表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第46章 1908(明治41)年小満~1908(明治41)年大暑
356/799

名古屋(1)

 1908(明治41)年5月24日日曜日午前11時30分、名古屋市南区にある熱田神宮の鳥居前。

「ふー、ようやく、熱田神宮にお参り出来たわ」

 白地に水色の小さな花を散らした着物に青い帯を締めた私は、鳥居から熱田神宮の境内の外に出ると、軽く伸びをした。もちろん顔には伊達メガネも掛け、微行(おしのび)用の変装もバッチリである。

「宮……じゃない、お嬢さま、お行儀が少し悪いですよ」

 隣を歩く、同じく着物姿の千夏さんが、小声で私に注意を飛ばす。

「ああ、ごめんね、千夏さん。ここに参拝したいという望みが叶ったから、つい」

 私は慌てて両腕を下ろすと、千夏さんに微笑を向け、軽く頭を下げた。

お父様(おもうさま)も兄上も、参拝したことがあるって言ってたからね」

 それだけではない。私も前世でお参りしたことがある。お正月には熱田神宮に参拝すると、家族の中で何となく決まっていたのだ。だから、今生でも機会があれば、熱田神宮にはお参りしたかった。

「今回の休暇で、色々なお城を見て回れたお礼を神様に申し上げたわ。それで、“これからも、もっとたくさんのお城が見られますように”ってお願いしたの」

 こう千夏さんに言うと、

「勘弁していただけませんか……」

私の診察カバンを持ち、背広服を着ている東條さんが、私の後ろで大きく肩を落とした。

「この1か月で、殿下の道楽に嫌というほど付き合わされたこちらとしては、そのお願いは叶ってほしくないと……」

 東條さんが呟いた瞬間、振り向いた千夏さんが彼を睨みつける。途端に、東條さんの顔が強張った。

「東條君。これは、宮さまのお心を癒す大事な旅行なのですよ?それを単なる道楽と片付けられては困ります」

 千夏さんの尖った声に、東條さんが無言で首を何度も縦に振った。

――勝手な都合で私をさんざん振り回して……もう、やってらんないです!私、5月の末まで休暇を取ります!じゃないと、私、梨花会のみんなのこと、嫌いになりますから!

 先月26日の夕方、内閣総理大臣の井上さんに電話して、5月末までの休暇をもぎ取った私は、中国・近畿・中部地方にある、古くからの天守閣が残っているお城を見学して回っていた。交通機関の発展度合いと休暇の日数とを考えると、当初希望していた半分ほどのお城しか巡れなかったけれど、私の時代には古くからの天守閣が残っていなかった福山城・岡山城・和歌山城・大垣城が見学できたのは、私にとってはとても嬉しい出来事だった。前世では絶対に見られなかったものを目の当たりに出来た私は、感動で涙を流してしまったのだけれど……。

 そんな素晴らしい、夢のような旅を続け、一昨日の夜、名古屋に到着した。昨日は名古屋離宮……私の時代で言う名古屋城を見学したけれど、今日は微行(おしのび)で名古屋の街に出ることにした。前世の私が生まれ育った名古屋の街が、今はどうなっているのか、この目で確かめようと思ったのだ。

 熱田神宮の近くまで敷設された路面電車に、千夏さんと東條さんと一緒に乗り込み、終着駅の(さかえ)に向かう。もちろん路面電車なんて、私の生まれた頃には名古屋の街から消えていた。終点で路面電車を降りると、東條さんがお昼ご飯を食べる予定のお店に案内してくれる。昨日、“栄でみそ煮込みうどんを食べたいから、お店を探しておいて”と東條さんに頼んでおいたのだ。

