結核治療と花嫁修業
1908(明治41)年11月15日午後2時、東京帝国大学医科大学付属病院内の読影室。
「さて、こちらが、今年5月の、梨花会の健康診断の際に撮影した胸のエックス線写真です」
吊り下げたエックス線写真の前に立ち、指し棒を持った私は説明を始めた。
「右肺も左肺も、何の病変もありません。ついでに言うと、心肥大や胸水貯留もないし、胸郭の変形や肋骨骨折、縦隔や皮下の気腫もない。まさに健康そのものです。それなのに……」
私は、吊り下げているもう1枚のエックス線写真の横に移動した。うっかり、写真の横に立っている三浦先生と大山さんに接触しそうになり、慌てて身体を前に移動させる。
「さっき撮影したエックス線写真がこれです。右の上肺野に浸潤影……これだけだと、他の肺炎と区別がつきませんけれど、痰を調べたら、結核菌が検出されました。従って、この肺の影は、結核によるものと考えるのが妥当です」
私はこう言いながら、指し棒でエックス線写真の右の上肺野に当たる部分を指し示し、少し胸を張った。普段、患者さんに対して、こんなに偉そうな態度を取ることは少ないのだけれど、説明している相手が相手なので仕方がない。
「エックス線写真に所見があるということは、咳や痰が出るだけじゃなくて、熱が出たり体重が減ったりっていう症状が出てもおかしくありません。現に、10月の下旬ごろから、そんな症状が出ていたという証言ももらっているんですけれど……体調が悪いのをずっと隠してましたね、大兄さま!」
常盤色の羽織袴に身を包み、私を見ながらニヤついている有栖川宮家のご当主・威仁親王殿下を、私は軽く睨みつけた。
「露見しては、仕方がないですねぇ」
親王殿下はニヤニヤ笑いを崩さない。その顔色は、よく見ると少し青白い。ただし、普通の人は気付かない程度の変化だから、咳さえ出なければ、体調が悪いことを周りに隠し通すのは簡単だっただろう。
「まったく……慰子さまが心配なさってましたよ。何で体調が悪いことを隠してたんですか?」
未来の舅にこう尋ねると、
「實枝子を心配させたくなかったのですよ」
彼は1週間前に結婚した娘さん……私の将来の義理の妹の名を挙げた。
「せっかくの娘の婚儀に、水を差したくありませんでしたし。それに、海兵中将を仰せつかっている私が病気療養をしてしまうと、国軍の士気も落ちてしまうかもしれませんしね」
「それで周りに隠してたってわけですか、はぁ……」
私はため息をついた。本当に、完璧な偽装だったと思う。医者の私ですら、完全に騙されていたのだから。それでも何とか、親王殿下に疑いの目を向けることが出来たのは、兄のおかげだった。
今月の3日、天長節の宴会に、私は軍籍を持つ内親王として招かれていた。宴会が終わって帰宅しようと廊下に出た時、同じく宴会に出席していた兄が私を捕まえて、
――義兄上の体調が良くない気がするが、章子、何か聞いていないか?
と尋ねた。宴会での私の席は親王殿下の席から遠かったし、宴会の最中は、席が近かった北白川宮の成久王殿下、そして、3日付で、久邇宮家から独立して朝香宮家を設立した鳩彦王殿下と、同じく3日付で東久邇宮家を設立した稔彦王殿下とのおしゃべりに忙しかったので、親王殿下の様子は全く見ていなかった。だから、兄には“わからない”と答えるしかなかったのだ。
そして、お父様が関西地方で行われる大演習を親閲するため、1週繰り上がって開催された11月7日の梨花会に、親王殿下は欠席した。“實枝子の結婚式が明日なので”というのが表向きの欠席理由だったけれど、梨花会が終わった後、また兄が私の席に歩いて来て、
――どうもいやな予感がする。義兄上の体調は大丈夫なのか?
