名古屋(2)
半井久之。1900(明治33)年5月、名古屋に生まれる。医師免許を取り、終戦後、地元の名古屋に医院を開設。1983(昭和58)年の夏、83歳の時に、長男の隆之……前世の私の祖父に医院の経営権を譲って第1線を退き、悠々自適の生活を送っていたけれど、1994(平成6)年に胃がんで亡くなった。以上が、前世の曽祖父の、私が知っている経歴である。
私は、前世の曽祖父に会った記憶が無い。前世の私は、1993(平成5)年に生まれたので、物心がつくころには、曽祖父はこの世にいなかった。きちんと彼の顔を見たのは、アルバムに貼られた写真を眺めていた時だ。しかも、曽祖父の若いころの写真は、終戦前に何度もあった名古屋の空襲で燃えて無くなっていたので、私が知っている前世の曽祖父の顔は、50歳代以降のものである。
その、かすかに覚えている前世の曽祖父の面影が、この7、8歳の坊やの中にあるのだろうか。一生懸命私の診察カバンを運んでいる彼の横顔を、じっと見つめてみたけれど、私にはよくわからなかった。
そして、更に分からないのは、この半井君の曽祖父が医者だった、という情報である。前世の私の実家は、曽祖父の久之から、祖父・父・兄と4代続いて医者だけれど、曽祖父より上の世代の先祖にも医者がいたという話を、私は聞いたことが無かった。
(あの子、ひいじーちゃんなのかな?違うのかな?本人に聞いたって、分かるわけがないしなぁ……)
悩んでいると、
「どうしたんですか、先生?」
半井君が、不思議そうな顔をして私を見つめているのに気が付いた。彼は既に人力車に乗り込んでいる。
「ああ、ごめんなさいね。私は普段、東京で仕事をしているから、この辺りだとどの病院が近いか、よくわからなくて」
我に返った私がそう言ってごまかすと、
「なら、愛知病院だ」
車夫さんが横から私に答えた。
「ここから10分もかからないし、救急患者も受け付けてるはずだ」
「大丈夫かのう……そんなに持ち合わせが無いでよぉ……」
お腹を押さえながら呟く患者さんに、
「医学校の付属病院だで、いざとなれば学用患者になればええ。わしの父ちゃんも学用患者になってあの病院に入院して、入院費は殆どかからなんだ。まぁ、学生の診察の稽古に付き合わなならんけど……」
車夫さんがこう言う。そう言えば、愛知県には県立の医学専門学校があると聞いたことがある。愛知病院は、その附属病院なのだろうか。
「じゃあ、そこかのう、車夫さん。行ってもらってええですか?」
どうやら、行先に患者さんも納得したようだ。私が半井君の隣に乗り込むと、俥は勢いよく走り出した。後ろから、千夏さんと東條さんが乗った俥もピッタリついてくる。
車夫さんの言った通り、人力車は10分も走らないうちに病院に到着した。余りにすぐに到着したので、患者さんの体温を測るぐらいのことしかできなかったけれど、患者さんの状況は診療当番の医師に伝え、治療を引き継いでもらった。
「久坊、わしの家に、わしが愛知病院におること、知らせてちょうせんか」
患者さんは治療を受けながら、病院の中をきょろきょろと見回している半井君にこう頼む。
「わかった、おじさん。いったん家に帰る」
頷いた半井君に、「おじさんの家、君の家の近所にあるの?」と確認すると、
「はい、先生」
と半井君はニッコリ笑った。
「そうなると、君を家まで送らないといけないけれど……君、家はどこ?」
「呉服町のあたり」
私の質問に答えを返すと、半井君はまた、病院の中を物珍しそうに眺め始めた。確か、私の時代の名古屋の中心部に、呉服町通りという名前の道があったように思うけれど……。
(そんなところにひいじーちゃんが住んでたって話、聞いたことがないんだよなぁ……)
また悩んでいると、
「お嬢さま、人力車はまた2台捕まえればよろしいですね?」
千夏さんが私の横から声を掛ける。
「あ、ああ、そうね。お願い」
私は千夏さんにこう言うと、半井君に、病院の中にある物や、人の動きなどを、なるべく簡単な言葉で説明し始めた。
すぐに人力車は捕まり、半井君の家がある呉服町に着いたのは、午後1時半ごろだった。
「母さん、戻ったよ」
呉服町の路地を入ったところにある長屋。その一室の戸を開けると、半井君は元気よく奥に向かってあいさつした。
「ああ、久之」
奥の和室では、30歳前後の女性が縫物をしている。作業の手を止めた彼女は、半井君のすぐ後ろに立った私たちの姿に目をとめると、
「久之、後ろにいらっしゃる方たちはどなた?」
と言って、首を傾げた。
