新年の誓い
1909(明治42)年1月1日金曜日午前9時5分、皇居。
「「あけましておめでとうございます」」
若葉色の通常礼装をまとった私と、カーキ色の幼年学校の制服を着た弟の輝仁さまは、お父様とお母様に、声を合わせて新年のご挨拶を申し上げた。
「うん……」
大元帥の正装姿のお父様は、軽く頷いた後、なぜか私をまじまじと見つめている。どうしたのだろうか、と思っていると、
「章子……そなた、何かしたか?」
お父様が不思議そうな顔で私に尋ねた。
「へ?」
「いや、そなた、一昨年の正月と、まるで雰囲気が違うからな。一体、何があったのかと……」
「お上」
訝し気な表情のお父様に、桜色の大礼服に身を包んだお母様が微笑みを向けた。
「当たり前ですよ。増宮さんには、想い合っている方が出来たのですから」
「お、想い合って……」
私がさっと顔を赤くすると、
「最近、章姉上、栽仁兄さまに毎日会ってるからなぁ」
隣に立っている輝仁さまが、両親に暴露した。
「ちょっと……!」
更に顔を赤くした私が弟に抗議すると、お父様とお母様が同時に声を上げて笑った。
「あ……いや、そのっ……。栽仁殿下が東京にいる時は、彼に毎日、書道を教わることになって……」
結婚前に破廉恥なことをしていると思われてはたまらない。私が慌てて事情を説明すると、
「まぁ、毎日筆を使っていらっしゃるのね!」
お母様の顔が明るく輝いた。
「あ、はい。なので……」
私は斜め後ろを振り向いた。そこには、黒いフロックコートを着た大山さんが控えている。もう少し話してからにしようと思ったけれど、話の流れとして、今渡す方がいいだろう。そっと目配せをすると、大山さんが捧げ持っていた文箱を私に渡してくれた。
「あの……これを渡してもよろしいでしょうか?」
「ん?まさかそれは……歌か?」
「はい、歌御会始の題の“雪中松”で詠んだものですけれど……」
お父様に恐る恐る答えると、
「ください、増宮さん!」
お母様が嬉しそうにリクエストする。私がお母様の前まで歩いて文箱を渡すと、お母様は早速文箱に掛けられた紐を解き始めた。
「ああ、言葉遣いが、とても増宮さんらしくて……」
文箱の中に入れられた懐紙を開いたお母様がこう言ったので、
「あの、やっぱり、いけなかったでしょうか?」
と確認すると、
「いえ、これは直すと、かえって歌が壊れます。情景がすぐに思い浮かびますから、このままの方がよろしいでしょう」
お母様はそう言ってニッコリ微笑んだ。
「美子の言う通りだ」
お父様が、横から懐紙を覗き込みながら言う。
「冬至の日に、朕の小言を食ったから、慌てて詠んだな」
「はい、それもありますし、栽仁殿下にも勧められたので……」
――梨花さん、一緒に、和歌を詠んでみましょうか。僕も和歌は全然得意じゃないから、2人で協力しないといけないけど。
東京に戻ってから、毎日私の習字を見てくれている栽仁殿下は、12月24日、クリスマスイブの日に私にこう言った。翌日、私は1日休みだったので、栽仁殿下は朝から青山御殿にやって来た。そして、2人で庭を眺めながら歌想を練り、詠んだ和歌を懐紙に清書したのだ。
「いつも増宮さんは角張った字を書くけれど、これは柔らかい筆遣いですね」
「はい、何枚か書いたんですけれど、これが一番私らしいって栽仁殿下が言ってくれたので……」
お母様に答えると、
「なるほど、章子の気性の一面が良く出ているな」
そう言いながら、お父様がまた懐紙を覗き込んだ。
「ずっとこの字のように穏やかであればよいが、そなたは時々、とんでもない方向に勢いよく走り出すからなぁ……」
ため息をつくお父様の言葉に、私は黙って苦笑した。確かに、お父様の言う通りだ。
と、
「ところで、満宮さんは、歌をお詠みになったの?」
お母様の一言で、輝仁さまの顔が強張った。
「よ……詠んでないです」
頭を下げた輝仁さまに、
「それはいかんな。輝仁、航空士官になろうというそなたの心意気はとても良いが、風雅の道に心を寄せることも忘れるなよ」
新年早々、お父様の注意が飛んだ。
「だから言ったでしょ、歌を詠んで、新年の挨拶の時に持って行く方がいいよって」
「うん、章姉上の言う通りだった。今日、帰ったら歌を作る」
「頑張れ、まぁ、輝仁さまならすぐ出来るよ」
私は弟と小声で言葉を交わした。この弟は、面倒だからやらないだけで、本当は、私より上手く和歌が詠めるのだ。兄に言わせれば、“言葉の選び方が荒い”らしいけれど、スラスラ和歌が詠める弟が、私は少しうらやましい。
