快気祝い
1908(明治41)年4月26日日曜日午後2時30分、広島県江田島にある海兵士官学校。
「おいでいただいてありがとうございます、姉宮さま」
士官学校構内にある有栖川宮家の別邸、その応接間に私はいた。私の前に正座しているのは、紺色の詰襟の制服を着た有栖川宮家の嫡子、栽仁王殿下だ。普段、士官学校の生徒館で寄宿舎生活を送っている彼だけれど、日曜日の日中はこの別邸で自由時間を過ごしていた。
「こちらこそ、突然押しかけてごめんなさい」
真っ白い軍装の私は、診察カバンの取っ手を右手で持ち直して一礼する。左側には普段使っている会津兼定さんの打った軍刀と一緒に、刀袋に入れた軍刀を置いていた。
「栽仁殿下に話さないといけないことがあってね。だから“会いたい”って手紙を書かせてもらったの。ごめんなさい、迷惑をかけてしまって」
この手紙を書くのは本当に大変だった。“急に転勤することになったから、4月の最後の日曜に、江田島の有栖川宮家の別邸で会いたい”という内容の、たった2、3行の文章なのに、仕上げるのに3日ほど掛かってしまったのだ。何日かして、“承知致しました。4月26日の午後2時半にお待ちしております。士官学校の構内に入られるのに必要な手続きはこちらで済ませておきます”という返事が届いたので、私は今日、千夏さんだけを連れて江田島を訪れた。
ちなみに、千夏さんは、別邸の玄関で待っている。一緒に栽仁殿下に会って欲しかったのに、
――宮さまは軍人なのですから、このような時は、お一人で対応していただかなければなりません!
……という妙な理屈で、同行を拒否されてしまった。
(ああ……上手いこと、用件を済ませられるかなぁ……)
ここに来るまでの出来事を思い返しながら、不安に思っていると、
「姉宮さま、気になさらないでください」
栽仁殿下は微笑した。まともに顔を見てしまうと、そこから目が離せなくなってしまいそうなので、私は慌てて栽仁殿下から視線を逸らした。
「でも、あなたのことを、棒倒しの時に怒鳴ってしまったから……その、私が恐くて、本当は会いたくない、と思っているかなって……」
「そんなことはありません。悪いのは、姉宮さまの言い付けを守らなかった僕です。それなのに、姉宮さまは広島に戻られる船の上から、僕に謝って下さって……」
そう言った栽仁殿下は、
「あの時は姉宮さまを心配させてしまい、大変申し訳ありませんでした」
私に向かって頭を下げた。
(医者として、患者にやっちゃいけないことをしたの、私なんだけどなぁ……)
思ってもいなかった栽仁殿下の言葉に、調子が狂ってしまう。ため息をつきそうになったその時、頭を上げた栽仁殿下の視線と私の視線が、まともに真正面からぶつかり、私はサッと首を横に動かした。
「それで……その後の経過はどうなのかしら?」
廊下の方を見ながら尋ねると、
「はい、12日に、棒倒しへの参加許可を臼井軍医長から正式にいただきました」
そう答えた栽仁殿下が微笑する気配を感じた。
「そうか。……なら、完治したってことね」
私はホッとしながら言った。本当に良かった。“史実”では、栽仁殿下が命を落としていたのだから。
「本当にありがとうございました、姉宮さま」
栽仁殿下は、また私に向かって頭を下げた。
「僕は、姉宮さまに助けられてばかりで……」
「医者としての仕事をしただけよ。そんなにありがたがられても困っちゃうわ。……でも、そうか、完治したのね。私が東京に戻る前にその報告が聞けて、本当に良かった」
「僕も、姉宮さまが帰京される前に、この報告が出来て良かったです。姉宮さまを心配させたくなかったので」
「そう」
私は微笑を顔に浮かべると、
「でも、まだ心配なのよ、……姉貴分としてはね」
そう言いながら、左側に置いていた、袋に入った刀を持った。
「だから、これをあげる。快気祝いとして」
両手で刀を支えて、前に突き出すと、栽仁殿下が両手でそれを受け取る。それを確認して、私は刀から手を離した。
「この刀は……?」
尋ねた栽仁殿下に、
「大典太光世よ」
なるべく……なるべく軽い声で答えると、
「ウソですよね?!」
彼が息を飲む気配がした。突然、国宝級の名刀の名前が出てきたのだ。驚くのも無理はない。
「本当よ。私が軍医学校に入学する時に、お父様からいただいた。元々は前田家に伝わっていたのを、お父様が小竜景光と引き換えに譲り受けたの」
刀を両手で持ったままの栽仁殿下を見ないようにして、私は話を続けた。