「ええと、離宮の職員が教えてくれたのは、この店なのですが……」

 そう言いながら、“うどん・きしめん”と書かれた看板を掲げたお店の前に立った東條さんは、私を不安げに見つめた。

「あの、でん……じゃない、お嬢様、本当にこの店で昼食になさるのですか?」

「本当ですよ?」

 軽い調子で東條さんに答えると、

「その……離宮の職員たちも驚いていたのですが、お嬢様のようなお方が、格の高い料亭ではなく、このような庶民的な店でお食事をとられるのは、いかがなものかと……」

東條さんは苦悩に満ちた表情で私に進言した。

「別にいいじゃないですか。いかがわしいことをしているお店じゃないんでしょ?」

「はい、それは、千夏も確認しましたが……」

 不満そうな表情になった千夏さんに、

「だったら、さっさと入りましょう」

私はニッコリ笑いかけると、さっとうどん屋の暖簾をくぐる。ちょうどお昼時だからか、かつおだしと味噌のいい匂いが充満した店内は、かなり混みあっていた。

「味噌煮込みうどんと、ご飯を一膳」

 注文を取りに来た店員さんに私がこう告げると、私の向かいに座った千夏さんの顔が強張った。

「あ、あの、お嬢さま?」

「ん、どうしたの?」

 首を傾げた私に、

「お嬢さま、お嬢さまは常々、2種類以上の主食を同時に食べると、太りやすくなってしまうからよくないとおっしゃっておられますが……米飯もうどんも主食でございます。このご注文のなさりようは、いかがなものでしょうか?」

千夏さんは強張った表情を崩さないまま、こう尋ねた。

「そう言われてもねぇ……」

 前世で味噌煮込みうどんを食べる時、必ずご飯も一緒に食べていた私はキョトンとした。

「味噌煮込みうどんを食べる時は、必ずご飯も付けるものだって教わったけれど……」

 すると、

「いけません!」

千夏さんが私をものすごい顔で睨みつけた。

「お嬢さまの容姿が崩れてしまいます!ですからどうぞ、ご飯の注文は取り消してくださいませ!」

「えー……」

 不満げに千夏さんを見つめてみたけれど、千夏さんの視線の鋭さは、緩む気配が一向になかった。

「しょうがないなぁ……すみません、ご飯は取り消します。味噌煮込みうどんだけで」

「かしこまりました」

 私と千夏さんのやり取りの一部始終を聞いていた店員さんが、クスクス笑いながら私の注文変更に応じた。

「……一体どこで、“うどんにご飯を付ける”という悪習を教わったのですか」

 注文を取り終わった店員さんが去っていくと、千夏さんは小声で私に問いただす。

「え、ええと……“日進”に乗っていた時に、乗り合わせた名古屋出身の海兵士官さんから」

 まさか、私の前世の知識からとは言えないので、とっさにこう誤魔化すと、

「では、“小倉トースト”という食べものも、その海兵士官どのから教わったのですね」

東條さんが納得したように頷いた。「バターを塗ったトーストの上に、あんこを載せた食べ物があるとは、にわかには信じられなかったですし、離宮の職員たちも、“そんな食べ物があるとは聞いたことがない”と言っていましたから、どうもおかしいと思ったのですが」

「……そ、そうですね。もしかしたら、そのトーストは、士官さんが個人的にやっていた食べ方だったのかもしれないですね」

(違う……前世の名古屋じゃ、普通にある食べ物だったんだよ……)

 東條さんに答えながら、私は内心、とてもがっかりしていた。あんこを使った食べ物は、前世でも今生でも大好きだ。中でも小倉トーストは、前世の私の大好物だったのだけれど、東條さんにいくら探してもらっても、この名古屋で小倉トーストを出す店を見つけることが出来なかったのである。

(前世で、“戦前には小倉トーストがあった”って聞いたことがあったから、もうあるだろうと思ったのにさ……目論見が外れたなぁ……)

 そう考えていると、味噌煮込みうどんが運ばれてきたので、箸を取って麺を取り皿に移した。本場のみそ煮込みうどんは、やはりとても美味しかった。美味しかったのだけれど、味噌とかつおだしの濃厚な風味でいっぱいになった口は、白いご飯を求めてやまなかった。

(くそっ、やっぱりご飯が無いと、味噌煮込みうどんをしっかり食べたって気がしない……)

「千夏さん、やっぱりまだ食べ足りないから、あなたのきしめん、少しもらっていいかしら?」

 お腹が少し物足りないので、乳母子にお願いしてみたけれど、

「ダメです」

彼女はきしめんの器を身体全体で覆い隠すようにして私から守ったので、断念せざるを得なかった。

(こうなったら、青山御殿の厨房を借りて、自分で味噌煮込みうどんと小倉トーストを作るしかないなぁ……。小倉トーストはあんこさえあれば何とかなりそうだけれど、味噌煮込みうどんは麺を打つところから始めないといけないから、なかなか出来ないかもしれない。それに、千夏さんや東條さんが妨害しそうだから、それをどうするか考えないと……)

 そんなことを必死に考えているうちに、東條さんも千夏さんもきしめんを食べ終えたので、私たちはお勘定を済ませてうどん屋を後にした。

(待ってなさい、味噌煮込みうどん、小倉トースト……いつか、いつか必ず、堪能しつくしてあげるわ!)