と私に再び尋ねたのだ。こういう時の兄の勘はとても鋭い。その兄が2回も親王殿下の体調を心配したから、私も気になって、大山さんに頼み、親王殿下の体調について何か分かることは無いか、調べてもらうことにした。
すると、親王殿下が、10月の中旬から、咳や発熱に悩まされているようだ、という証言が親王殿下の奥様・慰子妃殿下から得られた。“医者に診てもらう方がよいのでは”という慰子妃殿下の提案に、親王殿下は首を縦に振らず、“とにかく誰にも言うな”と慰子妃殿下に口止めをしたそうだ。そこで、實枝子さまの結婚の諸行事が終わったころを見計らい、医科分科会のメンバーでもある三浦先生と相談して、今日、医科大学付属病院で親王殿下の検査を行ったのだった。
「なるべくなら、このまま隠し通したかったのですがね」
微笑を続ける親王殿下を、
「そう言う訳にもいきませんよ」
私は再び睨みつけた。
「病気になった時は、きちんと休暇を取って治す。それは、階級が上の人ほどやっていただきたいことです。そうじゃないと、下の人たちが必要な休みを取得しづらくなります。それに、これは個人的な事情ですけれど」
私はそこで一度言葉を切った。
「大兄さまには死んでほしくないんですよ。大兄さまの身に何かあって、私と栽仁殿下の結婚が遅れるのはイヤですし、嫁いですぐ舅のお葬式を出すのもまっぴらごめんですから!」
睨んだまま、親王殿下に言葉を叩きつけると、
「確かに、ね」
と、彼は声を上げて笑った。
「それならば、治療をお願いしましょうか。確か、結核は3つ目の薬が開発されたのでしたか」
「はい、オオサカマイシンですね」
威仁親王殿下の言葉に、三浦先生が答える。医科研で臨床試験を行っていた結核の3剤併用療法についての論文は、北里先生がお正月に言っていた通り、6月に“ドイツ医事週報”に掲載された。そして、コッホ先生が帰国した直後の先月下旬から、日本でオオサカマイシンが発売され、結核の3剤併用療法が本格的に行われ始めている。
「リファンピシンは毎日内服、シズオカマイシンは週1回の筋肉注射、オオサカマイシンは週2回の筋肉注射が必要ですから、週2回は医者の診察を受けていただくことになります」
三浦先生が説明すると、
「ほうほう、つまり、増宮さまが週に2回、我が家においでになるということですね」
威仁親王殿下はこう言って頷いた。
「ちょっと待ってください。私が治療するのは確定なんですか?!」
「当たり前でしょう、未来の嫁なのですから」
私のツッコミに、親王殿下は平然と答えた。
「お勧めできませんよ、大兄さま。身内が相手ですから、何かトラブルが発生した時、判断が鈍ります」
「おや、未来の夫には、虫垂炎の手術をなさったではありませんか」
「そ、それ、今、言いますか?!」
思わぬ方向からの攻撃に、顔を真っ赤にした私を、親王殿下はニヤニヤしながら見ていたけれど、不意に真面目な表情になり、
「将来、増宮さまは、ご自分の父君と兄君に、侵襲的な治療をなさらなければならないのです。舅ごときでたじろいでいては、天皇陛下と皇太子殿下を治療することは難しいですよ」
と言った。確かに親王殿下の言う通りなので、私は全く反論できなかった。
結局、三浦先生と大山さんも交えて話し合い、今度の木曜日、11月19日から、親王殿下の結核の治療を始めることになった。基本的には、月曜日にオオサカマイシンの、木曜日にオオサカマイシンとシズオカマイシンの注射をすることになったので、霞が関の親王殿下のお屋敷に、私は月曜日と木曜日に通うことになる。内服のリファンピシンの方は、毎週木曜日に、私が調剤した1週間分の薬を、大山さんが親王殿下のお屋敷に届けることになった。
「治療期間は9か月なので、来年の8月中旬までになります。ただ、私が公務で東京を離れることもあると思いますから、その時は、国軍病院や医科大学の先生に、私の代わりに注射をしてもらいますね」
私が親王殿下に告げると、
「承知しました」
親王殿下は私に軽く一礼して、
「そうか、しかし、ふふふ……これは良い機会かもしれませんねぇ」
と、よくわからないことを呟いた。
