抜糸
1908(明治41)年3月9日月曜日午前8時、広島県江田島にある海兵士官学校構内の病室。
「まだでしょうか、中尉どの?」
ベッドの上に仰向けに寝て、先日手術した下腹部を出している有栖川宮栽仁王殿下が、私に尋ねた。
「まだです」
左手にピンセットを、右手にハサミを持った私は、反射的に答えると、消毒した手術創に再び意識を集中させた。
「早く、授業に合流したいのですが」
「しゃべらないで。お腹にハサミを突っ込まれたいの?」
今日は当直明けだから、いつもより私の機嫌は悪い。怒りをこめて注意すると、栽仁殿下が静かになる。私は軽くため息をつくと、抜糸の作業に戻った。
栽仁殿下の手術をしてから、今日で7日目になる。手術をして切った皮膚の創がくっついていれば、創を縫合していた糸を抜くタイミングだ。幸い、栽仁殿下の創は感染徴候もなく、キチンとくっついていたので、臼井軍医大佐たちとも相談して抜糸をすることにした。手術より遥かに気楽な作業だけれど、相手が栽仁殿下だからか、いつもよりは緊張する。けれど、執刀しようとした時のように、手が震えるようなことはない。
「……はい、終わった。身体を起こしていいよ」
最後の糸を抜き終わって声を掛けると、
「ありがとうございました!」
栽仁殿下は素早く起き上がり、大急ぎで着替えを始めた。紺色の詰襟の制服に身を固めると、ベッドの掛け布団を手早くキチンと畳む。
「めちゃくちゃテキパキしてるわね、動作が……」
私が呟くと、
「士官学校で生活していれば、自然に身につきます。全ての動作はキチンと手早く、それが基本ですから」
そう答えながら、栽仁殿下は机の上に出していた勉強道具を、カバンに奇麗に詰めていく。あっと言う間に、机の上から物が無くなった。
「では、退室して、授業に復帰致します!」
身支度を短時間で整え終わった栽仁殿下は、私達に向かって最敬礼した。“退室”……普通なら“退院”と言うべきところ、この海兵士官学校ではこのように呼ぶ。抜糸したら病室から出て、普段過ごしている生徒館に戻って授業に復帰する。軍医長の臼井軍医大佐とも相談して取り決めた治療方針である。
「その前に」
どこか浮かれているような栽仁殿下を、私は軽く睨みつけた。
「注意事項を復唱して」
「はい、今月の末に、中尉どのが許可を出してくださるまでは、剣道や柔道、登山や漕艇などの激しい運動は行わないこと。平地歩行などの軽い運動は構わないが、腹部に力を掛けることは避ける、です」
「……よく出来ました」
退室に当たっての注意事項を復唱して、にっこり笑った栽仁殿下から、私は目を背けた。
「問題がなければ、今月の末には激しい運動をする許可を出すけれど、棒倒しはダメよ」
「なぜですか?!僕、棒倒しはとても好きなのに」
「創のところに突きか蹴りでも命中したら、創が離開するでしょうが!」
栽仁殿下の質問に、私はいらだった声で答えた。「土曜日に棒倒しを初めて見て、びっくりしたわよ!競技としては面白いけれど、医療者側にとってはたまったもんじゃないわ!」
と、
「まぁ、それをどうするかは、また運動許可を出すときに考えましょう、増宮殿下」
私の後ろから、栗田軍医大尉が苦笑しながら言った。「島村校長に依頼すれば、たいていのことは何とかなるでしょうし」
「そうですけど……」
私は軽くため息をついた。……ダメだ。栽仁殿下と相対していると、どうしても調子が狂う。早く、退室してもらわないと……。
「……じゃあ、次の診察は、来週月曜日の朝です。食事が終わったら、創の経過を見るから診察を受けに来て」
私がそう言った時、
「いや、日常生活による負荷で、創が離開することもあり得ます。若宮殿下には、毎朝朝食後に診察を受けていただき、経過観察をしましょう」
軍医長の臼井軍医大佐が、こんなことを言い始めた。
「は?!」
私は思わず臼井軍医大佐に詰め寄った。「大佐どの、そこまでは必要ないのではないかと思います!虫垂炎の手術創の次の経過観察は、早くても抜糸の1週間後。築地でも広島でも、そう教わりましたけれど……」
「いや、しかし、万が一のことがあってはいけません」
私の抗議に、臼井軍医大佐は首を横に振った。「若宮殿下、明日以降も毎朝、診察を受けにおいでください」
「了解いたしました、軍医長どの。では、生徒館に戻らせていただきます」
栽仁殿下は嬉しそうに再び最敬礼すると、軽い足取りで私たちの前から去っていった。
(く、くそーっ!せっかく、毎日会わないで済むと思ってたのに……大佐のバカーっ!)
