報告とお見舞い
1908(明治41)年8月2日日曜日、午前10時半。
「……それで、昨日は、帰りのお車の中では、栽仁さんと、ずっと手を繋いでいらしたのね」
皇居でお母様が謁見に使っている部屋。長椅子に腰を下ろしたお母様は、右隣に座った私の身体をしっかりと抱いたまま、私に優しい声で確認した。
「は、はい……」
私は何とか頷いた。今まで、お母様の求めに応じて、昨日の自動車遠乗会での出来事を最初から話していたので、顔はとっくに真っ赤になっているし、自分の脈が速くなっているのも感じられる。
「私……一昨日の夜、全然眠れなかったから、帰りの車の中で、少し眠ろうと思ったんです。だから、“手は繋がないで”って、お願いしたんですけど……」
「栽仁さんが許さなかったのですね」
「はい……」
「何か、理由はおっしゃったの?」
「“午前中、ちっとも喋って下さらなかったから”って……」
私は昨日の帰り道、私の婚約者になった人から言われた言葉を、小さな声で再生した。
――午前中、知らん振りをされてしまって、僕、とても寂しい思いをしましたから。
“これ以上手を握られると、ドキドキし過ぎて気絶してしまいそうだ”と抗議した私の目を、栽仁殿下が澄んだ美しい瞳で真正面から見つめながらこう言った時のことを思い出し、私の身体が再びカアッと熱くなる。その後、車の中で、彼と手を繋ぎながら話をしていただけなのに、胸はドキドキして、身体も頭もフワフワして熱くて、何を話したかまるで覚えていない。けれど、どこか心地良い感じがした。でも、それを他人に話してしまうのは、恥ずかしいし、何だかもったいない気もする。
と、
「増宮さん、とてもお幸せそう」
お母様が微笑を含んだ声で言った。ハッとした私に、
「フリードリヒ殿下に恋されていたころの増宮さんも、お幸せそうでした。けれど、今はその時より、もっとお幸せそう。……当然ですね。あんなに頼もしくてお優しい方が、ひたむきに増宮さんを愛していらっしゃるのですから」
お母様はこう言いながら、私の頭をそっと撫でる。
「はい……彼が小さかった頃のことを思い出すと、本当に、立派な……私にはもったいないくらい、立派な青年になって……」
すると、
「あら、そんなことを言うと、栽仁さんに怒られてしまうかもしれませんよ。増宮さんはお上のご長女として、本当に素晴らしい方なのに、と」
お母様がクスクス笑った。
「……そうかもしれません」
――もしあなたが、千の言葉で自分を罵るのなら、僕は千の、いや万の言葉で、あなたを褒め称えます。だってあなたは、僕のたった一人の愛する女性ですから、梨花さん。
昨日、彼から受け取った言葉が、頭の中に蘇り、私は顔を伏せた。あれはとても熱烈で、真心がしっかりとこもった愛の言葉だった。だからこそ、彼を悲しませないようにしないといけないと思うけれど、私の心の癖は、ついつい自分を貶めてしまう。
「増宮さん」
お母様が私を呼んだ。
「増宮さんは、栽仁さんのこと、愛しておられますか?」
「あ、あい……」
完全に思考回路が焼き切れてしまい、私はまた顔を伏せた。顔もとても熱くなってしまって、熱気で倒れてしまいそうだ。
「どうなさったの、増宮さん?」
「ご、ごめんなさい、お母様……」
私は顔を下に向けたまま、お母様に謝罪する。
「愛するってどういうことなのか、まだよく分からないんです……だ、だって、両想いになったこと、私、初めてだから……」
「そうでしたね。……こちらこそごめんなさい、増宮さん」
戸惑いながらの私の答えに、お母様は軽く頭を下げた。
「では、質問を変えましょう。増宮さんは栽仁さんのこと、どう思っていらっしゃいますか?」
「好きなのは……間違いないです、はい」
また熱くなっていく頭をなだめながら、私はゆっくり答え始めた。
「で、でも、好き、だけじゃなくて、大事にしたいというか、傷付けたくない、というか……どう表現したらいいか、よく分からないですけれど……」
ここまで言って、私は左右に首を振った。
「ごめんなさい、お母様。やっぱり、上手くまとまりません」
「よいのですよ。ご婚約が決まったのも一昨日ですから、お相手をどう思っているのかと問われても、お考えがまとまらないのも無理はありません。けれどね、増宮さん」
お母様はそこで一度、言葉を切った。
「世間には、夫婦の思いが通じ合っていない結婚はたくさんあります。でも、栽仁さんと増宮さんは、お互いを想われて、気持ちが通じ合っています」