 遠くなっていく暖簾をちらっと振り返りながら、私は心の底で誓ったのだった。


「さて、お嬢さま、この後はどうなさいますか?」

 名古屋離宮のそばまで通じている大津通に出たところで、千夏さんが私に尋ねた。ここから名古屋離宮までは1kmほどだ。のんびり歩けば30分ほどで離宮に戻ってしまうけれど……。

「そうねぇ、折角だから、この辺を散歩してみたいなぁ」

 私がそう言った瞬間、

「誰か!誰か助けてちょう!」

子供の大声が聞こえた。

(?!)

 私は周囲を見回した。通りの向こう側、大きな呉服屋さんの前で、羽織を着た太った男性がうずくまっている。そのそばで、7、8歳ぐらいの男の子が「誰か助けてちょう!」と必死に叫んでいる。その叫びに応じてか、通行人も彼らの周りに集まり始めていた。

「ねぇ、あれ、様子を見に行ってもらっていいかな?」

 千夏さんと東條さんにお願いすると、

「俺が行ってきます」

と東條さんが小走りに駆けていく。すると、叫んでいた男の子が東條さんを見て、

「お(みゃあ)さんはお医者さん?助けてちょう!」

とよく通る声で言った。

(ああ、あの子、訛ってるなぁ)

 恐らく、東條さんが私の診察カバンを持っていたから、男の子は東條さんのことを医者だと思ったのだろう。前世で名古屋弁を聞く機会が多かった私は、すぐに言葉の意味が分かったけれど、

「へ?」

東條さんは、男の子の質問に全く反応できていない。とにかく、医者が必要な事態であることは確かなので、私は千夏さんを促して、一緒に東條さんのそばに走っていった。

「坊や、この人はお医者さんじゃないよ。お医者さんは私だよ」

 東條さんの隣に走ってきた私が、着物を着た男の子に声を掛けると、

「へ?お姉さんがお医者さん?」

男の子は目を丸くした。

「そうだよ。このお兄さんは私の書生さん。……で、どうしたの?何があったの?」

 男の子にこう尋ねると、

「おじさんが、急に倒れてまった!」

やはり男の子は、訛りの強い口調で私に答えた。

「これ、久坊(ひさぼう)!」

右の胸の下を押さえながらうずくまっている太った男性が、苦悶の表情を浮かべながらも男の子を叱った。

「お医者さんには、学校で習う話し方をせなあかんぞ」

「えー……」

 男の子は不満そうだったけれど、「……おじさんが、急に倒れてしまったんです」と渋々私に言い直した。

「……いつから、どんな風に症状が起きましたか?」

 私は男性のそばにかがみこみながら尋ねた。

「ひ……久坊と一緒に昼飯を食って、しばらくしたら、右の腹の上の方が痛くなって……」

 太った男性は、脂汗をかきながら私に答えた。「前にも同じことがあって、その時はすぐに治ったんだが……」

「なるほど……」

(胆石の発作か、胆嚢炎かな……)

