江田島
1908(明治41)年3月1日日曜日午後3時、広島駅。
「お久しぶりです!」
真っ白い軍装を着た私は、プラットホームに降り立った一人の男性を、軍隊式の敬礼で出迎えた。東京でお世話になり、医科分科会の一員でもある、東京帝国大学医科大学外科学教授の、近藤次繁先生だ。
「これは……殿下御自らお出迎えとは、恐縮です」
近藤先生が私に向かって最敬礼する。昨年の8月に、東京帝国大学での非常勤勤務を終えて以来だから、数か月ぶりの再会だ。
「気になさらないでください、近藤先生。お出迎えに上がったのは、司令官の命令を受けてのことですから」
私が右手を下げて微笑すると、私の斜め後ろに立った新島さんも、敬礼していた右手を下ろした。
近藤先生は、国軍医務局の依頼で、この広島に司令部がある第5軍管区の国軍施設の衛生状況を明日から視察することになった。その出張期間中、近藤先生を接待する係の1人に、私が抜擢されたのである。
「それは非常にありがたいのですが、なぜ殿下に私を接待せよ、という命令が下ったのでしょうか?」
頭を軽く下げて私に尋ねる近藤先生に、
「東京勤務だった頃に、先生のところで働いていたから、という理由だそうです」
と私は明るく答えた。「ご心配なく。視察場所はもちろんですが、ご要望がありましたら、観光名所もばっちり案内します」
「それは非常にありがたいです」
近藤先生は再び私に一礼すると、
「今日はこれから、どのような予定になっておりますか、殿下?」
と私に聞いた。
「これから、軍管区の司令部にご案内します。司令官閣下はじめ、幕僚の皆さまと会っていただいた後、歓迎の晩餐会に出席していただきます」
頭に入った予定を、私は口からゆっくりと吐き出し始めた。ちなみに、現在の第5軍管区の司令官は、“日進”で実習した時にもお世話になった上村彦之丞海兵中将だ。国軍合同から20年近くが経過し、軍管区司令官に旧海軍出身者が就任したり、軍港の長官に旧陸軍出身者が就任したりすることも珍しいことでは無くなっている。
「明日の午前中は呉軍港の医務部の視察、そこから連絡艇で江田島に移動して、江田島の海兵士官学校で昼食会の後、海兵士官学校を視察していただきます」
「なるほど。夕方には広島に戻るのでしょうか?」
「はい。明日の夜は私の住まいで、先生にお夕食を召し上がっていただきたいのですけれど……よろしいでしょうか?」
これは事前に近藤先生には伝えていないことだ。恐る恐る聞いてみると、
「それは是非!」
近藤先生は嬉しそうに答えた。
「殿下付きの料理人の方々には、腕の良い方が揃っておられますから。この土地の食材をどう料理するか……楽しみですよ!」
「それはありがとうございます。……それから、明後日の午前中は国軍病院の視察、病院幹部との昼食会の後、午後に先生からご講演を賜る予定です。全て私が案内しますので、よろしくお願いします」
「了解いたしました。こちらこそよろしくお願いします」
近藤先生は再び私に最敬礼すると、
「ところで殿下、お仕事はいかがですか?」
と、微笑しながら私に尋ねた。
「……最近やっと、後輩たちに少しまともに教えられるようになってきました」
私は軽くため息をついた。
「教えようとすると、教えようとしたことを自分が十分には理解できていないのが分かってしまうんです。それでまた勉強して、教えようとして、また自分の理解の抜けていることに気が付いて……その繰り返しです。弟に勉強を教える時もそんな感じでしたけど、医学も同じなんだなと痛感しました」
すると、
「なるほど。教える者が、必ず通る道ですね」
近藤先生が軽く頷いた。「そうやって学生も医者も、知識や手技を磨いていくものです。殿下が外科医として順調に成長されているようで何よりです」
「ありがとうございます」
私が頭を下げた時、
「殿下、そろそろ馬車にご案内を」
と新島さんが後ろから囁いた。確かに、ここで時間を潰している場合ではない。
「……では、先生、馬車にご案内いたします」
私はまた近藤先生に一礼すると、先に立って彼を迎えの馬車へと案内したのだった。
その後、軍管区司令部との顔合わせと晩餐会、翌日午前中の呉軍港の医務部視察……と、近藤先生の予定は滞りなく進んだ。呉には今回、広島から列車で向かった。“軍務ですから微行で参ります”と司令官にも断ったので、呉行きは前回の“利根”の進水式のように大仰になることはなく、私と近藤先生、新島さんの3人だけの移動となった。