「気持ちが、通じ合って……」
また身体の熱が膨れ上がり、口の動きを止めてしまった私に、
「それはとても幸せなことですよ、増宮さん。フリードリヒ殿下も、きっと喜んでいらっしゃると思います」
お母様は優しい声で言った。
「はい……」
10年以上前に一度だけ会った、今生での初恋の人の笑顔が、脳裏にふっと過る。あの時、フリードリヒ殿下は23歳。今の栽仁殿下と近い年齢だった。いつの間にか、私はあの時の彼よりも年上になったけれど、彼の笑顔や、彼との手紙のやり取り、そして彼を喪った悲しみは、一生忘れないだろう。
「フリードリヒ殿下のことは、一生忘れません。だけど……その思い出に、ずっと囚われていたら、フリードリヒ殿下に怒られちゃいます。前に進みなさい、って」
「そうですね。増宮さんの言う通りだと思いますよ。愛した方の幸せを、あの方が願わないはずがありませんもの」
お母様が、また私の頭の上に手を置いた。
「栽仁さんはまだ学生ですから、ご婚儀はまだ先ですけれど、色々と準備は始めなければなりません。私も精一杯お手伝いしますね」
お母様の温かい手が、私の頭を優しく撫でる。その手の温もりを感じていると、心の中に渦巻いていた戸惑いや不安が、少しずつなだめられていくような気がした。
「ありがとうございます、お母様」
お母様の腕の中で、私は心からのお礼を申し上げたのだった。
午前11時45分、東京帝国大学医科大学付属病院。
「山田さん、具合はいかがですか?」
皇居を退出した私は、その足で医科大学付属病院の個室に入院した山田さんを見舞っていた。昨日の夕食後、山田さんが右腕を骨折して入院したという知らせが青山御殿に届けられたので、当直をしていた広瀬さんにお願いして、今日のお見舞いを調整してもらったのだ。
「ありがとうございます、増宮さま」
右腕を三角巾で吊るした山田さんは、袴を付け、羽織の左袖だけに腕を通していた。
「うっかり、ドジを踏んでしまいました。木に登って剪定をしていたら、急に気が遠くなって、下に落ちてしまったのですよ」
「そうだったんですか……。痛みます?」
「ええ、やはり多少は。増宮さまのご婚約ご内定に水を差すようなことをしてしまい、本当に申し訳ありません」
「山田さん、謝らないでください!それより私、気が遠くなった原因の方が心配です。熱中症なのか、脳卒中なのか、それとも別の病気でも隠れているのか……」
昨日は雷が鳴ったけれど、結局雷雨にはならず、それなりに蒸し暑かった。日も照っていたし、熱中症にもなりやすいだろう。けれど、山田さんは高血圧の持病があるから、脳卒中が発症したという可能性もあるし、不整脈で気を失った可能性もあるし……と、頭の中で鑑別診断がぐるぐる回り始めたその時、
「大丈夫ですよ」
突然、大山さんがこう言った。
「そうなの?大山さん、山田さんの担当の先生が、そうおっしゃっていたの?」
大山さんに尋ねると、彼はニコニコしながら、黙って山田さんを見つめている。対する山田さんも、顔にとびっきりの微笑みを浮かべながら大山さんに視線を固定している。交錯する視線の中で、濃密な無言のやり取りが交わされている気がするけれど、この2人が眼で何を語っているのか、私にはさっぱり分からなかった。
「……ええ、診察してくれた先生が、“特に体には異常は見受けられない”とおっしゃっていました」
山田さんがそう言ったのは、彼が大山さんと目で何事かを語り合い始めてから、たっぷり30秒は経ったころだった。
「私には高血圧の持病がありますから、そこは先生も念入りに診てくださったようです」
「あ、それならよかったです……」
私はホッと胸を撫で下ろした。
「ただ、これを機に、内務大臣を辞職しようかと思いまして……」
「え……?」
思わぬ山田さんの言葉に、私は目を丸くした。そんな私に、
「利き手をやられてしまいましたから、大臣の仕事にはどうしても支障が出てしまいます。ですから、骨折が治るまでは休まなくてはいけません」
山田さんは諭すように説明を始めた。
「ただ、来年の9月の頭までには衆議院の選挙がありますから、野党が選挙に勝てば、来年の9月には私は大臣の職を退くことになります。もしそうなれば、内相の職が1年ほどの間に目まぐるしく交代することになりますから、現場が混乱してしまうでしょう」
