祖母と孫(2)
「兄上、それ、どういうこと?」
兄の答えを聞いた次の瞬間、私は兄に詰め寄っていた。
「一位局が私に会わないって、本当にそう言ったの?!」
兄をにらみつけた時、私の肩が優しく叩かれた。大山さんだ。
「ここでは、人目が……」
大山さんに囁かれて、周囲に視線を走らせると、駅構内を行き交う人々の目が、私たちに集中しているのが分かった。「増宮殿下と皇太子殿下に似ているような……」「そんなバカな。増宮殿下は広島にいらっしゃるんじゃないのか?」という声も、ざわめきに混じって聞こえてくる。
「馬車に乗ろう。続きはそこで話す。大山大将も来てくれ」
兄が私の右手を握り直す。今度は走り出さなかったので、私も素直に兄について行った。兄は私を馬車に乗せると、
「皇居に向かえ!」
と御者さんに命じた。
「皇居?!一体どういうこと?!」
「落ち着け、それも説明するから!」
「兄上の方が落ち着いてないってば!」
兄妹で言い争っていると、大山さんが馬車に乗り込んで来て、私たちを微笑を含んだ瞳で見つめる。その視線にぶつかって、私も兄も、慌てて口を閉じた。扉が閉まると、私たち3人を乗せた馬車は、静かに前に進み始めた。
「さて、皇太子殿下。最初からご説明いただきましょうか」
大山さんが促すと、兄は軽く頷いて、今までに起こったことを説明し始めた。
“一位局、病状悪化”の知らせは、皇居と青山御殿だけではなく、花御殿、そして、私の異母弟の輝仁さまが現在寄宿舎生活を送っている幼年学校など、私のきょうだいたちの住まいにも伝えられた。そこで、昌子さまたち異母妹全員と輝仁さまが、今朝8時半ごろ、青山南町にある一位局の屋敷に駆け付け、一位局を見舞った。
その際、昌子さまが、
――今、章子お姉さまも、広島からこちらに向かっておられますから、お昼前にはこちらにお見舞いに来られるかと……。
そう一位局に告げると、
――増宮内親王殿下の見舞いは、受けませぬ。
荒い呼吸を繰り返しながらも、一位局がキッパリと返答したのだそうだ。
――どういうことですか?!
――どうして、章子お姉さまに意地悪なことを言うの?!
昌子さま以下、弟妹たちの猛抗議にも、一位局は動じることなく、
――増宮内親王殿下の見舞いは、受けませぬ。
と、一同を睨みつけた。“今日明日がヤマ”と言われている病人とは思えないその気迫に、昌子さまたちはたじろいでしまい、逃げるようにして病室から立ち去った。ちょうどその時、やはり急を聞いた兄夫婦が一位局の屋敷に到着した。玄関で兄夫婦と行き会った昌子さまたちは、病室での出来事を兄に訴えた。弟妹たちから事情を聴いた兄は、一位局の病室に入ると、お見舞いの言葉もそこそこに、
――章子の見舞いは受けぬと申したそうだが、一体いかなる訳か。章子を辱める気か?
と彼女に問いただした。しかし、
――誰が、何とおっしゃろうと、増宮内親王殿下の見舞いは、受けませぬ。
一位局は兄にも強い口調で答えた。重ねてその理由を尋ねても、一位局は答えず、兄をずっと睨みつけるだけだった。埒が明かないと判断した兄は、いったん花御殿に戻り、節子さまを馬車から下ろすと、帰京する私を捕まえて事情を説明するため、急遽新橋駅に向かった……私と大山さんに、兄はそう語った。
「私、一位局に、心の底から嫌われてるんだね……」
兄の話を聞き終わった私は、深いため息をついた。
「梨花……」
「梨花さま……」
うつむいた私の右手を、大山さんがそっと握る。
「どんなに仲が悪い親族でも、臨終の床には呼んでくれるだろうって思ったけれど、それは、私の幻想だったのかな……」
涙がポロっとこぼれた。一位局は、厳しい言葉しか使えない人だけれど、心の底では、実の孫である私のことを心配してくれている……そう感じたこともあるだけに、一位局の言葉が辛い。
と、
「幻想で終わらせてなるものか!」
診察カバンの取っ手を握った私の左手を、兄が上から押さえた。
「兄上……」
「だから参内するのだ。お父様もお母様も、局の見舞いに行くはずだ。その時に取り成してもらえるよう、お父様とお母様に頼めばいい」
「そっか……だから、皇居に向かえ、って言ったのね。ありがとう、兄上……」
私が頭を下げた時、馬車は皇居の車寄せに入った。
お父様とお母様に謁見を申し出ると、私たちはすぐに表御座所に通された。
「章子……!一位局を見舞ってくれたのか?!」
表御座所に入ったとたん、フロックコートを着たお父様が椅子から立ち上がった。
「いえ……行けておりません」
私が素直に現状を報告すると、
「何……?!」
お父様の眉間の皺が深くなった。お父様の顔色は悪く、少しやつれているような気もする。恐らく、夜明け前に一位局の容態が悪化したという知らせが入ってから、ずっと寝ていないのだろう。
「一体どういうことだ。新橋駅から直接、局を見舞うのだろうと思っていたのだが……」
「局が、梨花の見舞いは受けぬと言ったのです」
私たちがここに入るときに、人払いはお願いしてある。兄は私をいつもの呼び名で呼んだ。「昌子たちにも局はそう言いましたし、俺もこの耳で聞きました。理由を聞いても、局は答えません。だから、お父様とお母様にお取り成しを頼めば、局も梨花の見舞いを受けると言うと思いまして、梨花を新橋から連れてきました」
すると、
「お前たちの力になってやりたいのは山々だが……」
お父様は肩を落とした。「実は、美子が今、局の見舞いに行っていてな。朕が局の屋敷に行くわけにもいかぬし……」