「半井君のお母様ですか?はじめまして。私、東京で医者をしております、千種と申します。後ろの2人は、私が雇っている看護師と書生です」
私が皇族だとバレたら、大騒ぎになるだろう。私がとっさに偽名を名乗って女性に頭を下げると、後ろにいた千夏さんと東條さんも、それに合わせて慌てて一礼した。
「まぁ、女医さんなのですね。私は久之の母の、京と申します」
丁寧に礼をした半井君のお母様に、
「実は私、名古屋へは旅行で来たのですが、栄におりましたら、半井君のお連れさまが、急な腹痛で倒れられまして」
私は事情を説明し始めた。
「まぁ、鈴木さんが?!」
「半井君が必死に助けを求めていたのを私たちが見つけまして、お連れさまの手当てを致しました。今、愛知病院で治療を受けています」
「そうですか!それは大変、すぐに鈴木さんの家に知らせないと!久之、お前、鈴木さんの家に行って知らせておいで!」
お母様の慌てた声に、「分かった!」と半井君は返事して、すぐに外へと駆けだしていった。
「あの……千種先生、狭くて散らかっておりますけれど、上がっていかれませんか?」
「じゃあ、お邪魔させていただきます」
軽く一礼すると、私は草履を脱ぎ、部屋の中に上がらせてもらう。多少縫物は散らかっているけれど、部屋はきちんと整理されていて、掃除も行き届いている。
「今、お茶を淹れますので……」
私が畳の上に座るのと入れ替わるようにして、お母様が部屋を出ていく。私に続いて、千夏さんと東條さんも部屋に上がり、私の斜め後ろに正座した。
「お嬢さま」
部屋を観察していた千夏さんが、小さな声で私を呼んだ。
「あちらを……」
そう言いながら千夏さんが指し示した壁際には、小さな机が置いてあり、その上に、高さ15cmくらいの小さな阿弥陀如来の像が載せられていた。その仏像の脇に、位牌が2つ置かれている。1つは先祖代々の霊のものだけれど、もう1つの位牌には、男性の戒名が書かれている。戒名の横に記された日付は“明治36年4月20日”……今から5年前のものだ。
(半井君のおじいさんの位牌……かな?)
そう思っていたら、
「ああ……それは、主人の位牌でして……」
3人分のお茶をお盆に載せて戻ってきたお母様が、私たちの視線の先にあるものを見て寂しそうに言った。
「5年前に、胃潰瘍で亡くなりまして……それからずっと、あの子と2人で暮らしております」
「そうでしたか……」
「昔はこの半井の家も、医師を生業にしていたのだと、亡くなった主人に聞きました。15代前の先祖が、半井家という高名な医家の下で修業を積んで、成績優秀であるがゆえに“半井”の名字を師匠からいただいたのが、この半井の家の始まりだそうでして……」
「それはすごいですね」
東條さんが半井君のお母様の話に、そう言ってしきりに頷いている。
「ですが、ご一新の戦いの時に、あの子の曽祖父が軍医に志願して官軍に従軍して、東北で戦死しまして……。あの子の祖父はその時15、6で、残された家族を養うために、医者になる勉強をやめて働かざるをえなくなったそうです。そこで半井の家業は途絶えてしまったのですが、その話を聞いてからというもの、あの子は“俺は医者になる”と言って……」
お母様がため息をついた時、戸口の方で足音がして、
「まぁ、あなた様でございますか、主人を病院に運んでくださったのは!」
ぽっちゃりした体形の、40歳ぐらいの和装の女性が家に入ってきて、私に向かって頭を下げた。
「あ、はぁ、東京で医師をしております、千種と申します」
私も頭を下げ返すと、
「この家の大家の鈴木の妻でございます。主人を助けていただいて、本当にありがとうございました。先生に、何かお礼をしないと……」
と、ぽっちゃりした女性は言う。
「あー、気になさらないでください。当たり前のことをしただけなので……」
どうやら、私が先ほど病院に運んだのは、この女性の夫……つまり、この家の大家さんであるらしい。別にお礼が欲しくてやったことではないから、お礼の話は断らないといけない、と思っていたら、半井君が私に近づいて来て、
「先生、カバンの中、見ていいですか?」
と、キラキラした目で私を見つめた。
「まぁ、いいけれど……」
私が許可を出した瞬間、半井君はパッとカバンを開け、中から私の聴診器や血圧計を取り出した。
「うわぁ……、これが聴診器で、これが血圧計か……」
血圧計の蓋を開けたり閉めたりしている半井君を見ながら、
(この子……医者になることの意味って、分かっているのかしら?)