「私の時代だと、数か月で大臣が代わることも結構あったから、山田さんが休んでる間、次官の平田さんに頑張ってもらって、何か月か後に山田さんが復帰する、っていうのも全然おかしくないと思うんですけれど……」
「そうですね。ただ、大臣の交代は、本来は軽々しく行っていいものではありません。しかも、現在の内閣では、次官による職務代行を含めて、未だに大臣の交代が行われておりません。増宮さまの時代より、大臣交代の意味は重いでしょう」
「……」
反論を潰されてしまい、私は口を閉じるしかなくなった。確かに、山田さんの言う通りなのだ。もっと言えば、前の伊藤内閣では、一度も大臣交代は起こっていない。各大臣が職務に邁進し、管轄する省庁の規律を正しくし、マスコミに攻撃されるような不祥事を起こさなかったということが大きい。それはもちろん、今の内閣でも続いている。
「ですが、余りにも大臣が辞めない、という事態は、一つの弊害を生みだします。それが何か、増宮さまにはお分かりになりますか?」
「うーんと……有能な人材が、大臣になれずに埋もれて終わってしまう可能性もある、ということでしょうか?」
山田さんから突然飛んできた質問に答えると、
「分かりやすく言えばその通りです」
彼はニッコリ笑って頷いた。
この時の流れでの内閣の交代は、“史実”に比べると頻度が減っている。今、総理大臣を担当している井上さんは第5代なのに、“史実”の今頃は、桂さんが13代目の総理大臣として、第2次内閣を組閣していたのだ。しかも、大臣が任期途中に交代することが稀なので、結果として、大臣になれる人の数は減っている。“史実”ではもう内閣総理大臣をやっていた西園寺さんは、文部大臣しかやっていないし、桂さんに至っては、次官はやったことはあるけれど、大臣に就任したことはない。
「今までは、政党人にも官僚にも、大臣の職を担える人材が少なく、我々が大臣を担い、その間に人材を育てるしかありませんでした。その甲斐あって、少しずつ人材が育ってきています。ですから、彼らの実力を見極める場を設けるという意味でも、私は大臣の職を退こうかと思っているのです」
「なるほど、それなら納得しました」
私も首を縦に振った。
(でも、もし山田さんが本当に内務大臣を辞めるとしたら……後任は誰になるのかな?)
今の内務次官は平田東助さんだ。けれど、私の彼に対する印象は、大臣の補佐役としては適任だけれど、業務範囲の広い内務大臣に就任するのは、もう少し経験を積んでからではないか、というものだ。平田さんよりは、今、逓信大臣の尾崎さんの下で働いている逓信次官・曾禰荒助さんの方が適任だと思う。
(……そう言えば、先月の梨花会の時、大隈さんに、“曾禰さんの胃痛が続いているが、どうしたらいいか”って相談されて、“三浦先生と相談して、バリウム検査を受けてもらったらどうですか”って言ったけど、あれ、どうなったんだろう?)
「いかがなさいましたか、梨花さま?」
私の後ろから、先ほど山田さんと視線で妙な交流をしていた我が臣下が問いかけた。
「ああ……山田さんが内務大臣を辞めるとして、後任が誰になるかな、って考えていてね」
隠していてもしょうがない。私が素直に答えると、
「なるほど。梨花さまはどなたが適任と考えられましたか?」
大山さんは更に私に質問した。
「曾禰さんかな、って思ったんだけれど、先月の梨花会で、“三浦先生と相談して、バリウム検査を受けてもらったらどうか”って大隈さん経由で勧めた、その後が気になってね。大山さん、何か聞いてる?」
すると、
「実は、一昨日バリウム検査を受け、胃に腫瘍らしき陰影が認められたとのことです。昨日は色々と騒動でしたから、梨花さまに申し上げる機会がありませんでしたが」
大山さんから、思わぬ答えが返ってきた。
「あら……」
もちろん、内視鏡なんてこの明治時代で開発できないから、腫瘍が良性か悪性かという診断は、開腹手術をして判断するしかない。西郷さんの胃に腫瘍が見つかった時もそうだった。
「ってことは、曾禰さんは、大臣なんてやってる場合じゃないから……」
私は少しだけ考えて、
「桂さんしかいないな。ただ、軍務局長がいきなり大臣になると、階級を飛ばし過ぎだから、最初は井上さんに内務大臣を兼任してもらって、桂さんは内務次官として、内務大臣の業務を実質的に取り仕切るっていうのはどうだろう?」
と大山さんに答えた。
