七福神参り
※台詞ミスを修正しました。(2023年10月2日)
1909(明治42)年1月2日土曜日午後1時、麴町区霞ケ関1丁目にある有栖川宮邸。
「七福神参り?」
「うん」
有栖川宮家のご当主である威仁親王殿下の書斎。椅子に座った威仁親王殿下の嗣子・栽仁王殿下は、筆を置くと、首を傾げた私に頷いた。彼の手元に置かれた紙には、“四海波静”という文字が力強い筆跡で書かれている。もちろん、新年の書き初めとして、栽仁殿下が書いたものだった。
「あの……もしかして、章子さんの時代には無くなっている風習かな?お正月に、七福神のお祀りされている神社仏閣にお参りするんだけど……」
「いや、前世でも聞いたことはあるから、無くなってないよ。私はやったことがないけれど」
少し不安そうな声を出した栽仁殿下にこう答えると、
「じゃあ、一緒に行きませんか?」
彼は、今度は明るい調子で私に言った。
「へ?」
「だから、七福神参りに、です。僕、8日には東京を出るから、その前に、この冬の章子さんとの思い出作りとして……どうですか?」
「そ、それ、お参りする場所に、ものすごく迷惑が掛かっちゃうんじゃない?お正月って、神社もお寺も混雑するのに、私たちが警備やお付きの人たちを引き連れて参拝しちゃったら、余りの混雑で将棋倒しが発生するんじゃ……」
すると、
「やだなぁ、もちろん微行で、ですよ」
栽仁殿下がそう言って、クスっと笑う。
「ということは、まさか、ふ……2人、きり?」
言った瞬間、身体の中で一気に熱が膨れ上がって、私は顔を伏せた。
(そ、それって、デートか?!外でのデートのお誘いなのか?!)
好きな人と一緒に出掛ける……もちろん、前世ではやったことがない。だから、やれるものならやってみたいことではあるのだけれど、男女交際というものになかなか厳しいこの時代、このデートは許されるものなのだろうか?
と、
「良いではないですか」
書斎の自分の机で、大きな紙に漢詩を書き付けていた威仁親王殿下が言った。
「未来の舅としては、増宮さまが栽仁ときちんと距離を縮められるかどうか、非常に心配なのですよ。結婚した後も、恥ずかしさゆえに手を触れることも出来ないとなれば、結婚した意味がありませんからねぇ」
「有栖川宮殿下のお気持ちは、大変よくわかります」
私の後ろに控えている大山さんも、こう言いながら何度も頷く。
「ですからここは、梨花さまのご教育のためにも、ぜひともお2人だけで七福神参りに行っていただきたいと思います」
(な、なんですと……)
よろめきそうになるところを必死に堪えると、
「いかがなさいました?」
我が臣下が不思議そうな顔で私を見た。
「い、いや、たとえ婚約者が相手とは言え、“嫁入り前に男女が一緒に出掛けるなどとんでもない!”なんて言う親も、私の時代以上にいそうだからさ……」
「梨花さまは大変に奥手でございますから、特別でございます」
私の言葉に、大山さんは平然とこう返した。
「それとも、梨花さまは、若宮殿下と2人きりでお出かけになるというせっかくの機会を逃したいと……こうおっしゃりたいのでしょうか?」
「た、馬鹿……逃したくなんて、ないわよ……」
大山さんに答えた私の顔は、あっと言う間に真っ赤になってしまった。
「じゃあ、いつ七福神参りに行くかを考えましょうか、章子さん。7日までの間で、仕事がお休みの日はありますか?あ、もちろん、元始祭がある3日と、新年宴会がある5日は除いて、だけど」
3日の元始祭も、5日の新年宴会も、私と栽仁殿下は出席しなければならない。そんな日に2人で出かけてデートをしたら、口やかましい人たちから“不謹慎だ”と言われかねないから、避ける方が無難だろう。
「確か、6日は休みだったような……」
私がスケジュールを思い出しながら答えると、
「ええ、その通りです。では、6日に七福神参りに出かけられる、ということで、俺も心づもりをしておきます」
大山さんはそう答えた。