私はふと、こんなことを思った。
前世の私は、医者になることを目指していた。でもそれは、今から思えば、自分の頭できちんと考えて出した結論ではなかった。両親も医者、祖父も医者、2人いる兄も医学部を目指しているという環境に流されて、いつの間にか、自分自身も医者になるのだと信じ込んでいたように思う。
そして、半井君も、自分が生まれた家が、昔、医師を家業にしていたから……ただそれだけの理由で、医師になろうとしているのではないだろうか。血圧計をいじくり回す彼を見ていると、彼は前世の私と同じような過程を経て、医者になりたいと思うようになったのではないか、そう思えてならなかった。
(まぁ、まだ子供だから、そこまで考えられないよね……)
「ふふふ、やっぱり、久坊は、お医者さんになりたいのねぇ。小学校でも成績がいいし、お京さん、久坊の夢を応援してあげたらどう?」
私が考えにふけっている間にも血圧計をいじっている半井君を見て、大家さんの奥さんが半井君のお母様に提案する。
「そりゃあ、私も、できればそうしてもらいたいとは思うけれど、中学に行かせるお金はないですし……」
お母様は、血圧計に手を伸ばした半井君を見て、また両肩を落とす。
(ああ、そっちの事情もあるのか……)
今、医者になるためには3つの方法がある。帝国大学の医科大学を卒業する。高等学校の医学部を卒業する。そして、かつての私のように、医術開業試験に合格する。その3つだ。
このうち、帝国大学医科大学と高等学校の医学部卒業に関しては、中学校を卒業することが必須になる。けれど、この時代、中学校での教育は義務教育ではないので、かなりの学費が掛かる。医術開業試験をパスする方法は、極端に言えば、中学校や高等学校に行かなくても医師になれるけれど、最低でも中学校卒業程度の学力は必要になるので、東京女医学校や済生学舎のような学校に通う必要が出て来る。どのルートを選んでも、医師になるためには、それなりにお金がかかってしまうのだ。
(ひいじーちゃんと同じ名前を持っている縁もあるから、どうにか助けてあげたいけれど、この子が本当に医者になりたいと思っているのかも分からないし、通りすがった私が、学費をいきなり出すのもおかしいしなぁ……)
無邪気に診察道具をいじっている半井君を見ながら悩み続けていたら、突然、入り口の扉が乱暴に開けられる音がした。
(え?!)
とっさに身構えた私の耳に届いたのは、
「見つけましたぞ、増宮殿下!」
国軍の大臣官房長と軍務局長を兼務している歩兵中将・桂太郎さんの、数ヶ月ぶりに聞く大きな声だった。
「桂さん、どうしてここに……」
長屋の土間に息を切らしながら立っている、軍服を着た桂さんを見ながら尋ねると、
「それは、名古屋はこの桂にとって、庭のようなものでございますから!」
彼は少し胸を張った。……そう言えば、桂さんは私と出会った時には、この名古屋に勤務していたのだ。
「それより増宮殿下、直ちにご帰京を願います。一大事が出来いたしました」
「一大事?まさか、兄上かお父様が倒れたの?!」
腰を浮かせかけた私に、
「ご安心ください、天皇陛下も皇太子殿下も、お健やかであらせられます」
桂さんはこう答えてから、
「しかし、井上閣下がご体調を悪くしてしまい、食が細っておられるのです……」
うつむきながら私に告げた。
「申し上げるのは大変恐れ多いことではありますが、事ここに至ったのは、殿下のお言葉があったゆえ、でございます」
「ちょっと待ってください!一体どういうことですか?!」
私のせいだ、とは心外だ。私は旅行に出てから、井上さんとは一度も話していないし、手紙のやり取りもしていない。
(変な言いがかりをつけないでほしいんだけど……!)
