補欠合格とハーグ事件
1907(明治40)年6月21日金曜日午前9時30分、青山御殿の車寄せ。
「ただいまぁ」
国軍病院での当直勤務を終えた私は、玄関の前で馬車から降りた。見上げた空には、白い雲が一面に広がっている。陽射しが無いから眠気は覚めていかないけれど、これから仮眠するのだからちょうどいい。
「お帰りなさいませ」
玄関で私を出迎えたのは、いつものように黒いフロックコートを着た大山さんだ。彼は靴を揃えて脱いだ私にサッと近づき、私が持っていた診察用のカバンを受け取った。そして、私に身体を更に寄せると、
「お休みになる前に、少しだけよろしいでしょうか?」
と、囁くように言った。
「内密にする方がいいことかな?」
「場合によっては」
「分かった。このまま、私の部屋までついて来て」
「御意に」
私は洗面所で手を洗うと、障子を開けて自分の居間に入る。大山さんは私のカバンを机の端の方に載せると、静かに障子を閉めた。
「人払いは既にしております、梨花さま」
「ありがとう。……さっさと寝たいから、手短にね」
思わず欠伸してしまった口を、手のひらで隠してからお願いすると、
「心得ておりますよ」
大山さんは微笑して、
「満宮さまが、幼年学校に補欠合格なさいました」
と私に告げた。
(?!)
「補欠って……何番目?!」
いっぺんに目が覚めた私は、思わず大山さんに近づいた。
「2位ですね」
「……大山さん、命令していい?」
「何なりと」
我が臣下が頷いたのを確認すると、私は真剣な表情を作った。当直明けで疲れているけれど、これだけは言っておかなければならない。
「幼年学校の合格者や、合格者の保護者達に対して、脅したり、金品や好待遇で釣ったりして、幼年学校の入学を辞退するように仕向けることは絶対にしないで。もし、国軍や宮内省の関係者がそういう動きに出たら、院を使ってでも構わないから妨害して」
命令するのだからと思い、少しだけ重々しい口調でこう言うと、
「それでこそ梨花さまです」
大山さんがニッコリ笑った。
「ですが、ご命令の後半は不要でございます。天皇陛下も、梨花さまと同じことを、井上さんと山縣さんと信吾どんに命じられましたので」
「よかった……」
私は大きく息を吐いた。輝仁さまは、“幼年学校に実力で合格する”と言ったのだ。それなのに、周囲にいる人間が、正当な合格者たちに“皇族に入学の枠を譲れ”と迫ったら、“皇族の身分を利用せず、自分の実力だけで航空士官になりたい”という輝仁さまの思いを踏みにじることになってしまう。
(だけど、お父様が私と同じことを命じてくれたなら……いや、待てよ……)
「そうだ、輝仁さまが補欠合格したってことは、発表されてないよね?」
それが世間に漏れてしまったら、合格者たちが忖度してしまって、輝仁さまに入学の権利を譲ってしまうかもしれない。
すると、
「ご安心を。今回の幼年学校の入学試験に関しては、国軍省から合格者の発表は致しません。もちろん、満宮さまが受験されたことも報道を差し止めました。満宮さまと一緒に受験した学習院の生徒たちにも、満宮さまが受験したことを外に広めないように口止めをしております。様々な理由を申し立てて入学を辞退する生徒は、それでも出てきてしまうかもしれませんが、極力慰留いたします」
非常に有能で経験豊富な我が臣下はこう答えた。ここまで手を打っているなら、安心していいだろう。そこまで考えを進めた途端、緊張が急に解けて、眠気が一気に私を襲った。
「ふぁぁ……もう限界……。大山さん、寝るね。12時半になったら起こして……」
あくび混じりの声でお願いすると、「承知いたしました」と大山さんが微笑した。
「他にも報告事項はございますが、頭を使っていただこうと思いますので、お話はご昼食の後にいたしましょう」
「そうして……うう、お布団に飛び込みたい……」
「その前にお着替えを、梨花さま」
「分かってる……こんなこともあろうかと、出かける前にお布団も敷いてるし、寝巻も出してあるんだから……」
大山さんに反論しているうちに、眠気がどんどん強くなっていく。私は寝室に通じる襖を開けると、逃げるように寝室の中に入り、襖を閉めた。そして、大急ぎで寝巻に着替えると、出勤前にあらかじめ敷いていた布団の中にもぐりこんだのだった。