「……ところで、殿下は江田島にいらっしゃったことがおありですか?」
3月2日の午前11時半。呉軍港の医務部の視察を無事に終え、江田島に向かう連絡艇に乗り込むと、近藤先生が私に尋ねた。
「実は、今回が初めてです」
私がそう答えると、
「おや、そうですか」
近藤先生は不思議そうな顔をした。
「有栖川宮の若宮殿下と、北白川宮の輝久王殿下が、江田島の海兵士官学校にご在学されていますから、両殿下とご交流があるのかと思っていたのですが……」
「全くないです」
「なるほど。では今日の昼食会で、久しぶりにお2人に会われることになりますね」
「ああ、2人とも、昼食会には出席しません」
それを上村司令官に確認できたから、私は近藤先生の案内役を引き受けることにしたのだ。栽仁殿下と顔を合わせたくない。彼の姿を、彼の笑顔を見てしまえば、どうしようもなく心が乱れるだろう。それは内親王として絶対に避けなければいけない。
「そうですか。それは残念です」
「申し訳ありません。ですが、あの2人は修業中の身。他の生徒と違う扱いをしてちやほやして、彼らの中に怠惰な心を生む訳にはいきませんから」
「教育的な配慮であれば仕方がありません。またの機会を楽しみにしておきます」
私が軽く頭を下げると、近藤先生は深く頷いた。そんなことを話している間にも、連絡艇はどんどん海の上を進んでいき、あっという間に海兵士官学校の桟橋に到着した。
桟橋で士官学校校長の島村速雄海兵少将や、士官学校軍医長の臼井宏軍医大佐など、主な職員の出迎えを受けた後、事務棟に移って昼食会になった。島村校長はもちろん、極東戦争時の第1艦隊の参謀長で、私が実習中にお世話になった人だ。臼井軍医長も、極東戦争の時に“朝日”の軍医長をしていたので私とは顔見知りだ。私を仲立ちとして、近藤先生と士官学校教職員たちとの交流も、上手く進めることが出来た。
昼食会が終わりかけた午後1時前、突然、部屋のドアが乱暴に開かれた。
「いた!姉宮さま!」
現れたのは士官学校2年生、北白川宮輝久王殿下だ。整った精悍な顔は、明らかに緊張していた。
「……一応仕事中だから、“姉宮さま”じゃなくて“中尉どの”って言って欲しいなぁ」
お小言を言っている間に、輝久殿下はズカズカと部屋に入り込み、
「来てください!」
と言いながら、椅子に座ったままの私の右手を掴んだ。
「ちょっと、どうしたのよ!」
「輝久王殿下!このお振る舞いは一体どういうことですか!」
私と島村校長の声を無視して、輝久殿下は私の右手を強く引っ張る。そして、
「栽仁の……栽仁の体調が、とんでもなく悪いんだ!」
輝久殿下は大声で叫んだ。
「輝久殿下」
私は左手で診察カバンの取っ手を掴むと立ち上がった。
「最初からちゃんと話してちょうだい」
「あ、姉宮さま!」
「中尉どのと呼んで。今は仕事中だから」
輝久殿下にピシャリと返しながら、私は部屋の出口に向かって足早に歩いた。
と、
「もしや、今朝からの腹痛が……?」
歩く私に追いすがりながら、臼井軍医大佐が言った。
「腹痛ですか?」
「ええ、未明から軽い腹痛が出現したとのことで、今朝、当直の軍医が拝診しております。胃腸薬を服用してお休みになるようにと申し上げた、と申し送りを受けましたが……」
「でも、あの栽仁の苦しみようは、“軽い腹痛”なんてもんじゃない!」
臼井軍医大佐に向かって、輝久殿下が食って掛かるように言った。
「輝久殿下、上官に対しての言葉遣いが悪い!」
私は反射的に輝久殿下を叱った。
「ご……も、申し訳ありません!」
輝久殿下が慌てて臼井軍医大佐に頭を下げたのを確認すると、
「で、輝久殿下が栽仁殿下に会ったのはいつなの?」
私は再び歩く速度を上げながら尋ねた。
「つい5分ぐらい前……です」
そう言うと、輝久殿下は再び私の先に立った。「具合が悪くて午前の授業を休んだって聞いたので、見舞いに行ったら、栽仁はベッドの上にうずくまってました。“腹が痛くて全然眠れて無い”って……だから、今日、姉……じゃなかった、中尉どのが士官学校にいらっしゃるって聞いたから、中尉どのに診てもらおうと思って」
(未明には軽い痛みだったのが、12時間経った今は、うずくまるほどの激痛……?)