そう思っていると、
「殿下が休暇をお取りになるとお電話なさって以来、井上閣下はお心を痛められているのですぞ!無論、我々もですが……」
思わぬ答えが桂さんから返ってきた。
「はぁ?!」
「殿下が我々のことを、“休暇を出さなければ嫌いになる”と仰せられて以来、廟堂から活気は消え、落胆のため息が内閣を覆い……特に、殿下のお電話を直接受けられた井上閣下は、“俺は増宮さまに嫌われた”と落胆すること甚だしく、先週風邪に掛かったのを切っ掛けに食欲が落ち、“増宮さまのお顔を見なければ食べる気がしない”と言っておられるのです!それゆえ、急遽私が名古屋に派遣され、増宮殿下を連れ戻すという大役を……」
「何でそうなるのよ……」
桂さんの答えに、私は頭を抱えた。
「維新以来の傑物揃いのあなた達が、そんなだらしないことでどうするんですか!たかが内親王1人の言動に一喜一憂して、恥ずかしいと思わないんですか?!」
すると、
「たかが1人の内親王……ですと?!」
桂さんがキッと私を睨みつけた。
「これは異なことを仰せられる。“極東の名花”とも称えられるそのご美貌、僅か19歳で難関の医術開業試験に合格なさった明晰なご頭脳、そして、我が国初の女性軍人となられて軍務に従事され、無礼者のロシアと戦われたそのご胆力。どれをとっても素晴らしいお方であらせられます。そのような方を崇め奉るは、我々にとって実に自然なこと!」
「不自然極まりないですよ!後世の歴史家が知ったら呆れ返ります!」
何故かドヤ顔で言い放った桂さんに私がツッコミを入れた時、
「あの……殿下も桂閣下も、落ち着いてください」
東條さんが恐る恐る、私と桂さんに呼び掛けた。
「ん?」
「あの……その……周りの皆さまが……」
周りを見渡すと、私の診察道具をいじっていた半井君が、畳に顔を擦り付けるように平伏していた。お母様も、大家さんの奥様も、身体を小刻みに震わせながら頭を下げている。
(あっちゃぁ……)
やってしまった。桂さんの登場に驚いた余り、情報を秘匿することが、私の頭から完全に抜けてしまっていた。
「ごっ……ご無礼を致しました!宮さまとは露知らず……どうかお許しを!」
「ま、まさか宮様に、主人を助けていただいたとは……お礼の申し上げようもございません!」
引きつった声で叫ぶお母様と大家さんの奥様に、
「いえ、こちらこそ申し訳ありません。驚かせたくなかったので、偽名を名乗っていたんですけれど……」
私は丁寧に礼を返した。こうなるのが嫌だから、身分を隠していたのに、隠し通せなかった私は詰めが甘い。
「千夏さん、東條さん、私達がさっき助けたこの方の旦那さんの治療費、全額私が負担しますから、それで手配してください。何かのご縁ですから」
私は軽くため息をつくと、付き添いの2人にこうお願いした。
「ひっ……!あ、ありがとうございます!」
大家さんの奥様がまた頭を下げた横で、
「ほら、久之!宮さまにご無礼を謝りなさい!」
お母様が半井君に注意している。
「……謝らなくていいよ、半井君。知らなかったんだし、私も隠したかったんだから」
そう言いながら、私は半井君に向き直った。
「ところで君、何で医者になりたいの?」
なるべく驚かせないように、優しい声で尋ねると、
「ひ、ひいじいちゃんが、医者だったから……」
と半井君は答えた。
「それだけ?」
「……へ?」
「それだけじゃダメだな。医者になるのは大変だし、なってからも大変だ。ご先祖様と同じようになりたいという、たったそれだけの理由で医者になったら、君は不幸になるよ」
「……」
頭を上げた半井君の瞳を見つめながら、私は言い聞かせるように言った。
「だから、医者になりたい理由が他に見つかったら、心から人を助けたいと思えるようになったら、青山御殿に来てちょうだい。そうしたら、どうやったら医者になれるか、私と一緒に考えよう」
「宮さまのお住まいに……行ってもいいの?」
「もちろん、だって……」
“君は前世の曽祖父だから”という言葉を、私は慌てて飲み込んだ。そんな理由を言っても誰も信じないし、そもそも、目の前にいる半井君は、前世の私の曽祖父本人ではないのだ。曽祖父より前の半井家の先祖が医者だったという話は、全く聞いたことがない。それだけでも、彼が前世の私の曽祖父でないことは明らかだ。
「……だって、半井君と、こうして縁が出来たんだからね。千夏さん、矢立と紙を出してもらっていい?」
「はいです」
千夏さんが持っていたカバンから矢立と巻紙を出してくれる。万年筆に洋紙でもいいのだけれど、青山御殿の皇宮警察に見せるものだから、カッコをつけて墨を使う方がいいだろう。“この手紙を持っているのは半井久之といって、私が名古屋で知り合った者です。この手紙を持ち、「医者になりたい」と言って半井君が青山御殿にやって来たら、私に取り次ぐように”と、余り上手くない文字で書いて署名を加え、千夏さんに切り取ってもらった。
「はい、じゃあ、これを渡しておこう。青山御殿に来たら、この紙を門番さんに渡すんだよ」
そして、中央情報院の職員さんに、彼を見守っていてもらおう。彼が心から人を助けたいと思うようになって、幼いころに抱いた初志を貫徹して医師を目指すのか、それとも別の道に進むのかどうか。彼がどんな道に進んでも、幸せになれるなら、私はそれで構わない。
(私はどうせ、結婚しないんだ。子供を持つ機会は無い。だけど、縁のあった子供の成長を見守って、その子の幸せを願うことぐらいは……やっても、罰は当たらないよね?)
「じゃあ、東京に帰りますか。それでは皆さま、ごきげんよう」
私は立ち上がって草履を履き、再び丁寧にお辞儀をすると、桂さんと千夏さん、東條さんを従えて半井家から立ち去った。
思えばこれが、私と半井家との、不思議な縁の始まりだった――。
※名古屋弁は適当です。これでこの時代の言葉遣いなのかは全く考察しておりません。ご了承ください。




