1907(明治40)年3月の梨花会
1907(明治40)年3月9日土曜日午後2時、皇居内の会議室。
「滞りなく、日英同盟の更新を終えて参りました」
昨日、イギリスから帰国したばかりの伊藤枢密院議長が、上座に座ったお父様とお母様に深々と一礼した。
1月上旬、伊藤さんと外務大臣の小村さんとが交渉した結果、日英同盟が無事に更新された。同盟の範囲は極東と、インドまでを含むアジア地域だ。そして、締結国が1国以上と交戦状態になった場合、同盟国は締結国を助けて参戦することに変更された。ちなみに、同盟の有効期限は10年間に延長されたから、1917年1月まで有効ということになる。
「うん、無事に各国との条約改正も終わったから、外交的には大きな山を越えたな。小村でやり遂げられるか心配だったけど、次官の加藤の助けで何とかなった。小村も加藤もご苦労さんだった、ってとこだ」
井上総理大臣が満足そうに頷く。昨年から始められた条約改正交渉は順調に進んで、昨年10月に完全に関税自主権が日本の手に取り戻された。“史実”でもそうだったように、小村さんは関税自主権の回復の交渉に取り組んだ外務大臣になったわけだ。“史実”より数年早いけれど。
と、
「ところで伊藤閣下。各国の建艦状況はいかがでしたか?」
下座の方から、斎藤参謀本部長が手を挙げて話しかけた。
「伏見宮殿下に随行した島村海兵少将とも一緒に確認したがね、イギリスとドイツに関しては、おおよそ“史実”通りに進んでいるようだよ」
伊藤さんが渋い顔をして答える。現在のドイツの海軍大臣・ティルピッツさんは、ドイツの海軍を世界一の艦隊に……すなわち、イギリス海軍と同等以上のレベルにまで成長させようと目論んでいる。何かと血の気の多い皇帝・ヴィルヘルム2世がその提案に乗らない訳が無く、ドイツの艦隊は“史実”と同じように拡充されている。一方、ドイツを仮想敵国とするイギリスもドイツの動きを警戒し、“ドレッドノート”をはじめとする軍艦を次々と建造している。
「しかし、民主党政権が続くアメリカは、海外領土に対する野心が全く無く、軍艦を積極的には建造していない。そして、ドイツと国境を接しているロシアも、建艦の速度は“史実”と比べると大幅に低下している……」
伊藤さんはそう言うと、私に視線を投げた。どうやら、私に答えろということらしい。まったく、帰国早々、本当に容赦がない。
「まず、ミハイル2世の内政重視の方針が影響しています」
私は一つため息をつくと、伊藤さんに回答を始めた。
「それに、極東戦争により、ロシアの海軍の人材はかなり損耗しました。だから、バルト海で軍艦を建造しても、軍艦を動かす人を育てるのに時間がかかります。それが分かっているから、軍艦の建造速度が遅いのかな、と思います」
「ほう、その場合、ロシアに海路ドイツ軍が攻め込んでくれば、ロシアが簡単に侵略されてしまいそうですが……」
すかさず、西郷国軍大臣から、私の回答にツッコミが入れられる。ただ、これは一応、想定の範囲内だ。私は西郷さんの方に向き直った。
「海上防衛は、同盟を組んでいるフランスの艦隊に出動を依頼して何とかしようとロシアは考えていると思います。それから、ロシアの陸軍は無傷だったわけですから、報復措置の一つとして、陸路ドイツに攻め込んでもいいわけです」
「ご明察。ロシアの海軍司令官のマカロフ提督が、彼我の海軍力を冷静に分析しているからこそ生まれた防衛戦略ですね」
隣に座っている大山さんが、微笑しながら私の頭を撫でる。どうやら、この件に関しては、梨花会の面々の満足の行く回答が出来たようだ。もちろん、これから質問が更に飛んでくる可能性があるので、油断はできないけれど。
すると、
「だからこそ、我が国が極東戦争で鹵獲した軍艦が売れる訳ですね!」
高橋大蔵大臣がとても嬉しそうに、首を何度も縦に振った。
(……?)
