閑話 1908(明治41)年大暑:史上最大の覗き見
1908(明治41)年8月1日土曜日午後0時13分、東京府谷保村・谷保天満宮の西隣にある2階建ての家。元は豪農の家屋敷と思しきその家の玄関に全速力で駆け込んだのは、深緑色を基調とした迷彩服を着た国軍航空中尉・高野五十六である。
「動かれました!」
中に向かって叫んだ彼に、
「おう、ご苦労だったな」
2階へと続く階段の途中に立ち、腕組みして答えたのは、国軍航空局長・児玉源太郎航空中将だった。
「お前も2階に上がれ、高野。弁当を用意してある」
「弁当はいただきますが、児玉閣下」
高野中尉はため息をつくと、
「俺も、出歯亀のようなことをしないといけないんでしょうか……」
と上官に尋ねた。
すると、
「出歯亀とは人聞きの悪い。増宮さまを見守るという大事な仕事だぞ?!」
児玉中将は目を怒らせながら部下に答える。
「はぁ……」
「高野、お前は増宮さまと有栖川宮の若宮殿下のことが心配ではないのか?」
素っ気ない返事をする高野中尉に、児玉中将は逆に問い返した。
「そりゃ、心配ですよ」
高野中尉はため息をつく。「増宮殿下は優秀な方です。しかし、驚くほど色恋の方面に疎くていらっしゃいます。栽仁王殿下とのご婚約が内定したはいいものの、結婚なさっても、まともな会話すらできずに一生を終えられてしまうかも……」
「だろう!」
児玉中将が、我が意を得たり、とばかりにしきりに頷いた。
「せっかく、増宮さまのお力で、有栖川宮家の断絶が免れたというのに、このままでは増宮さまのために有栖川宮家が断絶してしまうかもしれん!だからこそ、増宮さまが若宮殿下と相対した時にどのような言動を取られるかを確認し、今後のご交流にお役立ていただけるよう、我々から増宮さまに助言しなければならないのだ」
「はぁ……」
(俺は上官に何をやらされているのだろうか。しかも、本来なら訓練中の時間に……)
天満宮そばの梅林に潜むよう命じられ、今上の第4皇女・増宮章子内親王の動きを見張らされていた高野中尉は、上官の言葉に肩を落とした。
「ほらほら、早く2階に上がれ」
「……はい、とりあえず、弁当を食います」
何とか返事をすると、高野中尉は上官の後ろについて階上に向かった。
「おーっ!来たか、小僧!」
2階の20畳余りある広間の奥、谷保天満宮の境内を見下ろせる窓際で、高野中尉に向かって陽気に手を振ったのは、現内閣総理大臣・井上馨だ。
「ささ、こっちに来たまえ!」
その隣で、顔を上気させながら高野中尉を手招きしているのは、初代・第4代と内閣総理大臣を務め、現在枢密院議長である伊藤博文である。その隣でじっと境内を見つめているのは、第2代内閣総理大臣でもあり、前内閣で内務大臣も務めた黒田清隆伯爵だ。その他にも、前大蔵大臣の松方正義、貴族院議員の重鎮として知られる三条実美公爵、与党・立憲改進党党首で文部大臣を務める大隈重信、国軍大臣の西郷従道、野党・立憲自由党総裁で前外務大臣の陸奥宗光、立憲改進党所属の貴族院議員で内務大臣でもある山田顕義、国軍省の大臣官房長と軍務局長を兼務している桂太郎、立憲自由党に所属する貴族院侯爵議員で前文部大臣の西園寺公望、国軍次官の山本権兵衛、大蔵大臣の高橋是清、立憲自由党所属の衆議院議員で前厚生大臣の原敬、現厚生大臣の後藤新平、国軍参謀本部長の斎藤実、農商務次官の牧野伸顕……梨花会のほとんどの面々が顔を揃えた室内の光景は、あたかも内閣がそのまま引っ越してきたかのようであった。
「あ、俺、隅でいいです。弁当を食うので」