「この刀には、安土桃山時代に、前田家の豪姫の病気を治したという言い伝えがある。豪姫のそばにこの刀があれば、豪姫の病は治る。そばにこの刀が無ければ、豪姫の病が再発する……“その話を思い出したから、この刀をやる”とお父様は私に言った。“この刀は病を治す刀だから、医者になるお前が持つのにふさわしいだろう”って。でも……違うのよ、この刀の使い方」
「違う……?」
オウム返しのようにつぶやいた栽仁殿下に、
「この刀は、守り刀なのよ」
私は素っ気なく返した。
「この刀は、所有している人を、病気やケガから守るだけ。医者が一振りしたら、その辺にいる患者さんたちの病気が全部治っちゃう……なんて刀じゃないのよ。私が持っていたら、この刀は私しか守ってくれない。そんな刀、私はいらないわ」
「……」
「でも、栽仁殿下が持ってくれたら、この刀は栽仁殿下を、病気やケガからずっと守ってくれる。そうしたら、私も東京で、栽仁殿下のことを心配しなくて済む」
(そうしたら、私は、医者としてあなたに会う機会がなくなる……。それでいい。あなたが元気なら、会えなくても、私はそれでいい……)
「……だから、この刀はあなたにあげる」
そう言って微笑してみると、
「姉宮さまは……」
栽仁殿下が、少し緊張した声を出した。
「姉宮さまは、どうなさるのですか?この刀が僕の手に渡ったら、今度は姉宮さまが、病気やケガに見舞われてしまうのではないですか?」
「……私は医者だよ。自分の病気やケガぐらい、自分で治せる」
優しい人だ。私の心配をしてくれるなんて。本当に、私の年が、妹たちと同じぐらいだったら、私が軍人でなかったら……。流されてしまいそうになる。あなたのことが好きだ。そんな言葉をぶつけたくなってしまう。
(でも、ダメ……)
私は右手で、診察カバンの取っ手をきつく握りしめた。
(私はあくまで、栽仁殿下の姉貴分なんだ。好きだけど……恋人に、あわよくば、お嫁さんになりたいけど……その未来は、無いんだから、諦めないと……)
「姉宮さま?」
栽仁殿下が、訝しげな声を出す。彼が更に口を開こうとしたその時、
「それにね」
私はその動きを封じるように、慌てて言った。
「この刀は、200年以上、前田家に伝わっていたんだ。だから、前田家にゆかりのある人のところにある方が、刀も喜ぶと思うよ。ほら、殿下のお母様は、前田家の出だからさ」
「……」
栽仁殿下が何かを言おうとした瞬間、柱時計が3時の鐘を打った。
「じゃあ、私、連絡船の時間があるから、これで失礼するね。ごきげんよう、栽仁殿下」
(そして、永遠に、さようなら……)
立ち上がった私は飛び切りの笑顔を栽仁殿下に向けると、すぐに踵を返し、応接間から立ち去った。
1908(明治41)年4月26日日曜日、午後4時。
「宮さま……」
江田島を出て、宇品港に向かっている連絡船の中、隣の席に座った千夏さんが、泣き続けている私の両肩を抱きかかえていた。
「うう……つらいよ、千夏さん……」
私の涙は、有栖川宮家の別邸を出た直後から、まったく止まる気配がなかった。別邸から船着き場に向かう人力車の中でも、船着き場で連絡船を待っている間にも、ずっと涙が流れ続け、千夏さんの肩に顔を押し付けるような姿勢を崩すことが出来なかった。
「でも、ああするしかないよ……私、もう、栽仁殿下の手術は、執刀出来ないもの……」
すすり上げながら、私が何とかこう言うと、
「そうですね、今の宮さまには、若宮殿下を治療なさるのは無理です」
千夏さんが私の肩をさすりながら応じた。
「だけどさ、例え治療のためであっても、皇族の身体に臣下が傷を付けちゃいけないってしきたりが、完全に無くならないと、栽仁殿下がまた病気になった時、私が彼を治療しないといけない……そうしたら私、完全に動揺して、何も治療が出来ない……」
「そうですね。だからこそ、宮さまは、大典太光世を若宮殿下にお渡しになったんですよね」
優しい声で、千夏さんが私に確認する。
「うん……」
涙の流れる勢いが強くなり、私は頷くと、必死に呼吸を整えた。
「あの刀が、栽仁殿下を、ずっと病気やケガから守ってくれる。そうしたら、私が栽仁殿下を治療する機会はこの先無くなる。そうしたら私、栽仁殿下に会わなくて済む。それでいい。それでいいんだ……」
また、胸が切なくなって、涙が瞼からあふれる。私は一度、言葉を切った。
「私が、軍人である限り、栽仁殿下への思いは叶わない。栽仁殿下が元気で、健康で過ごせて……昌子さまたちのうちの誰かと結婚して、幸せな家庭を築いてくれれば、私はそれでいいよ。それで、いいんだけど……」
思いが言葉に変換できなくなり、私はまた、千夏さんの肩に顔を押し付けた。
「うう……やっぱりつらいよ……。フリードリヒ殿下の時みたいに、栽仁殿下が亡くなったってわけじゃないから、その分、気は楽だけど、それでも、つらい……」