 男性が手で押さえている場所を考えると、その可能性が高いと思う。けれど、他の病気でも同じような場所に痛みが出ることがあるから、決めつけるのはまだ早い。

「どちらにしろ、病院で治療を受ける方がいいですね。……東條さん、人力車を捕まえてきてください。あ、カバンは置いていってね」

「かしこまりました」

 東條さんはカバンをかがみこんだ私のそばに置くと、流しの人力車を捕まえるべく走り去っていった。

「さて……」

 カバンを開いて、診察道具を取り出そうとすると、

「ああ!聴診器だ!」

男の子が興奮したように叫んだ。

「よく知ってるわね」

 今は男性のことに集中したい。耳管の先を耳の穴に入れながら素っ気なく男の子に答えると、

「小学校の先生が教えてくれた!お医者さんはみんな、聴診器を持ってるって!」

彼は嬉しそうにこんなことを言う。

「申し訳ありません。……この子、ひい爺さんが医者だったそうで、将来医者になりたいと、日ごろから言ってるんです」

 患者さんが苦悶の表情を浮かべながらも、男の子のことを説明してくれている間に、東條さんが捕まえた流しの人力車が2台、私たちのそばに停まった。

「じゃあ、私と患者さんが1台目に乗って、千夏さんと東條さんが2台目に……」

 私がそう指示したその時、

「行きたい!」

男の子が私の着物の袖を引っ張りながら大声で言った。

「ええ?」

「行きたい!僕もお医者さんのお手伝いがしたい!」

「何を言っている、久坊は!」

 患者さんが怒鳴って、「あいてて……」と右の上腹部を押さえた。

「久坊、家に帰りなさい」

「嫌だ!お母さんの仕事の邪魔になるもん!」

「お医者のお姉さんも、困っているだろう」

「せっかく、お医者さんの仕事を見られる機会なのに、帰りたくない!」

 男の子は患者さんに向かって駄々をこね続けている。私としては、さっさと患者さんを病院に連れていきたいのだけれど、彼は男の子にてこずって、人力車へと動いてくれる気配がない。

(んー……もう、しょうがないか……)

「ねぇ、君」

 少し考えた私は、男の子に声を掛けた。

「名前はなんていうの?」

 すると、

半井(なからい)……半井久之(ひさゆき)……。“ひさゆき”は、久しいという字に、“之”と書きます」

急に私に声を掛けられてビックリしたのか、男の子は目をまん丸くして私を見た。

(半井久之……、どっかで聞いたような……)

「じゃあ半井君、私のカバンを持って、患者さんと私と一緒に人力車に乗って、病院までついて来てちょうだい」

 頭の中で引っかかったことはとりあえず脇に置いておいて、半井君にこう言うと、「はい、わかりました」と彼は素直に返事した。

「よろしいんですか、先生……あいててて……」

 お腹を押さえながら尋ねた患者さんに、

「大丈夫ですよ、このぐらいは。私も半井君と同じくらいの甥っ子がいるので、子供の扱いには慣れてます」

私は笑顔を向け、「さ、乗ってください」と患者さんを促した。ゆっくりと彼が人力車に乗り込んだのを確認すると、

「半井君、一緒に人力車に乗るよ。私のカバンを持って。割れ物も入っているから気を付けて扱ってね」

そう言いながら、半井君に診察カバンを差し出した。

「はい、先生」

 半井久之君は、私の言葉に素直に頷くと、私の手から慎重に診察カバンを受け取る。それなりの重さはあるカバンを、彼は両手で取っ手をつかみ、ゆっくりと人力車に歩いていく。

(やっぱ、聞いたことあるよな、半井久之……久之……)

 半井君の後姿を見ながら、私は記憶を再び探り始めた。私の前世の名字が“半井”だから、どうも彼の名前に聞き覚えがある。名前に“之”という字が使われているのも、前世の祖父や父、兄と一致する特徴だ。

(って言っても、じーちゃんの名前は隆之(たかゆき)だし、パパは政之(まさゆき)、兄貴は通之(みちゆき)敏之(としゆき)だから、あの子と名前は違うし、そもそも、じーちゃん、まだ生まれてないよな……)

 そこまで記憶をたどって、私はある可能性に思い至った。今の迪宮(みちのみや)さまと同じ年恰好ならば、前世の私が生まれた1993年まで生きていれば、90歳前後になっているはずだ。それに、“久之”という名前は……。

(まさか……あの子、前世の私のひいじーちゃんなのか?!)

「よいしょ、よいしょ」

 決して軽くはない診察カバンを一生懸命人力車に運ぶ、私の前世の曽祖父と同じ名を持つ少年を、私は呆然と見つめたのだった。

※小倉トーストが名古屋で生まれたのは、大正時代と言われています。(ウィキペディアより)


※なお、名古屋弁は適当です。もちろん、文法変遷などの考察なども出来ませんでした。ご了承ください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