今日の診察が終われば、次に栽仁殿下に会うのは1週間後でいい。そう思っていた私は、目論見が外れてしまい、がっくりうなだれたのだった。
午前9時半。
「それでは、俺は東京に戻ります」
「来てくれて、本当にありがとう」
私と千夏さんが逗留している宿。居間として使っている和室で、前に正座している大山さんに丁寧にお辞儀をすると、解いた私の黒髪が、ばさりと畳の上に落ちた。
「抜糸は無事に終わったのですか?」
「うん。手術創の感染も無いし、経過はとても順調だよ。東京で梨花会のみんなに会ったら、そう伝えておいて」
頭を上げると、自然とあくびが出てしまい、私は慌てて右手で口を隠した。やはり、当直明けはどうしても眠くなってしまう。大山さんはそんな私を見て微笑すると、「かしこまりました」と何事も無かったかのように返答した。
「万が一容態に変化があったら、電話か電報で東京に伝えるけれど……絶対何も起こらないって賭けていいわ」
(それなのにさぁ……なんで臼井大佐、“毎日創の経過を診るべきだ”って主張するんだろう。創もちゃんとくっついてるし、感染も起こってないのに……)
当直明けの出来事を思い返して、またため息をつきそうになった時、
「失礼いたします、宮さま!」
千夏さんの元気な声が廊下から聞こえた。
「有栖川宮殿下がいらしていますが、いかがいたしますか?」
「え……」
私は慌てて立ち上がった。これから仮眠しようと思っていたので、髪は下ろしている。大山さんならまだいいけれど、威仁親王殿下にこのだらしない姿は見られたくない。
「髪を結い直すまで、10分ぐらい待っていて、って伝えてもらっていいですか?」
廊下に向かって声を掛けると、「はいです」という返事とともに、足音が遠ざかる。寝室として使っている部屋に入り、鏡台の前に座ろうとすると、
「宮さま、有栖川宮殿下が、“髪を下ろしていても構わないから、今すぐ会いたい”と仰せでして……」
千夏さんの困ったような声が聞こえた。
「きっと、若宮殿下のご様子を一刻も早く聞きたい、とお考えなのでしょう。今日、舞子のご別邸に向かわれる予定と伺っておりますから、余り時間が無いのかもしれません。髪はそのままでよろしいのではないでしょうか」
大山さんがこちらを見ながら、優しい声で言った。
「仕方ないな。……じゃあ大山さん、親王殿下をお通しするように、と千夏さんに伝えて」
「かしこまりました」
あくびを一つすると、私は居間に戻る。程なくして、居間の入り口の襖が開き、
「ほう……髪を下ろされているのを久しぶりに拝見しましたが、普段と違って、しっとりとした美しさですね」
と言いながら、栽仁殿下の父親・有栖川宮威仁親王殿下が入ってきた。
「すみません。当直明けで、これから仮眠しようと思っていたので、こんなだらしない格好を……」
威仁親王殿下に頭を下げると、
「何、構いませんよ。……ところで、栽仁の抜糸の首尾はいかがでしたか?」
彼は挨拶もそこそこに、私にこう尋ねた。
「無事に終わりました。手術した創もとても奇麗で、感染の徴候はありません。抗生物質を投与したのが効きましたね」
「なるほど」
私の答えに威仁親王殿下は、明らかに安堵したような表情になった。
「念のため、創は毎日診察することになりました。本当は必要ないと思いますけれど」
「そうですか……」
威仁親王殿下はそう言うと、少し考えるような素振りを見せる。
「どうしたんですか?」