大部分の高官たちが窓際に集まる中、物怖じすることなく伊藤枢密院議長に返答した高野中尉は、部屋の壁際に向かう。そこに胡坐をかいていたのは、高橋大蔵大臣・斎藤参謀本部長・牧野農商務次官の3人だった。
「お疲れ様です、高野くん。麦湯を用意してありますから、どうぞ」
「ありがとうございます、高橋閣下」
高橋蔵相から湯飲み茶わんを受け取った高野中尉は、中身の麦湯を一気に飲み干した。
「お弁当もありますよ」
「ありがたく頂戴します、牧野閣下」
牧野農商務次官から弁当の包みを受け取ると、高野中尉は早速箸を動かし始める。あれよあれよという間に、弁当の中身が高野中尉の胃袋に収められていった。
この2階建ての家に、梨花会の面々が集っているのには訳がある。昨日婚約内定が発表されたばかりの章子内親王と有栖川宮家の嗣子・栽仁王が、そろって今日の自動車遠乗会に参加するという情報を手に入れた井上総理大臣と伊藤枢密院議長が、梨花会の面々を緊急招集したのである。その目的はただ一つ、有栖川宮家の当主・威仁親王と章子内親王の住む青山御殿の別当・大山巌伯爵が仕掛けた、栽仁王と章子内親王との逢引を見守ることだった。その目的に合致した家を探し出して借り上げ、弁当を手配し、遠乗会の参加者たちと鉢合わせないように移動や見張りの計画を練り……といった作業を、召集された面々は嬉々として行った――ごく一部の人間を除いて。
「しかし、なぜ俺たちが、増宮殿下と栽仁王殿下の逢瀬を見守らなければならんのだ……」
不機嫌の色を隠さずに斎藤参謀本部長が呟くと、
「斎藤、静かにしろ!増宮さまがお出ましになったぞ!」
井上総理大臣が鋭い注意を飛ばした。
「全くです」
牧野農商務次官が、囁くように斎藤参謀本部長に答えた。「それにまさか、天皇皇后両陛下と、皇太子殿下、さらに皇太子妃殿下まで、この騒ぎに加わられるとは……。私も、だいぶ色々なことを経験したつもりですが、流石に今回ばかりは唖然と致しました」
「おっしゃる通りです。肝を潰さない方がどうかしております」
高橋蔵相も小さな声で言う。そんな彼らの前では、梨花会のほとんどの面々が、ある者は双眼鏡を手にし、またある者は窓の手すりから身を乗り出し、谷保天満宮の境内を凝視している。
「さて、騒動にならなければよいのですがね」
斎藤参謀本部長はこう言うと、自分の湯飲み茶わんに残っていた麦湯を飲み干した。
一方、その頃。
「来たな」
「はい、陛下」
谷保天満宮の拝殿内。扉の内側に、5人の男女が潜んでいる。天皇と皇后、皇太子と皇太子妃、そして第3代内閣総理大臣でもあり、現在は宮内大臣を務めている山縣有朋である。彼らもまた、威仁親王と大山別当が仕掛けた栽仁王と章子内親王との逢瀬を見守るために拝殿に隠れていた。ちなみに山縣宮内大臣は、当初この企てに反対していたが、“婚約内定の情報を新聞記者に漏らした罰だ”と天皇に押し切られ、天満宮の職員に拝殿の貸し出しを願ったり、皇太子夫妻の住む花御殿と連絡を取り合ったりと、天皇の悪戯の片棒を担がされる羽目になった。
「梨花が、俺の気配に気づかないな……」
拝殿に向かって頭を下げた妹を見ながら、皇太子が小さな声で言った。そんな夫に、
「当たり前です、嘉仁さま。章子お姉さま、夕べは眠れていらっしゃらないと思います。お化粧でお顔色が隠せていませんわ」
皇太子妃が囁くように言う。
「きっと、思い悩まれて、眠れなかったのでしょうね。私が昨日、増宮さんと話せていればよかったのですが……」
皇太子妃の後ろで、皇后が眉を曇らせる。昨日、章子内親王から皇居に電話があった時間帯、皇后は慈恵医院の視察に行っており、章子内親王と話すことが出来なかったのだ。
「お静かに。若宮殿下がいらっしゃいましたぞ」
小さな声で一同に注意を促しながら、
