デートの理由
1908(明治41)年12月22日火曜日午前10時、皇居・表御座所。
「威仁の具合はどうだ?」
当直明けに皇居に呼ばれた私は、黒いフロックコートを着たお父様の前で椅子に座っていた。私の斜め後ろには、大山さんがいつものように控えている。
「はい、昨日も当直に入る前に、お屋敷に行きましたけれど、咳や痰が出る回数も減ってきていますし、熱の出る回数も少なくなっています」
親王殿下の結核の治療を始めてから、1か月が経っている。その治療経過を素直に報告すると、
「そうか、それは良かった」
お父様はホッとした顔つきになった。
「皇族で一番頼りになるのは、やはり威仁だからな。だからこそ、梨花会にも入れた。威仁の治療に当たってくれていること、朕からも礼を言うぞ、章子。“よく養生せよ”と朕が言っていたと、威仁に伝えてくれ」
「はい」
私はお父様に頭を下げた。“よく養生する”ためには、主治医である私も、親王殿下の療養生活のサポートをしっかりやらなければならない。精神的な負担が増えた気がするけれど、これも上医になるのに必要なことなのだと自分に言い聞かせて、努力していくしかないだろう。
「それから、“章子への書道の指南は御座なりにするな”と、威仁に伝えておけよ」
「あ、それはダメですか……」
少しだけガッカリしながら私が言うと
「当たり前だ」
お父様が渋い顔をした。
「威仁から、そなたが山縣に和歌の課題を出す時にしか筆を使っていないと知らされて、美子が肩を落としておった。そなたには我が国の文化を守るという意識がないのか、と」
「申し訳ありません……」
「そなたは常の女子とは違う故、多少は仕方がないとは思うが、そなたも皇族の一員なのだ。城郭以外の我が国の文化に、心を寄せることも忘れるなよ」
余りにも正論なので、まったく言い返すことができない。頭を垂れて反省していると、
「ところで、今日そなたを呼んだのは、聞いておきたいことがあったからだ」
お父様はこう言った。
「そろそろ、そなたの嫁入り道具の準備を始めようと思っているのだが、何か希望はあるか?」
「き、希望、ですか?」
私は戸惑ってしまった。「ごめんなさい、お父様、全然想像が出来なくて……」
「いや、それはないだろう。そなた、嘉仁が結婚した時に、節子が運び込んだ嫁入り道具は見ていなかったのか?」
「ええと、たくさん荷物があるなぁ、って思ったぐらいで、特には……」
「ということは、前世で、どなたかの嫁入り道具をご覧になったこともないでしょうね」
苦笑交じりの大山さんの確認に、
「そうね。結婚式に呼ばれたことも無かったから。前世の上の兄には、結婚を考えている女性がいたけど、私、その人に会う前に死んじゃったから、嫁入り道具なんて全然分かんないよ」
私も苦笑いしながら返した。
「むむ……では、何か、前世であった風習などないのか?これだけは絶対に嫁入り道具に入れなければならない、とか……」
お父様が胸の前で両腕を組みながら私に尋ねた。
「風習……強いて言えば“嫁入りトラック”ですけど……」
婚礼用の家具や衣類・食器などの生活用品を満載し、荷台がガラス張りになっていたり、紅白のリボンでラッピングされたりしている派手なトラックが、前世の両親が結婚した1984年頃には、前世の故郷・名古屋の周辺で嫁入りの際に使われたらしい。ただ、私が死ぬ頃には廃れていて、私も“嫁入りトラック”は子供の頃に1度しか見たことがない。
「トラックですか、なるほど。産技研に頼んで、新作の貨物自動車を回してもらってもいいかもしれません。それか、長岡君の言うように、戦車をお使いになりますか?」
「そんな物騒な嫁入り、したくないわよ……」
おどけた口調で言う大山さんに、私はため息をついた。先月、国軍機動局で開発されていた無限軌道を使った戦車が完成した。“史実”の記憶を持つ斎藤さんが、“史実”でも独力で無限軌道を開発した高松梅治さんという技術者を去年スカウトしたので、開発が一気に進んだのだ。
「話が少し横に逸れたが……特に章子から希望が無いなら、大山とも相談して、嫁入り道具を準備するぞ。外国に発注しなければならない物があれば、早めに動かなければならないし……」
(が、外国?!)
