親の慰子(やすこ)妃殿下も一緒だ。私の方も、お母様(おたたさま)が御用邸の本邸に滞在しているし、お父様(おもうさま)も14日に御用邸本邸に入ることになっている。御用邸別邸と、有栖川宮家の別邸は歩いて行き来できる位置にあるけれど、親たちの目が光っているから、気軽にデートをする訳にはいかないのだ。

「分かってますよ、梨花さん。でも、東京で出来ないことが出来ますよ。海を眺めたり、砂浜を一緒に歩いたり。魚釣りをしてもいいかもしれない。……楽しみだな、梨花さんと葉山で過ごすのは」

「私も」

 微笑む栽仁殿下に、私も微笑を返す。お正月の2人での七福神参りは、とても緊張したけれど、終わってみれば、栽仁殿下との絆が少し強まったような気がした。だからきっと、葉山でも、栽仁殿下と心を通い合わせる機会が作れると思うのだ。余り、根拠はないのだけれど。

「でもまずは、梨花さんとたくさん話したい。7か月も会えなかったんだから」

「そうだね。私も、(たね)さんと話したい」

 それはもちろんだ。手紙はやり取りしていたけれど、長いこと、栽仁殿下に会えなかったのだから。それに……。

「じゃあ梨花さん、今日は時間の許す限り、一緒にいましょう。僕と梨花さんの気持ちが通じ合った記念日ですから」

 微笑む栽仁殿下の言葉に、少し照れてしまった私は、彼から顔を背け、「馬鹿(たーけ)……」と呟いてしまったのだった。

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[良い点] この作者ノリノリである(いいゾ~もっとやれw 更新が多いのに濃密な情報で歴史情報的にも楽しんでいます。お体優先で無理ない程度で書いていただけると幸いです。 [気になる点] 心配なのは着地点…
[一言] 栽仁殿下、頑張れー! 夏休み終了時には 2人の距離をもっと縮められるかな?
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