尋ねると、「いえ……」と親王殿下は返事したけれど、なおも考える素振りをやめず、
「私たち家族がずっと江田島にいると、島村校長たちにも気を遣わせてしまってご迷惑がかかりますから、舞子に引き下がろうと思っていたのですが、栽仁のことも心配ですし……」
と言って、両腕を組んでため息をついた。
(ああ、そうか……)
栽仁殿下は、威仁親王殿下のたった1人の息子……つまり、有栖川宮家の跡取りである。父親として、栽仁殿下のことを色々と心配してしまうのだろう。
すると、
「では、増宮さまに、若宮殿下の病状を、舞子に毎日電報か郵便で送っていただければよろしいのではないでしょうか」
我が臣下がこんなことを言った。
「ああ、それならば、私も少しは安心できます」
威仁親王殿下が、ホッとしたように頷く。「普段離れて暮らしている分、栽仁のことが心配になってしまうのですよ」
「“変わりなし”の一言だけでもいいかもしれませんが、何かあればそこに書き加えてもいいかもしれませんね。交わされた言葉であるとか、若宮殿下の学業の様子であるとか……」
大山さんがこう言うと、
「それは、是非書いていただきたいですね。栽仁も手紙を送ってはくれますが、他人の視点からの栽仁の様子も知りたいですから」
威仁親王殿下が何度も首を縦に振った。
「増宮さま、頼まれていただけますか?」
「はぁ、分かりました……」
親王殿下に答えた瞬間、またあくびが出そうになる。私は急いで手で口元を隠した。
「ごめんなさい、大兄さま。ちょっと、もう、眠気が限界で……。そろそろ布団に入ってもいいですか?」
「これは失礼いたしました。無理をさせて申し訳ない」
親王殿下が急いで一礼すると、
「俺も、これで失礼いたします。また折を見て広島に参りますので」
大山さんも苦笑しながら私に声を掛ける。
「ふぁい……じゃあ、皆さま、ごきげんよう。おやすみなさい……」
私は2人にぺこりと頭を下げると、寝室へと引っ込んだのだった。
午後6時、江田島の宿。
「宮さま?」
一緒に夕食をとっていた千夏さんが、私をじっと見つめているのに気が付いて、物思いにふけっていた私は我に返った。
「あ、ああ……どうしました、千夏さん?」
尋ねると、
「なんだか、お顔色が暗いです」
千夏さんは心配そうな表情になった。
「江田島にいらっしゃってから、宮さま、ずっとお顔色がよろしくありません。どうなさったのですか?……ご体調がよろしくないのですか?」
「いいえ、それは大丈夫です」
「それでは、千夏に何か至らないところがあったのでしょうか?」
「それはないです」
私は首を左右に何度も振った。「千夏さんは本当によくやってくれています。たった一人で広島から江田島にやって来て、私の江田島での居場所を整えてくれて……。感謝のしようもありません」
千夏さんに向かって、丁寧に一礼すると、
「そんな……、お礼なんて、千夏にはもったいないです」
私の乳母子は、銀縁メガネの奥の目をまん丸くした。
「本当ですよ。千夏さんもだけれど、私についている職員さんたちには、いつも感謝しているんですから」
私はそう言うと、お膳の上に箸を置いた。宿に洋式の家具を持ち込む訳にもいかないので、食事はテーブルではなく、畳の上にお膳を置いて取っている。
「では宮さま、なぜお顔色がよろしくないのですか?」
千夏さんがまた、私に尋ねる。どうやって千夏さんの質問から逃れようか、と考えた矢先、
「何か、悩んでいらっしゃることでもおありなのでしょうか?」
