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転生内親王は上医を目指す  作者: 佐藤庵
第43章 1906(明治39)年白露~1907(明治40)年穀雨
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うつらぬものは(1)

 1907(明治40)年4月20日土曜日午後1時40分、盛岡市内。

「どうだ、速いだろう!盛岡一の韋駄天って言われてるんだ!」

 私の乗った人力車は、聖寿禅寺までの道を快調に飛ばしている。私が全速力で走るより速いスピードで駆けながらも、人力車夫さんには話す余裕がある。チラッと後ろを覗くと、私を追う人影は全く見えなかった。

(韋駄天なのはいいんだけどさ……)

 私は前を向くと、もう一度座席のひじ掛けをしっかりつかんだ。盛岡駅から視察した農地まで、そして、農地から県庁までも(くるま)に乗ったけれど、乗っている最中、揺れは殆ど感じなかった。ところが、今走っている道は路面が悪いようで、俥は上下にも左右にも激しく揺れている。ぼんやりしていると、俥の座席から振り落とされてしまうかもしれない。

「すみません!聖寿禅寺まで、この道しかないんですか?!」

 車夫さんに怒鳴るように尋ねると、

「ああ、この道しかないぜ。どうしたんだい?」

車夫さんは逆に私に尋ね返した。

「道が悪いみたいだから、あなたが走り辛いんじゃないかなって心配になって!」

 そう答えると、

「道を改修する計画は、あったんだけどなぁ!」

思いがけない言葉が車夫さんから返ってきた。

「一昨年の冷害で、農家の救済に金を回さなきゃいけなくなって、工事がとん挫したのさ!この春に、増宮殿下が盛岡にいらっしゃるっていう話になったから、お通りになる予定の道だけ、県が慌てて金を工面して改修したって噂を聞きましたよ!」

「冷害で、農民救済?!」

 そんなバカな、と車夫さんに言い返そうとして、午前中に新渡戸(にとべ)先生から受けた説明に思い至った。“早くから畑作に転換できた農家では、冷害による被害も少なかった”……新渡戸先生はそう言った。けれど、その言葉を裏に返せば、“畑作に転換できなかった農家では、冷害の被害が大きかった”となる。

(稲作を続けていた、続けざるをえなかった農家が、冷害の被害をもろに食らったのか……)

 その時、俥が急に止まった。身体が投げ出されそうになるのを、私はひじ掛けをつかみ直して辛うじて堪えた。

「着いたぜ。ここが聖寿禅寺だ」

「ありがとうございました。正規の運賃はおいくらですか?」

 25銭だ、という答えを得て、私は軍服のポケットから財布を取り出す。「じゃあ、5円25銭」と言いながら、お金を車夫さんに渡そうとした時、彼が私をじっと見つめているのに気が付いた。

「あ、失礼いたしました。軍医どのでしたか。そう言えば、増宮殿下が盛岡にいらっしゃるの、今日って聞いたが……まさか、殿下ご本人じゃ、ないですよね……?」

 私が着ている服装を観察しながら、恐る恐る尋ねる車夫さんに、

「ああ、違います。私は殿下と一緒に軍医になった者で、今回の殿下のご訪問に随行しております」

俥を降りた私は慌てて言いつくろった。

「今回、殿下に、“聖寿禅寺と東禅寺を自分の代わりに参拝するように”と命じられまして、取り急ぎあなたの俥を捕まえたという訳でして」

「ははあ、そうでしたか」

 どうやら、車夫さんは私の説明で納得したらしい。私は紙幣と硬貨を車夫さんに渡し、財布をポケットにしまうと、門前の土手に向かった。土手の斜面に、スミレがたくさん咲いているのが目に入ったからだ。

(ちょうどいいや。このスミレを摘んで、お墓に供えよう)

 土手にしゃがみ込んだ私は、スミレを摘むのに熱中した。摘んだスミレが、片方の手のひらではつかめないほどの束になったころ、ふと視線を感じてそちらを見やると、車夫さんが人力車のそばから、私の方を恐々見つめていた。

「どうしたんですか?」

 車夫さんに尋ねると、

「いや、増宮殿下が、この寺を参拝しろっておっしゃったのは、一体どういう訳なのか、気になりましてね……」

彼は私にこう言った。

「このお寺に、南部家の墓所と、戊辰の役で亡くなった盛岡藩士たちの慰霊碑、それから、戊辰の役で刑死した楢山(ならやま)佐渡(さど)という人のお墓がある。それらを私の代わりに参拝するように、と殿下は仰せでした」

 花はこのくらい摘めば十分だろう。空いた手で、軍服に付いてしまった土を払いながら答えると、

「それはありがたいのですが……実はこの寺、今は住職が不在でございまして」

車夫さんはこう言った。

「へ?」

「ええ。ですから、寺域も荒れています。利祥(としなが)さまも、寺に寄進をしたくても出来ない。先代さまに仕えていた家令が相場に手を出して、大事なお(いえ)の納戸金をすっからかんにしましたからね」

(うわぁ……)

 その話は初めて聞いた。南部(なんぶ)利祥さんは、兄のご学友の一人であり、今の南部家のご当主である。そこでそんな騒動が起こっていたとは……南部家の家政顧問をしている原さんなら知っていそうだけれど、主家の恥でもあること、原さんが簡単に外部に漏らすとは思えない。

(お寺も荒れている、お寺までの道の整備も出来ていない……そりゃ、知事さんと市長さんが、“内親王が行くべき場所ではない”って言う訳だ)

 それなら、東條さんのお父さま・東條英教(ひでのり)さんが、知事さんと市長さんの回答を聞いて“仕方ない”と言ったのも納得がいく。東條さんのお父さまは、聖寿禅寺の荒れている現状を知っていたのだ。

「……だからと言って、後戻りはできないですね」

 私は立ち上がると、聖寿禅寺の門をくぐった。すると、なぜか車夫さんも、私の後ろについて歩いてくる。

「あの、ついて来なくても大丈夫ですよ?」

 いったん立ち止まって振り向くと、

「そんな訳にはいきません!あんなにお金をいただいてしまって……ご案内しますよ」

車夫さんは、これ以上ないくらい頭を深く下げながら私に言った。

「私、今は車夫をしておりますが、この地で生まれ育った士族の端くれです。父に連れられて、この寺にも何度か参りました。佐渡さまのお墓にも」

「!」

 私は軽く目を見開いた。

「もしかして、楢山さんに会ったことがあるんですか?!」

「いや、残念ながら……しかし、父は、“立派な方だった”と申しておりました」

「そうですか……」

 これは好都合だ。寺域が荒れていると聞いた時、南部藩の歴代藩主の墓所や楢山さんのお墓を、藪をかき分けながら探さなければならない可能性があることも、一瞬頭をよぎったのだ。案内役がいれば、藪をかき分けて進むのも多少楽にはなるだろう。

「では、あなたにこのお寺の案内を頼みましょう。よろしくお願いします」

 微笑しながら言うと、車夫さんは「はい!」と元気よく頷いた。

※南部利祥さんは、実際には日露戦争の陸戦で戦没していますが、拙作の世界線では日本軍が直接関与する陸戦が発生していないので生存しています。念のため。


※「家令が相場に……」云々は、「原敬と華族―南部家との関係を中心に」(千葉優.弘前大学国史研究 (115), 53-71, 2003-10)を参照しました。本当は原敬日記に該当する記述があるらしいのですが、原敬日記の該当箇所は未見です。ご了承ください。

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