「わかった。とにかく案内して、輝久殿下」
「了解です、あね……中尉どの!」
事務棟の玄関を出ると、輝久殿下は「こっちです」と言いながら、赤レンガ造りの立派な生徒館に走っていく。当然、診察カバンを持ったまま、私も彼の後を追って走った。
「栽仁、入るぞ!」
生徒館の玄関を入って階段を上がったところにある扉を、輝久殿下は荒々しくノックすると、中の反応も確かめずに開けた。どうやらそこが、栽仁殿下の部屋らしい。
「栽仁、姉宮さまを連れてきた!今日、ここの視察の予定だっただろ?!」
「姉宮さま……?」
白い寝間着を着て、ベッドの上にうずくまるように座っていた栽仁殿下の顔が、一瞬輝く。けれど、すぐに顔が歪んだ。
「俺が見舞いに来た時から、栽仁、ずっとこんな感じなんだ」
「そう……」
カバンを机の上に置かせてもらうと、私はカバンの口を開けた。聴診器や体温計、血圧計など、必要そうな診察道具を取り出しながら、栽仁殿下の様子をちらちら確認する。明らかに苦しそうな表情だった。
「栽仁殿下、辛いところを申し訳ないけれど、いつからどういう風に具合が悪くなったか、話を聞かせて」
「分かった……」
栽仁殿下は微かに頷くと、話を始めてくれた。彼の身体に異変が起こったのは今日の未明のこと……みぞおちから下腹のあたりに軽い痛みを感じ、目が覚めたそうだ。寝ていれば治るだろうと思っていたけれど、起床の時刻になっても良くならないので、当直の軍医少佐の診察を受けた。
「胃腸薬を飲んで、ずっと休んでいたんだけど、痛みがだんだん強くなって……」
「そう。じゃあ、診察する」
声を掛けるやいなや、私は栽仁殿下の右の手首を探って脈を取った。左脇に体温計も挟んでもらう。
「脈拍が1分間に72、呼吸数が15回……正常ね」
記録をしなければ、と思って、出しておいた鉛筆とメモ帳に手を伸ばそうとすると、
「私が致します」
いつの間にか部屋に入っていた新島さんが低い声で返した。見ると、部屋の中には彼女の他に、臼井軍医大佐や彼の部下の栗田軍医大尉、近藤先生と島村校長まで顔をそろえていた。
(あ……これ、診察を代わらないとまずいかな……)
ここにいる医者で一番経験が豊富なのは、近藤先生と臼井軍医大佐だ。一般に、VIP相手の診察は、その場にいる医者の中で一番経験豊富な医者がすることが多い。勢いで診察を始めてしまったけれど、軍医中尉に過ぎない私が、このまま栽仁殿下の診察を続けていいのだろうか。そう思いながら、視線をさまよわせた時、
「どうぞ、そのまま診察をお続けください」
と臼井軍医大佐が言い、近藤先生も同調するように頷いた。私は黙って頭を下げると、診察に戻った。眼の診察をする時、どうしても栽仁殿下と眼が合ってしまい、一瞬動揺したけれど、彼が苦痛で顔を歪めたのを見て我に返り、事務的に診察を続けた。
栽仁殿下を仰向けに寝かせてお腹の診察をすると、意外にも、最初に痛かったというみぞおちのあたりには所見が無かった。ところが、右の下腹部を触診した時に、
