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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第46章 1908(明治41)年小満~1908(明治41)年大暑
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困った患者たち

 1908(明治41)年5月25日月曜日午前8時半、東京市麴町区永田町にある内閣総理大臣官邸。

「うまい!うまい!」

 真っ白い軍装を着て畳の上に正座している私の前で、布団の上に座って、お粥を匙でせっせと口に運んでいるのは、現在の内閣総理大臣・井上(いのうえ)(かおる)さんだ。

「あー、良かったよ……俺、増宮さまに嫌われてなくて、本当に良かったよ……」

 お粥を食べながら泣き始めた井上さんの横で、

「良かった、聞多(もんた)。お主が元気になってくれて、わしは本当に、本当に嬉しい……」

枢密院議長で、私の輔導主任を長年務めていた伊藤博文さんが、涙声でこう言っている。

(早く、ここから出たいなぁ)

 泣いている2人を眺めながら、診察カバンの取っ手を握った私は、こっそりため息をついた。

 昨日の午後3時、桂さんが手配した特別列車で、私は名古屋駅を発ち、日付が変わった今日の午前2時に新橋駅に到着した。列車の中で和服を軍装に着替え、服装を整えていた私は、桂さんと一緒に総理大臣官邸に直行し、井上さんの病室に入った。

――閣下、井上閣下、増宮殿下を連れて参りました!

――増宮……さま?

 電灯の下、大仰に頭を下げる桂さんに応じて身体を起こした井上さんの顔は、私が東京を発った数か月前と比べて、明らかにやつれていた。

――本当に、本当に、増宮さまなのか、桂?俺は、増宮さまに嫌われてるんじゃ……。

――嫌いじゃありませんよ、井上さん。

 心の底ではあきれながら井上さんに私が言うと、

――え……?

井上さんは私を穴が開くほど見つめた。

――本当……ですか?

――本当ですよ。ほら、診察しますから、体温計を脇に挟んでください。

 私が診察カバンを開けた瞬間、

――う、うおおおおおおっ!

井上さんが喜びの雄叫びを上げながら、私の両手をつかんだ。

――ありがたい……ありがたいっ!ああ、俺、生きる気力が湧いてきました!そうだ、増宮さまの花嫁姿を見るまでは、俺、死ぬ訳にはいかないんだ!

(それ、私が死ぬまで、井上さんは生きてるっていうことになるんじゃ……)

 心の中でツッコミを入れた私をよそに、井上さんは当直の職員を呼ぶと葛湯を作らせ、それを平らげるとスヤスヤと眠った。そして、今朝目覚めると、

――さぁ、朝だ!飯を食うぞ!

と元気な声で宣言し、私と、見舞いにやって来た伊藤さんの前で、実に美味しそうに朝ご飯を食べ始めたのだった。

「……いやぁ、うまかった。これなら、昼にはカツレツが食えそうだ」

 朝食を全て食べ終えた井上さんは、機嫌よくこう言った。井上さんが寝ている間に私が読んだカルテに書かれていた“気分鬱々として、食思なし”という病状の記述が、まるでウソのようである。

「確かに、診察した感じ、帝国大学の三浦先生が判断したように、“風邪による体力低下に、気鬱が重なったことによる食欲不振”で間違いないです……けれど」

 寝間着を着ていること以外、とても病人とは思えない井上さんを見ながら、私はため息をついた。

「何も、私に嫌われると思い込んで、気鬱にならなくてもいいと思います。井上さんだったら、花街に行けば、心を慰めてくれる(ひと)が何人もいるでしょう?」

 すると、

「分かってないですねぇ、増宮さまは」

井上さんは不満そうな表情になった。

「そりゃあ、他のことで傷ついたんなら、いくらでも気の晴らしようがあります。ですがねぇ、増宮さまが原因で傷ついた心ってのは、増宮さまでしか癒せないんですよ。こっちは有栖川宮(ありすがわのみや)の若宮殿下を救うために、泣く泣く増宮さまにご転勤いただいたのに、増宮さまは俺の手紙に返事を全然下さらない。俺が広島に行こうと思っても、俺は総理大臣だから、簡単に東京を離れる訳にはいかない。そんな時に、陸奥は党の地方大会にかこつけて、悠々と増宮さまに会いに行って……あの時ほど、政権を放り出したいと思ったことはありませんでした」