「ちょ、ちょっと待ってください、お父様!」
私は慌てて右手を挙げた。
「何だ、嫁入り道具は要らぬなどと言ったら許さんぞ」
「違います!そうじゃなくて、嫁入り道具、可能な限り、国産のものにして欲しいんです。国内産業の成長を促す、という意味で!」
私がお父様に訴えると、
「なるほど、それは皇族の一員として、良きお考えでございます」
大山さんが後ろから援護射撃をしてくれた。
「ふむ。ならば、そうするか」
ゆったりと頷いたお父様に、
「それから、これは、可能ならなんですけれど、派手な装飾はしないで欲しいな、と……」
今度は恐る恐る、私はお願いしてみた。
「分かっておるわ。青山御殿の装飾と同じようにすればよかろう」
「是非それでお願いします」
お父様に私は再び頭を下げた。8年前から私が住んでいる青山御殿の調度や襖絵は、シンプルだけれど上品なものになっている。青山御殿に引っ越す前、お母様と相談しながら決めたものだけれど、私はとても気に入っていた。
「婚儀の時の衣装や、揃える服についても、年明けに相談したいと美子が言っていた。余り駄々をこねて、美子を困らせるなよ」
これもまた、想像が全くつかない。皇族だから、婚儀の時は五衣唐衣裳、いわゆる十二単を着ることになるけれど、私は一度も着たことがないのだ。
「梨花さま」
不意に、大山さんが私を呼んだ。
「ご不安ですか?」
「不安と言うよりは、戸惑ってるわね……」
私はそう答えるとため息をついた。
「だって、前世でも結婚したことがないから、全然様子が分からないんだもの」
すると、
「ならば、この大山にお任せくださいませ」
大山さんは私に微笑みかけた。
「俺は4人の娘を、全員嫁に出しました。ですから、梨花さまよりは婚儀の様子が分かるはずでございます」
「……そうね」
父親代わりのような大切な臣下に、私は頷いた。……そうだ。私は一人ではない。お父様もお母様も、母も大山さんも、兄も節子さまも、梨花会のみんなや千夏さんもいるのだから、どうしようもなくなったら、助けを求めればいいのだ。
(それに……結婚って、一人でするものじゃないし、ね)
「頼らせてもらうね、大山さん。私も、いい婚儀が出来るように、親王殿下の結核の治療を粛々と進めるから」
そう言って微笑むと、
「それでよい」
お父様が深く頷いた。
2時間後、青山御殿の食堂。
「あなたとこうして、2人きりで食事をするのは初めてかしら」
皇居から戻り、桃色の無地の和服に着替えた私は、食堂に出した小さなテーブルで、昨夜江田島の海兵士官学校から戻ってきた栽仁殿下と向かい合っていた。今月の初めに彼が私に送った手紙に、“帰京した次の日に、梨花さんと一緒に食事がしたい”と書かれていたので、急遽セッティングした食事会だった。
「おやつを一緒にいただいたことはあったけれど、食事は初めてですね」
紺色の羽織袴を付けた栽仁殿下はそう言うと、カボチャの煮物に箸を伸ばした。
「そう言えば、そうね」
1度だけ、栽仁殿下と2人きりで、あんみつを食べたことがある。確かあれは10年前、葉山御用邸別邸で避暑をしていた時だった。
「あの時はビックリしたよ。栽仁殿下がお付きも連れずに別邸に来たから」
古い記憶を掘り起こしながら答えると、
「“栽さん”」
栽仁殿下が少し唇を尖らせた。
「お手紙では書いてくれるようになったし、今も2人きりなのに……、口に出しては“栽さん”と呼んでくれないんですね」
「あ、いや、その……」
言われた途端、急に鼓動が速くなる。確かに、今月初めにくれた手紙の返信で、初めて栽仁殿下のことを指して、“栽さん”と書いたのだ。手紙にいつも、“僕のことを栽さんと呼んで欲しい”という文章が入っているので、仕方なく書いたのだけれど……。
「あ、あれを書くの、すごく恥ずかしくて、大変だったんだよ?!書くべきか、書かないでおくべきか、30分ぐらいずーっと考えてて……!」
「うん、分かりました。そこだけ文字に勢いがなかったから、すごく葛藤したんだろうなぁって」