「痛っ……!」
栽仁殿下が、明らかに苦しそうになった。
「あ、姉宮さま、そこ、それ以上触らないで……押されるとすごく痛いし、なんか、嫌な感じがする……」
「分かった、これ以上は触らない」
私は手を離し、今までに取った身体所見をつなぎ合わせ始めた。
「血圧、呼吸数、脈拍数は正常、体温が37度5分。そして右下腹部に限局する圧痛以外は、特に目立った身体所見はない……そして、病歴と考え合わせると……」
私は一度言葉を切った。
「急性虫垂炎の可能性が極めて高い」
「ですね……」
近藤先生が緊張した表情で頷いた。臼井軍医大佐と栗田軍医大尉は、青ざめた顔をして黙っている。
「となると、緊急で手術ですね」
私の時代なら、抗生物質を投与して手術しないで経過を見ることもあり得る。けれどそれは、血液検査や超音波検査、CT検査など、炎症の強さや広がり方を手術以外の方法で確認出来るから取れる方法だ。今の時代、炎症が起こっていることを確認するには、手術をするしかない。もちろん、このまま放っておけば炎症が腹腔全体に広がり、命取りになりかねない。
ところが、
「そ、そんな!」
臼井軍医大佐は、首を勢いよく左右に振った。
「え?」
私は右の眉を跳ね上げた。「臼井大佐どの、栽仁殿下は、他に持病がある訳ではありません。手術に耐えられる体力は十分にあります!直ちに手術をするのが一番の治療と考えます!」
一歩、臼井軍医大佐に向かって踏み出すと、
「それは……それは私もわかっております!」
彼は下を向いた。
「し、しかし、若宮殿下に……皇族のお体にメスを入れるなど……」
臼井軍医大佐の言葉に、栗田軍医大尉が激しく頷いた。
(え……)
「近藤先生……」
先生なら手術出来ますよね、と言おうとした瞬間、
「私も、自信がありません……」
近藤先生が、力無く首を横に振った。
「そんな!先生は今までも、たくさんの手術をなさっているじゃないですか!虫垂炎以上に難しい手術も、数え切れないほど執刀なさっていますし、それに、マリーの虫垂炎の手術だって、先生が執刀なさって……!」
「おっしゃりたいことはよく分かります、殿下」
詰め寄った私に、近藤先生は静かに言った。「もちろん私も、どんな難しい手技が必要な手術もやってのける自信はあります。マリー妃殿下のような外国の王侯も、手術で治す自信があります。しかし、いざ自分が……、日本人の臣下の身に過ぎない自分が、日本の皇族のお身体にメスを入れると思うと、自信が全く無くなってしまうのです。失敗なしに、最後まで手術をやり果せる自信が……」
「近藤先生……」
こんなところで、厄介なものが、栽仁殿下の邪魔をしている。皇族の身体を、臣下が傷付けてはいけない。山階宮の範子妃殿下が、分娩後に出血多量で命の危機に陥った時も、兄がマラリアにかかった時も、その古くからのしきたりが、病気を治す邪魔をした。
(そんなのは……そんなのはイヤだ!助ける手段も知ってるし、出来るのに、しきたりのせいで出来ないなんて!)