(放り出すなよ)

 私は頭を抱えたくなった。もし本当に政権交代があの時発生していたら、世界史上最もくだらない理由による政権交代として、歴史に汚点を残していたに違いない。

「しかし、若宮殿下も救われ、北里先生と後藤君のおかげで、増宮さまも予定より早くお戻りになられた。本来は、若宮殿下の件がどういう結末になっても、広島で1年はご勤務いただく予定だったからな。そして、お主の気鬱も晴れた。めでたしめでたしではないか」

 満足そうに頷く伊藤さんに、

「井上さんの病気の事情は、余り広く知られない方がいいと思いますよ」

私は冷静にツッコミを入れた。

「全く……コッホ先生が事情を知ったら、あきれますよ、絶対」

「いや、それは大丈夫でしょう」

 なぜか井上さんが、横からこう請け負う。

「コッホ先生も、増宮さまを愛でる俺たちの同志ですから。な、俊輔(しゅんすけ)

「ええ」

 伊藤さんが穏やかな表情で、首を縦に振った。「ミュンヘンにいる森君が、先日報告してくれましたが……コッホ先生に増宮さまの絵葉書を贈ったところ、その場にいたベーリング先生やレフラー先生、ガフキー先生、エールリヒ先生も、増宮さまの絵葉書を食い入るように見つめていたとか……」

「はぁ?!」

 ベーリング先生は、1901年にノーベル生理学・医学賞を北里先生と一緒に受賞している、この時代では有名な医学者だ。そして、レフラー先生、ガフキー先生、エールリヒ先生も、優秀な医学者として日本でも名が知られている。

(こ、こんなんで……こんなんで、世界の医学は大丈夫なのか?!)

 今後の医学の展望に、強い不安を感じたその時、

「梨花さま、おはようございます」

井上さんの寝室の入り口に、黒いフロックコートを着た大山さんが現れた。昨日、名古屋を発つ直前に、“東京到着は遅くなるから、新橋駅には迎えに来なくていい。明日の朝、総理官邸を辞したその足で参内するから、その時に総理官邸に迎えに来てほしい”と電話で頼んでおいたのだ。

「おはよう、大山さん。ちょうどいい時に迎えに来てくれたわ」

「さようでございましたか。さぁ、皇居に参りましょう」

「了解」

 非常に有能で経験豊富な臣下に頷いて、広げていた診察道具を片付け始めると、

「ああ、増宮さまは参内なさるのですか。陛下に聞多のこと、よろしくお伝えください」

伊藤さんが私に向かって軽く頭を下げた。

「じゃあ、増宮さま、“明日には人を招いて宴会が出来そうです”って陛下に伝えていただけますか」

 不穏な言葉を吐いた井上さんに、

「それはやめてください、井上さん」

「一体何人あの世に送る気ですか……中央情報院の全力をもって阻止します」

私と大山さんは、即座に容赦なくツッコミを入れた。

「だからお主は、たくわんだけ漬けていてくれ……」

 伊藤さんが深い深いため息とともにこう言うと、

「ちっ、……冗談だよ、冗談」

井上さんがとても残念そうな顔で呟く。……この様子だと、また突飛な食材を集めて、自分の快気祝いの宴会をしようとしていたのかもしれない。梨花会の平和のためにも、それは是非やめておいてほしいものである。

