第6回内国勧業博覧会
1907(明治40)年4月9日火曜日午後2時、上野公園。
「んー、いい天気!やっぱり、上野の桜は奇麗ですねぇ」
若草色の着物に紅い帯を締め、顔に銀縁の伊達メガネを掛けた私は、人波に揉まれながら、辺りの景色を眺めて歩いていた。今日は国軍病院の仕事はない。帝国大学病院の勤務も無い日なので、微行で出かけている最中だ。
と、
「本当に美しい景色ですね、宮さ……」
水色に波の模様を散らした着物姿の千夏さんが、とんでもない言葉を口にしようとした。私は彼女の口を押さえると、腕をつかんで道の端へと引きずっていった。
「ち、千夏さん!今は私、“お嬢さま”ですよ、“お嬢さま”!」
小声で厳しく注意を飛ばすと、
「そ、そうでした。大変、失礼いたしました」
千夏さんが身を小さくして謝罪する。
「……気を付けてくださいね。もし私の正体がバレたら、せっかくの休日が台無しになっちゃいますから」
私はそう言いながら、周囲に視線を走らせる。幸い、道の端に立ち止まっている若い女性2人組に不審な目を向ける通行人はいない。道行く人はみんな、それぞれの目的地に向かい、ある人は胸を期待に膨らませながら、ある人は緊張しながら両足を動かしている。私は千夏さんの方を振り向くと、「ついでだから、目的地をもう一度確認しましょうか」と言って、持っていたカバンから先日本屋で購入した案内本を取り出した。
先月の20日から、この上野では、第6回内国勧業博覧会が開催されている。“史実”で同じ時期に開催された東京勧業博覧会より、出展数は大幅に増えたので、展示施設も増加している。7月に、幼年学校の受験が終わっているはずの輝仁さまと一緒に公式に訪問する予定になっているけれど、1日で展示をすべて回るのは絶対に無理だろう。そこで、今日は微行で、公式訪問では回れない展示施設を見学することにしたのだ。もちろん、博覧会の入場料の8銭は、入り口できちんと支払っている。
「外国館や機械館は、公式訪問の時に見学することになっていますから、今回はなしですね……」
「農業館は7月には回りませんから、そちらをご訪問なさるのはいかがでしょうか?」
「いいですね。それから、売店には行かないと。母上に、造花をいくつか買うように頼まれていますから」
額を合わせながら千夏さんと相談していると、
「染織館にも行きましょう、お嬢さま」
と千夏さんが明るい声で言った。
「染織館?確かに、7月の時は回りませんけれど……」
染織館には織物や染物、刺繍や、縫製された和服・洋服が陳列されているそうだ。私の場合、服は今持っているもので十分に足りているし、着飾ることにすごく興味があるわけでもない。だから染織館には、今日は寄らないでもいいと思っていたのだけれど。
すると、千夏さんは急に声を潜めた。
「大山閣下からのお言伝でございます。“本日はぜひ、染織館にお立ち寄りになりますように”と」
「……それを早く言ってください」
そうなれば話は別だ。非常に有能で経験豊富な我が臣下からそのような要請があったとなれば、私はそれに従って染織館を見学するしかない。私は千夏さんを引っ張るようにして染織館に向かった。
西洋建築の染織館の玄関ホールには、明け方の空に何十羽もの鶴が群れを成して飛んでいく様子を表現した大きなタペストリーが、吹き抜けになった2階の天井から1階の床に向かって吊るされていた。建物の中には、豪華絢爛な模様が染め抜かれた反物や奇麗に仕立てられた洋服が整然と陳列されている。と、見学していた千夏さんの足がある反物の前で止まった。流水の上に赤いバラの花と桃色の羽の蝶が舞っている模様の反物で、バラは金糸で、蝶は銀糸で縁取られている。一見して、良家のお嬢様がよそ行きの着物に使いそうな豪華な柄だと思った。
「へぇ、千夏さん、こういう柄が好きなんですね」
反物に見入る千夏さんに話しかけると、
「だって、奇麗じゃありませんか」
千夏さんは反物から目を放し、私の方を見た。
「お嬢さまはこういう反物、欲しくなりませんか?」
「奇麗な柄なのは分かるけれど、欲しくはならないですねぇ……」
内親王という立場上、公式行事などで着飾らなければならない時があるのは分かっている。けれど、それ以外のプライベートな時間は、華美な服を着るつもりはない。すると、千夏さんが私を見る視線が、急にきつくなった。
「お嬢さま」
「は、はい」
思わず姿勢を正すと、
「お嬢さまは、もっと着飾るべきだと千夏は思うのです」
千夏さんは私をにらみつけるように見つめたまま、こんなことを言い始めた。
「そうなされば、お嬢さまは、今より更に美しくなります」
「……こんな派手な柄の着物、いつ着るんですか」
呆れながらツッコミを入れると、
「北白川宮の若宮殿下がいらっしゃる時にお召しになればよろしいではありませんか」
乳母子は小さく、しかし反論を許さないような声で言った。
「若宮殿下もですが、久邇宮の鳩彦王殿下や稔彦王殿下も、お褒めになると思います。それから、海兵士官学校の長期休暇で、北白川宮の輝久王殿下と有栖川宮の若宮殿下が東京にお戻りになれば、きっとお嬢さまの美しさをお褒めになられます」
(た……栽仁殿下が?)
突然、私の脳裏に、お正月に高輪御殿に行った時に見た栽仁殿下の微笑が鮮やかに浮かんだ。昨年、酔っぱらって意識を失う刹那に感じた、力強くて優しい暖かさが身体を駆け抜け……。
(?!)