午後2時。
「さて、梨花さま。当直勤務のお疲れは取れたでしょうか?」
「大体ね」
先ほどと同じく、人払いがされた私の居間。椅子に掛けた私は答えると、大山さんが淹れてくれた紅茶を一口飲んだ。ぐっすり眠ったから、身体の疲れもあらかた消えた。美味しいお昼ご飯も食べられたので、エネルギーもたっぷり充填された。紅茶の香りとカフェインが、まだ寝ぼけていた脳みそを叩き起こしてくれたから、大山さんの問いにも、何とか答えられるだろう。
「じゃあ、報告の続きをお願い」
「承知いたしました」
机を挟んで私の向かい側に座った大山さんは、頷くと静かに話し始めた。
「ハーグの山本さんから、至急電報が入りまして」
「!」
国軍次官の山本さんがオランダのハーグにいるのは、万国平和会議に出席するためだ。万国平和会議は、ロシアのニコライが、まだ皇帝だったころに開催を提唱して、1899(明治32)年に第1回が開催された。今回の会議は、デンマークの国王・フレゼリク8世が開催を提唱して開催されることになったのだけれど、
――デンマークの裏では、フランスとロシアが動いております。フランスはイギリスとドイツ、双方に対する軍備を整えていかなければならない。しかも、同盟国であるロシアの要請で、フランスは“史実”以上に本国艦隊の増強をしなければなりません。余りに増強の速度が速ければ、フランスの財政を圧迫しかねない……そこで、フランスとロシアは列強に軍備制限を掛けようと思い付き、世界平和の大義名分の下に、ロシアとつながりのあるデンマークに万国平和会議の開催を提唱させたようでございます。
と、以前、大山さんが裏の事情を教えてくれた。ちなみに日本からは、山本さんと、外務次官の加藤高明さんが全権として出席している。
「まさか……まさかとは思うけど、“史実”のハーグ密使事件っぽいことが起こった、とか言わないよね?」
「残念ながら、それに近いことが発生しかけたようでございます」
私の質問に、大山さんは答えると軽くため息をついた。
(うわぁ……)
思わず頭を抱えた私に、大山さんは更に詳しい状況を説明してくれた。
“史実”ではこの時期に、ハーグ密使事件が発生している。韓国皇帝・高宗が、韓国の外交権を日本が持つと定めた第2次日韓協約は無効だと世界各国に訴えようとして、各国の代表が集まる万国平和会議を好機と捉え、そこに密使を派遣したのである。しかし、密使たちは平和会議に集まった各国代表団に全く相手にされず、計画は失敗に終わった。更に、当時韓国統監だった伊藤さんが“日韓協約に違反している”と韓国皇帝を詰問し、皇帝の退位を迫った結果、皇帝は退位し、外交権に加えて内政指導権も日本が掌握するという第3次日韓協約が結ばれたのだけれど……。
「ええと、この時の流れだと、朝鮮を保護国にしているのは日本じゃなくて清。“史実”でいう高宗は10年前に袁世凱に暗殺されてて、今の朝鮮国王は統監の袁世凱の言いなり……あれ?それじゃあ、“史実”みたいに、国王が密使をハーグに派遣するなんてありえない……」
「ええ」
大山さんはニコニコ笑っている。そして、じっと私を見つめる。
――梨花さまは、どうお考えになりますか。
彼の優しくて暖かい瞳は、私にそう語りかけていた。
「……袁世凱が金を使って朝鮮の官吏たちを従わせていると言っても、それを快く思っていない官吏もいるかもしれない。官吏だけじゃなくて、商人や地方の有力者たち、もしくは裕福な庶民の中に、袁世凱に反感を持つ人がいてもおかしくない……。まさか、そういう人たちがハーグに行っちゃったの?」
「残念ながらその通りです」
少し突飛な発想だと思ったけれど、大山さんは私の答えに頷いた。「袁世凱を快く思わない地方の有力者たちが語らって、海外に留学している自分たちの子弟をハーグに送り込み、各国の代表団と交渉させようとしたようです。もっとも、その留学生たちは、朝鮮の実態を記した文書を印刷しているところを清の手の者に拘束されてしまったので、各国の代表団に会うことすらできなかったのですが」
「あのさ、大山さん。その人たち、全権委任状なんて持ってないよね……」