「あとは、どこに行くかだね。近いところだと、谷中の七福神か、向島の七福神だけど……」
両腕を胸の前で組んだ栽仁殿下は、そう呟くと、宙を睨みつけるようにして考え込んだ。けれどすぐに、
「谷中の方がいいかな。市電と日本鉄道を使えば、すぐ近くまで行けるから。日本鉄道の田端駅から、南に歩いて行けばいい」
と結論を出した。
「詳しいんだね……」
「谷中も向島も、たまに自転車で行くから、大体分かるんです。本当は、章子さんと一緒に自転車で行けば一番楽なんだけど、自転車の男女連れは目立っちゃうから、今回は電車と汽車と歩きで行きましょう」
ニッコリ微笑んだ栽仁殿下に、
「その辺、全然分からないから、全部栽仁殿下に任せるよ……」
私は頭を下げた。たまに微行で市電には乗るけれど、市電を使って谷中や向島に行ったことはないのだ。
「では栽仁には、七福神参りの計画を立ててもらうとして……その間に、増宮さまには書き初めをしていただきましょう」
親王殿下が、ニヤニヤしながら横から言った。
「あ、それはやっぱり書かないといけませんか……」
「当然でしょう。栽仁がきちんと増宮さまの字の上達に貢献しているかどうかも、確認しなければなりませんから。……で、何をお書きになるかは、考えていらっしゃいましたか?」
他のことだったら、口答えをするかもしれないけれど、兄の義兄に、そして、未来の私の舅に、逆らうことはできない。私はため息をつきながら椅子に座ると、前に置いた大きな紙に、“無病息災”と筆で勢いよく書いたのだった。
1909(明治42)年1月6日水曜日午前9時、青山御殿。
赤地に鶴を描いた和服を着た私が、玄関に出て一人待っていると、車寄せの方で自動車のエンジンの音が響き、やがて、
「おはようございます、梨花さん」
栽仁殿下が笑顔で玄関に現れた。紺色の着物に同じ色の羽織を合わせ、薄い灰色の袴を付けている。
「おはよう、栽仁殿下。迎えに来てくれてありがとう」
私が深く頭を下げると、
「“栽さん”だよ、梨花さん」
栽仁殿下は少し頬を膨らませた。
「あ……」
「もう、今日は2人だけの微行なんですから、“栽さん”って呼んでくれないと、本当に許しませんよ」
「そ、そうでした……ごめんなさい……」
目を怒らせた栽仁殿下に、私は素直に謝罪した。今日は、20mほど後ろから東條さんがついてくるし、彼の他にも、中央情報院の職員が、私たちに分からないよう陰から護衛をするけれど、基本的には、私と栽仁殿下の2人きりで、身分を隠して行動することになる。だからうっかり、“殿下”と声に出してしまうと、周りの人たちに正体がバレてしまうだろう。
「では、出発しましょうか、梨花さん」
「うん、分かった」
私は手に持った桃色の巾着袋から、変装用の伊達メガネを取り出す。メガネを掛け終わると、栽仁殿下が、サッと私の右手を取った。
「あ、あの……手、つながないと、ダメ……?」
一瞬で混乱した思考を、ようやくまとめて栽仁殿下に抗議したけれど、
「ダメですよ。だって、愛する梨花さんを守れないじゃないですか」
栽仁殿下は真面目な顔で答えた。
「~~~っ!」
顔を真っ赤にしてうつむくと、
「ふふっ、可愛いな、梨花さんは」
栽仁殿下が笑う気配がする。
「でも、慣れていただかないと、結婚した後が大変ですよ。このところ、毎日会っていたから、少しは慣れていただいたかな、と思っていたんですが」
「な、慣れたけど……話すのと、手をつなぐのは、別だよ……」
話すのは大丈夫だ。栽仁殿下が東京に戻ってから、青山御殿で、そして、霞が関の有栖川宮家のお屋敷で、毎日彼と会って、筆で書いた字を見てもらっていた。だから、彼と目を合わせて話すことも出来る。けれど、ふとした拍子に身体が触れて、彼の身体のぬくもりを感じてしまうと、私の身体の中で、熱が急速に膨れ上がってしまうのだ。しかも、こんな風に手をつながれてしまうと……。
――万が一、増宮さまを誰かが傷つけるのであれば、僕はこの身を犠牲にしても、増宮さまを守り抜きます!
