「弟分」
1907(明治40)年1月4日金曜日午前11時、麴町区富士見町5丁目にある山階宮菊麿王殿下のお屋敷の一室。
「はい、聴診も特に問題ありません」
私が耳から聴診器の耳管を外しながら声を掛けると、
「ああ、よかった」
茶色の和服を上半身だけ脱いで私に背中を向けた山階宮菊麿王殿下が、明らかに安心した声で言った。
「じゃあ、注射が出来ますね、増宮さま」
脇で正座している範子妃殿下も、ホッとしたように私に言う。山階宮殿下との3人目の子の分娩の際、癒着胎盤があったために緊急で子宮全摘出の手術を受けてから5年以上が経過しているけれど、範子さまも、その時生まれた安子さまもとても元気だ。
「もちろんです、範子さま。じゃあ、今から注射の準備をしますね」
私は山階宮殿下と範子さまに微笑むと、出していた診察道具をカバンにしまい、注射の準備を始めた。
昨年の10月から、私は毎週金曜日、この山階宮殿下のお屋敷に通い、山階宮殿下の診察をしている。それにはちょっとした理由があった。
昨年の秋季皇霊祭の時、儀式が終わって、皇居で大山さんが迎えに来るのを待っていたら、私と同じく秋季皇霊祭に出席していた山階宮殿下に、
――増宮様、お願いしたいことがあるのですが、よろしいですか?
と声を掛けられた。
――はぁ……何でしょうか。
山階宮殿下は、私と年齢が近いけれど、私を怖がらない稀有な男性皇族である。ただ、有栖川宮威仁親王殿下ほど交流があるわけではない。不思議に思いながらこう答えたところ、
――実は私、昨日、東京帝大の三浦先生に肺結核だと診断されまして。
山階宮殿下は、私が思いもかけなかったことを言った。
――そうだったんですか……。
――いったん国軍を休職して、結核の2剤併用療法をすることにしたのですが、毎週1度、シズオカマイシンの筋肉注射をするために、東京帝大病院への通院が必要だと三浦先生に言われてしまったのです。ただ、私が東京帝大病院に毎週通ってしまうと、職員の方々にご迷惑が掛かるのではないかと心配しておりまして……。
――あー、それは確かに……。
私は何度も首を縦に振りながら言った。私も東京帝大病院で非常勤勤務をしているけれど、“止めるように”と病院長に何度もお願いして通達してもらっても、私の姿を見かけた職員さんたちが、仕事の手を止めて私に最敬礼してしまうのだ。恐らく、山階宮殿下が治療のために通院する時も、同じような状態になるだろう。
――ですから、増宮様に主治医になっていただいて、結核の治療をしたいのですよ。そうすれば、増宮様に毎週我が家でシズオカマイシンの注射をしていただけますから……。
――あ、あの、私が注射をしに行くのは大丈夫ですけれど、私が主治医、ですか?
思いがけない言葉に目を丸くして問い返すと、
――ええ、増宮様は、範子の命を救ってくれたお医者さまですから。
山階宮殿下は微笑しながら即答した。
――だから、私もそのお医者さまの治療を受けたいと思ったのです。……わがままでしょうか?
どうしたらいいかわからなくなった私は、“後日返事をする”とだけ山階宮殿下に答え、青山御殿に帰った。そして、彼に診断を下した三浦先生に急遽青山御殿に来てもらい、経緯を話して“どうすればよいか”と三浦先生に尋ねた。
すると、
――増宮さまが山階宮殿下の主治医になるべきでしょう。
三浦先生は穏やかな表情で、けれどキッパリと私に答えた。
――それは、山階宮殿下が、増宮さまを医師として信頼なさっている証です。もし、ご勤務やご公務が重なって、山階宮殿下のところに増宮さまが御成りになれない場合は、我々もお手伝いをいたします。ですから、どうか山階宮殿下のお願いをお聞き届けいただきますように。
それで、昨年の10月から、毎週金曜日に、私は山階宮殿下のお屋敷に往診に通っている。山階宮殿下の診察をして、体調に問題が無いことを確認してから、シズオカマイシンの筋肉注射をするのだ。最初の1回目の注射こそ、相手が皇族だということで、普段の注射の時より緊張したけれど、自分も彼と同じ皇族なのだと思い直したら心が落ち着いて、普段通りに注射が出来た。翌週以降は、特に問題なく治療をこなしている。
「これで4か月目に入ったわけですね」
注射を終えてきちんと服を整えると、山階宮殿下は私に微笑を向けた。
「そうですね。年末に帝大病院で撮ったエックス線写真も、9月のものより良くなっていました。順調に治療が進んでいますよ」
そう山階宮殿下に答えてから、「そうだ、殿下にはあらかじめ言っておきますね」と私は言った。