全権委任状というのは、各国の代表が外交をするとき、必ず携えていくものだ。もちろん、政府が発行する公文書だから、袁世凱の言いなりになっている朝鮮国王が全権委任状をその学生たちに発給するなどあり得ない。
すると、
「留学生たちは“全権委任状が欲しい”と国元に要請したようなのですが、朝鮮国内で彼らを指揮していた地方の有力者たちとの連絡が上手くいかず、手に入らなかったようです」
大山さんから、予想の遥か斜め上を行く答えが返ってきた。私は思わず机に突っ伏した。
「そ、それ、仮に留学生たちが各国の代表団に会えても、相手にされないで終わるわよ……。まぁ、別に同情する気も、この事態に首を突っ込む気にもならないけど……」
「その通り。我々が手を出していいことではもちろんありません」
大山さんが苦々しい顔で言う。袁世凱に盾突こうとした連中の計画が稚拙であることに、呆れ返っているのは明らかだった。
「清では、袁世凱に命じて、朝鮮の反清勢力の摘発と粛清に乗り出したようです」
「まぁ、そうなるわね」
私もため息をついた。
「……ってことは、清は保護条約を更に強化するかしら」
「恐らくそうなるでしょう。少なくとも、朝鮮の軍隊は解散させるはずです。彼らが反清勢力に同調してしまえば、大規模な反乱につながりますから」
「袁世凱の言いなりになっている国王は、何も考えずに新しい保護条約を承認するでしょうね。問題は、朝鮮の住民が全て新しい保護条約に従うかどうか……」
「反発は、今よりも強くなるでしょうな」
「その反発は、全部清に向けてもらいましょう。朝鮮で起こるゴタゴタに日本が巻き込まれて、いいことなんて一つもない」
私がそう言って紅茶のカップに手を伸ばすと、
「梨花さまも、だいぶ腹黒くなられましたな」
大山さんがニヤッと笑った。
「あなたには負けるわよ」
答えると、私は紅茶を一口飲んだ。朝鮮のことに日本は手を出さない、というのは、日本の外交の大方針なので、別に私だけが考えたことではないのだけれど。
「清は今、朝鮮の首都・漢城から清の奉天につながる鉄道を建設しています。今、奉天から朝鮮の仁川までは完成していますが、今回の件を受けて、建設の速度は更に上がるでしょうな」
大山さんは穏やかな声でこんなことを言う。恐らく、“なぜそうなるのか”という理由は、私が言わなければならないだろう。これも我が臣下が、私に課す鍛錬の一端なのだから。
「清から、大量の軍を追加で朝鮮に送り込まないといけない事態になるかもしれないもんね。鉄道が完成しないうちは、軍艦で送り込むことになるだろうけれど」
「その通りですね。朝鮮が列強の注目を集めないように、反乱は素早く収めなければなりませんから」
「朝鮮にドイツやらアメリカやら、変な国が手を出して来たら、せっかく作り上げた極東地域の平和が崩れるからね」
そこまで言うと、
「よくお出来になりました」
大山さんが笑顔になった。
「今の梨花さまには、少し簡単過ぎたでしょうか」
「何言ってるのよ。頭を使ってすごく疲れたわ。当直明けの人間に聞く問題じゃないわよ、まったく……」
ため息をまたついた私に、
「では、頑張られたご褒美として、菓子を見繕って持って参りましょう」
大山さんは穏やかな声で言った。
「ただ、朝鮮のことが世界の耳目を引かぬよう、処置を施すように……と金子さんにお願いしなければなりません。一度、別館に行って参りますから、20分ほどお待ちいただけますか?」
「紅茶もあなたと私の分、淹れ直さないといけないものね。ただ、あんまりのんびりしていると、輝仁さまが学習院から帰ってきちゃうから、多少は急いで、ね」
もし、輝仁さまがお菓子を運ぶ大山さんに行き会ってしまったら、私の居間でお菓子を食べると言い出すに違いない。ただ、今日だけは、大山さんと2人きりでお菓子を食べたいと思った。私が転勤になってしまえば、大切な臣下としばらく会えなくなってしまうのだから。
「かしこまりました、梨花さま」
大山さんは椅子から立ち上がって一礼すると、私に微笑を向けてくれたのだった。
※実際には、第2回万国平和会議はアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領が発議して開催されています。