私はとっさに右手で自分の頬を叩いた。また、栽仁殿下のことで動揺してしまっている。これではいけない。軍人としても、内親王としても、鍛錬が全然なっていない。
(しっかりしろ、私!こういう時に動じないように、剣道も医術も修業してるんじゃないの!)
「お、お嬢さま、どうなさったのですか?!」
目をまん丸くした千夏さんに、「あ……ちょっと、気合を入れようと思って」と慌てて誤魔化すと、私は彼女の手をつかみ、次の展示品の前に移動した。
染織館を出て、林業館を見学すると、不忍池のほとりに立ち並んだ売店へと向かう。各道府県も物産PRのために出店しているけれど、国内外の企業も多数出店している。ゆっくりと歩きながら、私と千夏さんはそれぞれ欲しい商品を探し始めた。
「見てください、お嬢さま。絵葉書がたくさん売っていますよ!」
絵葉書屋の店先で、千夏さんが何枚かの商品を私に示す。一番上になっている絵柄は、真っ白い軍服を着た女性……どう考えても、私を描いたものである。
「これ、すごく上手な絵です!千夏、買ってきますね!」
軽い興奮状態になっている千夏さんに、「勝手にしなさい……」と私はため息をつきながら答える。絵葉書はここ2、3年、流行しているけれど、私を描いたものがまた増えているような気がする。千夏さんは喜んでいるけれど、私としては迷惑でしかない。自分の顔が絵葉書を通じて広まったら、微行がやりにくくなってしまう。
次に私が入ったのは文房具屋さんである。職場で使っていた鉛筆が短くなって書きづらくなってきたので、新しいものを買おうと思ったのだ。いつも使っている国産の鉛筆を見つけたので、店員さんにお勘定を頼んでいると、千夏さんもお店に入ってきた。彼女は真っすぐに紙が置いてあるエリアに向かい、原稿用紙の束をいくつか持った。
「千夏さん、そんなに原稿用紙を買って、何に使うの?」
すると、千夏さんの表情が強張った。
「あ、いや、その……」
一体どうしたことだろう。いつも元気な千夏さんの声が、自信なさげに震えている。なんだか、脂汗もかいているように見える。
(あ、これ、聞いたらいけないやつかな……?)
もしかしたら、同人誌の原稿を書いているのかもしれない。“同人誌”と言うと、私の時代だとアニメや漫画の2次創作を扱うものが大量に出回っていたけれど、この時代だと、同じような文学思想を持った人たちが集まって発行した雑誌のことを指す。有名な同人誌だと、書店に置かれていることもあるけれど、仲間内だけで読まれる同人誌も多い。
(本屋さんにも置いてあるような同人誌かな?もし、可能なら読ませてもらいたけれど……)
考えているうちに、千夏さんはさっさとお勘定を済ませ、強張った表情のまま、
「さぁ、お嬢さま、行きましょう」
と、私の手をつかんで、引きずるようにして文房具屋さんから出ていく。彼女はそれ以上の言葉を口にしなかったけれど、態度は明らかに、「これ以上は絶対に聞かないでください!」と語っていた。まぁ、誰だって、秘密にしておきたいことの一つは持っているものだ。私はこれ以上乳母子を追及しないことにした。
午後5時。
「お嬢さま、結構たくさんお買い物をなさいましたね。お出かけの前は“そんなに買うものがあるのかしら”とおっしゃっていたのに」
両手に荷物を提げた私を、千夏さんが満足そうに眺めていた。
「品物を見ていたら、色々と買わないといけなかったのを思い出しましたから」
私は千夏さんに微笑を返す。
「花松さまから言づけられた造花はもちろんですけれど、歯磨き剤に櫛、湯飲み茶わんにマッチ、ハンカチーフに西洋ろうそく、座布団にお線香、温度計に懐中時計……愛知県の売店では、八丁味噌をお買い上げになりましたし」
「職場の仕事に必要なものがほとんどですね。八丁味噌は私が大好きだからですけれど。そう言う千夏さんも、結構たくさんお買い物をしてましたね。ハンカチーフと糸を買っていたのは、刺繍をするんですか?」
「はい、花松さまに教えていただこうと思いまして」
「もし出来上がったら、私にも見せてくださいね。じゃあ、人力車を捕まえて帰りましょうか」
「はいです!」
千夏さんは元気よく答え、流しの人力車を探し始める。彼女の横顔を見ながら、
(千夏さんは誤魔化せた……)
私は内心、ホッとしていた。
実は、今日の買い物には、八丁味噌以外にも、職場では使わないものが混じっていた。それを今日買ったのは、普段の微行のついでに買ってしまうと目立ってしまい、私が何を考えているか、すぐに千夏さんに露見してしまいそうだからだ。
(木を隠すなら森の中、物を隠すなら物の中……大山さん相手ならバレるけど、千夏さん相手なら大丈夫みたいね)
本当は、こんな手段に訴えることなく、正々堂々と目的地に向かえればいいのだ。でも、それが許されないのであれば、強行突破するしかない。隙を突けば可能だろう、というのは、先日、博覧会の案内と一緒に買った案内本を見て確認した。
(たぶん、今日も護衛が陰から私に付き添ってる。その人の報告を聞いて、大山さんが止める方がいいと思うなら、私にちゃんと言うでしょう。でも、もし大山さんが私を止めなくて、訪問先も変わらないってことなら……)
春分を過ぎた太陽はようやく西へと傾き始め、道行く人を暖かく照らしている。その陽射しの中で、私は密かに決意を固めていた。
※1907(明治40)年の東京勧業博覧会の入場料は大人10銭ですが、物価上昇が拙作の世界戦でそれほど起こっていないことを考慮し、博覧会の入場料は8銭に設定しました。