高橋さんが言っていることが、私によくわからなかった。どうやら私の向かいに座っている兄も同じようで、首を傾げている。確か、鹵獲した軍艦のうち、巡洋艦の“アスコリド”と“ボガトィーリ”は、新イスラエルに売却したはずだけれど……。
「では、これは皇太子殿下に答えていただきましょうか」
兄の表情の変化を見逃さなかった山本国軍次官が、ニヤッと笑った。本当に、梨花会の面々は油断も隙もない。
「新イスラエルには、更に軍艦を増備する理由はない。強いて言えば清だが、列強の新領土を獲得したいという思惑が清に向けられている訳ではないから、更に防備を固めるという気持ちは薄いだろう。あとは、また建艦競争を始めてしまったチリとアルゼンチン……いや、待てよ、話の流れも考えると、フランスか?フランスの本国か、もしくは東洋艦隊……」
考えながら話す兄に、「お見事です」と横から声が掛かる。国軍大臣官房長兼軍務局長の桂さんだ。
「ロシアからの防衛要請もあり、フランスは“史実”以上に本国艦隊の増強をしなければならなくなっております。そこで考えたのは、各植民地に派遣している軍艦を本国に呼び戻すこと。しかし、余りに呼び戻し過ぎると、今度はドイツが各植民地に派遣している軍艦に、フランスの植民地が脅かされます。そこで、一線級の軍艦でなくても構わないので、植民地に派遣する軍艦を手に入れる必要が出てきました。それで、我が国に対し、鹵獲したロシアの軍艦を売却してくれないかと打診があったのです。おかげで、“初瀬”の代艦にした戦艦“レトヴィザン”以外の戦艦1隻・巡洋艦5隻、それなりの値段で売却できました」
「“ドレッドノート”のせいで時代遅れになってしまうと分かっている鹵獲艦、修理して使ってもしょうがないですからね。“史実”ではそれで失敗してしまいましたが、今回はその轍は踏みません」
斎藤さんがそう言って小さく頷くと、
「その売却益と浮いた修理費で、無事に“一式飛行器”が出来ましたから、航空局長としては喜ばしい限りですな」
児玉さんがニコニコ笑いながら言う。“一式飛行器”は、国軍航空研究所が開発した量産に適した新しい飛行器で、エンジンは80馬力となり、150kmほどの航続距離がある。昨年9月に開校した国軍航空士官学校も国軍航空学校も、そして民間航空のパイロットを養成する国立航空学校も、入学試験の倍率が10倍以上になったそうだ。
「飛行器もよろしいのですが、参謀本部長。私は新しい装甲自動車に興味がありまして。それから、戦車はまだ出来ないのですか?」
兄の隣に座っていた有栖川宮威仁親王殿下が、目を輝かせながら斎藤さんに尋ねる。流石は、東京府の自動車免許第1号を持っている“自動車の宮様”だ。国軍の新兵器にも並々ならぬ興味を持っているらしい。
と、
「戦車か……朕も乗ってみたいのう」
今まで黙っていたお父様が言い、斎藤さんが恐縮したように頭を深く下げた。
「お父様、それならば、まず自動車を買い上げるところからでは?戦車にお乗りになるのはそれからでも……」
斎藤さんの様子を素早く見て取った兄が、すかさず斎藤さんのフォローに入る。
「うーん、買い上げるにしても、もう少し自動車が市中に普及してからだな。それまでは、威仁の話を聞いて楽しむことにしよう。買い上げたら、いよいよ戦車かな」
「は……」
威仁親王殿下が一礼する。実は転生してから、私は一度も自動車に乗ったことがない。いずれは自動車の免許も取りたいけれど、今は医術と剣道の修業が忙しい。痔核や鼠経ヘルニア、虫垂炎の手術はすべての過程で術者を任されるようになったし、胃の切除術も、最初だけは術者をやらせてもらえるようになった。自分の手で出来ることが増えているので、仕事が楽しくなってきているのだ。
(自動車の免許を取るのは、老後の楽しみかしらね。でも、あんまり年を取ってから練習を始めたら、余り上手くならないかなぁ……うーん、どうしよう……)
梨花会が終わるまで、私はしょうもないことで真剣に悩んでいたのだった。