千夏さんは半ば睨みつけるように私を見つめながら、こう質問をぶつけてきた。
(うーん……)
何を、どこまで話していいのだろう。赤裸々に話してしまえば、私の恥をさらすことになってしまう。栽仁殿下を見かけてしまうだけで動揺してしまうという、軍人としても、内親王としても恥ずべきことを。少し考えて、
「あ、あのですね……」
私は口を開いた。当たり障りのないことを話せばいいのだ。それで、千夏さんが引き下がれば、万事解決だ。
「今朝、有栖川宮殿下が、栽仁殿下の様子を、毎日舞子の別邸に送れ、って頼んだじゃないですか……それが、ちょっと面倒だなって思って。ほら、有栖川宮殿下、字がすごくお上手じゃないですか。そこに私が下手な字で手紙を送ったら、有栖川宮殿下に笑われてしまうんじゃないかと心配で……」
とっさに思いついた理由を続けると、
「では、電報でお出しになればよいではないですか」
千夏さんは空気を読まず、不思議そうな声で答えた。
「い、いや、それでも、文章を作るのが面倒だし……」
慌てて、更にこう返すと、
「宮さま、士官学校でのお仕事、国軍病院より少ないから暇でしょうがない、とおっしゃっていたではないですか。でしたら、少しくらい面倒なことが増えても、暇つぶしになってよいのではないですか?」
千夏さんはあっさりと私を論破する。確かに、2、3日前、彼女にそんなことを話した記憶がある。
「うーん、この面倒は、余り巻き込まれたくない類の面倒なんですよね……」
私は、両腕を組んで黙り込んだ。
(これ以上は聞かないで!)
眉間にしわを寄せ、わざと難しい顔をして、口にしないまでも、全身でそう訴えてみたのだけれど、
「どうしてですか?」
乳母子は無情にも、私に訊いた。
「どうして、って……」
邪気が全くない千夏さんの表情につい引き込まれ、私は口を動かしてしまった。
「どうしてですか?」
「……栽仁殿下には、会いたくないんです」
千夏さんから目を逸らしながら答えると、
「どうしてですか?」
彼女はまた、オウム返しのように質問した。
「いや、だから言ったじゃないですか」
苛立ちながら答えると、千夏さんは首を静かに左右に振り、
「ですから、有栖川宮の若宮殿下に、どうしてお会いしたくないとおっしゃるのですか?」
核心を突く問いを私に突き付けた。
「それは……」
言えない。栽仁殿下を見かけてしまうだけで、自分の心が乱れるからだとは。そんなことで心が乱れるなんて、軍人として、内親王としてふさわしくない。他人に知られるわけにはいかないのだ。
すると、
「では、宮さまは、若宮殿下のことがお嫌いなのですか?」
千夏さんは真剣な顔で私に尋ねた。
「嫌いじゃ……ないですよ」
やっとこう答えると、
「ではどうして、若宮殿下にお会いしたくないとおっしゃるのですか?」
千夏さんは真剣な表情を崩さないまま、私に更に質問した。
「どうして……」
(心が乱れるから、だけど……)
心の中で千夏さんに答えた時、一つの疑問が私の脳裏をかすめた。そもそも、栽仁殿下が嫌いではないのに、私はなぜ、彼を見かけてしまうと、心が乱れてしまうのだろうか。
「分からない……」
私は両腕を組んだまま立ち上がると、
「今日は、もう寝ますね……」
そう言いながら寝室に引っ込んだ。けれど、布団に横になっても眠気は訪れず、
(どうして、なんだろう……)
私は夜が更けるまで、いつもより働かない頭で、答えの出ない問いをずっと考え続けていたのだった。




