脱走
1907(明治40)年4月20日土曜日午前10時半、盛岡市東部。
盛岡駅から人力車を走らせてやって来た農地では、数人の農民が出て、ジャガイモの種芋を土に埋めている。その隣の畑に並んで生えているのは、麦の芽だ。
「こちらのジャガイモ畑では、昨年は麦を栽培していました。麦畑では昨年は大豆を、あちらの空いている畑では、昨年は大根を植えていました。今年はこれから、この空いている畑で大豆を栽培する予定です」
軍服を着て畑の間の道を歩く私に、斜め後ろの位置から説明してくれているのは、東北帝国大学農科大学の学長に就任した農学者の新渡戸稲造先生……私の時代では、旧5000円札に肖像画が採用された人である。新渡戸先生は、原さんと同じく盛岡藩の出身で、後藤さんに懇願されて“国土調査委員会”の顧問となり、調査結果を基にして、全国それぞれの地域の土質や気候に合った農法を考案した。そして、彼が東北・北海道で強く推奨することにしたのは、小麦・ジャガイモ・大豆・大根など、3、4種類の作物を組み合わせた輪作だった。導入した最初の頃は小麦の値段が低く、収益につながりにくかったけれど、国軍での麦飯の導入や、私と兄が麦飯を食べていることが宣伝された結果、麦の消費量が増えて麦の卸値が上がり、安定した利益が上がるようになったそうだ。
「輪作を行うことにより、農地の環境が変わり、特定の作物に頼って増える害虫の増加が抑制できます。また、土壌に含まれる養分のうち、特定の成分が減り過ぎることもなく、同じ作物を続けて作ることによって発生する収穫量低下も起こりにくくなります」
「はぁ……」
連作障害、というやつだろうか。前世の学校の授業で習った気もするけれど、詳しくは思い出せない。農業については、私は全くの素人なのだ。私は新渡戸先生にあいまいに相槌を打った。
「しかし、同じ土地で続けて栽培しても、収穫量が低下しにくい作物もあります。何かご存じですか、殿下?」
全く分からないので、首を横に振ると、
「水田で栽培する稲が、その一つですね」
と、新渡戸先生は教えてくれた。
「河川から水田に引き入れた水には、山の土から溶け出した養分が含まれます。また、土壌中の酸素が欠乏するので、植物にとって有害な微生物も増えにくくなり、収穫量が低下しにくいのでしょう」
「なるほど……」
私は素直に頷いた。
「しかし、稲は東北や北海道のような冷涼な気候では育ちにくい作物です。確かに、同じ面積当たりで考えると、稲は麦よりも収穫量がある作物ですが、冷涼な地域では、育つ年もあり、まったく育たない年もある、毎年農家が大バクチを打つような作物になってしまいます。それならば、寒さに強い小麦などの作物を育てる方が、農家の安定的な収入につながります」
「確かに、東北・北海道って、冷害が多い土地ですからね」
「はい。だからこそ、東北・北海道での稲作から畑作への転換を政府では奨励してきました。幸い、早くから畑作に転換できた農家では、冷害による被害も少なかったようです。しかし、被害がゼロという訳ではなかったので、冷害に強い品種の開発も進めていかなければなりません」
「それから、農作業の機械化を図ることと、機械を使いやすいように農地整理をすることも必要でしょうか?」
少し分かる話になったので、新渡戸先生にこう言ってみると、
「おお、その通り。着眼点が素晴らしいですね」
新渡戸先生がニッコリ笑った。
(やらなきゃいけないことも、勉強しないといけないこともたくさんあるなぁ……。農業なんて、前世じゃ全然なじみがなかったし)
農作業の風景を眺めながら、私は思った。考えてみれば、この時代、農業は私の時代以上に国の産業として重要だ。概要ぐらいはきちんと押さえておく方がいいだろう。
(今度、御料牧場の視察に行ってもいいかもね。あそこ、確か野菜も育てていたはずだから。そうだ、輝仁さまも、そろそろ乗馬を始めないといけない時期だから、乗る馬を選ぶのについて行って、ついでに農作業の実際を見学しよう。東京に戻ったら、大山さんに話してみようかな)
けれど、まずは今日が、誰にとっても無事に終わることだ。岩手公園見学の予定が、穏便に、私の希望通りに変更になることを、私は心の中で祈ったのだった。
午前11時半、岩手県庁。
人力車に乗って岩手県庁に到着した私は、県庁の応接室で、岩手県の知事さんと盛岡の市長さんから、県政と市政についての説明を受けていた。ちなみに、知事さんの右隣には、原さんがさも当然という顔をして座っている。まぁ、原さんは岩手県から出た初の大臣であり、南部藩の家老職の家の出身でもある。地元で一番の有力者が、この場に立ち合うのは自然な話だ。