(入れ違いになっちゃったか……)
私はため息をついた。これでは、お母様に一位局への取り成しを頼めない。
「行幸はなさらぬのですか?」
大山さんの問いに、
「局の方で断るだろう。病に苦しむ姿を朕には見せたくない、と……。あの人はそういう人だ」
お父様はそう答えて、うつむいてしまった。その時、
「大山閣下、よろしいでしょうか?」
扉の向こうから、徳大寺侍従長の声がした。大山さんがお父様に視線を合わせると、お父様は小さく頷く。大山さんが扉を少し開けると、
「皇后陛下が、一位局さまのお屋敷からお戻りになられまして……」
徳大寺さんはそう報告した。
「いかがなさいますか、陛下」
大山さんの問いに、
「……美子に、こちらにすぐ参るように伝えよ。局の様子も聞きたい」
お父様はすぐにこう返す。程なくして、衣擦れの音がして、亜麻色のデイドレスを着たお母様が表御座所に姿を現した。お母様の顔色は、やはりお父様と同じように悪かった。
「明宮さんに、増宮さん……お2人とも、局どのを見舞ったのですか?」
徳大寺さんが「人払いをしておきます」と言って表御座所を出ていくと、お母様は私と兄の方に向かって、一歩足を踏み出した。
「俺は見舞えたのですが、梨花が……」
「私の見舞いは受けたくないと……一位局がそう言ったそうです。昌子さまたちにも、兄上にも」
兄と私がうつむくと、お母様は「え……」と小さく呟き、目を軽く見張った。
「一位局さまが私のことをそんなに嫌っているなんて、思ってもいませんでした。確かに、価値観は相容れないと分かってはいましたけれど、臨終の床で会ってくれないなんて……」
「増宮さん……」
私に身を寄せるお母様の顔が、悲しげにゆがんだ。
「でも、一位局さまの方で、私が嫌いなら、もうしょうがないです。私は、お父様と兄上を守るために、やれることをやるしかなくて……やったことで“逆賊”とか“大悪人”とか罵られたって、構わないんです。たとえ、私を罵る相手が、祖母であったとしても……」
お母様の手が、私の軍服のジャケットの肩章に触れた。
「増宮さん。局どのは、増宮さんを嫌っているという訳ではないと思いますよ」
「お母様……」
「確かに、昔気質の局どのと、未来に生きた記憶をお持ちの増宮さんとでは、相容れないところもたくさんあると思います。けれど、それが即座に、“嫌い”という感情とつながるとは限りません」
「私も、そう信じたい、ですけれど……」
(“増宮内親王殿下の見舞いは受けぬ”って言われたらなぁ……)
また涙が、じわっと目から湧き出てきた。お母様が私の首の後ろに両腕を回し、身体を抱き寄せてくれる。と、お母様の動きが、不自然なところで止まった。お母様と私の身体の間に、私の持った診察カバンが挟まったのだ。私の時代なら“昔ながらの”と形容されてしまいそうな、黒い革製のがっしりとしたカバンである。
(しまった、カバンが挟まっちゃった。軍装だから、診察カバンも持ってきたけど……ん……?)
――今日は、軍装ではないのですか。
――ええ。軍人として招かれている訳ではございませんので。
6月に、靖国神社の能楽堂で一位局と顔を合わせた時の光景が、ふと、脳裏によみがえった。
(待てよ……?)
「内親王じゃなければ……いいのかな?」
小さな声で呟いたつもりだったけれど、
「増宮さん?」
お母様にはしっかり聞こえていたらしい。不思議そうな表情で、お母様は私を見つめた。
「あの、お母様……内親王としてではなくて、軍医中尉として、一位局さまの往診に行くのは許されるのでしょうか?あ、いや、ベルツ先生が主治医としていらっしゃいますから、そこに手伝いに行く、ということになると思いますけれど……」
そう言ってみて、
(こんなこと、許されるのかなぁ?)
私は不安になってしまった。私は今生で医師免許を取ってから、まだ5年しか経っていない。ベルツ先生の医師としての経験年数には、もちろん遠く及ばない。ベルツ先生を手伝って一位局の診療に当たっているお父様の侍医さんたちも、経験年数はもちろん私の3倍以上はある。そんな医師たちの中に、私が入っていって許されるのだろうか?
(それに、さぁ……嫌われているとは言っても、実の祖母を診察するって……)
と、
「そうか!その手があるではないか、梨花!」
兄が大きな声で言った。
「お父様に、局の診療に加わるように命じていただければよいのだ。勅命であれば、局も逆らうことはできない。それでお前が局を診察すれば、お前と局は顔を合わせたことになる!」
「うん、それはそうなんだけれど……」
口ごもった私に、
「大丈夫ですか、梨花さま?」
大山さんが横から問うた。「様々な感情をお持ちだと思いますが、一位局どのは梨花さまの今生の実の祖母。診察に当たって、冷静なご判断がお下しになれますか?」
「……そう、そこはとても不安。経験年数が私よりはるかに上の先生方に混じれるか、という心配もあるけれど」
流石は、医科分科会にも同席することの多い大山さんだ。私の胸中を、ピタリと言い当てた。
「でも、今はそうするしかないよ、大山さん。私なりに、覚悟はする」
「……そうか」
私の言葉に答えたのは、大山さんではなくお父様だった。
「では章子、そなたに命じる。一位局のところにおる医師たちと一緒に、そなたも一位局の診察と治療に当たれ。……これは、勅命だ」
「……かしこまりました、お父様」
私はお母様から身体を少し離すと、お父様に向かって最敬礼した。