(なぜわしは、増宮さまを垣間見るという罪深い行為を……)
山縣宮内大臣は己を叱りつけたい思いでいっぱいだった。しかし、その思いとは裏腹に、拝殿に向かって祈りを捧げる栽仁王と、彼からそっと離れようとする章子内親王に、彼の目は釘付けになってしまっていた。
「ダメ、章子お姉さま、お逃げになっては!」
皇太子妃が両手でハンカチを握りしめながら、首を小さく左右に振る。
「よし、栽仁が梨花の行く手を遮っ……あ、まだ早いぞ、栽仁、手を握るのは。……ああ、梨花が戸惑っているではないか」
軽く舌打ちする皇太子に、
「しかし嘉仁、ああせねば章子が逃げてしまうぞ。お前仕込みの章子の逃げ足、栽仁では追いつけぬ」
天皇が横から指摘する。
「確かにそれは否定できませんが、お父様……」
親子が囁き交わしている間に、右手を掴まれたままの章子内親王は、栽仁王とともに境内の大きなイチョウの木の下に移動する。
「残念だ。栽仁が大典太光世を抜いてくれれば、刀身が拝めたのだが」
「陛下、それは欲張り過ぎです」
山縣宮内大臣は、天皇に容赦なくツッコミを入れた。
ちょうどその時。
「……どうだ、西郷さん、手をつないでおられるか?!」
谷保天満宮西隣の家の窓辺では、双眼鏡で境内を観察する西郷国軍大臣に、伊藤枢密院議長が必死の形相で尋ねていた。
「つないでおられますなぁ」
西郷国軍大臣ののんびりした声で、窓辺に集まっていた面々が色めき立った。
「次は吾輩に双眼鏡を貸して欲しいんである!」
大隈文相が叫べば、
「その次は、野党総裁の僕ですね」
陸奥前外相が、さも当然と言わんばかりに西郷国軍相の隣に立つ。
「こら!総理の俺を差し置くなよ!」
「わしにも見せて欲しいなぁ」
井上総理大臣、三条公爵なども、西郷国軍相に殺到した。
「日本が誇るべき一流の人物たちが、一体何をやっているのでしょうか……」
高野中尉が深いため息をつくと、
「言うな高野、この時の流れではいつものことだ」
斎藤参謀本部長も嘆息する。
「あれ?そう言えば、原さんはどこに?」
キョロキョロとあたりを見回した高橋蔵相に、「あちらですよ」と牧野農商務次官が窓辺を示す。そこには、双眼鏡をのぞく順番を、浮かれたような表情で待っている原前厚生相がいた。
「ああ、やはり堕ちてしまったか」
「原閣下ご自身は、屁理屈を並べ立てて否定されるでしょうね……」
実は“史実”の記憶を持っている原前厚生相の変貌に、斎藤参謀本部長と高野中尉は落胆していた。
一方その頃、
「まぁ……!」
谷保天満宮の拝殿では、皇后が歓喜に満ちた声を上げた。
「何と情熱的な愛の言葉なのでしょうか……!ねぇ、節子さん!」
「はい、とても素敵です!“愛している”、“一生涯そばで守る”……想いを寄せている殿方から、あんなにロマンティックな愛の言葉を告げられるなんて……」
皇太子妃もうっとりと、イチョウの木の下の栽仁王と章子内親王を見つめている。
「確かに、あのくらいハッキリ言うのが正解だな。そうでなければ、梨花は栽仁が想いを寄せていることも分からないだろう」
皇太子が両腕を組んで頷くと、
「その通りだ。まったく、誰に似たのやら……」
天皇がため息をついた。
「陛下ではないのですか?」
「朕はあそこまで鈍感ではないぞ」
山縣宮内大臣から再び発せられた容赦のない言葉に、天皇はムスッとした。
天皇が、山縣宮内大臣の質問に不機嫌になっていた時。
「あれは……あの姿勢の激しい崩され方は、増宮殿下、激しく動揺なさっておられます!」
谷保天満宮の西隣の家の2階では、双眼鏡をのぞく順番が回ってきた後藤厚生相が、視界の中の章子内親王の動きをキャッチしていた。