行政一般についての説明を受けた後、私は現在盛岡で流行している病気はないか、と市長さんに尋ねてみた。すると、
「ここ1、2年で、結核やトラホームの罹患者が増加している印象があります」
という答えが返ってきた。
「そうですか……」
“トラホーム”というのは、“トラコーマ”のドイツ語読みだ。クラミジアの一種に感染して発生する角結膜炎で、ひどくすると失明する危険がある。私の時代の日本ではほとんど見られない病気だけれど、この時代の日本ではありふれた病気だ。流行しやすい不衛生な環境を作らないよう、厚生大臣だった頃の原さんに頼んで全国に頼んで通達してもらった記憶がある。
(んー、仙台でも、酒田でも同じ質問をしたけれど、“罹患者が増加している”っていう答えじゃなかったな。仙台の市長さんも、酒田の町長さんも、“漸減しつつある”って言ってた……)
考え込んだその時、
「ところで、盛岡の街の印象はいかがですか、殿下」
知事さんが私に質問したので、私は考えるのを止めた。
「そうですね……仙台の街も大きいと思いましたけれど、盛岡も大きい街ですね。道も整備されているようで、人力車に乗っていても揺れが気になりませんでした」
私は、ニッコリ笑って知事さんに答えた。すると、知事さんは一瞬顔をしかめた。
(ん?)
不審に思った次の瞬間、
「そうでしょう。何といっても、元々この地は、盛岡藩の藩庁が置かれていた場所ですから」
知事さんの左隣に座っていた盛岡市長が笑顔で言った。
「盛岡藩の藩領は、廃藩置県・府県統合によって分断されてしまいましたが、その遺風はこの盛岡に脈々と受け継がれています。なればこそ、この盛岡市では教育も盛んで、原閣下や、国軍航空研究所の田中館博士、農科大学の新渡戸博士など、数多の人材を輩出しているのです」
市長さんの言葉に、
「市長どの、そこまでおっしゃらなくとも……」
原さんが謙遜するように返す。いつもの自信たっぷりの原さんの態度から考えると、信じられない光景だけれど、地元の知事と市長を敵に回したくないから、わざとへりくだっているのだろう。
「市長さんは、盛岡の藩政時代のことについて詳しいんですね」
市長さんにこう言ってみると、
「原閣下ほどよい家柄ではありませんが、私も士族で、この盛岡で生まれ育ちましたから」
市長さんは胸を張って私に答えた。
「そうですか……」
(それなのに、聖寿禅寺と東禅寺は、“内親王の行くべきところではない”って言うのか……)
この市長さんは、戊辰の役で新政府軍と戦って死んだ盛岡藩士のことを、どう思っているのだろう?私は分からなくなってしまった。
(そういえば、田中館先生に初めて楢山さんの話を聞いた時、大政奉還の時に、盛岡藩の藩論は割れていたけれど、最終的に楢山さんが旧幕府側に付く方向でまとめあげた、って言ってたな……。もしかしたら、市長さんの家は新政府側に心を寄せていて、それで、戊辰の役で亡くなった盛岡藩士たちにも複雑な感情を抱いているのかも……)
けれど、私はやるべきことをやりたい。皇族として。死者のみんなが思ってくれていたお父様の娘として。
(仙台では行けたんだから、盛岡でも……)
そう思った時、
「どうなさいました、殿下?」
知事さんが不思議そうな表情で私を見つめていた。
「何か、おっしゃったような気がしたのですが……」
「あ、いえ、何でもありませんわ」
どうやら、思うだけでなく、うっかり口も動かしてしまったらしい。私は慌てて飛び切りの笑顔を知事さんに向ける。どうやらそれで誤魔化せたらしく、知事さんも市長さんも原さんも、それ以上は私を問いただすことはなかった。
県庁の食堂での昼食会が終わると、県庁を出て、予定通り桜山神社を参拝してから、岩手公園に向かう。岩手公園は、政府から旧藩主の南部家に払い下げられた盛岡城址の土地を、南部家が岩手県に貸し出し、県が整備した公園である。そのすぐそば、盛岡城の三の丸跡地に、桜山神社が建立されている。盛岡藩初代藩主である南部信直、南部家初代である南部光行、この2人が祀られた桜山神社の境内に、鳥居と神門をくぐって入り、参拝する。本殿に向かって最敬礼した時、私は心を決めた。東條さんに今朝渡した封筒は、残念ながら役に立つことになってしまった。
(神門を出たら、左に曲がって真っすぐ……)
前世で盛岡を訪れた時の記憶と、先日、本屋で購入した盛岡の案内本を見て覚えた盛岡の地図を、頭の中に思い浮かべる。私が訪問しているので、桜山神社の境内にも、県庁から神社までの道にも、盛岡の住民が集まっていた。その群衆を整理するために、警官も何人か出ているけれど、全員、群衆の方を見ていて、私に注意を払っている人はいない。騎馬に乗った警察官は、警備には出ていなかった。
(よし……!)