元日に皇居に新年の挨拶に行った時、たまたま垣間見た栽仁殿下の様子を思い出し、完全に思考が停止したところに、
「梨花さん?」
栽仁殿下が訝しげに声を掛けた。
「大丈夫?なんだか、ボーっとしてるけど……」
「だ、だ、大丈夫、うん……あなたと、手をつなぐの、全然、慣れてなくて……」
やっとのことで答えると、
「じゃあ、今日は、慣れるための特訓ですね。ずっと手はつながせていただきますから、梨花さんもそのつもりでいてください」
栽仁殿下は優しい声で宣告した。私は熱に耐えながら、栽仁殿下に黙って頷くしかなかった。
青山御殿の南側の通りには、市電が敷設されている。私と栽仁殿下はその通りに出ると、電停から市電に乗り込み、上野に向かった。上野からは日本鉄道の汽車に乗り換えて、10分ほど乗って田端駅で降りる。
「梨花さんの時代って、汽車や市電ってどうなってるんですか?」
田端駅から、福禄寿が祀ってある東覚寺へと歩きながら、栽仁殿下が私に尋ねた。
「え、ええっと……汽車は殆ど無くなってて、ディーゼル車か電車になってる。市電は……東京に限って言えば、一路線しか残ってなくて、地下鉄とバスに置き換えられてたよ」
私はうつむいたまま答える。宣告通り、栽仁殿下は市電の中でも汽車の中でも、私とつないだ手をほとんど離さなかった。この時代、いわゆる“お年頃”の男女が手をつないで歩くのは珍しい。なので、市電の中でも汽車の中でも、周りの乗客たちにジロジロ見られてしまい、とても恥ずかしかったのだ。そして、栽仁殿下は、私の右手を今も握っている。ずっと熱にあてられ続けているのに、顔を上げて堂々と歩くなんて、私には無理だった。
そんな私の状態を知ってか知らずか、
「バスって言うと、乗り合い自動車のことですね。きっと、梨花さんの時代は、自動車もたくさん走っているんだろうなぁ」
栽仁殿下はのんびりと言う。私はそれに頷き返すのが精いっぱいだった。
東覚寺にお参りすると、南に歩いて滝野川村から日暮里村に入る。青雲寺の恵比寿、修性院の布袋とお参りして、私たちは更に南に歩いた。谷中墓地の近くにある天王寺の毘沙門天と長安寺の寿老人をお参りし終えた時、私はその場に立ち止まってしまった。合計で1時間近く歩いているのもあるけれど、ずっと栽仁殿下が手をつないでいるせいで、熱が身体に籠って汗ばんでしまったのだ。
「梨花さん、大丈夫?結構歩いたから、疲れましたか?」
足を止めた私を、栽仁殿下が振り向いて見つめる。
「い、いや、その、足は、疲れてないんだけど……」
まさか、熱が身体に籠っている原因が栽仁殿下だとは言えない。どう答えようか迷っていると、
「僕、次の護国院まで、梨花さんを抱きかかえていきましょうか」
栽仁殿下が真面目な顔でこう言った。
「ちょ……な、何言ってるの、馬鹿!そんなことされたら、余計に、その……!」
提案を必死に辞退すると、
「ふふ、梨花さんったら、本当に可愛いですね」
栽仁殿下はニッコリ微笑んだ。
「でも、無理はしないでくださいね。本当に動けないんだったら、流しの人力車を拾いますし、いざとなったら、本当に抱きかかえますから」
「うん、ありがとう……今は大丈夫だけど、もし、そんなことになっちゃったら、よろしく」
真剣な目で私を見つめる栽仁殿下にこう言うと、彼は一瞬目を瞠ったけれど、すぐに元の笑顔に戻って頷いた。
更に南に向かって歩くと、東京市内・下谷区だ。上野公園の近くにある護国院の大黒天をお参りした後は、不忍池まで歩く。池の真ん中の島に祀られた弁財天をお参りしたのは、11時半を少し回った頃だった。不忍池のほとりにある料理茶屋に入ると、池が良く見える席に案内され、私と栽仁殿下は向かい合って座った。