「何だと?!」
「どういうことだ!」
一斉に自分の周りに群がる梨花会の面々に、
「あれは間違いない、若宮殿下から愛の告白をされ、動揺なさっておられるのでしょう!かつて内務省にあった増宮殿下奉賛会に入っていた我輩には分かる!」
後藤厚生相は力強く断言した。
すると、
「ええい!わたしに双眼鏡を貸しなさい、後藤さん!」
前厚生相の原敬が、かつて自分の下で働いていた次官の手から双眼鏡をひったくり、顔に当てた。
「ダメだ、原閣下、完全に堕ちている。あの人だけは大丈夫だと信じていたのに」
「……数年前から、だいぶ揺らいでいたぞ?」
高野中尉と斎藤参謀本部長は、こそこそと話し合いながら、深い絶望に囚われていた。
その一方、天満宮の拝殿に潜んでいる人々は、興奮状態になっていた。
「言った、言ったぞ!章子が、栽仁を好きになったと言ったぞ!」
「はい、お父様。とうとう、自分の気持ちを栽仁に認めたな、梨花……」
「“諦めなければいけないと思っていた”……美しい思いではありますが、なぜそんなに苦しい恋をなさろうとするのですか、増宮さま……」
男性陣は、自らの恋心をようやく認めることが出来た章子内親王の成長に、感激の涙を流していた。
「章子お姉さま、もっとハッキリおっしゃって!栽仁殿下は真正面からおっしゃっているのだから、お姉さまも真正面から行かないと!」
手に持ったハンカチをもどかしそうに握りしめる皇太子妃を、
「それでも、何とか伝えられたのです、ご自身の本当のお気持ちを……昔の、お小さかった頃のことを思えば、本当にご成長なさいましたよ、増宮さんは……」
皇后は横からそっとなだめた。
「栽仁……本当にいい男になったな、お前は。“千の言葉で自分を罵るなら、万の言葉で褒め称える”とは……。栽仁なら、梨花が己を傷つけようとしても、きっと止めてくれるだろう」
「そうですね、明宮さん。増宮さんの前世のことを知っても怖気づかず、一途な愛を捧げるとは……本当にいい青年に成長しました。あんな頼もしい青年に守られるのであれば、増宮さんはきっと、もっと幸せに……」
その時、拝殿に、雷鳴が低く轟いた。
「!」
次の瞬間、皇后が顔を青ざめさせ、うつむいて身を屈める。
「む、雷か。困ったな」
天皇がサッと皇后のそばに寄り、両肩を後ろから支えた。慈愛深き良妻賢母と称えられる皇后だが、唯一、雷だけは苦手としている。少しでも雷鳴が聞こえると、その場にうずくまってしまうのが常だった。
しかし、西隣の家の窓際にいる人々は、雷鳴に全く気付かず、境内の様子を一心不乱に観察しながら大騒ぎを繰り広げていた。
「そこです、若宮殿下!そのまま、増宮さまをぎゅっと抱きしめて……!」
両方の拳を握り締めて力説する伊藤枢密院議長を、
「いけません、伊藤さん。そんなことをしたら増宮さまが気を失われますよ!」
黒田前内相が慌てて制止する。
「原さん、僕にも双眼鏡を!」
「いいや、私に是非双眼鏡を!」
「こら、俺にもよこせ!」
「大臣の双眼鏡を次官の俺が使えぬというのはおかしい!」
西園寺前文相、桂国軍大臣官房長兼軍務局長、児玉航空局長、山本国軍次官が、双眼鏡をしっかり握ったままの原前厚生相に殺到する。更に他の面々も、境内の様子をよく見ようとして、窓の手すりから大きく身を乗り出した。
その時、
「バキィ」
窓の手すりが、梨花会の面々の体重に耐えきれず、大音響とともに取り付けられていた外壁から外れた。
「「「うわああああああっ!!!」」」
天満宮の境内を熱心に観察していた人々が、一斉に身体のバランスを崩す。ある者はとっさに窓枠にぶら下がり、またある者は地面に身体を叩きつけられた。
「ああ、もう……」