「実は、4月に、お目にかかれない時期がありそうなんです。公務で東北に行くことになったので」
元日にお父様に命じられたことを伝えると、
「東北ですか……」
山階宮殿下は、遠くを見るような目になった。
「公務と言うと……国軍の演習にでも行かれるのですか?」
「いえ、東北帝国大学の開校式です」
帝国大学を今の東京・京都の2校から増やそうという議論は以前からなされていたけれど、極東戦争の終結とともに、その計画が急ピッチで進められた。そして、京都帝国大学の第2医科大学がある福岡と、東京帝国大学の第2医科大学がある仙台に帝国大学が設置されることが決まったのが1905(明治38)年の8月だ。ただし、東北帝国大学は、本部は仙台に置くけれど、理科大学と工科大学は山形県の酒田町に置くことになった。“樺太と東北の日本海側で産出される石油を使い、産学連携して技術と商品の開発をする”……対馬沖海戦が終わった直後の梨花会で、私が必死にまくしたてたことだけれど、それが現実のものになった格好だ。
「……ねぇ、増宮様」
山階宮殿下が、視線を私に向けた。
「はい」
「9月まで結核の治療をやり終えて、結核が良くなったら、私も遠くに行けるようになりますかね?」
「もちろんですよ!」
私は力強く断言した。「だから、殿下は治療が終わるまで、どこに行くか計画を立てていてください」
すると、
「そうですね」
山階宮殿下は微笑した。「自動車で東北に行く計画でも立てましょうか。まず、免許を取るところから始めないといけませんが」
「自動車で東北ですか……」
私は考え込んでしまった。自動車は“史実”のこの時期より性能が上がっているそうだから、東北まではドライブは何とかできるだろうけれど……。
「道が大丈夫ですかね?自動車が走れるように、道路が整備されているでしょうか?」
「日光までなら自動車で走れると、先日有栖川宮殿下に聞きましたね。今度の夏に自動車で日光に行こうかと言っていましたよ」
「うわぁ、そうなんですか。じゃあ、東北まで自動車で行けるんですかね?」
「今は行けなくても、そのうちきっと行けるようになりますよ」
笑顔で頷く山階宮殿下に、
「そうですね。じゃあ私、その日までに、殿下の結核をしっかり治しますね」
私も笑顔でこう請け負った。
いったん青山御殿に戻ると、輝仁さまと一緒に昼食をとる。学習院は冬休み中だけれど、この7月に幼年学校の受験を控えている輝仁さまは真面目に勉強している。午前中に復習していた物理で分からないところが出てきた、ということで、輝仁さまはその問題を食堂に持ってきていた。解法のとっかかりだけ教え、もう一度自分で考えてみるように輝仁さまに伝えると、食事を終えた私は早々に居間に引っ込んだ。これからまた出かけるので、軍服から着替えなくてはならないのだ。
赤地に鶴の舞っている和服に大急ぎで着替え、千夏さんに手伝ってもらってお化粧を済ませると、私は輝仁さまと一緒に馬車に乗り込んだ。これから、高輪御殿に住んでいる異母妹の昌子さまと房子さまと允子さまに、新年のあいさつをしに行くのだ。今日は大山さんが非番なので、私と輝仁さまの馬車には、輝仁さまの輔導主任で、中央情報院の副総裁でもある金子堅太郎さんが同乗している。
高輪御殿の玄関で私と輝仁さまを出迎えたのは、昌子さま・房子さま・允子さまの輔導主任である佐々木高行伯爵だった。
「今年は、増宮殿下も4日にいらっしゃったのですな」
挨拶を交わしあうと、佐々木伯爵は渋い顔をして言った。
「ああ……去年は4日が当直明けだったから、私だけ6日に挨拶に寄らせてもらったんですよね」
毎年、三が日は、梨花会の面々や医科分科会の面々、そして北白川宮成久王殿下以下の頼れる弟分たちが“挨拶”と称して話し込みにやって来るので、私は青山御殿を離れられない。だから、妹たちのところに新年の挨拶に行くのは、ここ数年、4日と5日になっていた。
すると、
「どうも、内親王殿下から“当直”という言葉が出てくるのが、信じられない……」
佐々木伯爵がため息をついた。「いや、わしの考え方が古いだけなのかもしれませんが……」
私はとりあえず、黙って笑ってごまかした。佐々木伯爵は、“女子としてお生まれになったのだから、例え内親王殿下といえども、一通り家政のことはご存じあってしかるべき”という信念を持っていて、昌子さま・房子さま・允子さまに料理やお裁縫などを教え込んでいる。そんな彼には、私のように女性が外に出て働くということが信じられないのだろう。
(さて、佐々木伯爵にどう返すのがいいのかしら)
私が考えようとしたその時、