「梨花さん、七福神に何をお願いしたんですか?」
お品書きの中から適当に何品か注文して、店員さんが去っていくと、栽仁殿下が私に尋ねた。
「家族と梨花会のみんなと……それからあなたが、健康で過ごせますように、って」
今は向かい合って座っているから、つないでいた手も離れている。ようやく落ち着いて話が出来るようになった私はこう答えた。
「あなたがもしまた体調を崩したら、私、すごく動揺してしまう。もちろん、その“もしも”が起こっちゃったら、私は全力であなたの治療に当たるけれど、一番いいのはそれが起こらないことだから、ね」
そう言った私は、「あなたはどうなの?」と栽仁殿下に問い返した。
「僕も、梨花さんと家族が健康で過ごせるように、ってことと……それから、一刻も早く、梨花さんにふさわしい、立派な人間になれますように、って」
(あ……)
――章子どのの傍らに、家柄だけが良くて実力がない者がいる必要はないのだ。
真面目な顔で私に答える栽仁殿下の言葉で、元日に皇居でたまたま耳にした華頂宮殿下の刺々しい声が脳裏に蘇った。
(気にしてるのか……あの言葉……)
気にしなくていい、と私は思うのだ。栽仁殿下のことをまるで分かっていない人間の言葉など、心にとどめてしまえばかえって害になる。けれど、栽仁殿下は気になってしまうらしい。
「あ、あのね、……栽さん」
今日は青山御殿を出てから、“栽さん”という言葉も、“栽仁殿下”という言葉も使わずにここまで来た。でも、今は、こう呼びかけざるを得ない。“栽さん”と口にした途端に身体が一気に熱くなり、栽仁殿下をまともに見られなくなった私は、視線を不忍池の方に逸らした。
「梨花さん、どうしたの?」
心配そうな声を出した栽仁殿下が私のそばに動き、私の右手を取った。
「~~~っ!」
彼の手のぬくもりを感じてしまい、私の思考は身体を駆け巡る熱でかき消されそうになった。……けれど、栽仁殿下のためにも、新年に立てた誓いは、ここで果たすべきだと思うのだ。
「た……栽さんは、ね……。私の隣に立つ実力も、資格も、十分にあると思うの……」
深呼吸をゆっくり繰り返して心を落ち着かせ、私は小さな声で、ようやく栽仁殿下に告げた。
「だ、だからね、変に、自分を追い込み過ぎないで、欲しいな、って……」
「梨花さん……こちらを、向いていただけますか」
熱で思考が吹き飛びそうなところに、栽仁殿下が声を掛けた。
(え?!)
そんなことをしたら、私の頭の回転は完全に止まってしまう。けれど、大切な人の……大切な婚約者の要望だ。それには、応えなければならない。私は、池の水面に向けていた視線を、ゆっくりと栽仁殿下の瞳に合わせた。
「ありがとう、梨花さん」
栽仁殿下は、澄んだ美しい瞳で私を見つめながら、優しい声で言った。
「そう言ってもらえて、とても嬉しいです。……でも、その言葉に甘えすぎて、自分を磨くのを怠ったらいけないと思うから、これからも、愛する梨花さんを守れるように、僕、頑張ります。まずは、今度東京に戻れる夏季休暇まで、士官学校の勉強を頑張らないとね」
「そっか……寂しいけど、栽さんの無事を祈りながら、私も、頑張る……」
つないだ手からは、栽仁殿下の手のぬくもりが相変わらず感じられて、それに煽られるように、鼓動も速くなっていく。それでも私は、手を振り払うことなく、あと数日で西に去ってしまう婚約者と、時間を忘れて見つめ合っていたのだった。
※『信仰民俗誌』(本山桂川、1934年)によると、谷中七福神は現在の個所に定まるまで変遷があったようですが、拙作ではひとまず、現在の谷中七福神と同じところを参拝させました。ご了承ください。