午後3時半。
「増宮さま」
梨花会が終わり、荷物と服装を整えて会議室から退出しようとした私を、宮内大臣の山縣さんが呼び止めた。
「少しよろしいでしょうか」
そう言いながら近づいてくる黒いフロックを着た山縣さんに、
「あ……ごめんなさい、山縣さん。月曜日に出された和歌の課題、まだ出来てないです……」
私は先手を打って深々と頭を下げる。
「いや、増宮さま、そちらの話ではなく……」
山縣さんはそんな私に苦笑を向けると、「先日仰せになられた、東北ご訪問の件ですが」と言った。
「……すみません、早とちりをしてしまいました」
そう言いながら、会議室を見回してみる。ほとんどの出席者は、既に会議室から退出していた。もちろん、原さんも会議室の中にはいない。少しほっとした私は、山縣さんに向き直った。
「盛岡での訪問地に、聖寿禅寺と東禅寺を加えたいという仰せでしたので、岩手県と盛岡市にわしの名前で問い合わせましたが……岩手県も盛岡市も、“内親王殿下が御成りになるべき場所ではない”と回答してまいりました」
「そう、ですか……」
私はうつむいた。南部家の歴代藩主の墓所がある聖寿禅寺と東禅寺。そして、聖寿禅寺には戊辰戦争で亡くなった盛岡藩士の慰霊碑と、盛岡藩の“反逆”の責任を取り、斬首された楢山佐渡さんのお墓がある。
「公式な訪問なら、訪問地を治めた先人の霊には挨拶するべきだと思います。それに、戊辰の役での犠牲者は、敵も味方もお父様を思って戦いました。だからこそ、敵味方の区別なくお父様の子としてお礼を申し上げて、ご冥福をお祈りしたいと……」
不意に、しゃくり上げるような声がして、私は顔を上げた。私の前に立っている山縣さんが、目頭を押さえながら、激しく泣いていた。
「ちょ……山縣さん?!どうしたの?!」
思わず駆け寄って腕をつかむと、
「ああ……申し訳ありません……」
山縣さんは必死に呼吸を整えながら涙をぬぐい、私を見つめた。
「幼いころからそうでしたが、やはり増宮さまはお優しいお方でございます。敵味方の区別なく戦死者を思われるそのお優しいお心に感激いたしまして、つい……」
「そうだったんですか……。でも、そうか。山縣さんが問い合わせても駄目だったんですね」
「はい……」
山縣さんは再び目を潤ませながら、私に一礼する。戊辰戦争で新政府軍の一員として戦った山縣さんだ。旧幕府軍の歴代藩主の墓所をお参りしたい、旧幕府軍の戦死者の慰霊碑に手を合わせたいという私に、色々と思うところはあるだろうけれど、彼は私の希望をかなえようとして動いてくれた。……いや、もしかしたら、彼も本当に、旧幕府軍の戦死者たちを蔑むのではなく、味方の戦死者と同じく冥福を祈るべき存在なのだと思っているのかもしれない。そうでなければ、こんなに泣くことはないだろう。
「梨花さま」
ずっと私の後ろに控えていた大山さんが声を掛けた。「いかがいたしますか。岩手県と盛岡市に圧力を掛けても構いませんが……」
「いや、いいよ」
私は非常に有能で経験豊富な臣下を慌てて止めた。
「あなたが圧力を掛けると、無用な血が飛び散りそうな気がするし」
「おや。流血のない方法はいくらでもございますが……」
「あのね、拷問とか脅迫とかもやめて。流石に、慰霊絡みのことで人の恨みを買うようなことはしたくないわ」
なぜか肉食獣めいた笑みを見せる大山さんに、私はため息をつきながら命じる。すると、大山さんは素直に私に頭を下げた。どうやらわかってはくれたようだ。
「そうね……前世で岩手公園に行った時、三の丸の跡にある桜山神社にお参りしたの。その神社は、南部家の何人かのご当主を祀っていたから、そこに参拝する。それだったらいいでしょう」
でも、今の時代、桜山神社は建立されているのだろうか。流石に、私もそこまでは記憶していない。
(自分でもちゃんと、盛岡の案内記を買って、調べる方がいいな……)
とりあえず、今度の微行の行き先は本屋にしよう。会議室を出た時、私はそう決めたのだった。