「では、殿下、次は岩手公園の方へ……」
県知事さんが私に話しかけた瞬間、私は無言で、元来た方に向かって全速力で走り始めた。
「で、殿下あああああ?!」
東條さんの悲鳴が聞こえたのは、私が神社の門をくぐり、すぐ左に曲がって20mほど走った時だった。軍帽を取りながら、ちらっと後ろを振り返ったけれど、私を追って来る人間は誰も見当たらない。
(ふっ、判断が遅い!)
もし、大山さんが境内にいたら、走り出そうとした瞬間、私は後ろから抱きしめられていただろう。完全に虚を衝かれた形になったとは言え、油断し過ぎである。だからと言って、走る速度を落とす気はさらさらないけれど。
走っている道には、警官の姿は全くなかった。道行く人も普通に歩いている。後ろから私を追う気配もいまだに感じられない。会津兼定さんが打った軍刀を持っているというハンデはあるけれど、小さいころから兄に鍛えられ、更に軍医学校時代にトレーニングで向上したこの逃げ足、勝てる者は殆どいないのだ。
(とはいえ、道には不案内だから、人力車をどこかで捕まえたいな)
そう思いながら走っていると、前方の四つ角に1台だけ、人力車が停まっているのが見えた。
「すいません!」
私は近づきながら、車夫さんを呼んだ。
「ん?」
ひょこっ、と紺色の半纏を着た車夫さんが顔を出す。中年で、がっちりした体つきをしていた。
「北山の、聖寿禅寺まで行ってほしいんです、大急ぎで!」
「あいよ、乗ってください」
車夫が人力車の座席を指さす。急いでそこに座ると、すぐに俥は動き始めた。
「その人力車、停まりなさい!」
後ろからは、男性の絶叫が聞こえる。どうやら、私にようやく追いすがってきた警官のようだ。
「う、後ろから呼んでるの、この俥のことか?」
車夫さんが速度を緩めかけたので、
「止まらないでください!」
私は必死に叫んだ。「私、怖い人たちに変な言いがかりをつけられて、追われてるんです!きっとその人たちだわ、追ってきてるのは!」
「な、何だって?!」
「無事に聖寿禅寺に着いたら、5円あげます!俥代と別に!」
この時代の5円は、私の時代だと、8万円から10万円ぐらいの価値になるだろうか。岩手公園から聖寿禅寺までは地図上だと2kmほど。盛岡の案内本に書いてあった人力車の相場だと、2km人力車を走らせても、運賃は50銭もかからないと書いてあったけれど……。
すると、
「うおおおおおおおっ!」
突然、人力車のスピードが上がった。私の全速力よりも速いその速度に、危うく手に持った制帽を取り落としそうになり、私は慌てて制帽をしっかり握りしめる。そんな座席の様子はお構いなしに、
「美女の頼みを断るなんて、南部の男の名折れなんだよ!」
車夫さんは大量の土ぼこりを舞い上げながら、目的地に向かって韋駄天のように駆けていく。人力車から振り落とされないよう、私は必死に座席のひじ掛けにつかまったのだった。
※念のためお断りしておきますが、この時期の宮城・岩手・山形の疾病罹患状況については架空のものです。