「じゃあ、お父様(おもうさま)には、“食事もとれるようになって、冗談を言う元気も出てきた”って伝えておきますね。では井上さん、伊藤さん、ごきげんよう」

 私は井上さんと伊藤さんに丁寧に頭を下げると立ち上がり、大山さんのエスコートで総理大臣官邸を後にした。


 1908(明治41)年5月25日月曜日午前9時半、皇居・表御座所。

「よく戻ってきた、章子」

 頭を垂れた私の前には、黒いフロックコートを着たお父様(おもうさま)がゆったりと座っていた。普段の仕事開始の時間より早いけれど、私が帰京したので、奥から出てきてくれたのだ。

栽仁(たねひと)があの日に虫垂炎を起こすとは思ってもみなかったが、よく役目を果たした。流石朕の子よ」

 私は黙って、深く頭を下げた。広島での勤務は、言いたいことも言えないことも、心の中にたくさん残していったけれど、お父様(おもうさま)は、これから書類を裁可したり、大臣や外国からの使いと面会したりと忙しくなる。話すのは後日、落ち着いてからの方がいいだろう。そう思ったので、私は敢えて口を開かなかった。

「もっとゆるりと話したいが、朕も仕事があるゆえ、手短に済ませる。今後のそなたの勤務のことだ」

「はい、来月の1日から、築地の国軍病院勤務だとは、大山さんから聞いています」

 私が斜め後ろに控えている大山さんをちらっと見やると、

「うん。ただ、コッホ博士がこの東京にいる間は、そなたの仕事は博士の接待が主になる。だから、その時は、病院から博士の元に出張するという形を取ることにしたから、そのつもりでいるように」

お父様(おもうさま)は私に言った。

「ええと……つまり、コッホ先生の接待は、勤務という扱いになるのでしょうか」

「うむ。そなたに接待をしてもらう日が、余りにも多くなりそうだからな。そなたの健康のためにも、その方がよいだろうと大山が進言した」

「城郭を巡られたおかげで消えてなくなっていた梨花さまのストレスが、また強くなっては困りますからね」

「井上さんの病気の件で、またストレスがたまったけどね……」

 大山さんの言葉に、私はため息をつきながら答えた。私の顔を見て食欲が戻ったのは大変結構なことだけれど、自分の快気祝いに自作の料理を出すというとんでもないことは、どうかしないでいただきたい。

「ああ、そう言えば、夜中に新橋に着いたら、まず井上のところに行くと言っていたな。……どうだ、章子、井上の具合は?」

 お父様(おもうさま)の問いに、

「食事もとれるようになって、冗談を言う元気も出てきました。私も改めて診察しましたけれど、三浦先生の“風邪による体力低下に、気鬱が重なったことによる食欲不振”という診断に間違いはないと思います」

ため息をつきながら私は答える。

「それは重畳。井上があのように繊細だとは思わなかったがな。井上に優しくしてやれ、章子」

「……可能な範囲で努めますけれど、自作の料理を他人に振る舞うことだけは、皆の平和のために阻止します」

 お父様(おもうさま)に更にこう言うと、大山さんが後ろでクスクス笑った。

「ところでお父様(おもうさま)お父様(おもうさま)は、私のいない間、病気にかかりませんでしたか?」

「……ああ、今まで、ということだな。安心しろ、風邪1つ引かなかった」

 質問に対するお父様(おもうさま)の反応が、どうもすっきりしたものではない。後ろを振り返り、「本当ね、大山さん?」と我が臣下に確認すると、

「ええ、間違いございませんよ。毎日、侍医たちの診察も受けておられますから……」

大山さんが微笑みながら答える。

「なら、大丈夫ね」

 私が頷くと、

「……章子、そなたは父親を信用しておらんのか?」

お父様(おもうさま)は少し不機嫌そうに言った。

「もちろん、他のことなら、お父様(おもうさま)を疑うことは決してしませんけれど、お父様(おもうさま)は無理をしがちですから心配なんです」

 私は慌てず騒がず、お父様(おもうさま)に言い返した。

「……そこまで心配なら、侍医の診療録も見ればよいだろう。まったく、親を疑いおって……」

「では、後でそうさせてもらいますね、お父様(おもうさま)