「佐々木閣下、昌姉上たちはどこにいますか?」
隣に立っている輝仁さまが佐々木伯爵に尋ねた。非常にタイミングのよい質問である。
「ああ……今、有栖川宮の若宮殿下と、北白川宮の輝久王殿下が連れ立って新年のご挨拶にいらっしゃいまして、皆さま、一緒に庭を散策されています」
佐々木伯爵の答えに、
「ああ……あの2人も来てるんですね」
私は頷きながら答えた。有栖川宮栽仁王殿下と、北白川宮輝久王殿下。ともに広島県にある海兵士官学校に去年の9月から進学し、寄宿舎生活を送っている2人は、冬休みを利用して東京に戻ってきている。元日にも、北白川宮の成久王殿下、芳之王殿下、正雄王殿下、そして久邇宮の鳩彦王殿下と稔彦王殿下と連れ立って新年の挨拶に青山御殿に来てくれた。2人とも元気そうで安心したのを覚えている。
「じゃあ、庭に行こう、章姉上。俺、ここの庭なら分かるから、案内する」
そう言うやいなや、輝仁さまは私の右手をつかみ、庭に向かって歩き始めた。
高輪御殿の昌子さまたちが使っている本館の前には、芝生が植えられた広い庭がある。その奥には、築山や池が配置された日本庭園が設けられている。輝仁さまは、芝生の上に昌子さまたちがいないのを見て取ると、「たぶんこっちだよ」と言いながら、私の手を引っ張って、日本庭園の方に進んでいく。彼の言葉通り、日本庭園の池が見えるところまで来ると、男女数人の話し声が聞こえてきた。
池のほとりから離れ、こちらに向かって歩いて来ようとしているのは、水色の着物を着た華族女学校高等中等科第1級の昌子さまと、黄色の着物を着た高等中等科第2級の房子さまだ。私の時代風に言うと、高校3年生と高校2年生になった妹たちは、おそろいの紺色の女袴を付け、海兵士官学校の紺色の制服を着た輝久殿下を挟むようにして歩いている。食いつくように話し掛ける房子さまに、輝久殿下が気圧されているように見えた。
「モテるねぇ、輝久兄さまは」
「両手に花だねぇ」
輝仁さまの言葉に頷きながら、私はここにいるはずの栽仁殿下を探していた。次に会えるとしたら、夏休みだろうと思っていたのだ。それが今日も会えるのなら嬉しい。
探していた人はすぐに見つかった。昌子さまと房子さまと輝久殿下の後ろ、池のほとりに、やはり海兵士官学校の制服を着た栽仁殿下が立っている。相変わらず、穏やかで整った顔をしていた。彼の隣には、桃色の着物に紺色の女袴を付けた高等中等科第3級、私の時代で言えば高校1年生の允子さまがいて、2人でおしゃべりをしているようだ。
(うんうん、栽仁殿下も頑張ってるじゃないか)
2年ほど前だっただろうか。私の叙勲と任官を祝うお茶会にかこつけて開かれた昌子さまたちのお見合いで、栽仁殿下は私との2人席という外れくじを引いてしまった。あの時は、栽仁殿下は無事に昌子さまたちのうちの誰かと結婚できるのだろうかと心配していたけれど、この様子を見ると、ちゃんと遅れは取り戻せているようだ。
(栽仁殿下と允子さま、お似合いの2人じゃないか。でも……、允子さまの代わりに、私が栽仁殿下の隣にいられたら……)
私は足を止めた。
(今……私、なんて思った?)
「章姉上、どうした?」
右手を強く引っ張る弟に、
「あ、ああ……今日、山階宮殿下のところに往診もしたから、ちょっと、疲れちゃったみたい……」
慌てて愛想笑いを返しながら、私は渦巻く感情を必死に抑えていた。
栽仁殿下に声を掛けたいのに、彼のそばには允子さまがいる。栽仁殿下と話している允子さまに抱いてしまったこの気持ちは……。
(まさか……嫉妬?いや、そんなはずない、そんなはず、絶対にない!だって、私は栽仁殿下の姉貴分で、栽仁殿下は私の弟分で……)
栽仁殿下と允子さまは、私がここにいるのに気が付いていないようだ。栽仁殿下の穏やかな笑顔が視界に入り、私は慌てて顔を背けた。なぜか……なぜか私の胸が、痛いような、切ないような、そんな感覚に襲われてしまったのだ。
(栽仁殿下は弟分!栽仁殿下は……私の弟分!弟分、なんだからっ……!)
手のひらに爪を食い込ませるようにして、私は左手をきつく握った。皮膚に傷がつくとか、血が出るとか、そんなことになっても、この心が動揺しなくなれば一向に構わない。
揺れ動く心と、それを必死に落ち着かせようとする理性に挟まれて、私は高輪御殿の庭園で動けないでいた――。
※山階宮菊麿王殿下は1908(明治41)年に亡くなっているのですが、ここでは薨去当日の官報発表の病状にある「喀血」を来した疾患が肺結核であり、1906年時点で罹患していたと仮定して話を進めさせていただきます。ご了承ください。