顔を真っ赤にした私に栽仁殿下は微笑むと、
「いろいろな思いを乗り越えて“栽さん”って書いてくれて、ありがとうございました」
そう言って、ぺこりと頭を下げた。
「今度は、口に出して“栽さん”って呼んでくれると嬉しいな」
「ぜ……善処するわ……」
とても事務的な言葉づかいで答えてしまうと、栽仁殿下がクスっと笑い、
「そうだ、僕、うっかりしていた。最初に、梨花さんにこれを言わないといけなかったのに」
と言い、箸を置いて背筋を正した。どうしたのだろう、と思っていると、
「父上の結核の治療をしてくれて、ありがとうございます」
栽仁殿下は深々とお辞儀をした。
「やだなぁ、まだ8か月ぐらい治療期間が残ってるのに、お礼はまだ早いよ。それに、霞が関のお屋敷に行くの、治療をしに行くっていうより、書道の練習をしに行くって感じになってて、……大変だよ、もう」
私が苦笑すると、
「ああ、やっぱり」
栽仁殿下も顔に苦笑いを浮かべた。
毎週月曜日と木曜日には、霞が関の有栖川宮邸に行く。親王殿下の診察と注射を15分ほどで終えた後は、親王殿下の指導の下、1時間ほどみっちりと書道の練習をするのだ。更に、“少しずつでもいいから、毎日練習をしてください”と、お手本を貸し出されているので、それを毎日少しずつ書き写して書道の練習をしている。
「梨花さんが書道の練習をした紙が、父上の書斎に残ってたから見ちゃったけど、一生懸命やってるって感じが伝わってきました」
「やだ……私の字、見たの?!」
栽仁殿下の言葉に、思わず立ち上がりそうになったけれど、淑女にはふさわしくないだろうと思い直し、私はその代わりに太もものところで着物を握り締めた。
「は、恥ずかしい……は、花嫁修業って意味もあるけれど、あなたに見せられるような字が筆で書けないから、練習しようと思って頑張ってるのに……」
うつむいて絞り出すように言うと、
「僕に出す手紙の字が奇麗だとか汚いとか、気にしなくていいのに」
栽仁殿下は微笑した。
「で、でも、私、その……た……じゃない、あなたの字、好きで……同じような字を書きたいから……」
とても、面と向かって、“栽さん”とは呼べない。慌てて言い直したけれど、
「“栽さん”だよ、梨花さん」
栽仁殿下は見逃がしてくれなかった。
「でも、嬉しいな。僕と同じような字を書きたいって言ってくださるのは」
そう言った栽仁殿下は、「そうだ!」と明るい声を上げた。
「僕、梨花さんの書道、冬休み中は父上の代わりに見てもいいかな?」
「ええ?!」
「いいじゃないですか」
栽仁殿下は悪戯っぽい笑みを浮かべると、
「それに、僕が梨花さんの書道を見ることにすれば、それを理由にして、江田島に戻るまで、毎日梨花さんに会えるし」
と言った。
(?!)
「そ、そっか……。毎日、デートして、じゃない、出会って、いいんだよね……」
再び顔を真っ赤にした私が言うと、
「当たり前じゃないですか。婚約してるんですから」
栽仁殿下は私に笑顔を向けた。
「この3か月の間、手紙だけでは伝え切れなかったことや、面と向かって話し合いたかったことが、たくさんあったんです。梨花さんの字を見る合間に、全部話します」
「それは、私もそうだよ……」
私は呟くように言った。
「私だって、あなたに話したいこと、たくさん、あって……」
「ふふ、じゃあ、話に夢中になり過ぎないように気を付けないと。父上に、梨花さんの字が全然上達してないって言われたら大変だもの」
「そうね。じゃあ少しは、お習字、頑張らないといけないね」
「ですね」
デートの理由に書道の練習を使うのは、私の時代でも、今の時代でも、少し変わっているのかもしれない。ただ、私たち2人にとっては、どんな理由であれ、同じ場所で時間を過ごして、会えなかった3か月間の寂しさを埋められればそれで良かった。
こうして私は、栽仁殿下が東京にいる間、彼に毎日、筆で書いた字を見てもらうことになったのだった。