「見たいのなら、今行けばよかろう。美子(はるこ)もそなたに早く会いたいと言っていた。あんパンを用意してあるらしいぞ」

「本当ですか」

 お父様(おもうさま)の言葉に、私の気持ちが少し高ぶる。名古屋で小倉トーストが食べられなかった私にとって、あんパンはとても魅力的な食べ物である。

(それなら、お父様(おもうさま)も仕事があるし、お母様(おたたさま)のところに行きがてら、侍医さんたちのところに寄って……)

 そう思った瞬間、表御座所の扉がノックされて、

「失礼いたします。陛下、山縣です」

宮内大臣の山縣さんが表御座所に入ってきた。

「山縣……勝手に入って来るな。今、章子と話をしていたのだ」

 更に不機嫌そうになったお父様(おもうさま)に、

「いえ、これは増宮さまにも聞いていただきたい話でございますから」

山縣さんは平然と返すと、

「陛下、今朝の侍医たちの診察を、受けていらっしゃらないでしょう」

そう言って、お父様(おもうさま)に鋭い視線を投げた。

(!)

「い、いや、……今日は、章子に早く会ってやらなければならなかったからな。診察を受けている暇など無かったのだ、うん」

 慌てて言い訳をするお父様(おもうさま)に、

「なるほど。今日は侍医たちではなく、梨花さまの診察を受けたい、ということですね」

我が臣下が微笑を崩さぬまま追撃を加える。

「そ、そう思っていたのだが……章子、美子に早く会いたいだろう。朕のことはいいから、美子のところに……」

 右手を振って、私を追い払うようなしぐさをするお父様(おもうさま)に、

「そうですね。お父様(おもうさま)の診察をしたら、お母様(おたたさま)のところに参ります」

私は診察カバンを開けながら答えた。

「どうも変だと思いました。あんパンで私を釣ろうったって無駄ですよ、お父様(おもうさま)。まったく、隙さえあれば、医者から逃げようとするんですから」

 聴診器を取り出した私がため息をつくと、

「はい。増宮さまが広島に転勤されてから、月に1度ほどはこのような騒動がございまして……。幸い、わしだけで何とか陛下を抑えることが出来ましたが、もし更に頑強に抵抗なさることがあればどうすればよいかと、悩んでいるところでございました」

山縣さんがそう言いながら、じりじりとお父様(おもうさま)との距離を詰めていく。

 すると、

「いい手がありますよ、山縣さん」

大山さんが穏やかな声で言った。

「皇太子殿下に、迪宮(みちのみや)さまと淳宮(あつのみや)さまと希宮(まれのみや)さまと英宮(ひでのみや)さまを連れてきていただければよろしいのです。まさか、皇孫殿下方の前で、教育の手本にならぬようなことを、天皇陛下がなさるはずがございませんから……」

「大山さんって、本当に恐ろしいことを考えつくのね。でも、そこまでお父様(おもうさま)が抵抗したら、それもやむなし、ってやつよね」

 私と大山さんもお父様(おもうさま)に近づいていくと、

「わ、分かった、章子の診察を受ける、受けるが……なぜ章子も大山も山縣も、そのように烈火のごとく怒るのだ!」

壁際まで追い詰められたお父様(おもうさま)が、ひきつった表情で叫んだ。

「もちろん、玉体がお健やかでなければ、国家そのものにとって大きな痛手となるからでございます。傷は小さいうちに治すのが肝要……ですから、毎日の侍医たちの診察がとても大事なのでございます」

 山縣さんは厳かな声でこう告げると、お父様(おもうさま)の前に立ちふさがった。

「じゃあ、大山さん、山縣さん。今から私、お父様(おもうさま)の診察をするから、逃げようとしたらお父様(おもうさま)を捕まえてちょうだい」

 ……こうして私は、帰京した直後から、困った患者さん2人を立て続けに診察する羽目になったのだった。幸い、2人とも、身体に目立った異常が無かったからよかったけれど。

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