「良い機会?」
「いえ、何でもありません。では増宮さま、木曜日の夕方、我が家でお待ちしておりますよ」
とりあえず、治療は受けてくれるらしい。私はホッとしながら「よろしくお願いしますね」と頭を下げたのだった。
1908(明治41)年11月19日木曜日午後5時半、麴町区霞ケ関1丁目にある威仁親王殿下のお屋敷。
「ああ、いらっしゃいましたか」
国軍病院での勤務を終えたその足でお屋敷にお邪魔した私を、親王殿下は自分の書斎で出迎えた。どうやら、筆を使っていたところらしく、来客用のテーブルには、半紙や筆、硯箱や文鎮などの文房具や、書道のお手本らしきものが整然と並べられていた。
「先ほど、郁子さまからお見舞いの手紙を頂戴しましてね、返事を書いていたところだったのですよ」
来客用のテーブルの上を不思議そうに見る私に、群青色の着物を着た親王殿下はこう言った。
「郁子さまと言うと、華頂宮家の」
郁子さまは華頂宮家の先々代、博経親王の奥様で、今のご当主・博恭王殿下の養母にあたる。南部家の出身でもあり、盛岡藩の家老の家の出身である原さんが、気に掛けている人の1人だった。“史実”ではちょうど今頃に亡くなったらしいのだけれど、この時の流れではお元気だ。
「ええ。……ちょうど、キリのいいところまで書けましたから、早速、未来の嫁御寮どのに、注射をしていただきましょうか」
「茶化さないでください。手元が狂って、変なところに針を刺しちゃうかもしれませんよ?」
少しキツい調子で私が言うと、親王殿下が慌てて口を閉じる。それを確認すると、来客用のテーブルの端に診察カバンを置かせてもらい、私は親王殿下の診察をした。薬剤の投与に問題がない体調であることを確認すると、私はカバンを開けて薬剤の準備をし始めた。
「ふむ、注射器をお持ちになった瞬間だけ、手がかすかに震えましたが、その後は手際が良かったですね」
シズオカマイシンとオオサカマイシン、2種類の注射を終えた時、親王殿下は私にこう言った。
「注射するところ、見てたんですか……」
「何かのネタになるかと思いましてね」
そう言いながら、親王殿下は着物を直していく。
「栽仁の手術の時も、こうだったのですか?」
「あの時は、手が震えていた時間がもっと長かったです。30秒はあったと思います」
真面目に私が答えると、
「なるほど。相手が皇族である、という思いもさることながら、恋心を抱いていた相手でもあったから、緊張の強さも段違いだった、という訳ですね」
親王殿下はニヤニヤ笑いながら言った。
「大兄さま!」
思わず怒鳴ってしまうと、親王殿下は高らかに笑った。
「もう……私、帰ります。次は来週の月曜日に参りますから」
そう言って、私が診察カバンの取っ手を持とうとすると、
「まぁまぁ、そうつれないことをおっしゃらずに、椅子に掛けてください、増宮さま。色々と話したいこともありますし」
親王殿下はこんなことを言う。椅子と言えば、親王殿下が座っているもの以外には、来客用のテーブルの前に1脚しか置かれていない。しかも、そのテーブルには、半紙やら硯箱やらがセッティングされている。
「ここ、大兄さまが作業なさってたんじゃないんですか?座っていいんですか?」
「ええ、どうぞどうぞ」
「はぁ……」
整然と並べられた文房具を乱さないように注意しながら、私は椅子に座った。実際に筆を使っている訳ではないのに、厳粛な気分になり、自然と背筋が伸びる。
と、
「さて、増宮さま。最近、筆は使っていらっしゃいますか?」
親王殿下がこんな問いを私に投げた。
「ええと……月に2回、山縣さんに和歌の課題を提出する時ぐらいですね……」
仕事の文章はペンか万年筆で書く。日本語でも、横書きの用紙に左から右に書くのが、私にとっては一番楽なのだ。
「ほう。栽仁と手紙をやり取りする時も、筆をお使いにはならないのですか」
「はい。ペンか万年筆で横書きにしています。その方が書きやすいですし、私、筆で書く文字に自信が無いので……」