「ただ、問題は、今の内務次官の平田さんの扱いをどうするか。私にはちょっと思いつかなくて……」
すると、
「宮内次官に移動するのはいかがでしょうか」
山田さんが柔らかな口調で私に言った。「増宮さまのご婚儀の準備がございます。常宮さまのご婚約・ご婚儀のことなども、考えていかなければならないでしょう。宮内大臣の業務は相当に忙しくなりますから、山縣さんを補佐する人材が必要です。平田さんはピッタリだと思うのです」
「なるほど。実務の多くは平田さんに任せ、山縣さんには、しっかりと陛下を抑えていただく、と……」
大山さんは納得したように、首を上下に振っている。
「はぁ……それで話が丸く収まるなら、いいんですけれど……」
私が曖昧に山田さんに頷くと、
「おや、梨花さま、余り気のないお答えですね」
我が臣下はすかさずツッコミを入れた。
「ご婚儀のことをダシに使われてしまうのがお嫌ですか?」
「……というよりは、全然実感がわかなくて」
私は軽くため息をついた。「だって、私、結婚できるなんて思っていなかったもの。結婚できるとしても、相手は私に怯えてる竹田宮殿下だから、一生心を開かないで終わるなって思って……」
そこで言葉を切ると、
「思われて……その後にはどのようなお言葉が続くのでしょうか?」
大山さんは私に微笑みを向けた。
「……続かないよ」
「いいえ、続きます」
逃げようとした私の右手を、大山さんが素早くつかんだ。
「天皇皇后両陛下へのお誓いに背いて、“幸せな結婚はできない”と思われていた罰でございます。さぁ、どのようなお言葉が続くのですか?“結婚できるとしても、一生心を開かないで終わるだろうと思っていたが”、というお言葉のその後には?」
大山さんは、じっと私を見つめている。
――おっしゃらなければ、絶対に許しませんよ。おっしゃるまで、あらゆる手段を使わせていただきます。
彼の視線は、私にそう語りかけていた。
(は、恥ずかしい……。言わなきゃ、いけないのか……?)
おねだりするように、大山さんを見つめ返してみたけれど、彼の視線はいささかも揺るがなかった。
「いかがですか、梨花さま?」
「き、気持ちが……」
大山さんの重ねての問いに、私は意を決して口を開いた。
「相手と、気持ちが、通じ合う結婚を、するなんて……お、思って、なかったの!」
語気がコントロールできず、叫ぶようにこう言い終わった私の身体は、一気に熱くなってしまっていた。
「よくおっしゃることができました」
「た……馬鹿!なんでこんなに恥ずかしいことを言わせるのよ、もう……」
「何、ご教育の一環でございますよ。今のままでは、梨花さまは若宮殿下とロクにお話しすることもできませんから」
大山さんは澄ました顔でこう言うと、私の頭を空いている手で撫でた。
「お幸せそうで何よりです」
山田さんが私を見ながらにっこり笑った。「内務大臣の職は退くつもりですが、貴族院議員としては活動を続けます。増宮さまと若宮殿下のご婚儀を見届けられるよう、そして、お2人が新しいご家庭を築かれるご様子を長く拝見できるように、私もしっかり養生いたします」
「わ、分かりました……。あの、山田さん、どうぞお大事にしてくださいね」
最後はどうにか見舞客としての体裁を整えたけれど、臣下の“ご教育”で完全に動揺してしまった私は、頬を真っ赤に染めたまま、大山さんのエスコートで、山田さんの病室を後にしたのだった。
【おまけ・30秒の間に何があったのか】
大山「ほう、“庭木の剪定”ですか……。庭木の剪定に、なぜ双眼鏡が要るのですかねぇ……」
山田「勘弁してください、大山さん……どうしても、気持ちが抑えられなかったのです……」
大山「まぁ、その身に罰が下りましたからいいとして、梨花さまと若宮殿下の逢瀬を覗き見た他の不届き者たち、この俺から一言申し述べなければなりませんねぇ……」
山田「……そ、そうおっしゃる大山どのは、いかがなのですか?」
大山「……」
山田「……」
大山「……」
山田「な、なぜ反応しないのですか!まさか……まさか大山どのも……?!」
大山「直接見ずとも、様子をうかがう手段は、いくらでもございますから。ほらほら、山田さん、早く何かおっしゃらないと、梨花さまが不審がっておられますよ」
山田(くっ……やはり一枚上手!)
※なお、山田さんの利き手がどちらかまでは調べきれませんでした。ご了承ください。