「では、章子も輝仁も、今年も励めよ」
お父様の声に、おしゃべりしていた私と輝仁さまは慌てて頭を下げ、部屋を後にしたのだった。
午前9時15分。
「あーあ、しくじったなぁ」
宮殿の廊下を、私をエスコートして歩きながら、輝仁さまはため息をついた。後ろから、大山さんもついて来ている。
「まぁまぁ、私だって、お母様に提出したあの1首しか詠んでないよ。輝仁さまは私より和歌が得意なんだから、何とかなるって」
私が慰めると、
「そうだけどさぁ……面倒なんだよ、考えるのが」
輝仁さまは苦い顔をした。
(和歌が私より得意なのは否定しないのか……)
姉として、威厳が全く保てていないけれど、事実だから仕方がない。
「しょうがない、兄上と節義姉上に挨拶したら、ちゃんと歌を考えるよ。題は“雪中松”だよな……」
輝仁さまは私の手を引きながら、ブツブツ呟いている。そんな調子で一緒に歩いていると、前方からざわめきが聞こえてきた。今日は9時半から、お父様とお母様に、直宮以外の成年皇族が、新年の挨拶を一斉に申し上げることになっている。そのために男性の皇族たちが控えている溜りの間の近くまで、私たちは歩いてきたのだ。例年なら、この溜りの間の前を通って玄関に出て、馬車に乗って兄と節子さまが住んでいる花御殿に向かうのだけれど……。
「信じられないことだね」
もう少しで、溜りの間の入り口の前に着く、というところで、棘のある声が耳に届き、私は反射的に足を止めた。
「あれ?これ、華頂宮さまの声かな……?」
輝仁さまも、新年のおめでたい雰囲気にそぐわない声に、立ち止まって首を傾げている。
「少し妙な雰囲気ですね」
後ろから追いついてきた大山さんも、そう言って眉をしかめた。
「ちょっと、この雰囲気の中に飛び込みたくないわねぇ」
私は軽くため息をついた。溜りの間の入り口の扉は開放されているので、溜りの間の前を通ると、どうしても部屋の中から私の姿が見えてしまう。だから毎年、この溜りの間の前を通りかかると、中にいる男性皇族たちに新年のご挨拶をするのだけれど、この嫌な雰囲気の中で新年の挨拶をするのは気が引ける。
すると、
「隠れて、様子をうかがいましょうか」
我が臣下が、思わぬことを言い出した。
「へ?」
「おおっ、諜報活動ってやつですね、大山閣下!ワクワクしてきた!」
私の手を握ったまま、輝仁さまが嬉しそうに目を輝かせる。実は、輝仁さまは、去年の11月、15歳になったのを機に、大山さんと輔導主任の金子さんから、中央情報院の存在を知らされたのだ。その後、輝仁さまは諜報分野にも興味を持ったようだけれど、航空士官を目指しているのは変わらない。
「お静かに、満宮さま。では、入り口の陰に潜みましょう」
大山さんは小さな、けれど、少し楽しそうな声で輝仁さまに注意を飛ばすと、私たちを溜りの間の入り口の陰に連れて行った。そっと中をのぞくと、溜りの間には、男性の成年皇族が顔を揃えていた。ただし、伏見宮家のご当主・貞愛親王殿下と、留学中の久邇宮家のご当主・邦彦王殿下、そして結核治療中の有栖川宮威仁親王殿下はその中にはいない。そして、部屋の真ん中では、華頂宮家のご当主・博恭王殿下が、海兵士官学校の制服を着た栽仁殿下に、刺すような視線を送っていた。
「士官学校の生徒に過ぎない君が、章子どのと婚約するとは」
海兵中佐の正装に身を包んだ華頂宮殿下は、栽仁殿下に厳しい口調で話し始めた。確か、華頂宮殿下は、極東戦争が終わった後、戦艦“富士”の副長になっているはずだ。
「軍医中尉の章子どのは、我が国初の女性の軍人として、実績を着実に積み重ねておられる。しかも、東朝鮮湾海戦の際、我々とともにロシアと戦われたのだ。そのご胆力、その明晰な頭脳、そしてあの美貌……まさに完全無欠の女神のような方。しかるに、君はどうだね?ただ単に、たまたま皇族に生まれただけの凡才ではないか」
獲物を狙う鷹のような目つきで、華頂宮殿下は栽仁殿下を睨みつけている。私が“日進”で実習している時に会った時と全く違う華頂宮殿下の刺々しい雰囲気に、私は思わずゾッとした。
「華頂宮さま、それは言い過ぎではないでしょうか」
北白川宮成久王殿下が、一歩前に進み出て反論する。
「成久の言う通りだ。あの、鬼のような増宮殿下を娶ると、自ら陛下に申し出たのだよ。栽仁どのは、近年まれに見る豪胆な青年だ」
成久殿下のお父様、北白川宮能久親王殿下がこう言うと、梨本宮守正王殿下も、能久親王殿下の隣で「さようさよう」と頷いた。
「父の言う通りです。増宮さまは、本当に、本当に恐ろしい人なのに……」