栽仁殿下は、巻紙に筆で書いた手紙をくれる。普段私が筆で書く時の書体とは違う、“有栖川流”とも呼ばれる独特の書体で書かれた彼の字は、力強いけれど流れるように美しく、そして、どこか優しさを感じさせる。その字を見てしまうと、自分が筆で書いた字を栽仁殿下に見せるのが恥ずかしくて、栽仁殿下への手紙はペンで書いてしまうのだ。
すると、
「月に2回しか筆を使っておられないのであれば、筆で書く文字に自信が無くなるのは当たり前です」
親王殿下がピシャリと言った。
「筆で書いた文字には、書く人の心があらわれるもの。筆の扱いに慣れていなければ、せっかくの美しい心も、上手く文字にあらわれません。増宮さまがご幼少のころから書道を嗜んでいたことは存じておりますが、その練習量も、私に言わせればまだまだ足りません。私も小さいころから、当家に伝わる手本で練習したり、唐や宋の書家の書を写したりして、常に書道に心を寄せていましたが、この年になってようやく、少しは自分の思う通りの字が書けるようになりました。この身は海兵中将を拝命しておりますが、我が有栖川宮家の専門はもともとは和歌と書道……筆で文字を書くことに親しもうとなさらないとは、我が家に嫁する者として、ふさわしくないと言わざるを得ません」
(うっ……)
いつもと違う真面目な態度の親王殿下の言葉を、私は頭を垂れて聞くしかなかった。女医学校に入学するころまでは、学校の授業以外でも書道はやっていたけれど、その後は練習を全くしていない。
(どうしよう。まさか、これで婚約を破棄するなんてことはないだろうけど……)
そう思っていると、
「ですから、ここで書道を練習してください」
威仁親王殿下は私にこう言った。
「はい?」
「ですから、ここで書道を練習してください。そのために、道具をこうしてここにそろえたのですから」
「え」
私はテーブルの上に整然と並べられた文房具を見た。確かに、筆も硯箱も文鎮も、使われた形跡がない。
「ちなみに、この文房具、全て天皇陛下と皇后陛下からの御下賜の品です。“増宮さまに花嫁修業として、我が有栖川宮家の書道を習わせたい”と両陛下にお願いしましたら、“ならば、これらの品を使わせよ”というお言葉とともにいただきました」
「はい?!」
「つまり、ご両親も承知済みということです。これから、いらっしゃるたびに書道をご教授申し上げます」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
私はようやく、抗議の声を上げた。「お父様とお母様が了承したとしても……」
「大山閣下も了承されていますが」
「そうじゃなくて、私が了承してないでしょう!」
微笑する親王殿下を、私は睨みつけた。
「確かに、書道を全然してないのは認めますけれど、こんなだまし討ちみたいなやり方で、練習を強要されるなんて……」
すると、
「栽仁のような字を書きたくはありませんか?」
親王殿下が私の耳元に口を近づけ、囁くように言った。
「栽仁は、親の私から見ても、なかなか良い字を書きます。小さいころから筆を使うのが好きだったからでしょうね。ですから、増宮さまが書道を始めたと言えば、きっと喜ぶと思うのです」
「……!」
「増宮さまが自分に勝るとも劣らぬ美しい字を書けるようになれば、その喜びも一入でしょうね」
「……ほ、本当でしょうか?」
恐る恐る親王殿下に尋ねると、
「ウソをついてどうするのですか。それに、私は栽仁の父親です。増宮さまが御存じない栽仁のことも、たくさん知っておりますから」
彼は少し得意げに答えた。
「……で、増宮さま。書道はいかがなさるのですか?」
……親王殿下が出した話は、おそらく私に承諾の返事をさせるための策だったのだろう。そうだと思うのだけれど、好きな人が喜ぶことをしてみたい、という思いは、そう簡単に消えはしなかった。こうして私は、親王殿下のお屋敷に週2回通い、親王殿下に薬剤を投与した後、花嫁修業の一環として、彼に書道の指南を受けることになったのだった。
※有栖川宮威仁親王殿下は、実際には1909(明治42)年9月から舞子で療養をしています。また、華頂宮博経親王妃郁子さまは、実際には1908(明治41)年11月14日に薨去していますが、改変しています。ご了承ください。