「何をやっているのか……」
高野中尉や斎藤参謀本部長など、部屋の奥にいて無事だった者たちが、落下者の救出に向かったその時、
「まずい、栽仁と梨花がこちらに来る」
拝殿に潜んでいた皇太子は、境内西隣の家の騒ぎを落雷の音と聞き違えた観察対象者が、拝殿に向かって駆けて来るのを見て舌打ちした。
「撤退する方がよさそうだ。梅林にいる義兄上が、拝殿で雨宿りをしようと動き出すかもしれん」
「ですな。では皆さま、拝殿の横手から……」
そう言って立とうとした山縣宮内大臣に、「ええっ」と不満そうな声を浴びせたのは皇太子妃だった。
「山縣閣下、今、とてもいいところですよ。お互いをどう呼ぶか相談しているところなんて、可愛らしいじゃないですか」
「節子、その気持ちは俺も分かるが、俺たちがここにいることが露見すれば厄介だ。それはまた後日、梨花に吐かせればよい」
皇太子が妻をなだめていると、
「む……威仁が来たな……」
境内の状況を素早く見て取った天皇が囁くように言う。
「ええ、最早一刻の猶予もありません。さ、皆さま、横からお逃げを!」
山縣宮内大臣の小さいけれど厳しい声に、皇太子妃が少し残念そうに立ち上がる。天皇も雷鳴に怯える皇后の肩を支えながら立ち上がったその瞬間、拝殿に足を踏み入れる人影があった。国軍機動局長の、長岡外史機動少将である。
「なっ……?!」
驚愕の叫びを上げようとした長岡少将に、
「喋るな」
山縣宮内大臣が鋭い視線を投げる。殺気を帯びた声に、長岡少将の動きが止まった。
「よいか、ここに俺たちがいたことは決して他言するな」
「ここに人が立ち入らぬよう、2、3分でいいから時間を稼げ。その間にわしらは出ていく」
皇太子と山縣宮内大臣が、長岡少将を睨みつける。拝殿の奥から、天皇も長岡少将に刃のような視線を送っている。一気に表情を強張らせた長岡少将は、機械人形のようなぎこちない動きで拝殿から出ていくと、
「ば……ば、ばんざーい!」
境内に向かって、高らかに万歳を唱え始めた。
「増宮殿下のご婚約ご内定、ばんざーい!」
すると、拝殿前の広場に集まり始めていた自動車遠乗会の参加者たちが、長岡の音頭に合わせて万歳を唱和した。
「今のうちですな」
「うむ、さっさと逃げるとしよう」
長岡少将の音頭による熱狂的な万歳三唱を聞きながら、山縣宮内大臣と天皇が頷きあう。そして、遠乗会に参加した皇族たちも、もちろん他の遠乗会参加者も気付かないうちに、潜んでいた天皇一行は拝殿を抜け出し、谷保天満宮から立ち去ったのだった。
有栖川宮威仁親王が主催した日本初の自動車遠乗会の模様は、同行していた数名の新聞記者たちによって新聞記事にされた。当時、人気絶頂だった章子内親王が、婚約者とともに自動車に乗り、遠乗会の参加者たちに祝福を受けた事実は国民に広く知れ渡ることになり、自動車の大きな宣伝材料になった。それは上流階級ばかりでなく、中流階級における自動車の需要も掘り起こすことになり、それに応えるべく、国立産業技術研究所が提案していた流れ作業による自動車の生産方式が本格的に導入され、中流階級でも何とか買える金額の自動車が、日本でも生産されることになる。
しかし、その陰に、自動車遠乗会を見守る、多数の貴人たちの目があったことは、歴史の闇に葬られ、後年公刊された公式資料の一切も沈黙していたのだった。
※出歯亀事件が1908(明治41)年3月に発生しているので、一応こちらの世界線でも発生したことにしました。という訳で、「出歯亀」という言葉が存在していることになります。
※なお、皇后陛下が雷が苦手というのは「女官」(山川三千子、講談社学術文庫)の記述からです。