「……それだけ、若宮殿下への宮さまの思いが深い、ということですよ」
千夏さんは優しい声で応じながら、私の頭を撫で続ける。
「そのように深く思っていらっしゃるなら、若宮殿下に思いのたけを吐き出してもよかったと、千夏は思いますけれど」
「無理って言ってるじゃない……。女の軍での階級が、男よりも高い結婚なんて、世間が許してくれないに決まってる。だから、こうやって諦めたのに……」
「そうおっしゃられてしまうと、千夏も反論できないのですよねぇ……」
千夏さんは軽くため息をつくと、
「では、たくさんお泣きください、宮さま。それが今の宮さまには、一番のお薬ですから」
と言って、また私の頭を撫でてくれる。
「うう……ありがとう、千夏さん……」
千夏さんの肩に顔を押し付けながら、涙の流れるままに任せていると、連絡船は宇品の港に到着していた。
宇品港の桟橋には、東條さんが迎えに来てくれていた。けれど、彼の表情は、深い苦悩に満ちていた。
「どうしたんですか、東條くん」
千夏さんが刺々しい声で質問すると、東條さんはそれには答えず、私に顔を向けて、
「増宮殿下、東京の大山閣下からお電話がありまして、築地国軍病院へのご着任は、6月1日からであると……」
と困惑した声で言った。
「は、はぁ?!」
驚愕した私に、
「何でも、アメリカ経由で日本に向かわれているコッホ先生の体調がすぐれず、ハワイで1か月ほど静養されるとか。それでコッホ先生の来日が6月中旬に延期になるので、東京での勤務は6月1日からで構わない、と……」
東條さんは困惑した声で、更に報告を続ける。
「へーえ……そうなんですね。明日には、広島を出発して東京に向かう予定だったのに……へーえ……」
心の底から、怒りが湧き上がって来るのを感じた。
大体、この広島赴任だって、梨花会の面々が、栽仁殿下を救うために私に黙って仕組んだものなのだ。それで栽仁殿下が助かったのは良かったけれど、今度は、ものすごくくだらない理由で、私を東京に戻そうとする。しょうがないから帰京に向けて準備を進めて、明日の朝、東に向かう列車に乗るところまでの段取りを付けたら、“東京勤務は6月1日から”と来た。
(ふざけんじゃないわよ。こっちは失恋までして、すんごいつらいのに、自分たちの都合で私の予定を勝手に決めやがって……)
「……東條さん」
私の口から出た声は、普段は滅多に出さないキツイ声になっていた。
「はっ、殿下」
「休暇を取る」
「へ……?」
私の言葉について行けない東條さんに、
「だからぁ、休暇を取ります!明日から5月の末まで休暇を取ります!泉邸に戻ったら東京の井上さんに電話を入れて、無理やりでも休暇をもぎ取ってやります!」
私は駄々っ子のように叫んだ。
「やってらんないですよ!妙な理由で人を振り回して!だったらこの1か月、徹底的に遊んでやるっ!」
「あ、遊ぶとは……」
「まず手始めに、明日、広島城を心行くまで見学します」
厳かな声を作ってこう言うと、千夏さんも東條さんも「「は?」」と首を傾げた。
「それで明後日は船で四国に渡って、宇和島城を見学します。その後は松山城でしょ、高知城でしょ、丸亀城、松江城、福山城、岡山城、備中松山城、姫路城、和歌山城……名古屋離宮は泊まりたいし、彦根城と大垣城と犬山城と……ああ、長野の松本城と、福井の丸岡城も、可能なら見学したいし……」
東京から西にあって、現時点で天守閣が残っている城の名前を次々挙げていくと、
「お待ちください、殿下!数が多すぎる上に、どこにあるか分からないものもいくつか……」
東條さんがオロオロしながらツッコミを入れた。
「ええい、うるさいわね。とにかく、この1か月で、可能な限りのお城を見学して、5月の末に東京に戻りますから、東條さん、宿泊場所とか見学許可とか交通手段とか、諸々の手配をお願いしますね」
ニッコリと東條さんに向かって微笑すると、東條さんは青ざめた顔で首を上下に振った。
「あの、み、宮さま……宮さまがご自分から、このような長期の休暇を取るとおっしゃったことがないので、千夏はとても驚いているのですが……」
戸惑いながら質問した千夏さんに、
「だって、やってられないもの、色々と」
私は唇を尖らせて答え、そしてこう断言した。
「でもね、思ったの。こういう時は、好きなことをしたらいいんじゃないかなって。……だから、失恋の痛みは、お城で癒すよ!」
……こうして、私の広島での8か月の生活は、甘く、そしてつらい思い出を残して幕を閉じた。
けれど、この時終わらせたはずの恋が、まだ全然終わっていなかったことに、愚かな私は全く気付かなかったのだった。