私と同い年の竹田宮殿下が、更に言葉を続けようとしたとき、
「おい、恒兄上!姉宮さまをバカにする気か?!」
北白川宮の……ではない、去年の11月、鳩彦王殿下や稔彦王殿下と同じく、お父様の勅命で“東小松宮家”を設立した輝久王殿下が、キッと竹田宮殿下を睨みつけた。輝久殿下の後ろでは、鳩彦殿下と稔彦殿下も目を怒らせている。
「恒久どの、章子どのを愚弄するとは……覚悟はできているのでしょうね?」
「年上の皆様方のお言葉ではありますが、僕の婚約者を貶めるようなことをおっしゃるのは、納得ができません」
華頂宮殿下と栽仁殿下も、鋭い視線であたりを見回すと、室内からざわめきが消えた。部屋の中を静寂が覆うと、華頂宮殿下と栽仁殿下は、再びにらみ合った。
「章子どのの傍らに、家柄だけが良くて実力がない者がいる必要はないのだ」
華頂宮殿下は両腕を組むと、更に栽仁殿下に言い募る。
「誰か、止められる人がいないのかな?伏見宮さまがいれば……」
輝仁さまのヒソヒソ声に、
「伏見宮さまは、ここ数日、風邪で臥せっておいでです。だからこの場にいらっしゃらないのでしょう」
我が臣下が小さな声でこう返す。さすが大山さん、世界の情勢だけではなく、皇族の動向もきちんと把握している。
「この青二才め……自らが章子どのの傍らに立つ資格も実力も無いことを、素直に認めたらどうだ?」
(勝手なこと、言わないで欲しいなぁ……)
栽仁殿下に言葉を投げつけ続ける華頂宮殿下に対する怒りが、心の中に沸々と湧き上がってきた。華頂宮殿下は、栽仁殿下を明らかに馬鹿にしている。
(婚約者をバカにされて、黙っていられるか!こうなったら、私が出て行って、華頂宮殿下に一発お見舞いしてやる!)
そう思って歩き出そうとしたその時、
「いけません」
大山さんが後ろから私をきつく抱きしめた。
「止めないで、大山さん」
私は小声で大山さんに抗議した。
「婚約者をバカにされてるのよ?!ここで一発殴っておかないと……!」
すると、
「ここは、若宮殿下が立ち向かうべきところでございます」
大山さんが、私に優しく囁いた。
「梨花さまも淑女であらせられるならば、御身を守ってくださる紳士を信じて見守るべきでございます」
(……)
私が大山さんの腕の中で抵抗をやめた時、
「確かに僕は、まだ士官学生の身です。“富士”の副長をなさっている華頂宮さまと比べたら、未熟者なのは否定できません」
栽仁殿下が右手を左の胸に当て、じっと華頂宮殿下を見つめながら口を開いた。
「ですが、増宮さまを想う気持ちは、この中にいらっしゃる誰にも、いいえ、世界中の誰にも負けません。研鑽に励み、一刻も早く増宮さまにふさわしい夫になります。そして、万が一、増宮さまを誰かが傷つけるのであれば、僕はこの身を犠牲にしても、増宮さまを守り抜きます!」
「……!」
私が眼を見張った時、
「お2人とも、移動しましょう」
大山さんが私の身体を引きずるようにして後ろに動く。廊下の曲がり角に輝仁さまと大山さんと私、3人で身を隠すと、私たちとは反対の方角からやって来た宮内省の職員が、「皆様方、謁見の間にご移動を……」と室内に呼びかける声がした。室内からの声は止み、やがて、勲章や佩刀の金属がカチャカチャとぶつかり合う音が響き、謁見の間の方へと消えていった。
「栽仁兄さま、かっこいいねえ」
男性皇族が全員溜りの間から去ると、輝仁さまがニヤニヤしながら、私を肘で小突いた。
「あ、あ、うん……」
顔を真っ赤にした私は、輝仁さまにこう返すのがやっとだった。自分をバカにした相手に、栽仁殿下はきちんと対応した。そして、身を挺して私を守るとまで言ってくれた。
「だから、申し上げましたでしょう」
大山さんは、微笑を含んだ目で私を見つめている。確かに、彼の言う通りだった。私が助けに入らなくても、栽仁殿下は紳士として、……いや、私を守る騎士として、堂々と振る舞ったのだ。
(本当に、成長したんだなぁ……)
可愛い弟分は、いつの間にか成長して、立派な青年になった。そして、私の頼もしい夫として、私の手を取り、私の隣に立つのだろう。
(私の隣に立つ実力も、資格も、十分にあるよ、栽仁殿下……)
きちんと、そう伝えよう。言葉に出すのは、とても恥ずかしいけれど……。栽仁殿下との婚約が内定して、初めて迎えた元日、私は心の中で誓ったのだった。
※この時点で顔を揃えている皇族のメンバーは、実際とはかなり顔ぶれが異なっています。ご了承ください。なお、輝久王殿下は実際には臣籍降下しています。