「……では、私が執刀します」
「「殿下?!」」
誰が叫んだか、正確には分からなかった。ひょっとしたら、その場にいた全員だったかもしれないし、1人だけだったかもしれない。ただ、皆が驚いているのは、ハッキリと分かった。
「たとえ治療のためであっても、臣下が皇族を傷付けてはならない……ならば、皇族が、直宮のこの私が、皇族の手術の執刀医になるのは問題ないでしょう」
「姉宮さま!」
嬉しそうに叫んだ輝久殿下に、「だから、中尉どのと呼んでちょうだい」と再び注意すると、
「栽仁殿下の治療の全責任は、直宮であるこの私が持ちます。だから私が執刀します。……よろしいですね?」
そう言って、私は周囲を見渡した。
「あ、は、はい……」
臼井軍医大佐が頷いたのを確認すると、私は栽仁殿下に向き直った。
「栽仁殿下。聞いてても分からなかったかもしれないから、キチンと説明する。今、腸の一部分の虫垂という場所が炎症を起こして、痛みが出ている可能性がとても高い。放っておけば炎症が腹部全体に広がって、命取りになりかねない」
「そっか……バイエルンのマリー妃殿下がなったのと、同じ病気ですね」
「そうね」
頷きながら、よく覚えていたなぁ、と素直に思った。私の友達で、今でも手紙をやり取りしているドイツ・バイエルン王国のマリー妃が、日本に来た時に虫垂炎になったのは、もう5年も前のことだ。あの時は、第2助手に入らせてもらって、手術を見学していたけれど……。
「虫垂炎の一番いい治療方法は、今から全身麻酔をかけて手術をして、虫垂を切り取ること。麻酔をかける時間を含めて、30分くらいで終わる。……私が執刀するけれど、いいかな」
「もちろんです」
痛みに顔を歪めながら、栽仁殿下は頷いた。
「手術は怖くないのか、栽仁?」
心配そうな表情で、輝久殿下が尋ねる。
「マリー妃殿下だってやったんだよ、輝久。それなら、軍人になろうとしてる僕だって、乗り越えなきゃ。姉宮さまと一緒なら、きっと出来る」
「……じゃあ、手術の準備を始めていいね、栽仁殿下」
最終確認のつもりで聞くと、
「はい、姉宮さま」
栽仁殿下は真正面から私の目を見つめた。苦しそうではあるけれど、目には強い光が宿っていた。
「仕事中だから、“中尉どの”って呼んでほしいけど……今回だけは許します」
栽仁殿下から目を逸らしながら言うと、私は臼井軍医大佐を呼んだ。
「ここに……手術できるような設備はないですよね?」
ダメもとで尋ねると、
「ございます」
臼井軍医大佐はこう答えた。「3年前に、手術室が増設されたのです。虫垂炎や痔核程度の手術なら可能です。もっと大掛かりな手術は、設備が無いので難しいですが……」
「なら、十分です。ここで手術させてください、臼井軍医大佐」
私が頷くと、
「では、輸液の準備を!」
「抗生物質も要りますよ。ここに置いてあるだけでは足りないかもしれない。大至急、広島の国軍病院に問い合わせて取り寄せを……」
「東京の御本邸にも、連絡を入れなければ!」
その場にいた医師や教職員たちが一斉に動き始めた。
……そして、午後2時20分、海兵士官学校内の手術室。
「島村閣下から、手術室に入る直前に伝言を言付けられまして……」
助手を務めてくれることになった近藤先生が、小さな声で言った。既に彼は私と同じように、手術用のユニフォームの上から滅菌ガウンを着て、手術用の帽子やマスク、滅菌手袋も身につけていた。
「東京にいらっしゃる有栖川宮殿下に、お電話で報告が出来たそうです。有栖川宮殿下が増宮殿下に“万事任せます”と伝えて欲しい、と……」
「分かりました。ありがとうございます」
私も小声で答えた瞬間、
「お眠りになりました」
吸入麻酔を担当している臼井軍医大佐が私に告げた。近藤先生の身体が邪魔になって、栽仁殿下の表情をうかがい知ることはできない。ただ、点滴を入れた清潔なガラス瓶が、照明を受けて鈍く輝いているのが印象に残った。
(術野の消毒もした……あとは、メスを入れるだけ……)
私は息を吐いた。大見得を切ってしまった手前恥ずかしいけれど、やはり、緊張してしまう。でも、栽仁殿下の病気を治せるのは、助けられるのは私しかいない。医師であり、彼と同じ皇族である、この私しか。
「殿下」
介助役として手術に参加することになった新島さんが、低い声で私を呼んだ。
(頑張らなきゃ……妹たちのためにも!)
「じゃあ、始めます。新島さん、メスをください」
新島さんが差し出したメスを、私は握った。
※国会図書館デジタルコレクションの「海軍兵学校沿革」の付図によると、大正8年のものには手術室が記載されていますが、明治45年のものには確認できませんでした。(印刷が悪いだけかもしれないですが……)従って、実際には1908年のこの時点では、海軍兵学校に手術室の設備は無かった可能性が高いです。ご了承ください。




